混剛の影、霧の手前で
道は、次第に色を失っていった。
土は白く、草は湿り、空気は薄く冷たい。
進むにつれ、音が減っていく。鳥の声も、獣の足音も、遠くなる。
「……霧、出てきたな」
世一が前を見据えたまま言う。
確かに、街道の先は白く滲み、輪郭が曖昧になっていた。
霧の街――鬼妃ユキヨの治める地は、常に霧に抱かれているという。
月兎は、胸の奥で小さく息を吐いた。
(ここまで来れば……)
追っ手も、しばらくは――。
「安心すんの、早ぇぞ」
世一の声は低い。
亜華巴も、足を止めて周囲を見渡していた。
「……何か、います」
霧の向こう。
道の脇。
木の影。
ぬるり、とした気配。
「出てこい!」
世一が叫ぶと同時に、
草むらが割れ、一人の男が姿を現した。
スキンヘッド。
細長い体躯。
髭を撫でながら、濁った目でこちらを見る。
「へへ……見つかっちまったか」
男は笑った。
笑顔なのに、どこか必死で、焦りが滲んでいる。
「お前ら、人間だな」
「だったらどうした」
世一が一歩前に出る。
男は髭を靡かせ鼻を鳴らした。
「同胞を食う連中だ」
その瞬間、月兎は気づいた。
男の首元、腕――うっすらと残る鱗のような痕。
「……ウナギのハーフですか」
亜華巴が小さく呟く。
「そうだ!」
男――ヌル兵衛は叫んだ。
「食われる側の気持ち、分かるか!? 川で、桶で、裂かれて……!」
声が震えている。
怒りと恐怖と、どうしようもない悲しみ。
「だから殺す。お前らを」
ナイフを抜き、突っ込んでくる。
速くはない。
技も荒い。
だが――必死だ。
「やめろ!」
月兎が叫ぶ。
だが、ヌル兵衛は止まらない。
「黙れ!」
刃が振り下ろされ、
世一が弾く。
亜華巴が距離を取る。
月兎は刀を抜いたが、刃先が迷う。
(悪じゃない……)
そう思ってしまった瞬間、
ナイフが肩を掠めた。
「月兎!」
血が滲む。
その赤を見た瞬間――。
重い足音。
地面が、揺れた。
「がっはっは!」
霧の向こうから、巨体が現れる。
筋肉隆々。
大剣を肩に担ぎ、裂けた着物。
豪快に楽しそうに笑う大男――豪凱。
「いやぁ、いい匂いだと思ったらよ」
その背後に、静かに並ぶ影。
目を覆う黒い布。
感情のない立ち姿。
長槍を構えた男――アシナガ。
さらに二人。
鋭い目つき黒髪に白い髪が美しく交わる髪型の剣士、タケルノ。
その少し後ろで、長さは違うがタケルノと同じような髪型で弓を持つ戦いには不向きな人相の女、コハク。
――混剛隊。
世一が即座に歯噛みした。
「……チッ。来やがったか」
「逃げるか?」
豪凱が笑う。
「対象確認。生存確認。戦闘許可あり」
アシナガが淡々と告げる。
「ほら見ろ」
豪凱が月兎を見る。
「お前か。噂の坊主」
月兎の背筋が凍る。
(狙いは……俺)
ヌル兵衛が叫んだ。
「なんだよ! 邪魔すんな!」
「邪魔じゃねぇ」
豪凱が肩をすくめる。
「お前の怒りも、筋は通ってる。だが今は引け」
「……!」
ヌル兵衛は歯を食いしばる。
「俺は……!」
「命令だ」
アシナガの声は冷たい。
ヌル兵衛は拳を震わせながら、一歩下がった。
「……ちくしょう」
その瞬間。
豪凱が一歩踏み出す。
「さて」
大剣が、地面を擦る。
「どれだけ強いか、見せてみろ」
圧が、違う。
世一が叫ぶ。
「月兎! 下がれ!」
だが、もう遅い。
豪凱が踏み込み、
剣が振り下ろされる。
月兎は受け止めた。
――受け止めてしまった。
地面が割れ、
腕が痺れる。
視界が歪む。
(また……)
力が、溢れ出す。
血の匂い。
あの雨の日。
文次郎の叫び。
――殺せ。
心の奥で、何かが囁く。
「月兎!」
亜華巴の声。
「戻れ!」
世一の怒鳴り。
そして。
「……そっちに行くな」
かすれた声。
ヌル兵衛だった。
「お前、そっちに行ったら……戻れねぇ」
月兎の瞳が揺れる。
力が、止まった。
豪凱が目を見開き、そして笑った。
「はっ……なるほどな」
剣を下ろす。
「今日はここまでだ」
「撤退する」
アシナガが告げる。
タケルノは静かに月兎を見る。
「……価値は、ある」
コハクは、何も言わず、目を伏せた。
霧の中へ、彼らは消えていく。
ヌル兵衛だけが、最後に月兎を見た。
「……次は、敵じゃねぇかもしれねぇ」
そう言い残し、姿を消した。
残されたのは、血の匂いと、霧。
月兎は膝をつく。
亜華巴が支え、
世一が前に立つ。
「……俺一人じゃ、ダメだな」
月兎が呟く。
世一は鼻で笑った。
「今さらだ」
亜華巴は、静かに頷く。
「だから、一緒にいます」
霧の向こう。
白い街が、ぼんやりと姿を現していた。
――逃げ場ではない。
――次の戦いの、始まりの場所。
月兎は、そこを見つめた。
守るために。
もう、迷わないために。




