刺したのは、その指です。
朝、目が覚めた瞬間から、彼女は画面を眺めていた。
枕元に伏せたままのスマホ。顔を上げるより先に、タイムラインが目に入る。
昨夜の愚痴、誰かの朝ごはん、バズった動画の引用合戦。
目の奥をざらついた文字列が通り過ぎていく。
何を見たかなんて覚えていない。ただ、今日も“情報”を浴びたという感覚だけが残った。
電車に揺られながら、指は自然と画面を滑っていた。
そのとき――ふと目を引く投稿があった。
「○○駅で通り魔。女性が刺されて倒れてる……動画↓」
その駅、明日ちょうど用事がある場所だった。
なんだか胸がざわつく。でも、怖いもの見たさが勝った。
リンク。画像。引用の嵐。
“事実”のように見える投稿が、画面に連なっている。
「えっ、やばくない……?」
隣にいた同僚がスマホをのぞきこみ、顔をしかめる。
「最近こういうの多すぎてさ、マジで気をつけないとだよね」
無意識に彼女の指が動く。
いいね。
リポスト。
それは共感のしるし。
拡散のつもりだった。
でも、そこに「責任」なんて言葉は浮かばなかった。
翌日、彼女はわざわざ早めに家を出た。
あの投稿が、どうしても引っかかっていたから。
○○駅。
通り魔が現れた――はずの場所。
でも、そこには何もなかった。
黄色い規制テープも、花束も、報道陣も、誰ひとり立ち止まる人すらいない。
目の前の“現実”は、異様なほど静かだった。
(……あれ?)
たしかに、刺された女性の動画を“見た気がする”。
鮮血、叫び声、混乱。そんなイメージが頭に残っていた。
けれど、その動画を見た瞬間の記憶が思い出せない。
「本当に……私、あれ見たんだっけ?」
そうつぶやきながら、彼女はスマホを開く。
事件の投稿は、すでに別の派生情報に埋もれていた。
「犯人捕まったらしい」「この人が加害者って」「被害者は高校生だったって」
誰かの“見た”情報が重ねられ、次々に“拡散”されている。
そのどれもに、“いいね”が、“リポスト”が、ついていた。
まるで、事件は“本当にあったこと”として、もう確定しているようだった。
けれど、彼女の目の前にあったのは――何も起きていない、ただの駅前だった。
(私だけ……何も“見てない”?)
背中をひやりと汗が伝う。
現実が“嘘”なのか、画面が“真実”なのか、わからなくなっていた。
家に戻っても、彼女の手はスマホから離れなかった。
あの駅には何もなかった。けれど、タイムラインでは事件は“あったこと”になっていた。
動画は今や加工され、テロップや悲鳴付きで拡散され続けていた。
コメント欄には「胸糞」「怖すぎ」「信じられない」
中には「笑った」「これってやらせじゃね?」そんな投稿も。
(……これ、本当に誰が撮ったんだろう)
ふと、そう思ってタップした指が、あるアカウントのページに飛んだ。
事件を最初に“投稿”した人物。
その投稿には、何十万という“いいね”と“リポスト”がついていた。
彼女も、確かにそのひとつを押したはずだった。
スクロールしているうちに、ある投稿が目に入った。
「最初に“冗談で”投稿した。そんなこと起きてなかった。ごめんなさい」
目を疑った。
けれど、画面のスクショ、引用、さらなる拡散がそれを“本当”にしていく。
「騙された」「お前のせいで精神的にやられた人がいる」「訴えるべき」
タイムラインが一斉に、投稿者を“刺し始めた”。
誰かが、あの投稿をしてしまった誰かを、責めていた。吊し上げていた。
彼女の指が、無意識に震える。
自分も、“いいね”を押した一人だった。
“リポスト”もした。
思い出す――
それはただの指先の動きだった。
でも、確かに画面の“向こう”に人がいた。
誰かの手が震えていた。誰かが泣いていた。
誰かが、「殺されていた」。
ハートマークのボタンが、血に濡れているように見えた。
リポストマークが、刺突の矢印に見えた。
“いいね”と“リポスト”が、無意識に押された。
それは、共感のようで、加害の始まりだった。
それは、拡散のつもりで、殺意にもなり得た。
そして彼女は、スマホをゆっくりと伏せた。
自分の指先が、誰かを“刺した”のだと、ようやく理解した。
無数の指先が、今日も静かに誰かを刺している。
誰にも気づかれないまま、共感という名のナイフで。
スマホの画面をなぞる指先は、
ときに誰かを救い、ときに誰かを傷つける。
それでも、私たちは軽やかに“共感”を押して、
知らないうちに、誰かの痛みを拡散してしまっているかもしれません。
彼女の物語は、もう他人事ではないはずです。
「見たはずのない光景」は、本当はあなたのすぐ隣にあったのかもしれません。
目を閉じたまま、流れてくる情報に身を任せるのか。
それとも、ほんの少しだけ、
“自分の目”で見て、“自分の意志”で感じて、生きていくのか。
選ぶのは、あなたです。
これから “目を開いて生きる”のか、
それとも “目を閉じたまま刺し続ける”のか。