走れ、影になるまで
一日目の訓練を終えた翌日。
朝の空気はまだ冷たく、訓練場には湿った土の匂いが残っていた。
月兎と世一は、昨日と同じように仁羅とはるかの前に立っていた。
「今日もよろしくお願いします!」
はるかは昨日と変わらぬ元気な声で頭を下げる。
「よろしくなー」
一方の仁羅は、眠そうな目をこすりながら、気の抜けた挨拶を返した。
「……よろしくお願いします」
二人も短く応じる。
仁羅は世一を一瞥すると、足元に置かれていた奇妙な道具を指差した。
腰に巻ける簡単な輪の縄。その先には、犬ぞりのような簡易の台がついている。
「世一。今日は俺が“よし”って言うまで、これ引いて走れ」
「はぁ?」
世一は眉をひそめる。
「なんでこんなもん引いて走らなきゃいけねーんだよ。
普通に走ればいいだろ」
その瞬間――
ごすっ、と鈍い音がした。
仁羅の蹴りが、世一の腹にめり込み、身体が宙を舞う。
地面を転がりながらも、世一は反射的に体勢を立て直した。
目の前には、もう仁羅が立っている。
「……めんどくせーから口答えすんな」
低く、淡々とした声。
「俺が上。お前が下。
俺の言うことは絶対だ」
理屈でも感情でもなく、ただ事実を突きつけるような言い方だった。
世一は歯を食いしばりながら、黙って縄を腰に巻く。
その間に、仁羅は何の遠慮もなく、そりの上に腰を下ろした。
「俺を落とさないように、全力で走れ」
イラついた表情が、世一の顔に浮かぶ。
――いつか、痛い目見せてやる。
殺意に近い感情を胸に押し込め、世一は地面を蹴った。
重い。
想像以上に、仁羅の体重が脚にのしかかる。
だが、止まるわけにはいかない。
歯を食いしばり、数十分。
全力で走り続けたところで、仁羅がふいに声をかけた。
「……やめ」
その一言で、世一は限界を迎えた。
ばたっと倒れ込み、荒い息を吐く。
仁羅はそりから降り、倒れた世一を見下ろす。
「足腰が弱い」
容赦のない言葉。
「だから動きについていけねぇ。
速い相手と戦えば、お前は相手が途中で“消えた”ように見えるだろ」
世一の脳裏に、思い当たる戦闘の記憶が浮かぶ。
「だから走れ」
それだけ言って、仁羅は続けた。
「次はな。
その殺気も、俺に気づかせないように消せ」
世一は、はっとする。
「中距離戦闘のお前の殺気はな、
“ここに俺がいます”って叫んでるだけだ」
仁羅は、眠そうな目の奥で、鋭く世一を見る。
「逃げ道も、次の動きも、全部バレる。
殺気は必要な時の“フェイク”に使え。
それができりゃ、戦いの幅は一気に広がる」
言っていることは、理解できた。
理屈としては、完全に正しい。
――だが。
仁羅への苛立ちは、消えない。
「休憩終わり。さっさと走れー」
やる気のない声でそう言い、仁羅は背を向けてそりへ戻る。
その瞬間。
――今なら。
世一は、背後から一気に距離を詰め、拳を振るった。
だが――
当たる寸前で、すっと躱される。
次の瞬間、視界が反転した。
どんっ
蹴り飛ばされ、地面を転がる。
「……元気あり余ってるみたいだな」
仁羅の声は、相変わらず淡々としていた。
「次は倍の時間、走ってもらう。
さっさと立て」
眠そうな顔のまま、言葉だけが冷たい。
その後も――
世一は走らされ、
奇襲を仕掛けては蹴られ、
何度も吹き飛ばされた。
訓練場の端で、それを見ていた他の隊員たちは、
どこか生温い目で、その光景を眺めていた。
――ああ。
これは、逃げ場のない訓練か。
世一は、土にまみれながら、そう理解し始めていた。




