名を明かさぬ想い、揺れる街
雪妃衆の訓練場には、いつものように鋭い気合と武器の音が響いていた。
稲田正太は、負った傷も癒え、ようやく隊の訓練に完全復帰していた。
だが――。
(……やっぱり)
正太の視線は、無意識のうちに青柳妖狐を追ってしまう。
流れるような動き。
無駄のない剣筋。
そして、あの日――瀕死の自分を守った、人ではない姿。
ふと、妖狐がこちらを見た。
一瞬だけ目が合い、
妖狐は何も言わず、訓練後に来いとでも言うように、わずかに視線を逸らした。
訓練が終わり、
二人は雪霞の外れ、人の気配のない場所に立っていた。
正太は、しばらく黙ったまま、言葉を探していた。
「……あの時……」
ようやく口を開く。
「前の戦闘で……しっかりとは見えなかったんですけど……
妖狐さんの姿が、その……」
言葉が、喉につかえる。
妖狐は、静かに息を吐いた。
「やはり……見られておりんしたか」
どこか覚悟を決めた声音だった。
「雪妃衆は、人のみで構成される。
それが、絶対の掟どす」
妖狐は正太を見つめ、微笑む。
「その掟を破った、わっちの正体……
隊の皆に話しますか?」
明るい口調とは裏腹に、
その表情には、失うことを覚悟した者の影があった。
正太は、即座に首を振った。
「しません!」
声が、思ったよりも強く出た。
「助けてもらいましたし……
それに、僕は妖狐さんが何者だろうと、仲間だと思っています!」
一歩、踏み出す。
「どんな姿でも……
妖狐さんは、綺麗で、強くて……
僕が尊敬している人ですから」
一瞬、妖狐はきょとんとした顔をした。
そして――
ゆっくりと、上品に笑った。
「……ほんまに、正太はんはええ性格してはりますな」
その笑みは、いつもより柔らかい。
「そう言うてくれはるなら……
これからも一緒に、楽しい日常を過ごしましょうえ」
正太は、はっきりと頷いた。
「はい。
もし何かあったら……僕を頼ってください」
その表情は、
いつもの気弱な少年のものではなかった。
守ると決めた者の――
男の顔だった。
同じ頃。
別の場所で、菊池京士郎と大石蓮は街の見回りをしていた。
「……最近、街の空気が少し変ね」
蓮が、周囲を見渡しながら言う。
「何かあったのかしら?」
「ユキヨ様が、総領府の連中ともめているらしい」
京士郎は、淡々と答えた。
「その影響だろう」
沈黙が流れる。
しばらく歩いた後、
蓮が何気ない調子で口を開いた。
「……全然関係ない話だけどさ」
ちらりと横目で見る。
「あんた、好きな人とか、結婚とか考えてないの?
もう、しててもおかしくない年でしょ」
「考えなければならないとは思っている」
京士郎は正直に答えた。
「だが、好きな女もいない。
それに、子供を作るなら、もう少し稼げるようにならないとな」
幼い頃の記憶が、脳裏をよぎる。
「貧しい思いは、させたくない」
「ふーん……」
蓮は一瞬だけ視線を逸らし、
すぐに軽い調子で言った。
「じゃあさ、子供を育てるのに困らない財力がある女性ならどうなの?」
一拍。
「……私なら、別に心配しなくてもいいけど」
慌てて付け足す。
「あっ! あくまで例えだからね!」
京士郎は少し考え――
そして、さらりと言った。
「そうだな。
それなら問題ない」
一拍置いて。
「結婚してみるか?」
「――はぁ!?」
蓮の声が裏返る。
「たとえ話だって言ったでしょ!?
それに私は、ちゃんと私のことを好きな人と結婚するって決めてるの!」
鋭い蹴りが飛ぶ。
「そんな適当な告白、受けるわけないでしょ!!」
「わかっている」
京士郎は平然と答えた。
「お前のような女と結婚して、
子供が暴力的になっても困るからな」
「――っ!!」
さらにもう一発、蹴り。
蓮は顔を赤くして、さっさと前を歩いていった。
京士郎はその背中を見つめ、
小さく息を吐いた。
(……難しいものだな)
名を明かさぬ想いが、
それぞれの胸の中で、静かに揺れていた。




