ブチギレ娘で皆殺し
1
母の左目は義眼だ。
狐のような細目の奥で、鈍く輝いている。
初見だとまず気づかないし、ふつう疑いもしない。
そもそも、火妖帝国屈指と名高い名家の正妻が障害持ちなんて、常識的に有り得ない話だ。もし、一般国民がそんなこと口にしたら、生きたままミンチ状に切り刻まれて、妖の餌にされるだろう。
その義眼は、和室に入った私に無機質な視線を投げかけた。
胃のそこから恐怖がこみ上げる。
広い和室。三方は障子で仕切られ、残す一方からは庭園を一望できる。
母の正座している位置を確認し、わざと距離を離して座る。母と私の二人きり。
畳から視線を上げることができない。
母のことは昔から苦手だった。白い肌に、細い体。黒い髪は常に後ろで丸く結われ、卵形の綺麗な輪郭には、狐のような細目と、通った鼻筋が収まっている。家に来た男達は皆、「これぞ火妖の美人」と称す。
確かに美しい人だとは思う。古典絵画に出てくる、女の幽霊みたいに。
男達は気づかないのだろうか。
母からは生気が感じられない。だが、無気力といったふうでもない。
ただ、凄まじい空気を帯びている。怒気とか、怨念とか、そういう類ではない。そんな次元ではない。それに、それに……。
視界の端に、黒いものが映った。畳の上を、影がゆっくりと伸びてくる。
母の位置から影は届かない。そもそも、母の後ろに光源などない。故にその影が、ここまでくるはずがない。本来ならば。
全身がこわばる。
影は私の膝元まで伸び、徐々に形を変え始めた。
この後、何が起きるか知っている。
影が、ぱくりと裂けた。
ぞめんわじゃい
ふぉうぇうんだざぎ
じょけじゅんだい
影から声が聞こえる。
謝らないで。私じゃ何もできないから。
ずずずと音がして、影は更に形を変える。
それが何を表しているのか察した瞬間、分かっていても私は思わず目をそむけてしまった。
顔。無数の顔が、私の前にあった。
悲しむような、恨むような、喜ぶような、壮絶な表情を浮かべた顔が、何十にも重なって、悲鳴を上げる。
母だ。母の過去と、私の未来の顔だ。
限界だった。
部屋に戻ろう。立ち上がろうとしたその足に、影が絡みついた。気づくと、私の腕にも、腰にも、体全体に巻き付いていた。
やはり、逃げられない。食事を拒否しても、部屋にこもっても、庭に出ていても、母は影を連れ、幽霊のようにやって来た。
次に何が起きるか、知っている。
口がこじ開けられる。無数の顔は列を成して、私の食道を下って行った。
ぱんっ
弾けるような音で、私の意識は引き戻された。
直後、母の後ろの障子が開き、朝食のお膳が運ばれてくる。異様な空気を感じ取ったのか、家政婦は料理を並べ終えると、さっさと引き返していった。
母はというと、元の顔に戻り、何もなかったように食事を取り始めている。
食欲は全くない。だが残すのは嫌なので、水で流し込むようにして料理を胃に詰めていく。
気を紛らわすため、ぼんやりと庭園を眺めた。
石碑。
立派な松とか、苔の生えた石とかよりも、真っ先に目を引く存在。
火妖祀
火妖帝国は、火の妖を崇拝している。国旗にも火が描かれているし、18才の成人式では、女性の体に松明を押し付けることが成人の儀とされている。具体的に何の妖を崇拝しているのかは謎だ。皇帝は火の妖の生まれ変わりとか言われてるが、実際どうなのか……。
事実がどうであれ、こう言われている以上、火妖は皇帝を指す言葉でもある。故に、立場のある家は、その忠誠を示すべく、火妖を祀るのが義務だ。私の家のように、陸軍大将が大黒柱ともなれば、当然だろう。
そう。火妖帝国は、多くの義務で成り立っている。尽くす義務、尽くされる義務。支配する義務、支配される義務。奪う義務、奪われる義務。
…………脳裏に、先ほどの顔がちらつく。
「今年は、鳥が来ませんね」
心臓から温度が失われる。
母の声だった。
「……妖にでも食われたのでしょう」
ぼそりと返す。茶碗を持つ手が震える。
「毎年、庭の木の実を食べに来ていたのに」
何か返そうと思うも、声が出ない。喉がこの一瞬で張り付いてしまった。
「今年は来ない」
私は食べ終えることを優先した。何度も咳き込みながら、料理を流し込む。母の視線が、庭を向いているように感じるのが、せめてもの救いだった。
全てを食べ終え、今度こそ席を立つ。
和室を出る寸前、母の顔が一瞬視界に入った。空を見つめて、
「鳥は、飛ぶべき時を分かっているのね」
無数の顔が、そこにあった。
2
幻覚が酷くなっている。
階段を駆け上り、母から逃げるように部屋に戻った私は、入り口の障子につっかえ棒をかけ、床に座り込んでいた。
今日はこの後、料理や家計、奉仕の勉強が山積みだ。今の心持ちだと、夜まで体力が持つかわからない。
壁の時計に目をやる。最初の勉強の時間まであと20分はある。軽く寝るくらいは出来る。
押入れから布団を引っ張り出し、体に巻き付け、私は仮眠をとることにした。
幻覚を見るようになったのは、母が義眼をつけ始めたあたりからだった。母の顔が、何十にも重なって見える。最初こそ困惑したが、次第に状況が吞み込めていった。
これは、精神の負荷によるものだ。私の未来と、母の過去を、義眼を介して重ねているのだ。故に、誰にもこの事を話してはいけない。
私の家に限らず、名家の娘は、家の権力争いの駒として使われる。理由は単純で、基本的に顔がいい。権力者の男なんて美人しかめとろうとしないのだから、遺伝子的にも子供は美男美女になりやすい。
母も例に漏れず美人で、例に漏れず駒として使われた。そして地獄を見た。いくら女性の地位が低い国とはいえ、正気を保てなくなるほどに、凄惨な目にあった。母から聞いたわけではない。私自身で目撃したのだ。破かれる着物を。突き立てられる刃物を。えぐられる体を。
あの義眼も、父のそういった行為の一環によるものだろう。
私の未来も、既に母のようになると決まっている。
だが、不満を言ってはならない。支配されることも、立派な義務なのだから。
…………それでも、心は正直だ。今年で私は18才になる。もういつ嫁に出されても不思議ではない。幻覚の肥大化も、隠し切れない不安によるものだろう。
その時が来た時、私は正気でいられるだろうか。
夜。家の者が寝静まったのを見計らって、私は窓から地面に降りた。既に衣服はぼろきれに変えてある。見張り番が見たら、侵入者と思われるだろう。
地面と同化するように、ゆっくりとはいずりながら、石垣に近づく。この家は広大な敷地を長い石垣とその外を堀で囲んでいる。しかも、夜中はずっと見張りが敷地をうろついている。
侵入するのも、許可なく外出するのも、一苦労だ。
石垣の隙間に指をひっかけ、登っていく。途中で庭の木に飛び移り、さらに登る。石垣の上まで着いたら、間髪入れずに、堀の上を飛び越え、着地と同時に受け身をとる。昔はただ外に出るだけでも、数時間前はかかったものだ。何度か見つかったこともあったな。
私は月の高さを確かめると、周りを見渡した。私の家は、一般国民の住宅地から少し離れた、小高い丘の上にある。住宅地に続く道には、陸軍関係者の家がズラリと並んでいる。
余程身分が高くないと、入ることすらかなわない地帯だ。以前、一般国民の子供が、この辺りに無断で立ち入ったことで、射殺されている。
私も今の姿で見つかると、問答無用で殺されかねない。
だが、その辺は家から脱出する以上に研究を重ねてきた。どの路地を、どう通れば住宅地にたどり着くのか、完全に把握している。
実際、一般国民の住宅地にたどり着くまで、10分とかからなかった。
火妖帝国首都、中央区1番町。
皇帝の住まう皇居や、政治の中心である国会など帝国の中枢機関が揃っているため、町並みは上品な雰囲気を帯びている。道行く人々も高級な衣類に身を包み高級車を乗り回している。
食事処なんかも、高いものばかりだ。駄菓子屋なんて、存在すら許されないだろう。
地方の一般国民には憧れの地らしいが、この浮かれた空気を私はあまり好きになれない。
だが、わざわざ家を抜け出してくるのには、ちゃんと目的もある。
鮮烈な色合いの着物を着て、髪を肩まで伸ばしたおじさんが、飛んだり跳ねたりしながら、駆け抜けた。
路傍では、能面をつけた集団が、大声で帝国歌を合唱している。
夜になると、ここは、はみ出し者の世界になる。厳しく縛り付けられる社会で溜まった不満を、ここで解消するのだ。
「ぼろきれちゃん」
映画館前の交差点に差し掛かったあたりで、呼び止められる。
「ふたまた?」
振り返った先には、奇妙な髪形をした少女がいた。女性の髪形といえば基本、母のように後ろで丸く結うか、おろすか、一つ結びにするかのどれかだ。だが目の前のこの少女は、一つ結びを二つ作るという、何とも奇抜な髪形をしているのだ。そのため、仲間内では「ふたまた」の愛称で通っているのだ。
「皆は?」
「映画館裏の空き地。あんた以外、そろっているよ」
映画館裏には、小さな空き地がある。四方を板や石垣で囲まれていて、映画館に侵入して、使われていない裏口からこっそりと出ることでしか、この土地には入れない。この町でこの土地の存在に気付いている大人は、数人もいないだろう。子供のたまり場にはうってつけなのだ。
「遅かったな、ぼろきれ」
髭をボーボーに伸ばした少年、通称「じいさん」が言った。なぜ髭をそらないのかは不明だ。
ふと、皆の中心に、見慣れない冊子があるのに気づいた。
「なにこれ……落書き帳?」
ふんっと鼻を鳴らして、丸刈りの少年、通称「ハゲ」が解説を始めた。
「これは、帝国内での販売が禁止されている、外国の官能雑誌、その名も『全裸図鑑』さ!」
外国。確か帝国内では、国外の情報の一切を、秘密警察が統制していたはずだ。国外の情報は、所持するだけでも犯罪。普通に処刑ものだ。
私は、まじまじと『medical 』という意味不明な単語が書かれた冊子を見つめた。
中身は、人間の皮をはいだような写真や、女性、男性の裸の写真がズラリと並んでいる。
こういう変態志向のものは、金持ちの男に好まれそうだ。
「ハゲ、でもこれ危なくない? 持ってるだけで射殺刑だよ」
ふたまたが尋ねた。
「すぐ燃やすから大丈夫だろ。それに、外国の文字だぜ。またいつ見れるかわからねえし、目に焼き付けようと思ってさ」
「……ハゲ、あんた女子の前で破廉恥なの見て、興奮してるわけじゃないよね」
こうなってしまうと、ふたまたとハゲは止まらない。おっぱじまった喧嘩をよそに、私は空を眺めていた。
一か月に数度、本当につらくなった時に、私はここを訪れるようにしている。あの家から離れるというだけでも、気が安まる。
ここにいる奴らの素性は、一切知らない。道端で偶然出会って仲良くなっただけだ。
案外、私みたいなのもいるかもしれない。
じいさんが、喧嘩する二人の仲裁に入った。ふたまたが手を出し始めたので、流石にまずいと判断したらしい。
「……」
なにげなく、ふたまたの二の腕に目が行く。火傷の後。彼女は、もう成人しているらしい。
成人。男にとって、それは実に名誉な事だ。家と資産を持つことが許され、一人前として認められたことになる。だが、女にとって、それは奴隷生活の始まりを意味する。
松明を体に押し付けるという行為は、呪いをかけるのと同じだ。成人の儀を女性は受けたが最後、二度と男に逆らえなくなる。どんなに非道な扱いを受けようとも、ただ黙って受け入れることしかできない。母にも、この印はある。
これは、一般国民の間でも行われている。どうもこの国の男は、女を所有できないと気が済まないらしい。
「いい加減にしろ」
じいさんが二人を引き離す。ふたまたの印は、おそらく押されてから日が浅い。まだ強い効力がないのだろう。だが、いずれ今のような喧嘩も出来なくなる。
月が傾いてきた。そろそろ戻らなくてはいけない。
三人に別れを告げ、帰ろうとした、その時だった。
けたたましい、鈴の音がした。
「秘密警察!」
私たちは、とっさに映画館の裏口に駆け込み、入り口の扉から外の様子を伺った。
「…………!」
だが、秘密警察による暴力の気配は、既に漂っていた。
口からぼたぼたと血を流す少年。衣服をはぎ取られた少女。急に倒れ、そのまま動かなくなった人影。
「糞が」
ハゲが吐き捨てた。
夜は、はみ出し者たちの時間であるが、秘密警察の狩りの時間でもある。
治安を守るという大義名分の下、秘密警察は夜中に出歩く人々を片端から捕まえ、欲望のはけ口にしている。暴行、強姦、ついには殺人まで、何でもござれだ。
一説では権力者が、いたぶって遊ぶ人間玩具を探して、秘密警察を買収しているとも聞く。
「今日は狩りの開始が早いな」
じいさんが言う。連中も時間をずらして、獲物が逃げないようにしているのかもしれない。
「……これ、帰れる?」
ふたまたが呟いた。どれだけの人数をかけているのかは知らないが、さっきからあちこちで悲鳴が聞こえる。中央区だけでも、最低100は警官を派遣しているはずだ。
「私は帰らないといけないから」
正直、秘密警察に捕まるより、母に外出がばれる方が怖い。以前、見つかった時に、喰らった折檻の跡は、ふとももから腰にかけて、いまだにくっきりと残っている。
結局、他三人は警察が去るまで映画館に隠れることにし、私一人で帰ることになった。
闇に息を潜めて、抜き足差し足で帰路につく。
途中、路地裏で4,5才位の少年が、岩みたいな体付きの警官に襲われていた。この時間に子供を出歩かせるなんて気が知れない、と最初は思った。
だが、手前で見物している女が、少年から「母さん」と呼ばれ、助けを求められていることに気付き、世も末だな、と思い直した。
胸糞悪かったので、母親の股関を蹴り上げた後、警官に向かって、煉瓦の破片を思い切り投げつけてやった。
案の上追いかけられたが、難なく逃げ切った。
3
爆発音とともに、私は目を覚ました。
真夜中。その日は、外出していなかった。何が何だか分からず、ぼんやりしていると、家政婦さんが部屋に飛び込んできて、私を引っ張って地下壕につれていった。
その晩は、爆発がひっきりなしに続いていた。
日中、電気受信機から流れる音声日報は、昨夜の空爆で持ちきりだった。
どうやら隣の区で空襲があり、大勢の死者を出したらしい。
洗濯をしながら、空を見上げる。帝国の空には、外敵からの攻撃を阻む結界が、火妖の名の下に張られている。それが、破られたのだ。皇帝の名を冠する以上、区に爆弾が落とされるなど、あってはならない。
帝国の威信に関わる、重大な問題だった。
それに関係してか、最近家に出入りする人が多い。しかも全員陸軍の関係者だ。話を盗み聞きする限り、父を訪ねているようだった。
帰ってくる前兆だろうか。
火妖帝国陸軍大将。いわば、父は権力者だ。
生まれはやはり名家。陸軍配属後はとんとん拍子で出世し、30才の若さで大将の座まで登り詰めた。親の七光りだけではなく、本人に実力もあったのだろう。
外見は、太り気味の中年男性、といった感じだ。どう見ても軍人には見えず、軍服も全く似合っていない。
だが、特筆すべき点もある。
正門が開く音がした。流れ込んでくる気配に、私は嫌な予感が当たっていた事を察した。
父が帰ってきた。
汗でどす黒く光る肌と、口元にたたえた作り笑い。そして、軍服の上からでもわかる。丸々と太った腹。
私の父は、豚の妖と言われれば、信じてしまいそうな外見をしている。
一家の大黒柱の帰りともなれば、流石に私も迎えに出向かなければならない。正直、強い嫌悪感を感じた。母とはまた違う種類の、人ではないような不気味さを感じる。
私の隣に立つ母が何か言いかけたその時、
がらら
玄関の扉が開き、同じ軍服を着た男たちが、ぞろぞろと入ってきた。体格に差はあるものの、父に近しい嫌悪感を抱く。
「さ、どうぞどうぞ」
父が口を開く。軍服達は、母や私に一瞥もくれずに、ずかずかと和室に上がり込んだ。
父が帰ってきたのは、実に2ヶ月ぶりだった。その間、一切の連絡をよこさなかった。もちろん、今日帰ってきて、しかも食事会を開くなど、噂にも聞いていない。準備など本来あるはずないのだが、母は平然と人数分の料理と酒を出していた。そこは素直に驚いた。これまでも、何度かこういう事があり、勘が培われていたのだろう。
母と私、そして、家政婦は、和室の隅に座り、軍服達の相手をさせられていた。と言っても
基本、母が一人でやっていて、私は見ているだけだが。
本当に国家の一大事なのかという位、父と軍服は下世話な話で盛り上がっていた。中には笑えない程えげつない話も混じっていたが、彼らはげらげらと笑っていた。
ある軍服は、もぞもぞ動く寝袋を隣に置き、しきりに何かを話しかけていた。
何が入っているのかは、考えたくない。
「姉ちゃん」
軍服の一人が呼んだ。黒い軍服。秘密警察か。母のことかと思ったが、その男の目は私の方に向いている。
こういう場に出た経験はない。だけど分かる。行けばひどい目に遭う。だが、行かないと、もっとひどい目に遭う。
母の無数の顔を思い浮かべる。
あれに比べれば、恐れるに値するものではない…………はずだ。
軍服の隣に座る。次の瞬間には、私の首に腕が回されていた。
鳥肌が立つ。
臭い。
何か卑猥な言葉を投げかけられているのが分かるが、なるべく耳に入らないように意識から締め出す。別のことを考える。
庭、石碑、火傷、ふたまた、路地裏、顔、無数の顔
胸の辺りをまさぐられる。
普通に吐き気がする。気持ち悪い。
ハゲ、medical、食道を下る、母、じいさん、映画館、
軍服野郎の手が、私の股関に伸びる。
父は別に止めるわけでもなく、にやにやと笑みを浮かべている。豚。豚なんかと一緒にしちゃいけない。あれは生き物ではない。父ではない。もっと汚らわしい、汚い。
父の背後に、黒いものが見える。影。無数の顔。
痛い。
4
見張りに見つかったが、構わず進み、むしろ正門を堂々と乗り越えて外出してやった。
中央区1番町に向かう。
いつも通りはみ出し者があふれかえっている。ふたまたの姿を探す。じいさんや、ハゲの姿を探す。
いない。
映画館裏の空き地にも向かうが、いない。
いない。
路地裏にも、大商店の中にも。路傍にも。
「……今日はぼろきれじゃねえな」
振り向くとじいさんがいた。ぼろぼろのハゲは、じいさんに担がれていた。
「ふたまたなら、いないぜ。」
「……秘密警察?」
じいさんは、無言で頷いた。ハゲは、連れ去られるふたまたを奪い返そうとして、半殺しにされたという。
その後、じいさんは色々と話していたが、全く頭に入ってこなかった。
もうめちゃくちゃだった。
気がつくと、家の正門前だった。
このまま真っ直ぐ入ってやろうかとも思ったが、何されるかわからないので、何となく石垣を乗り越えて侵入した。
闇と同化して、地面を這って進む。家の壁を伝って二階にある自室に戻ろうとしたその時。
一階の和室がちらりと覗けた。
何枚も着物や布切れが積まれた上。ふたまたがいた。
もう、ふたまたの原型をとどめていなかった。
あの寝袋。まさか中身は。
聞くに堪えない下品な笑い声が聞こえる。
上裸の男達に囲まれたふたまたは、全身真っ赤になって、床に転がっている。
自分でもよく分からない声が出た。
男たちに気づかれ、和室に連れ込まれる。
ふたまたは、息をしていなかった。最初見たときは皮をはがされたのかと思ったが、よく見ると体中に傷がつき、血液が流れだしている。
ふたまたの血肉の臭いと、男たちの発情した臭いが混ざる。喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。顔を上げ、閉じた障子を凝視する。
無数の顔。何十にも重なる顔。怒り、苦しみ、喜び。
義眼の奥から、なだれ込んでくる。
呪。
口が熱い。
畳には、私の舌が落ちている。
その上に、どろどろと血がかかる。
痛い。痛い。
目が見えない。
何も見えないという恐怖。
男どもの笑い声が聞こえる。
痛い。痛い。痛い。
怖い。
日本刀の刃先を、自身の腹に向けさせられている。
人が切腹するのが、そんなに楽しいか。
嫌だ。怖い。
痛い痛い痛い痛い。
幻覚じゃなかった。
母が何をしたかったのか、あの無数の顔の意味が、ようやく分かった。
私も今、同じ気持ちだ。
殺そう、こいつら。
5
「1番町駐在の陸軍兵に連絡。
大将邸にて、殺人事件発生。秘密警察が応援に向かうも、応答なし。敵国による奇襲の可能性もあり。直ちに避難するように。繰り返す、直ちに避難するように。
陸軍大将、空田満は、人生最大の危機に直面していた。
燃える邸宅。惨殺された部下。
そして、修羅となった娘。
運動のできるやつだとは思っていた。だが所詮女。実戦経験もある男に勝てるはずがない。
娘の乱心を聞いてすぐのとき、満はさほど事態を重く見ていなかった。
だが、まさかここまで。
炎の中から、娘が現れた。全身の皮膚は焼け爛れ、黒く変色している。
そして、その右手には、部下が遊戯に使っていた刃物が。
左手には、見慣れた顔……妻の首があった。
妻の首から、義眼が抜け落ち、満の足元まで転がってきた。
怨空田
小さな文字で、そう書かれている。
「この女! 自分では殺せないからと、娘に呪いをかけ、乱心させたか!」
何をわめこうと、娘が迫る。
満は逃げ出し、1番町に身を潜めた。
空田邸に集まっていた満の部下は、この晩、皆殺しにされた。
満は一連の責任をとり、後日、割腹自殺した。
事件の主犯である空田家の長女、空田咲は、今も逃走している。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回の投稿は、2月10日0:00になります。