静謐なる取引
重厚な扉が、音もなく閉じられた。
部屋の奥、天井まで届く帳の向こうで、香がゆっくりと燻っている。甘く、しかし鼻の奥に残る苦味を含んだ香りだ。
この国の長が好んで焚かせる香。
“成果のあった夜”にだけ使われる――そんな噂を、男は知っている。
「……いやはや、今回の件は実に見事だった」
国の長は、深く腰掛けたまま、満足げに息を吐いた。
机の上には帳簿が積まれ、その一冊がわずかに開かれている。
異国への交易路。
“商品”の内訳に、決して声に出してはならぬ存在――ハーフの名が並ぶ。
「経路の確保により、国庫は潤った。
これほどの利益をもたらすとは……正直、想像以上だ」
感謝。
それは疑いようのない、絶対的な信頼の声音だった。
男は一歩前に進み、軽く頭を下げる。
「仕方ないですねぇ。
需要がある以上、流れを整えるのは当然のことです」
声は穏やか。
教師が生徒を諭す時のような、柔らかさを含んだ口調。
「異国は労働力を欲している。
この国は“余剰”を抱えている。
それを繋いだだけの話です」
国の長は、満足そうに喉を鳴らした。
「今後も、頼りにしているぞ。
この国がさらに外へと手を伸ばすためにもな」
「……光栄です」
男は微笑み、もう一度だけ頭を下げた。
それで会話は終わった。
儀礼としては、完璧だ。
扉へと向かい、取っ手に手をかける。
その瞬間――
背後で香が、ぱちりと小さく爆ぜた。
男は、誰にも聞かれぬよう、ほんのわずかに口角を上げる。
(この国を取るのは――)
心の中で、言葉が続く。
(――あくまで、私の計画の一部に過ぎません)
国の長。
潤う国庫。
異国への交易路。
感謝と信頼。
どれもこれも、駒にすぎない。
(彼らには、うまいこと動いてもらいましょう)
鬼妃。
ハーフたち。
そして、この国そのもの。
(私の計画が実現する、その日まで)
扉が静かに閉じる。
香の匂いは、もう届かない。
廊下を歩く男の足取りは、変わらず穏やかだった。
まるで――
何ひとつ、汚れたものに触れていないかのように。
(使える駒としては……十分に、よく働いてくれていますよ)
その眼鏡の奥で、碧の瞳だけが、冷たく光っていた。




