糸を引く者と、針を運ぶ者
重厚な静けさが、部屋を満たしていた。
壁も天井も、どこの国の様式とも言い切れない。
豪奢ではあるが、誇示するための装飾は一切ない。
ただ――ここが「選ばれた者だけが立ち入る場所」だという事実だけが、空気に染みついている。
中央には、一脚の椅子。
深く腰掛けた人物が、ワイングラスを傾けていた。
赤い液体が、ゆっくりと円を描く。
「……なるほど」
声は低く、感情の起伏が読めない。
その前に立つのは、一人の女。
スズバ。
年齢は判別できない。
背丈は高く、女性としては明らかに筋肉質な体躯。
無駄のない身体は、鍛え上げられた獣を思わせる。
黒に黄色が混じった髪は長く、束ねてもなお威圧感を放っている。
その色合いは、どこか危険な虫を連想させた。
――スズメバチと人のハーフ。
感情を削ぎ落としたような無表情で、
彼女は淡々と報告を続けていた。
「アシナガより、戦闘の詳細が届いております」
声は澄んでいるが、冷たい。
「月兎を中心とした五名は、
豪凱、タケルノ、コハク、ヌル兵衛らと交戦。
豪凱は半覚醒状態の月兎に敗北し、撤退。
タケルノとコハクも戦線を離脱。
アシナガは命令不在を理由に撤退を選択しました」
一言一句、無駄がない。
そこに私情は一切含まれていなかった。
ワイングラスを回していた人物は、
小さく息を吐くように言葉を落とす。
「雪妃衆の方々は……力を使いませんでしたね」
確認するような口調。
「彼らでは、やはり役不足だったのでしょう」
想定内。
そう言外に告げる声音だった。
スズバは一歩、前に出る。
「でしたら――
わたくしが出向きましょう」
即断即決。
そこに迷いはない。
「彼らの力を、主様の目に届く形で示す事ができます。
懸念は、わたくしが処理致します」
忠誠心。
それは命令ではなく、彼女自身の存在理由だった。
だが――
椅子に座る人物は、くつりと小さく笑った。
「必要ありません」
あまりにも、あっさりと。
「雪霞へ“お使い”に行っている彼ならば……
確認できなかった力を見るために、
勝手に動いてくれるでしょう」
未来が、すでに見えているかのような口ぶり。
スズバは即座に頭を下げる。
「……畏まりました」
そして、事務的に次の問いを投げた。
「では、残りの三名――
豪凱、タケルノ、コハクの処遇はいかが致しますか」
一瞬の沈黙。
「必要であれば、
わたくしが直接、消して参りますが」
その言葉に、躊躇はなかった。
だが、返ってきたのは穏やかな否定。
「手を出す必要はありません」
グラスが、静かに止まる。
「彼らの行動は予想通り。
適材適所です」
にこやかな笑み。
「私の想定した通りに動き、
そして――プラン通り、使い捨てます」
命の重さを、欠片も感じさせない声音。
スズバは何も言わない。
それが正解だと、理解しているからだ。
ただ一つ――
「……ただ」
不意に、椅子の人物が言葉を濁した。
「月兎の、あの行動だけは……
少し、想定と違いましたね」
ほんのわずかな違和感。
それを楽しむようでもあり、
警戒しているようでもある声音。
スズバは、その変化を聞き逃さない。
「引き続き、監視を強めますか?」
「ええ。
ですが――まだ、手は出しません」
ワイングラスが、再び回る。
「予想外は、時に面白い。
それが“壊れる側”か、“使える側”か……
見極める時間は、まだあります」
その言葉で、会話は終わった。
スズバは一礼し、静かに踵を返す。
背の高いその影が、扉の向こうへ消えると、
部屋には再び、静寂だけが残った。
糸は、まだ切れていない。
ただ――
どこかで、わずかに軋み始めているだけだった。




