逃げない理由
雪霞の外縁――
比較的街に近い東側の林へと、蓮、妖狐、正太の三人は辿り着いていた。
見渡す限り、人の気配はない。
だが――
異様な存在感だけが、そこにあった。
一本の大樹に背を預け、
まるで最初からそこに在ったかのように――
温羅が立っていた。
赤みがかった逆立つ髪。
黄色い瞳。
鬼でありながら、人の形をした異形。
妖狐と正太は、瞬時に理解する。
――勝てない相手だ。
二人は一気に距離を取り、警戒態勢を取る。
「……なに、あいつ」
蓮が低く呟く。
「強さも殺気も、何も感じないけど」
その問いに、正太は唾を飲み込みながら答えた。
「……僕が、以前戦った男です」
声が、わずかに震える。
「あの男の強さは……異常です。
雪妃衆全員でかかっても、勝てるかどうか……」
その言葉に、蓮の警戒はさらに一段階引き上げられた。
温羅は、こちらを見ているようで、見ていない。
「……ん?」
淡々と、興味なさげに言葉を落とす。
「あの時、遊びにもならなかった弱き者か。
何もせず、街に引きこもっていれば、怪我をすることもないだろうに」
嘲りも殺気もない。
ただ、事実を述べているだけの声音。
その背後――
気配が、三つ増えた。
ぬるりと現れたのは、
蛇のような眼差しをした女――シシバナ。
その隣には、
巨体の男――サンボン。
そして。
「……っ」
蓮が息を呑む。
虚ろな目で立つ、タケルノの姿があった。
「……あんた!」
思わず声を上げる蓮。
だが、タケルノは反応しない。
まるで、魂だけが抜け落ちた人形のように、そこに立っている。
「どういうこと……?」
怒りを抑えきれない声で、蓮が問う。
「以前と、まるで別人じゃない!」
その問いに、シシバナが肩をすくめ、妖艶に笑った。
「ちょっとした“強化”をしただけよ」
黒い瞳が、楽しげに細まる。
「感情は……死んじゃったかもしれないけど。
でも、それってこの子が弱かっただけの話でしょう?」
くすり、と笑う。
「強くなっているなら、問題ないわよね?」
一方、サンボンは落ち着きなく視線を泳がせ、
どこか自信なさげに口を開いた。
「えっと……何もしなければ、戦う必要はないんだなぁ
だから……殺気、向けないでほしいなぁ……」
その巨体に似合わぬ弱腰な態度。
だが、蓮は知っている。
こういう男ほど、戦いになれば豹変することを。
蓮は一瞬、状況を整理し――即断した。
「正太。京士郎のところへ戻って、全部伝えてきて」
だが。
正太は、首を横に振った。
「……蓮さん。僕は、ここに残ります」
妖狐が、驚いたように正太を見る。
「無理はしません。でも……
ここで逃げたら、きっと一生後悔します」
まっすぐな目。
「蓮さんが、京士郎さんに伝えてください」
一瞬、蓮は目を見開き――
次の瞬間、にやりと笑った。
「……やるじゃない」
正太の肩を軽く叩く。
「無理だけはするんじゃないよ」
そう言い残し、蓮は踵を返して走り去った。
残されたのは、
妖狐と正太。
そして、圧倒的な“格上”たち。
温羅が、興味なさげに口を開く。
「そういえば……
そいつの戦闘結果が欲しいと言っていたな」
淡々と命じる。
「おい。
その二人と戦え」
命令を受けたタケルノが、
無言で西洋剣を構え――踏み込んだ。
「っ!」
正太が刀で受け止める。
だが。
――重い。
異常な力で振り下ろされた剣に、
正太の身体ごと吹き飛ばされる。
妖狐がすかさず間合いに入り、
細身の長剣で斬りかかる。
だが。
止められた。
次の瞬間、力任せに弾き飛ばされ、妖狐も地面を転がる。
何度も、二人で攻撃を仕掛ける。
だが、届かない。
――圧倒的な差。
正太は、歯を食いしばり立ち上がる。
「……使います」
覚悟を決めた声。
刀の柄に埋め込まれた、小さな水晶へと語りかける。
「跨王。力を貸してくれ」
白かった水晶が、
淡い青へと変わり――
武器が、意思を持つように形を変え始めた。
その瞬間。
サンボンの目が、ぎらりと光る。
「……あぁ」
さっきまでの弱腰は、消えていた。
「やっと、面白くなってきたな」
シシバナも、舌なめずりをする。
「傷、つけられたら……
ちょっと、キレちゃうかもしれないけど?」
戦いは、
次の段階へと踏み込んだ。




