霧の街のとある日常
霧の街の夜は、ひどく静かだった。
だが、その静けさは冷たさとは違う。
人の気配を拒まず、ただ穏やかに包み込むような静寂だった。
「……」
吉沢夜伽は、今日もほとんど言葉を発さない。
無表情のまま、団子を一つ。
続けて羊羹、饅頭と、甘味を順番に口へ運んでいく。
その動作は丁寧だが、どこか周囲が見えていない。
まるで世界の半分が甘味でできているかのような集中ぶりだった。
「……」
返事はない。
「……いや、少しは喋れ」
大石蓮が即座に突っ込む。
短気で、理屈より先に感情が出るが、その目はどこか面倒見がいい。
「食事中は静かにするものだぞ、蓮」
菊池京士郎が、眼鏡を中指で押し上げながら言った。
口調は冷静で理知的だが、皿の上は見るに堪えない状態だった。
「偉そうな講釈を垂れる前に、その食べ方をやめなさい!
何なの、その犬食い!毎回毎回汚いのよ!」
蓮はそう言うや否や、容赦なく京士郎の頭をはたく。
「痛っ……!
だから暴力はやめろと言っているだろう」
「口で言っても直さないからでしょ!
何度注意すれば分かるのよ!」
剣を抜けば迷いなく命を奪う者たちが、
今は取るに足らないことで言い合いをしている。
だが、その光景に緊張はない。
ここでは、それが許されている。
その少し離れた場所で――
「……居心地、悪いなぁ……」
稲田正太が、小さく肩をすくめた。
背は低く、顔立ちも平凡。
常に自信なさげで、場の端に立つ癖が抜けない。
「はぁぁ……俺、ここにいていいのかな……」
弱音のような独り言。
「うふふ」
気づけば、背後に女の気配があった。
青柳妖狐は、音もなく近づき、
余裕のある微笑を浮かべて正太を見下ろしている。
「そんな顔をしなくても大丈夫よ。
平凡って、案外しぶとくて強いものなの」
「そ、そうですか……?」
戸惑いながら答える正太に、
妖狐はわざと距離を詰め、軽く肩に触れて囁く。
「ねえ。あなたも、そう思わない?」
正太は耐えきれず視線を逸らした。
そのやり取りを遠目に見ていた杉山善徳が、
くぐもった笑い声を漏らす。
「妖狐。
からかうのもその辺にしておけ」
「はーい」
素直なのか、そうでないのか分からない返事。
この街は、戦場ではない。
だが――
戦う者たちが、束の間でも“人でいられる”場所だった。
「善意の医師」
津田慧一郎は、今日も白衣のボタンを掛け違えていた。
「……あれ?」
診療台の横で首を傾げる。
細身の身体に不釣り合いなほど、指先は落ち着いていた。
「おかしいな……まあ、いいか」
その手に迷いはない。
傷を縫い、血を止め、脈を確かめ、命を繋ぐ。
淡々と。
正確に。
まるで感情を切り離したかのように。
「必ず、治してみせましょう」
穏やかな声。
柔らかな笑み。
その言葉に、嘘はない。
――人である限り、必ず助ける。
それが、津田慧一郎という医師の絶対だった。
「……この患者は?」
影の中から、低い声が落ちる。
「人ではない。
処置は不要だ」
慧一郎は、ほんの少しだけ眉を下げた。
困ったような、残念そうな表情。
「……そうですか」
一瞬の沈黙。
だが、それ以上は踏み込まない。
「では、次の方を」
怒りも、疑問も、抵抗もない。
彼はただ、与えられた前提を受け入れる。
悪意はない。
疑念もない。
ただ、信じているのだ。
人を救うことこそが正義であると。
知らず知らずのうちに、
その技術が、
その知識が、
その善意が――
黒幕の望む「最強集団」を、静かに支えていることを。
善意は、時に。
剣よりも鋭く、
刃よりも深く、
世界の歪みに手を貸す。
霧の街は、静かだった。
穏やかで、冷たくはない。
けれどその外側で、
確実に歯車は噛み合い、
音もなく回り始めていた。




