表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼ガシマ  作者: Toru_Yuno
2/28

霧へ向かう道

火の国は、奇妙に静かな国だった。



 人がいる。鬼がいる。混血がいる。


 それらが同じ道を歩き、同じ店で食い、同じ夜を迎える。


 なのに、心の奥にだけは、どうしても溶けない境界が残り続けている。



 たとえば鬼――。



 この国の民は、鬼を恐れるように刷り込まれている。


 鬼が何をしてきたか、どんな種であるかを知る前に、ただ「恐ろしい」と教えられる。


 その恐れは、長い年月をかけて血肉になり、言葉より深い場所に根を張った。



 しかし、世界はそれほど単純ではない。



 創造主と呼ばれる存在がいるという。


 想像が現実に触れ、念が形を持ち、生まれるはずのなかった命が現れる――そういう歪みの底に、その名が囁かれる。



 けれど、時に。


 創造主でさえ感知しないまま、この世に落ちてくる存在がある。



 それが鬼だ、と古い文言には残されている。



 ――創造の外で産声を上げた影。


 だからこそ、恐れられ、敬われ、そして――理解されない。



     ◇



 街道は乾ききらず、土の匂いが残っていた。


 月兎は背負い袋を直しながら、二人の仲間と並んで歩く。



 世一は相変わらず不機嫌そうな顔で、道端の石をつま先で蹴った。


 亜華巴は、軽い足取りで前を見ている。風に混じる草の香りを確かめるように目を細める癖がある。



「おい、月兎」



 世一が唐突に言った。



「お前、いくら持ってんだ?」



 月兎は少し気まずそうに財布を押さえる。



「見習いだったから給金が少なくて……あんまり持ってない」



「はぁ? まじかよ」



 世一は舌打ちする。



「俺も金がねえ。家から持って出てくりゃよかった」



「……私も、あまり手持ちがないですね」



 亜華巴が申し訳なさそうに微笑む。


 三人の足取りが同時に重くなった。



 沈黙を破ったのは、亜華巴だった。



「それなら、少し行った先の村でお金稼ぎをしませんか?」



 二人が顔を上げる。



「私の知り合いに頼めば、少しくらいお金稼ぎができると思います。危ない仕事かもしれませんが……今の私たちには必要です」



 月兎は迷ったが、すぐに頷いた。



「お願いします。……俺も、食べ物と薬草の世話になってばかりじゃいられない」



「決まりだな」



 世一がぶっきらぼうに言ったが、どこか安堵が滲んでいた。



     ◇



 村は街道から少し外れた場所にあった。


 田畑の匂いと、薪の煙の匂い。静かだが、生活の音が確かにある。



「まずは飯だ」



 世一が即断する。



「賛成です」



 亜華巴が即答した。


 月兎は二人の勢いに押される形で食事処へ入った。



 店の中は木の匂いと醤の匂いが混じっている。


 壁には、獣車の札や祭りの護符が貼られていた。



「いらっしゃい」



 店主が言い、三人は隅の席へ通された。



「何にする?」



 世一が月兎を見た。



「……普通のでいい」



「普通ってなんだよ」



 世一が眉をひそめたその瞬間。



「じゃあ、これ全部ください」



 亜華巴がにこやかに言った。



「は?」



 月兎と世一が同時に亜華巴を見る。



 しばらくして運ばれてきた盆の上には、常識の外側が並んでいた。


 湯気を立てる椀、串焼き、そして――。



「……熊の心臓?」



 月兎が目を丸くする。



「新鮮で栄養があるんですって。あと、これも」



 亜華巴が指差したのは、桶の中でぴちぴち跳ねる小魚だった。


 生きたまま、薬味と共に出されている。



「……生きてる」



 世一が露骨に顔を引きつらせる。



「魚って、生きてたっけ」



 月兎が真面目に呟くと、亜華巴はくすっと笑った。



「生きてますよ。ほら」



 亜華巴はためらいなく箸で魚をつまみ、口に運ぶ。


 ぴち、という感触が想像できて、月兎は咳き込みそうになった。



「お前……信じられねえ」



 世一が呟く。



「美味しいです。世一も食べます?」



「死んでも食わねぇ」



 亜華巴は「残念」と言って熊の心臓を噛み切った。


 月兎は目を逸らしながら、なぜか笑いが込み上げるのを感じた。



 こういう瞬間だけは、旅が旅らしく見える。


 血と死の後でも、人はこうして笑うのだ、と。



     ◇



 翌朝。村の外れの人気のない一角へ三人は向かった。



 ぼろ屋――というより、捨て置かれた物置のような家。


 戸が軋んで開くと、奥から女が出てきた。



 白い指先。整った顔立ち。


 着物はくすんでいるのに、そこだけ空気が澄んで見えるほど綺麗な女だった。



「……来たのね、亜華巴」



 女は静かに言った。



「お久しぶりです」



 亜華巴が頭を下げる。


 月兎と世一も倣った。



「事情は聞くわ。今、あんたたちには金が必要。旅も必要。……それで、危ないのも承知」



 女は三人を値踏みするように見て、続けた。



「仕事はある。薬草と、それから――この紙に書いたもの」



 女が差し出したのは、手書きのリストだった。


 薬草の名に混じって、骨片、黒い石、朽ちた木片……用途の想像がつかないものが並ぶ。



「森に入って集めてきなさい。戻ってこれたら、金を払う」



「戻ってこれたら、って」



 世一が低い声を出す。



「危ない森よ」



 女は平然と答えた。


 その目は冷たくもなく、ただ事実を言っているだけだった。



「行く」



 月兎が言った。



 世一が小さく息を吐く。



「……仕方ねぇ。俺ら、金なしで死ぬよりマシだ」



 亜華巴も頷いた。



「いきましょう。必要な薬草も、私なら見分けられます」



     ◇



 森は、外から見えたよりも深かった。



 木々は密に生い茂り、日光が地面に届かない。


 湿った匂いが鼻を刺す。


 苔むした石が点々と続き、踏み外すと足首を取られる。



「これが、指定された薬草です」



 亜華巴が屈み、葉を指で撫でる。



「その隣のは毒草なので触らないでくださいね」



「触んねぇよ」



 世一がぶっきらぼうに返す。


 月兎は黙って頷き、リストと辺りを見比べた。



 ――その時だった。



 草が、揺れた。



 風ではない。


 何かが、地面の下から這い上がってくるような揺れ方だった。



 月兎の背筋が冷えた。



「来る……!」



 言い終える前に、足元の小石が跳ねた。


 土が盛り上がり、枯れ枝が宙に浮く。


 それらが一つの渦になり、形を持ち始める。



 幽体。



 人の念が、物質を纏って生まれる影響体。



 それは目も口もないのに、確かな悪意だけがある。


 月兎に向かって、まっすぐ伸びてくる。



「来たぞ!」



 世一がナイフを抜き、鎖鎌のような暗器も構える。


 亜華巴は一歩引き、幻影の気配を整える。



 月兎は刀を抜いた。


 しかし、刃が幽体を裂いても、手応えが薄い。


 裂けたはずの影が、すぐに繋がり直る。



「消えない……!」



「だろうな!」



 世一が舌打ちしながら、牽制の暗器を投げる。


 亜華巴の幻影が揺らぎ、幽体の動きを乱す。


 だが、それでも幽体の本体は削れない。



 幽体が、月兎の肩を掠めた。



 冷たい。


 皮膚ではない、もっと深いところ――魂が削られるような寒気。



 月兎の呼吸が乱れる。



「月兎!」



 亜華巴の声が遠くなる。


 幽体の影が濃くなる。


 視界の端が黒く染まる。



 ――あの雨の川岸。


 ――真っ黒な瞳。


 ――息のない目。



 胸の奥で、何かが「開く」感覚がした。



「……悪か、善か」



 自分の声なのか分からない声が口から漏れた。



 月兎の瞳が、わずかに沈む。


 世界の輪郭が鋭くなる。


 幽体の核――“念の結び目”が、透けて見える気がした。



「月兎、やめろ! 目が……」



 世一の声が焦る。


 だが、もう遅かった。



 月兎の刀が一閃する。



 刃が幽体の中心を正確に貫き、


 その瞬間、影は硬い音もなく崩れ、霧のように消えた。



 ――撃滅。



 森が一瞬だけ静まり、三人の荒い息だけが残った。



 月兎は膝をつきそうになり、刀を支えに立つ。


 汗が冷たく頬を伝う。



「……今の、なんだよ」



 世一が息を呑んで月兎を見る。



 月兎は答えられなかった。


 答えたくなかった、と言うべきかもしれない。



 その時。



 背中が、ぞわりと震えた。



 視線。


 森のどこかから、こちらを見ている。



 月兎は顔を上げ、木々の隙間を睨む。


 気配は確かにある。冷たく、ねばつくような視線。



「……誰かいる」



 月兎が低く言う。



「獣も多い。気のせいだ」



 世一が肩をすくめる。



「お前、いちいちビビりすぎ。……ほら、さっさと採って帰るぞ」



 月兎は納得していなかったが、それ以上言えなかった。


 視線は、いつの間にか消えていた。



     ◇



 夕方。ぼろ屋の女の元へ戻ると、彼女はリストを確認し、淡々と金を渡した。



「よく戻ってきたわね。……それで十分」



 その言葉が褒めているのか、ただの事実なのか分からない。


 だが金は確かに重く、現実的だった。



 三人は村の食事処へ戻り、今度は普通の飯――と言いたいところだが、亜華巴の手元にはまた怪しい皿が並び始めていた。



「今日は、焼いた蛙です」



「やめろ」



 世一が即座に止める。



「冗談です」



 亜華巴が小さく笑った。



 食が落ち着くと、世一が月兎をじっと見た。



「さっきの森。あれ、なんだった」



 月兎は箸を止めた。


 脳裏に、血の匂いと黒い瞳が蘇る。



「……俺、追われてる身なんだ」



 二人の空気が変わった。


 月兎は、できる限り端的に話した。



 警備隊の見習いだったこと。


 文次郎が自分を殺そうとしたこと。


 死にかけた時に、白髪の女に血を与えられて覚醒したこと。


 そして――その力が、今も自分の中で暴れる可能性があること。



 世一は黙って聞き、やがて短く吐き捨てた。



「……ろくでもねぇな」



 亜華巴は目を伏せる。



「私も……過去があって、居場所を失いました。治療師の道を進んでいたのに、同僚に疎まれて……」



「俺もだ」



 世一が続ける。



「家は知の家系だ。俺は武を選んだ。嫌われて出てきた。……それだけだ」



 三人の言葉は多くない。


 だが、互いの傷の形が少しだけ見えた。



 月兎はふと、湯気の向こうに揺れる灯を見つめる。



「……俺、隠れる必要がある」



「今さら気づいたのかよ」



 世一が呆れたように言う。



「でも、どこに?」



 亜華巴が問う。



 月兎は思い出す。


 あの白い髪。紫の瞳。半分折れた角。


 そして、言葉にならない優しさ。



「……霧が常に張っている街があるって聞いた」



 亜華巴が小さく頷く。



「ユキヨ様の街ですね。北の方。外からは見えにくく、入りにくい。……でも、隠れるなら確かに最適です」



「決まりだな」



 世一が椀を置く。



「明日、出る」



 月兎も頷いた。


 胸の奥に、かすかな熱が戻ってくる。



 ――次は、守れる力にする。


 そう誓うように。



     ◇



 その夜。



 店を出て宿へ向かう道すがら、月兎はまた背筋が震えた。



 視線。



 今度は森の中ではない。


 生活の匂いが残る村の道で、確かに感じる。



 月兎はさりげなく振り返る。


 灯の届かない影――そこに人がいた。



 スキンヘッド。


 髭を撫でながら、こちらを覗く男。


 目は濁っているのに、妙に刺さるような視線だけが鋭い。



 男は、薄く笑ったように見えた。



 月兎は息を止め、足を止めかける。



「おい」



 世一が前を向いたまま言う。



「立ち止まんな。獣も多い。……それに、追うなら追わせりゃいい。逃げるのは得意だろ?」



 皮肉なのか励ましなのか分からない言葉だったが、


 月兎は小さく頷いて歩き出した。



 背後の視線は、まだ消えない。



 霧の街へ向かう旅は、もう始まっている。


 知らないところで、誰かがその背中を見ているのだ。



 月兎は、暗い道の先を見つめた。



 霧の向こうにいるあの人のことを、思いながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ