黒き瞳が開く刻
身体が、動かなかった。
誰もが理解していた。
逃げることも、割って入ることも――できない。
ただ、その男の歩みを見つめるしかなかった。
ゆっくりと、だが確実に近づいてくる影。
正太と死闘を繰り広げていた男――温羅。
月兎のすぐ傍まで来た瞬間、
異様な圧に背筋が凍り、月兎は反射的に振り向いた。
そこには、
心底楽しそうに歩く温羅の姿があった。
咄嗟に感情を戦闘へ切り替え、刀を構える――
だが、次の瞬間。
ドンッ!!
温羅の拳が、月兎の身体を捉えた。
たった一撃。
それだけで、月兎の身体は宙を舞い、地面を転がる。
温羅は倒れた豪凱の前に立ち、その顔を覗き込んだ。
「……いい顔で死んでるな」
静かに、だがどこか柔らかく呟く。
「こんなふうに楽しんで死ぬ人間を見るのは、久しぶりだ。
楽しかったろう、豪凱」
その声音には、確かに――
敬意のようなものが混じっていた。
だが次の瞬間、温羅の視線が月兎へ向く。
「さて……」
にやりと笑い、言い放つ。
「今度は、俺とも遊んでもらおうか」
言葉と同時に、温羅が踏み込んだ。
半覚醒状態の月兎は、必死に耐える。
だが、
圧が違う。
拳を受け止めるたびに、身体が浮かされる。
防いだはずなのに、地面を転がされ、木へ叩きつけられる。
豪凱との死闘の疲労が、今になって牙を剥いた。
このままでは――殺される。
身体が、明確な警鐘を鳴らす。
温羅は、殴りながら楽しそうに言う。
「お前の奥には、もっと面白いものがいるだろう?
隠すな。早く見せろ」
確信めいた声音。
月兎には、その意味が分からない。
だが、本能だけが理解していた。
――出てくるな。
頭の奥で、声が響く。
殺せ。
この者を、殺せ。
飲み込まれる感覚に、必死で抗う。
だが次の瞬間、
温羅の拳が腹に突き刺さった。
激痛。
呼吸が止まり、視界が弾け――
ぷつりと、意識が途切れた。
その瞬間、温羅は凶悪な笑みを浮かべる。
周囲の人間は、言葉にならない恐怖に包まれた。
「月兎……!」
世一が叫ぶ。
「なんか……すごく嫌な感じする!」
はるかの声が震える。
「……やばいな。
これは、俺たちじゃ止められねぇ」
仁羅の言葉には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
温羅は、倒れた月兎が立ち上がるのを待っていた。
やがて――
月兎が、ゆっくりと立ち上がる。
異様な雰囲気を纏い、
両目が黒く覆われている。
脱力したような姿勢。
だらりと垂れた右腕に、刀だけが握られていた。
その姿を見て、温羅の口元が吊り上がる。
「――それだ」
踏み込もうとした、その瞬間。
月兎が、消えた。
一気に距離を詰め、
温羅へと刀を振り下ろす。
受け止めることはできた。
だが――
身体が、持っていかれる。
すぐに体勢を立て直す温羅。
だが、次の攻撃は月兎の方が早い。
先ほどまでとは、明らかに違う。
月兎が、押している。
とはいえ、温羅もすぐに順応する。
攻撃への反応が合い始め、互いの一撃が交互に交錯する。
その中で、温羅は腹の底から笑った。
「はっはっは!
こんな場所で、全力を出せる相手に巡り合えるとはな!」
心から楽しそうだった。
月兎の表情は、もう読めない。
だが、その口元は――
わずかに、笑っているようにも見えた。
周囲の者たちは、ただ立ち尽くす。
これは、戦いの頂。
人と鬼、その境界が溶ける瞬間。
「月兎……」
世一は、かつて見た光景を思い出していた。
鬼と人が共に暮らす街で見た、
鬼同士が笑いながら全力で戦う姿。
だが、今目の前で鳴り響く刃の音は、
それよりも、さらに上――
そう、直感した。
世一は何も言わず、
ただ、その行く末を見守った。




