第3話
2人はシーツを抱えたまま、月光から逃げるように影の合間を縫って庭を横切る。
先を行くのはルーセルだ。
王宮から抜け出す事自体には慣れているらしく、その腰を屈めて走る影は休まない。
「ここだよ」
ささやいてルーセルが止まったのは、王宮の隅、緑の生垣と分厚い壁の間。そこの壁からは、レンガがひとつ抜けていた。
覗いてみれば、その向こうは堀ではなく、ちゃんと地面が続いている。
だが、とても人間が通れる大きさではない。
「王子…」
ルーセルはその場にしゃがむと、慣れた手つきで周りのレンガを外し始めた。
「ほら、この辺り。粘土が弱くなってて、簡単に外せるんだ」
あっと言う間にいつくかレンガを抜き取ると、するすると穴から外に出てしまった。
後に残されたリアは、呆然とその穴を見下ろす。
…そうだ…子供が使う抜け道だった……。
血の気が失せていくのを感じる。
王子はまだ12、3才。発育途中で、肩幅だってない。
「どうしたの」
穴から顔を覗かせて、ルーセルが見上げてきた。リアの顔を見て、自分が失念していた事に気付く。
「大丈夫。他にもいくつか取れるんだ」
不安を飲み込んで、辺りのレンガを探る。座り込んだリアは、穴を見て、それからそびえ立つ壁を見上げた。
あまり多くのレンガを抜いてしまうと、崩れるかもしれない。
「だ、大丈夫です王子っ。それ以上抜かないで下さい!」
心配そうに見上げるルーセルを安心させるように微笑んで、穴から頭を通す。
そうさ、若い女性として、これくらい通れなければ恥ずかしいではないか!
「ああ、肩は片方ずつ抜くといいんだ」
ルーセルのどこか不安そうなアドバイスが振ってくる。
うつぶせになって、少しずつ前に進んで行く。服が汚れるのなんか、この際気にしちゃいられない。
ルーセルは一歩下がって、心配そうにリアを見守っている。
子供の前で若い女が、しかも研究所の魔法使いがこんな事をするのは恥ずかしかったが、そんなプライドよりもリアの頭を占めているのはたったひとつの事実だった。
…………通れない………!!
「大丈夫?」
ルーセルの声に力無い笑みを浮かべて、ぐいっと体を進ませる。
ガリっと肩にレンガが食い込んだ。
「いっ!」
思わず声を上げたリアに駆け寄って、ルーセルは先に出ていた彼女の腕を引っ張る。
「どうしましょう…。王子…。……ハマりました……」
ああもうやだ泣きそう。
「えっ!?」
何だってこんな事になったんだあたし、なんて情けない……。
「で、でも。魔法使えば抜けられるんだろう?」
「出来ると思いますけど。…でもここって魔法使うと、すぐにバレる仕組みになってますよ。だから…アンを助けに行けなくなってしまいます」
言ってるうちに、なんだか涙が出てきた。
魔法使いが王子に泣き言を言うなんて、なんて情けない。
地面についた頬が痛かった。
ふと、レンガが食い込んだ肩に手の感触を感じて、リアは顔を上げた。
「このレンガが、取れればいいんだろ」
リアの肩とレンガの隙間に手を入れて、ルーセルはそれを引っ張る。
リアが驚いた顔をしていると、彼は怒った顔をした。
「ちゃんと出られるよ。だから、そんな泣きそうな顔するな。魔法使いがいなきゃ、困るんだから。それに…リアだってこんな間抜けな所で諦めるのやだろ!?……っと、ダメだ。こっち側、全然動かない」
反対側のレンガに手をかける。
リアは笑った。口元に笑みが沸いてくる。
そうだ。自分はアンを助けなきゃ。今のは少し、旅の疲れが出て弱気になっただけだ。
「あ、こっちは動く」
そう言ってルーセルがレンガを引っ張ると、リアの周りのレンガが振動するのが感じられた。
「それ…戻したほうがいいんじゃ…。……崩れるかも…」
血の気が引いてそう言うと、ルーセルがちらりと上を仰ぎ見た。しかしすぐに視線を戻す。
「大丈夫だよ」
「え、ええっ」
けれども周りのレンガが、大丈夫じゃない事を告げている。
「だっていつまでもここにいる訳にはいかないだろ!」
ルーセルがレンガを持つ手にぐっと力を込める。
「王子!危ないんですっ。本当に止めて下さい!死んじゃ…」
「大丈夫だってば!」
ドス
レンガが土に落ちる音を聞いて、リアはそっと目を開けた。
目の前には、尻餅をついているルーセルがいる。
「…ほ、ほら。大丈夫だって言ったじゃん」
けれどもルーセルの顔も青白くて、リアはようやく現実を理解した。
「王子っ!手、大丈夫ですかっ!?」
すんなりと穴から体を出して、慌ててルーセルの手をつかんだ。所々擦り切れて、血がにじんでいる。
「平気だよ。それよりも早くこれ直さないと」
「そうですね……王子」
「ん」
視線を上げずにルーセルは言う。
「ありがとうございます」
「うん」
ルーセルの隣に腰を下ろして、全部のレンガをこちら側に出してから今度はそれをひとつずつ元に戻していく。
「いつもこんなことしてるんですか?」
こんな場所に座り込んで、レンガを直す子供の姿を思うと笑ってしまう。
「うん」
「それにしても。こんな抜け道があったら、泥棒に入られても文句言えませんよ」
「うん。…アンとふたりで探したんだ。小さい頃はよく、アンとふたりで遊びに行った」
今だって、リアから見ればルーセルはまだまだ子供だった。が、手を休めないルーセルの表情はよく見えない。
王子様っていうのは、きっと自分の子供の頃みたいに遊んでるだけじゃだめなんだろうという事しか、リアにはわからない。
最後の1個を静かにはめて、ようやく2人は立ち上がった。
思ったよりも、ここまで来るのに時間がかかってしまった。月は空の真ん中に昇り、青白く輝いている。
2人がいるのは城の裏、町の西外れに位置する場所だと、ルーセルが教えてくれた。1歩踏み出すと、町の正門へと続く交易路だ。
「西の森は、あっちだ」
ルーセルが先に立って歩き出す。後ろについて歩きながら、リアは静かに魔法を紡ぐ。ルーセルは歩調を落として彼女の隣に並び、目を輝かせながら様子を見ている。
リアは杖を2人の周りに大きく弧を描くように振った。不思議に暖かい風が、2人を包み込む。
「…なんの魔法?」
ルーセルは自分の手のひらや体を見回してみるが、特に変わったところはないようだ。
「私たちの姿を見られないようにしたんですよ」
杖をしまいながらリアは言う。だが、本当は少し違った。これは結界だ。姿を見えなくさせることも出来るけれど、小さな衝撃くらいなら受け止められる。
魔法の波動がわかる者に対しては効果はないが、これだけ離れてしまえばアレンだって気付かないだろう。
「へぇ…」
ルーセルもそれをわかったのだろうか。幼い顔に、ぴりっとした緊張が走った。
「あ、あの森が、西の森」
ルーセルがそう言ったのは、リアが想像していたよりも意外に早かった。
振り返ればまだ、視界の隅に町が見える。
少しずつ近づくにつれ、リアにもこの森の不気味さがわかってきた。
木々がうっそうと茂っていて中の様子はわからず、差し込む月光も暗闇の中にぼうっと木の影を浮かび上がらせるだけ。時折、気味の悪い笑い声がし、続いて木の葉がばさばさと揺れる。
森の入り口につくと、2人はしばし呆然としていた。
隣に立つルーセルが、ごくりとつばを飲む音がする。
リアは気を取り直して、杖を取り出すと呪文を唱えた。ここには他の悪意を持った生き物がいるかもしれないので、結界の強度を強くしたのだ。
「王子、行きましょう」
杖を握り締めたまま、王子の背中を押す。
「ああ」
1度大きく深呼吸すると、ルーセルは森の中へと足を踏み出した。
途端。
パリィィィィィン
ガラスの割れるような音が、体中に響き渡った。頭が割れるように痛む。
「うそ…」
結界が破られた。
リアが自覚するや否や、今度は前方から冷たい風が吹きぬけた。
闇の底から渦巻くように、魔力を乗せた重い風。
――…ここにいる。来てみろ…――
立ち止まったリアにルーセルは眉を寄せる。その顔色がひどく青ざめて見えたのだ。
「リア?」
「…なんでも、ありません」
リアは恐怖を笑顔の下に隠して、精一杯なんでもない風を装った。彼だってきっと怖くて仕方ないに違いないんだから。無理に怖がらせる必要はない。
「敵陣突入です。気を引き締めて行きましょう!」




