静かに狂う現場
会議が終わり三日が立とうとしていた。
雪霞の朝は、いつもと変わらず霧が薄く街を包んでいた。
だが――
空気だけが、わずかに違っていた。
市場では、異国訛りの商人に向けられる視線が増え、
警備の詰所では、巡回の経路が理由もなく変更されていた。
誰も命じていない。
だが、誰もが察している。
――「何かが、動き始めた」と。
***
裏通りの詰所。
若い警備兵が、帳簿をめくりながら眉をひそめていた。
「……あれ?」
異国人の滞在申請。
昨日まで問題なく通っていた書類に、
赤い印が一つ、増えている。
「差し戻し……?」
理由欄には、短い一文。
――「上からの確認待ち」
「上って……誰だよ」
答えはない。
隣の年嵩の兵が、声を潜めて言った。
「触らん方がいい。
今は、余計なことをしない方が身のためだ」
「でも、規定上は――」
「規定が一番最初に捻じ曲がる時期だ」
苦い顔で、年嵩の兵は続ける。
「鬼妃様と、総領府が揉めとるらしい」
若い兵は、息を呑んだ。
***
一方、別の場所。
異国人が集まる簡素な宿では、
荷をまとめる者が増えていた。
「……ここ、長く居られそうにないな」
誰かが言えば、
誰も否定しない。
理由は分からない。
だが、肌で感じている。
――歓迎されなくなった、と。
***
その日の夕刻。
雪妃衆の詰所では、京士郎が報告書を読み、
小さく息を吐いた。
「……動き出したか」
内容は些細なものばかりだ。
・巡回の過剰化
・申請の停滞
・異国人同士の小競り合い
だが、どれも「偶然」ではない。
蓮が腕を組み、低く言う。
「命令は出てない。
でも、現場が勝手に“安全側”に倒れ始めてる」
「恐怖と保身だな」
京士郎は淡々と答えた。
「上が決めない時、
下は“怒られない選択”しかしなくなる」
そこへ、報告が一つ追加される。
「異国人の子供が、
市場で物を売るのを止められました」
理由は――
「今は控えろ」
誰が言ったのかは、誰も知らない。
***
その夜。
ユキヨは、城の高い場所から街を見下ろしていた。
灯りは、いつも通り。
人の数も、変わらない。
だが――
流れが、澱み始めている。
「……始まってしもうたか」
文子が、そっと隣に立つ。
「姫様。
誰かが悪いという話では、ございませんな」
「わかっておる」
ユキヨは、静かに答える。
「じゃからこそ、厄介なのじゃ」
誰も悪意を持っていない。
だが、結果として――
街は、少しずつ“閉じて”いく。
「アイゼンの狙いは、ここじゃな」
文子が、目を細める。
「直接壊すのではなく、
勝手に壊れるよう仕向ける」
ユキヨは、唇を噛んだ。
「……月兎たちに、この空気を吸わせるわけにはいかん」
拳を、強く握る。
「ワラワが決めねばならん時が、
近づいておる」
霧の街は、静かだった。
だがその静けさは、
嵐の前のものだった。




