第4話
「アンってさ、捨て子だったんだ」
リアはかすかに目を見開いた。けれどもルーセルは視線を合わせようとはせずに話を続けている。
「病院の前に捨てられてた」
リアも視線を落として、足元に注意しながら歩く。
「それを僕の話し相手にって、父が引き取った。ケリーさんの養女として。小さい頃は、アンと兄さんと3人でよく遊んだんだ。それこそ毎日のように、皆の目を盗んで街に行った」
でも… とルーセルの声が暗くなる。
「兄さんの勉強が増えて一緒に遊べなくなって、それでもアンとはいつも一緒にいたんだ。だけど…」
ルーセルも勉強の時間が増えるようになって、アンもメイドとしての仕事をしなければならない時期が来た。
自分達の違いを、嫌でも認めなければならなくなった頃。
アンは自分のことを王子と呼んで、お互いにそれぞれの生活に入っていけなくなって。
「…そんな時、アンがいじめられてるのを知ったんだ」
「本当に!?」
勢いよく開けられた扉の音の後には、一瞬の静寂。
開け放たれた扉から吹き込む暖かな風を、心地よいと感じる者は誰もいない。
部屋の掃除をしていた2人のメイドは、突然の侵入者に固まっている。
「お、王子。まさか…」
聞いてしまったのですね、などと、わざわざ確かめなくたってわかる。
2人よりも青白い顔で立ち尽くすのは、この部屋の主、ルーセル。
呆然と見つめるメイドの前で、彼の顔はどんどん真っ赤になっていく。
「なんでっ…」
言いかけて結局口をつぐみ、背を向けて去って行く。
残された2人のメイドは、王子が何をする気なのか検討もつかずに、ただおろおろするばかりだった。
……ねぇ、知ってる?アンの話……
……ああ、聞いた聞いた。いじめられてたんでしょ?王子と仲いいからってひがまれて……
ルーセルの頭の中では、メイドの言葉がぐるぐると回っている。
どうしよう。
自分は何も知らなかった。なのに、自分のせいでアンがいじめられていたなんて。
「アン!!!」
アンが寝ているはずの寝室へと向かう。
風邪をこじらせただけだとルーセルは聞かれていた。それだって、うつったら困るからとお見舞いに来る事すら止められていたのに。
知らなかった。
「ルーセル?……どうしたの?」
そこにはアンが1人だけでベットの上に起き上がっていた。医者はいない。
「……聞いた、全部」
息を切らせて、ルーセルはそれだけ言った。アンは何も言わない。
「……ごめん。僕の…」
「謝らないで」
ぴしゃりと遮られてしまって、咄嗟にルーセルは口を閉ざした。
「ルーセルのせいじゃない」
「……でも」
ルーセルは何か言わずにいられなかった。だって自分のせいじゃないか。
「なにも聞きたくないの」
ぎゅっとアンは耳を塞ぐ。いつもと違うアンの様子に、ルーセルは不安を感じてベットに近寄った。
「アン?」
「私の世界は、ここだけなの。どんなことがあったって、私はここでしか生きていけない」
「……アン?」
アンはきつく目を閉じると、ルーセルを見ないまま言った。
「こめん。…私、ルーセルのこと嫌いたくない。…だからそばに来ないで」
「え?」
何を言われたのか、ルーセルには全く理解出来なかった。
アンは何を言ったんだ?
「なんで」
けれどもアンは何も言わない。彼の方を見ようともしない。
「僕は…いつだってアンの味方だ」
「…いらないって、言ってるじゃない…」
ぱっとアンが顔を上げた。その目は涙に濡れている。
「いらない!ルーセルなんかいらない!ルーセルさえいなければ、こんなことにならなかったのに!私はもっと…普通の生活が送れてたかもしれないのに!」
「……な」
ショックを受けると同時に、かすかな怒りも沸いてきた。
そしてこの場合、怒りに目を向けることの方が簡単だった。もうひとつの方は、考えるのは辛すぎたから。
「なんだよそれ…。僕がどれだけお前のこと気にかけてやったと思ってるんだよ!」
「誰も頼んでない!みんな…あたしのことをかわいそがってるだけじゃん!」
「僕は違う!僕は…」
「ルーセルは何も出来ないじゃない!」
「出来るよ!」
「じゃあ…あたしが死ねって言ったら、死ねるの?」
歪んだアンの微笑み。
「死ねるよ!」
咄嗟に、ルーセルはそこにあった処置用の小さなハサミを手に取った。
……痛いとはあまり感じなかった。
目を見開くアンを見て、満足を感じたのは事実。
けれども、それがアンの心にどんな傷を残してしまうのか、ルーセルにはわかっていなかった。
「……怪我自体は、大した事なかったんだ」
暗い森の中、どこか自嘲的なルーセルの声が響く。
「でもアンは…すごく責任を感じて、ご飯も食べなくなっちゃって、それで…死にそうになってた。だからアンの記憶を消した」
「…………」
「アンは、笑って城にいてくれればいいんだ」
ああ、この王子は本当にアンのことが好きなんだ。痛々しいまっすぐさに、リアは何と言っていいかわからなくなってしまう。
「大丈夫です。…こう見えて私はやりますからね。アンは大丈夫です」
明るいリアの声に、ルーセルはかすかに笑って応えた。
リアは王宮へ最初に行った時の、心配そうな顔をしていた人々の事を思い出す。アンの育ての親だというケリー。何かを訴えるようにこちらを見つめていた人達。
皆きっとアンが好きで、アンの事を心配している人達だ。
アンを助けよう。それが例え破滅を導いたとしても、そうしたらその時また戦えばいい。
やっぱり私は魔法研究所の魔法使いには合わないなぁ。
不思議に清々しい気持ちで、リアはそんなことを思った。
「あそこ…」
ルーセルが呟いて指差した先では、森が開けて月明かりが差し込んでいた。
リアはかすかに頷いた。
さっきから、とんでもなく大きな魔力を感じている。
駆け出そうとするルーセルの腕を慌てて掴んで、リアは静かにするよう合図した。彼は何か言いたそうな顔をしたが、真剣なリアの顔を見ると頷いてその場に留まった。
おそらくフォロンはとっくに自分達のことに気付いているはずだ。紫水晶を持っていないことも。
リアは高速で頭を働かせながら、じりじりと歩を進めた。
やがて2人の目の前に、月光を映し出す美しい湖が現れた。今までの気味悪さも手伝って、まるで異世界へ続く扉のような神秘的な湖だった。
だがそのほとりには、何の姿もない。
(違う…)
リアはじっと目を閉じ息を殺した。
フォロンとアンはここにいる。結界を張って、姿を見えなくしているだけだ。
その時、沈黙を破るように少女の声が聞こえた。
「…来ないよ」
ルーセルが動き出そうとするが、リアは手の力を緩めずに彼を引き止める。
相手はこちらを誘っているのだ。それにのうのうと乗ってやるほどリアは馬鹿ではない。
「…何故?」
どこか優しさをにじませる声に、リアは緊張がゆるんでしまった。誰かの声に似ている、と思う。
想像していたような残忍な魔族とは、どこか違う気がした。
「だって、あたしが必要な人なんて、どこにもいないし…」
「何だよそれ!」
リアはぎょっとしたがもう遅い。
捕まえる腕の力が弱まった隙に、ルーセルは茂みから飛び出してしまっていた。
そのままずかずかと池のほとりに歩いて行ってしまう。
「あーもう!」
リアも仕方なしに彼の後を追う。
「アン!どこにいるんだよ、さっさと出てこいよ!」
「ルーセル!ちょっと、落ち着いて…!」
これでは2人は格好の標的だ。
「必要ないとか、何馬鹿なこと言ってんだよ!早く帰ろう!皆心配してるんだ!!」
「ルーセル…」
少女の声。
「!」
はっとしてリアは右前方…アンの声がした方に向かって衝撃派を放った。
ばちばちと音がして、結界が崩れる。
「アン…!」
そこには、メイド服を着たアンが座っていた。彼女が座っているのはまるで貴族の庭から借りてきたような白いいすで、揃いのテーブルの向かい側にもまた美形の人物が座っていた。
「フォロン?」
「おおっといきなり名前を呼びますかね」
フォロンは人間だった…。いや違う、すごく美形の男の姿をしていた。
金色の髪、青い瞳、優しげな笑みを浮かべる口元。リアでさえも、思わず見惚れてしまったほどた。
そう、例えば優しく微笑まれたら、何でも差し出してしまうような……。
「来ないで!」
悲鳴に似たアンの声に、リアは意識を引き戻された。
アンはルーセルを見ていた。
「…どうして。助けに来たんだ。帰ろう」
アンに向かって手を伸ばしたまま、困惑した顔でルーセルは尋ねた。
「助けに来てなんて誰が言ったの」
リアはフォロンを凝視した。彼は意味深な笑みを浮かべて、アンとルーセルを眺めている。戦闘態勢ではない。
何なの?一体……
リアには意味がわからなかった。
「私は帰らない」
「……は?」
自分の耳はおかしくなってしまったのではないかと、本気でルーセルは疑った。
アンはしっかりと顔を上げ、ルーセルに向かって言い切った。
「私は、自分からここに来たの」