語られなかった真実と、血の行き先
仁羅は、月兎から渡された薄い書物を受け取り、ゆっくりと頁をめくった。
そこに記されていたのは、
学術書でも、英雄譚でもない。
ただの――
一人の人間の記録だった。
この黒くて大きな生物は、どこから来たのか、どこから現れるのか分からない。
だが、初めて遭遇した時、挨拶をしてみた。
すると、よくわからない動きで、言葉に反応しているように思えた。
殺意のようなものは感じなかった。
だから、何度か話しかけてみた。
その度に、その生物は、動きで答えようとしていた。
仁羅は、表情のないまま読み進める。
山奥で一人住んでいた俺とは、相性が良かったのかもしれない。
その生物は、毎日、家まで訪ねてくるようになった。
家の中には入れないから、外で交流を図るだけだったが、
意思疎通を図ろうとしているのは、はっきりと分かった。
食べ物を与え、
道具について身振り手振りで説明し、
俺は、色々なことを教えた。
仁羅は無言のまま、頁をめくる。
どれほどの日数が経ったのかは分からない。
ある日、近くの村の人間が俺を訪ねてきた。
その時、その生物も一緒にいたため、最初は驚かれた。
だが、害はないと説明し、
普段通り触れてみせると、
その女性も興味を持ち、普通に接するようになった。
だが――
そこから、文章の空気が変わる。
数日後の朝。
いつもの時間になっても、その生物は現れなかった。
数日待ったが、姿は見せなかった。
不安になり、村へ降りてみると、
あの生物と一緒に過ごした女性に会った。
仁羅は、興味深そうに頁をめくる。
彼女は、村の外れの木陰へ俺を連れていった。
そこで聞いたのは――
子供を寝かしつけるため、
悪いことをした時に怖がらせるため、
昔から語られる口伝の存在と、
あの生物が似ているという理由で、
村人が役人に討伐依頼を出したという話だった。
紙の上の文字が、重くのしかかる。
彼女は違うと何度も訴えたらしい。
だが、一人の男が騒ぎ立て、
「恐ろしい敵だ」という認識が連鎖的に広まり、
あっという間に討伐が決まった。
仁羅の頁をめくる指に少し力が入る。
村は閉鎖的で、
まとめ役の言葉が絶対となる世界だった。
俺は、その輪に入るのが嫌で、
一人で生きてきた。
だが、その嫌な部分を、すべて見せつけられた気がした。
この先、以前のようにこの村の人間と接する事ができるか自信がない。
だから俺は、北の土地を目指す。
いつか読まれるかは分からない。
だが、
知ろうともせず、
勝手な都合だけで踏み込む前に、
行動を起こすことだけは、やめてほしい。
外見が違っても、
友好的で、
共に暮らせる未来は、
きっとあるはずなのだから。
読み終えた後、
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
山の静けさだけが、
部屋を満たしている。
やがて、赤い面の者が口を開いた。
「過去の真実はな……
書物に記されていても、
そのままの形で残っているとは限らん」
低く、落ち着いた声。
「すべてを事実と思うな。
だが――
そこから、未来に活かせるものを拾う。
それが、生きるということだ」
外を見る。
「もう暗い。
引き留めるつもりはない。帰れ」
現実に引き戻され、
四人は書物を元の場所へ戻し、支度を整えた。
家を出ようとした、その時。
「お前は、待て」
赤い面の者が、世一を呼び止める。
月兎、仁羅、はるかが外へ出ると、
家の中には、二人だけが残った。
「その鎖鎌について、
どうしても分からぬことがあれば、
一人で来い」
少し間を置き――
「……それと」
言い淀むような沈黙。
「私は、もうすぐ死ぬだろう」
世一は、息を呑む。
「予感がある。
だから、もしお前が来た時、
私が死んでいたら……
外に埋めてくれ」
静かな声。
「この山に住まう生き物たちと共に、
最後を迎えたい」
そう言って、
赤い面の者は、ゆっくりと面を外した。
現れたのは――
長い鼻の奥に隠れていた、
鋭いくちばし。
その顔は、
紛れもなく、カラスだった。
「私の血を継ぐ者として、
最後の願いだ」
その声は、
親が子に託すような、
やさしさを帯びていた。
外に出ると、三人が待っていた。
「何の話だったの?」
月兎が尋ねる。
「……この家に来る時の話だ」
世一は、それだけ答える。
少し、しんとした空気。
だが――
「そんなことより!」
はるかが声を張り上げた。
「またたびは!?
真面目な話だから黙ってたけど、
もう探す時間ないよ!」
「……っ!」
世一は、はっとする。
「くそっ!忘れてた!」
「やっぱり、しっぽ触りたいんだ。
気持ち悪い!」
そんなやり取りをしながら、
一行は山を駆け下りていった。
それぞれが、
胸に重たいものを抱えたまま――。




