霧へ向かう道
火の国は、奇妙に静かな国だった。
人がいる。鬼がいる。混血がいる。
それらが同じ道を歩き、同じ店で食い、同じ夜を迎える。
なのに、心の奥にだけは、どうしても溶けない境界が残り続けている。
たとえば鬼――。
この国の民は、鬼を恐れるように刷り込まれている。
鬼が何をしてきたか、どんな種であるかを知る前に、ただ「恐ろしい」と教えられる。
その恐れは、長い年月をかけて血肉になり、言葉より深い場所に根を張った。
しかし、世界はそれほど単純ではない。
創造主と呼ばれる存在がいるという。
想像が現実に触れ、念が形を持ち、生まれるはずのなかった命が現れる――そういう歪みの底に、その名が囁かれる。
けれど、時に。
創造主でさえ感知しないまま、この世に落ちてくる存在がある。
それが鬼だ、と古い文言には残されている。
――創造の外で産声を上げた影。
だからこそ、恐れられ、敬われ、そして――理解されない。
◇
街道は乾ききらず、土の匂いが残っていた。
月兎は背負い袋を直しながら、二人の仲間と並んで歩く。
世一は相変わらず不機嫌そうな顔で、道端の石をつま先で蹴った。
亜華巴は、軽い足取りで前を見ている。風に混じる草の香りを確かめるように目を細める癖がある。
「おい、月兎」
世一が唐突に言った。
「お前、いくら持ってんだ?」
月兎は少し気まずそうに財布を押さえる。
「見習いだったから給金が少なくて……あんまり持ってない」
「はぁ? まじかよ」
世一は舌打ちする。
「俺も金がねえ。家から持って出てくりゃよかった」
「……私も、あまり手持ちがないですね」
亜華巴が申し訳なさそうに微笑む。
三人の足取りが同時に重くなった。
沈黙を破ったのは、亜華巴だった。
「それなら、少し行った先の村でお金稼ぎをしませんか?」
二人が顔を上げる。
「私の知り合いに頼めば、少しくらいお金稼ぎができると思います。危ない仕事かもしれませんが……今の私たちには必要です」
月兎は迷ったが、すぐに頷いた。
「お願いします。……俺も、食べ物と薬草の世話になってばかりじゃいられない」
「決まりだな」
世一がぶっきらぼうに言ったが、どこか安堵が滲んでいた。
◇
村は街道から少し外れた場所にあった。
田畑の匂いと、薪の煙の匂い。静かだが、生活の音が確かにある。
「まずは飯だ」
世一が即断する。
「賛成です」
亜華巴が即答した。
月兎は二人の勢いに押される形で食事処へ入った。
店の中は木の匂いと醤の匂いが混じっている。
壁には、獣車の札や祭りの護符が貼られていた。
「いらっしゃい」
店主が言い、三人は隅の席へ通された。
「何にする?」
世一が月兎を見た。
「……普通のでいい」
「普通ってなんだよ」
世一が眉をひそめたその瞬間。
「じゃあ、これ全部ください」
亜華巴がにこやかに言った。
「は?」
月兎と世一が同時に亜華巴を見る。
しばらくして運ばれてきた盆の上には、常識の外側が並んでいた。
湯気を立てる椀、串焼き、そして――。
「……熊の心臓?」
月兎が目を丸くする。
「新鮮で栄養があるんですって。あと、これも」
亜華巴が指差したのは、桶の中でぴちぴち跳ねる小魚だった。
生きたまま、薬味と共に出されている。
「……生きてる」
世一が露骨に顔を引きつらせる。
「魚って、生きてたっけ」
月兎が真面目に呟くと、亜華巴はくすっと笑った。
「生きてますよ。ほら」
亜華巴はためらいなく箸で魚をつまみ、口に運ぶ。
ぴち、という感触が想像できて、月兎は咳き込みそうになった。
「お前……信じられねえ」
世一が呟く。
「美味しいです。世一も食べます?」
「死んでも食わねぇ」
亜華巴は「残念」と言って熊の心臓を噛み切った。
月兎は目を逸らしながら、なぜか笑いが込み上げるのを感じた。
こういう瞬間だけは、旅が旅らしく見える。
血と死の後でも、人はこうして笑うのだ、と。
◇
翌朝。村の外れの人気のない一角へ三人は向かった。
ぼろ屋――というより、捨て置かれた物置のような家。
戸が軋んで開くと、奥から女が出てきた。
白い指先。整った顔立ち。
着物はくすんでいるのに、そこだけ空気が澄んで見えるほど綺麗な女だった。
「……来たのね、亜華巴」
女は静かに言った。
「お久しぶりです」
亜華巴が頭を下げる。
月兎と世一も倣った。
「事情は聞くわ。今、あんたたちには金が必要。旅も必要。……それで、危ないのも承知」
女は三人を値踏みするように見て、続けた。
「仕事はある。薬草と、それから――この紙に書いたもの」
女が差し出したのは、手書きのリストだった。
薬草の名に混じって、骨片、黒い石、朽ちた木片……用途の想像がつかないものが並ぶ。
「森に入って集めてきなさい。戻ってこれたら、金を払う」
「戻ってこれたら、って」
世一が低い声を出す。
「危ない森よ」
女は平然と答えた。
その目は冷たくもなく、ただ事実を言っているだけだった。
「行く」
月兎が言った。
世一が小さく息を吐く。
「……仕方ねぇ。俺ら、金なしで死ぬよりマシだ」
亜華巴も頷いた。
「いきましょう。必要な薬草も、私なら見分けられます」
◇
森は、外から見えたよりも深かった。
木々は密に生い茂り、日光が地面に届かない。
湿った匂いが鼻を刺す。
苔むした石が点々と続き、踏み外すと足首を取られる。
「これが、指定された薬草です」
亜華巴が屈み、葉を指で撫でる。
「その隣のは毒草なので触らないでくださいね」
「触んねぇよ」
世一がぶっきらぼうに返す。
月兎は黙って頷き、リストと辺りを見比べた。
――その時だった。
草が、揺れた。
風ではない。
何かが、地面の下から這い上がってくるような揺れ方だった。
月兎の背筋が冷えた。
「来る……!」
言い終える前に、足元の小石が跳ねた。
土が盛り上がり、枯れ枝が宙に浮く。
それらが一つの渦になり、形を持ち始める。
幽体。
人の念が、物質を纏って生まれる影響体。
それは目も口もないのに、確かな悪意だけがある。
月兎に向かって、まっすぐ伸びてくる。
「来たぞ!」
世一がナイフを抜き、鎖鎌のような暗器も構える。
亜華巴は一歩引き、幻影の気配を整える。
月兎は刀を抜いた。
しかし、刃が幽体を裂いても、手応えが薄い。
裂けたはずの影が、すぐに繋がり直る。
「消えない……!」
「だろうな!」
世一が舌打ちしながら、牽制の暗器を投げる。
亜華巴の幻影が揺らぎ、幽体の動きを乱す。
だが、それでも幽体の本体は削れない。
幽体が、月兎の肩を掠めた。
冷たい。
皮膚ではない、もっと深いところ――魂が削られるような寒気。
月兎の呼吸が乱れる。
「月兎!」
亜華巴の声が遠くなる。
幽体の影が濃くなる。
視界の端が黒く染まる。
――あの雨の川岸。
――真っ黒な瞳。
――息のない目。
胸の奥で、何かが「開く」感覚がした。
「……悪か、善か」
自分の声なのか分からない声が口から漏れた。
月兎の瞳が、わずかに沈む。
世界の輪郭が鋭くなる。
幽体の核――“念の結び目”が、透けて見える気がした。
「月兎、やめろ! 目が……」
世一の声が焦る。
だが、もう遅かった。
月兎の刀が一閃する。
刃が幽体の中心を正確に貫き、
その瞬間、影は硬い音もなく崩れ、霧のように消えた。
――撃滅。
森が一瞬だけ静まり、三人の荒い息だけが残った。
月兎は膝をつきそうになり、刀を支えに立つ。
汗が冷たく頬を伝う。
「……今の、なんだよ」
世一が息を呑んで月兎を見る。
月兎は答えられなかった。
答えたくなかった、と言うべきかもしれない。
その時。
背中が、ぞわりと震えた。
視線。
森のどこかから、こちらを見ている。
月兎は顔を上げ、木々の隙間を睨む。
気配は確かにある。冷たく、ねばつくような視線。
「……誰かいる」
月兎が低く言う。
「獣も多い。気のせいだ」
世一が肩をすくめる。
「お前、いちいちビビりすぎ。……ほら、さっさと採って帰るぞ」
月兎は納得していなかったが、それ以上言えなかった。
視線は、いつの間にか消えていた。
◇
夕方。ぼろ屋の女の元へ戻ると、彼女はリストを確認し、淡々と金を渡した。
「よく戻ってきたわね。……それで十分」
その言葉が褒めているのか、ただの事実なのか分からない。
だが金は確かに重く、現実的だった。
三人は村の食事処へ戻り、今度は普通の飯――と言いたいところだが、亜華巴の手元にはまた怪しい皿が並び始めていた。
「今日は、焼いた蛙です」
「やめろ」
世一が即座に止める。
「冗談です」
亜華巴が小さく笑った。
食が落ち着くと、世一が月兎をじっと見た。
「さっきの森。あれ、なんだった」
月兎は箸を止めた。
脳裏に、血の匂いと黒い瞳が蘇る。
「……俺、追われてる身なんだ」
二人の空気が変わった。
月兎は、できる限り端的に話した。
警備隊の見習いだったこと。
文次郎が自分を殺そうとしたこと。
死にかけた時に、白髪の女に血を与えられて覚醒したこと。
そして――その力が、今も自分の中で暴れる可能性があること。
世一は黙って聞き、やがて短く吐き捨てた。
「……ろくでもねぇな」
亜華巴は目を伏せる。
「私も……過去があって、居場所を失いました。治療師の道を進んでいたのに、同僚に疎まれて……」
「俺もだ」
世一が続ける。
「家は知の家系だ。俺は武を選んだ。嫌われて出てきた。……それだけだ」
三人の言葉は多くない。
だが、互いの傷の形が少しだけ見えた。
月兎はふと、湯気の向こうに揺れる灯を見つめる。
「……俺、隠れる必要がある」
「今さら気づいたのかよ」
世一が呆れたように言う。
「でも、どこに?」
亜華巴が問う。
月兎は思い出す。
あの白い髪。紫の瞳。半分折れた角。
そして、言葉にならない優しさ。
「……霧が常に張っている街があるって聞いた」
亜華巴が小さく頷く。
「ユキヨ様の街ですね。北の方。外からは見えにくく、入りにくい。……でも、隠れるなら確かに最適です」
「決まりだな」
世一が椀を置く。
「明日、出る」
月兎も頷いた。
胸の奥に、かすかな熱が戻ってくる。
――次は、守れる力にする。
そう誓うように。
◇
その夜。
店を出て宿へ向かう道すがら、月兎はまた背筋が震えた。
視線。
今度は森の中ではない。
生活の匂いが残る村の道で、確かに感じる。
月兎はさりげなく振り返る。
灯の届かない影――そこに人がいた。
スキンヘッド。
髭を撫でながら、こちらを覗く男。
目は濁っているのに、妙に刺さるような視線だけが鋭い。
男は、薄く笑ったように見えた。
月兎は息を止め、足を止めかける。
「おい」
世一が前を向いたまま言う。
「立ち止まんな。獣も多い。……それに、追うなら追わせりゃいい。逃げるのは得意だろ?」
皮肉なのか励ましなのか分からない言葉だったが、
月兎は小さく頷いて歩き出した。
背後の視線は、まだ消えない。
霧の街へ向かう旅は、もう始まっている。
知らないところで、誰かがその背中を見ているのだ。
月兎は、暗い道の先を見つめた。
霧の向こうにいるあの人のことを、思いながら。




