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ツンつよ令嬢、幼馴染に捕獲される

作者: 綾瀬ありる

「お嬢様、エルヴェ・グランジュ卿がお見えです」

「エルヴェが?」


 侍女の口から出た年上の幼馴染の名に、レティシアは小さく首をかしげた。今日、彼がオービニエ家を——しかもレティシアの元を訪れる、という約束は特にしていなかったはずだ。

 家族ぐるみの付き合いだというのに、毎度律儀に連絡をよこすエルヴェにしては珍しいことである。

 不思議に思ったが、とにかく来ているというのならあまり待たせるわけにもいかない。読みかけの本をさっと閉じて机の上に置くと、レティシアは立ち上がりながら指示を出した。


「わかった、今行くわ。エルヴェは……そうね、庭のテラス席にでも案内しておいて。お茶はいつもの……そう、青い缶の。新しいのがあったわよね? それと……」


 ちらりと時計を確認すると、もう午後二時を過ぎている。レティシアは少し考えると、続けて軽食を用意するよう侍女に命じた。


「まったくあの男、良い時間を選んできたものね」


 ふん、と鼻を鳴らしてそう付け加えると、侍女が肩を震わせる。その様子に、レティシアは鼻の頭にしわを寄せた。


「何笑っているの!」

「も、申し訳ございません……!」


 口調こそ慇懃なものの、侍女の口元の笑みは完全には消えていない。だが、レティシアが口調を荒げるよりも前に、侍女は慣れた様子で「では」と一礼するとそそくさとその場を後にした。


「もう……」


 毎度のことなので慣れてしまったレティシアは、そんな侍女を咎めることなく後ろ姿を見送った。そして足音が完全に消えたタイミングを見計らい、小さく咳払いをしたレティシアは、すすっと壁際の鏡の前に移動する。

 のぞき込めば、中からは赤い髪に湖水のような青い瞳をした、少し勝ち気そうな少女がこちらを見ていた。もう、これまでに何度も見たなじみ深い——自分の顔だ。

 つり目がちの瞳、少し低めの鼻——形の良い唇だけは気に入っているが、それ以外はもう少しどうにかならなかったのかと嘆きたくなる、そんな顔だ。

 ——特に、この目……。

 鏡に映る自分に手を伸ばし、その目元にそっと触れる。薄い水色をしたこの瞳は、父と同じ色だ。冷徹な宰相と呼ばれる、父と。

 ——本当、お父様とそっくり……目つきまで。

 このつり目のせいで、レティシアはよく「怒っている」だの「機嫌が悪い」などと誤解され、周囲に人が寄ってこない。十八歳の侯爵令嬢という立場でありながら、求婚者の一人もいないのは、おそらくこれが原因だろう、と自分では思っている。

 ——どうせなら、お母様に似たかったわ……。

 社交界の花と呼ばれた母は、優しげな容姿の美しい女性だ。年齢を重ねた今も、その容色は衰えを見せていない。一部では、未だにファンクラブが存在しているとかいないとか。

 その母に似た兄がうらやましい。

 だが、今更嘆いたところでどうにもなるものか。

 はあ、ともう一度ため息をつくと、レティシアは軽く赤い髪を手ぐしでとかし、もう一度鏡をのぞき込んでから部屋を後にした。




 花の盛りだけあって、庭には花々の馥郁とした香りが満ちていた。季節は初夏——オービニエ侯爵家自慢の庭園が、最も見頃を迎える季節だ。

 レティシアが出て行くと、エルヴェはちょうどカップを傾けながら庭を眺めているところだった。その秀麗な横顔に、一瞬目を奪われる。

 少し青みのある黒髪を撫でつけ、琥珀のような色合いの瞳を細めたその姿は、まるで一枚の絵画のよう。歴史あるグランジュ公爵家の嫡男にして騎士である彼は、細身ながらも鍛えられた均整の取れた体つきをしていて、まるで彫刻が歩いているようだと言われている。

 天はいくつ彼に恩恵を与えれば気が済むのだろう。現在二十三歳の彼は、騎士団でも頭角を現していると聞いている。

 社交界では、その凜々しさと将来性の高さからかなりの人気を博しているのだということを、レティシアでさえ知っていた。

 まったく、ご立派に育ったものだ。小さな頃は、泣いてばかりいたくせに。

 そう思いながら一歩踏み出すと、その気配に気付いたのかエルヴェがこちらを向いた。


「いらっしゃい、エルヴェ。約束もなしに押しかけてくるなんて珍しいわね」

「こんにちは、レティ。相変わらず元気そうで何より」


 ——ああ、またやってしまった……。

 どうしても、彼のことになると嫌みな態度をやめられない。せめて表情だけでも、と思うものの、引きつったような笑顔しか作れない。これのせいで、人を小馬鹿にしていると言われてしまうのに。

 だが、そんなレティシアに向かって、エルヴェはにこりと微笑んだ。完璧な優しい笑顔を向けられて、顔が一気に熱くなる。それを隠そうとして、レティシアはつんとそっぽを向いた。

 すると、彼が小さく吹き出すのが聞こえて、むっときたレティシアはつっけんどんな態度になってしまう。

 これも、毎度のパターンだ。


「……失礼な男ね、相変わらず」

「まあ、いいから座りなよ」


 この場合、失礼なのはレティシアの方である。だが、エルヴェはそんなことは気にした様子も見せず、席を立つとレティシアのために椅子を引いた。その優雅な仕草に、またしても腹の底にもやもやしたものが生まれてくる。

 最近、いつもこうだ。レティシアは心の中で小さくため息をついた。

 エルヴェがこういう、女性慣れした態度を見せるのが気に入らない。たかだか五年早く社交界に出入りするようになっただけのくせに、気取っちゃって。

 それが様になっているから、なんだかどきどきするだなんて——そんなことは、絶対にないのだ。

 小さく首を振ると、レティシアはつんと顎を逸らせて口を開いた。


「それで、今日は何のご用なの」

「冷たいことを言うなぁ……僕ときみの仲だろう?」

「……妙な言い方をしないでちょうだい。そういう態度だから……誤解されるのに」


 そうだ。レティシアに求婚者の一人もいないのは、彼のこうした態度も原因だと思う。

 最近の彼は、まるでレティシアに気のあるような態度をとるのだ。しょっちゅうオービニエ家を訪れたり(ただ、兄や父に会うだけで帰る日も多いのだが)、夜会では父に頼まれたのかエスコート役を買って出てくる。そうして、レティシアの傍から離れようとしないのだ。

 目標があるから、それを達成するまでは結婚しないと言い張っているらしいので、それでも寄ってくるという女除けなのだろう。

 ——まったく、人をなんだと思っているのかしら。

 ちらりと横目で睨むと、彼は眉を下げ、困ったように笑った。そうしてすっとレティシアの手に自分のものを重ねると、こう囁く。


「誤解じゃないよ、いつも言っているだろう、マイ・リトル・レティ」

「はいはい」

「つれないなあ……」


 昔は、こうした一言に内心ドギマギしていたものだけれど——今ではだいぶ慣れてしまった自分が悲しい。おざなりな返答をすると、彼はすり、と指の腹で手の甲を撫でてきた。途端にぞくっとした感覚が背筋を這う。決して不快ではないものの——なんだか落ち着かない、そんな感覚だ。思わず振り払おうとするが、いつもならすぐに離れていくはずの手が、今日はかえってしっかりとレティシアの手を握り込む。

 その力強さに、内心たじろいでしまう。それに気付かれたくなくて、レティシアはつばを飲み込むと震える唇を開いた。


「ちょ……ちょっと……!?」

「なあ、何か気付かないか?」


 そんなレティシアの様子に気付いているのかいないのか、ずいっと顔を寄せてきたエルヴェが囁くように言う。その呼気に感じるミントの風味は、彼の好みに合わせて出したミントティーのものだろう。そんな香りに気がつくほど接近していると気付いて、レティシアの心臓が一気に跳ねた。どくんどくん、と大きな音が耳の奥からして、めまいがしそうになる。


「わ、わから……ない……わ……」

「ほら、これ……見て、レティ」


 息も絶え絶えなレティシアに小さく笑う声だけ残して、エルヴェはぱっと身体を離した。それから、何かを誇示するように両肩に手を添え、胸を張ってみせる。

 急な解放に一息つくと、レティシアは彼の声に誘われるようにしてその姿をまじまじと見つめた。

 そういえば、騎士服姿でオービニエ邸にやってくるのは珍しい。白い騎士服は真新しく、その胸に輝く金の聖徽章は……。


「え、エルヴェ……あなた」

「そう、聖騎士候補になったんだ」


 聖騎士、というのは一年に一度選抜試験がおこなわれる、この国における騎士の最高位だ。文武どちらにも秀でた騎士に贈られる名誉ある称号で、騎士ならば誰もが最終的にはそこを目指すという。

 しかし、この若さで候補になるというのは大変に珍しい。

 ——努力しているものね……。

 彼のことは気に入らない部分も多々あれど、努力していることだけは疑いようもない。幼い頃泣き虫だった男の子が立派になって……と、レティシアも胸がいっぱいになった。きっと彼の目標というのはこの聖騎士になることなのだろう。


「お、おめ……」

「だからレティシア、聖騎士に選ばれたら、結婚してくれ」

「は……?」

「聖騎士に選ばれたら、僕と結婚してくれ」


 一瞬、言われたことの意味がわからず、レティシアは目を瞬かせた。だが、同じ言葉をもう一度繰り返されて、やっと彼が何を言っているのかを理解する。

 ——正気なの……?

 祝いの言葉を遮られ、思いも寄らない言葉聞かされたレティシアは彼の正気を疑って、半眼になってしまう。

 だが、エルヴェの顔は真剣そのもので、嘘や冗談を言っている雰囲気ではない。その空気に圧され、レティシアはごくりとつばを飲み込んだ。


「レティ」

「へっ……?」


 戸惑っている間に、エルヴェがそっと肩に手を添える。夏物の薄い布地越しに彼の熱い手の感触が伝わってきて、一気に体温が上がる心地がした。影が差して思わず視線を上げると、彼の顔が近づいてくる。


「な、っちょ、ちょっと……!!」


 唇がくっつきそうになる寸前で、レティシアは慌てて二人の間に手のひらをねじ込んだ。手のひらに感じるふよっとした生暖かい感触が、彼の唇だと思うと脳が破裂しそうなほどの羞恥が襲いかかってくる。

 気のせいではなく、口付けられそうになったのだ——そう思うと、次に襲いかかってきたのは困惑だった。いや、困惑などという生やさしいものではない。大混乱だ。


「あ、あ、あなた、い、いったい……!」

「ね、レティ……ずっと僕は態度で示してきただろう? 冗談なんかじゃなく、僕は本気で——」

「ば、ばか……っ!」


 いつの間にか握られていた手を無理矢理振りほどくと、レティシアはどんと彼を突き飛ばした。だが、さすが聖騎士候補にまでなった騎士だけのことはある。エルヴェはよろける様子すら見せず、再びレティシアの腕を掴んだ。


「ね、レティ——」

「……るわけ、ないでしょ!」

「え?」


 突然大声を上げたレティシアに、エルヴェが目を丸くする。手の力が緩んだのを良いことに、レティシアは力一杯手を振り払うと大声で叫んだ。


「なれるわけないでしょ、って言ったのよ! 万が一……万が一なれたら考えてあげても良いわ!」

「本当に?」

「ええ、オービニエ家の娘としての誇りにかけて誓うわよ!」


 そう宣言すると同時に、エルヴェがにやりと笑うのが見えた。はっとしたがもう遅い。口から出た言葉は戻ってこない。


「じゃあ——一ヶ月後を楽しみにしていて」


 最後に手を取って、その甲に触れるか触れないかの口付けをそっと残すと、エルヴェは爽やかな笑顔を残して去って行った。




「ま、まさかよ……そんな、まさか」


 ちくちくと針を動かしながら、レティシアは今日何度目になるかわからない呟きを漏らした。目の前の机には、一通の手紙が置かれている。差出人の名は、エルヴェ・グランジュ——ついひと月ほど前、レティシアに何を血迷ったのか求婚もどきをしでかした男である。

 ——も、もどきよ……あんなの、求婚とは認めないわ……!

 ふん、と鼻息を荒くしながら、手紙の文面に再度目を通す。

 そこには、聖騎士選抜の第一関門である筆記試験を突破した旨が記されていた。それから、ずうずうしくも第二関門に挑むに当たって、レティシアのお手製のお守りが欲しいとも書かれている。


「ほ、ほんとにずうずうしいったらないわ……!」


 そう言いながらも、大人しくお守りを作っているのは、そりゃあ彼に難癖をつけられないようにするため。そう、そのためだ。

 レティシアがお守りを作って渡さなかったから、第二関門の実技試験をくぐり抜けられなかった、などと言われたら困るから。

 自分に言い訳しながら、レティシアは剣帯に巻き付けて使う飾り布にグランジュ公爵家の家紋と、それから勝利の女神であるポレルの紋章とを刺繍して仕上げていく。騎士が身に着けていられるように、ということで定着した、昔ながらの勝利のお守りだ。

 約三日ほど集中し、寝食もそこそこにして作ったお陰で、自分でも納得の出来映えだ。これならきっと、彼も文句はないはず。

 侍女に頼んで綺麗に包んでもらうと、レティシアはそれを騎士団宿舎で寝泊まりしているエルヴェに届けるよう言い付けた。


「あら、お嬢様が届けに行かれないのですか?」

「なっ……なんで私がそこまでしてやらないとならないのよ」

「いえ……その方がグランジュ卿はお喜びになるかと……」

「だ、だから……私は別に、エルヴェを喜ばせる義理なんかないんだから……! で、でもそうね……激励しなかったから突破できなかったなんて言い訳に使われたら腹が立つわね。わかった、直接行くわ」


 そう言いながら、途中で腰を浮かせたレティシアを、生温い目で見てから、侍女は「では、馬車の用意を言い付けて参ります」と出て行く。

 その後ろ姿を見送って、レティシアはそわそわと外出の用意を始めた。


 騎士団の宿舎は、王宮のすぐ傍にある騎士団本部の中にある。オービニエ家からは、馬車で三十分ほどといったところだ。

 連絡もせずに来てしまったので、会えるかどうか怪しいところだったが、受付に尋ねるとちょうど訓練が休憩時間にさしかかるところだという。木陰で待っているようにすすめられて、レティシアは帽子を被り、日傘を差した格好で訓練場の傍まで歩いて行った。

 訓練場の中では、何人かが打ち合っているのが見える。その中に、特徴的な青みのある黒髪を見つけて、レティシアは小さく息を呑んだ。

 ——いつもと、全然違うわ……。

 琥珀色の瞳はいつもより鋭く、気迫に満ちている。その視線の先に立っているのは、エルヴェよりも一回りは体格の良い、壮年の騎士だ。

 ぐっと歯を食いしばったエルヴェが、その騎士に向かって鋭い一撃を振り下ろす。だが、簡単にいなされ、逆に反撃をされてしまった。ぎりぎりで防いだ——ように見えるものの、遠目に見てももうエルヴェはフラフラだ。


「エルヴェ……」


 思わず固唾を呑んで見つめるレティシアの視線には気付いてもいないだろう。乱雑に汗を拭い、肩で大きく息をしたエルヴェが、再び騎士に向かって攻撃を仕掛ける。

 一撃、二撃——すべていなされ、防がれ、反撃され。それを繰り返しているうちに、どうやらエルヴェの体力が限界を迎えたらしい。手から剣がすっぽ抜け、からんと音を立てて地面に落ちた。

 はあ、と荒い息を吐きながら地面にへたり込むと、エルヴェは悔しそうにそれを見て、それから天を仰ぐ。

 その姿を目に焼き付けると、レティシアは黙って踵を返した。おそらく彼は自分にこの姿を見られたくないはずだ。

 レティシアの脳裏に、幼い頃の彼の面影がふとよぎった。

 五つも年上の割に、エルヴェはなんだか頼りない、大人しい男の子だった。兄たちがそとで棒きれを振って遊んでいるのに、自分はレティシアと一緒に本を読んで過ごすような、そんなタイプ。

 一度は、兄に無理矢理に外に連れ出され、棒で叩かれて泣いてしまった、なんてこともあった。

 ——けど……。

 暗いところと高いところも大嫌い。

 それなのに——レティシアと一緒に屋根裏に閉じ込められてしまい、夜を迎えてしまった時には、暗い部屋の中で「僕がいるから大丈夫」と震えるレティシアを慰めてくれたことを思い出す。


「ずるいわよ……自分ばっかり……」


 すっかり男の人になってしまって——。ざわめく胸を押さえ、小さくため息をつくと、受付に荷物を預け、レティシアは馬車に乗り込んでそのまま騎士団本部を後にした。




 青い空は高く澄み、雲一つなく晴れ渡っていた。その空を見上げ、レティシアは小さく息を吐く。

 早いもので、本日は聖騎士選抜の第二関門である、勝ち抜きトーナメント戦の当日である。第一関門の突破者は、今年は約二十名強。勝ち抜き式であるため、一試合でも負ければおしまいだ。

 上位三名に入れば、栄誉ある聖騎士の称号が手に入るとあって、会場の中は熱気で溢れていた。

 その一角で、レティシアはエルヴェの姿を見つけるとそちらの方へと足をすすめる。緊張しているのか、彼は少し硬い表情をしていた。まだこちらには気付いていないようだ。

 少しだけ迷ったが、レティシアはぎゅっと拳を握りしめると彼に声をかけた。

 すると彼は、すぐに笑顔を見せる。


「エルヴェ」

「レティ、来てくれていたの? ……あ、これ、ありがとう。すごく上手くできていて驚いたよ」

「と、当然でしょ……」


 礼を言いながら、エルヴェの手が剣帯に巻かれた「お守り」をそっと撫でた。その手つきがあまりにも——大切なものに触れるかのようだったので、レティシアは顔が熱くなるのを感じる。そのまま、二人の間にしばし沈黙が降りた。

 口数の多いエルヴェにしてはめずらしいことだが、さすがに緊張しているのだろう。

 何かを言おうと口を開きかけたとき、遠くで笛の鳴る音が響いた。集合の合図だ。


「……じゃあ、頑張って」

「……レティ、うん、頑張るよ……! きみが応援してくれたなら、百人力だ」


 そう言うと、エルヴェは笑顔で手を振って、レティシアに背を向ける。その後ろ姿を見送って、レティシアはぎゅっと手を握りしめた。

 ここから先は、見守ることもできない。観客が入れるのは、最後の決勝戦のみだ。

 勝ち残ることを期待しているのか、そうでないのか——レティシアはもう、自分でも自分の気持ちが良く解らなくなっていた。


 と、いうのに。


「う、うそでしょお……?」

「残念ながら、本当だよ」


 結論から言うと、エルヴェは決勝戦まで見事勝ち残って見せた。その時点で二位以内になるため、聖騎士になることは確定だ。

 だというのに、なんとその決勝戦でもエルヴェは勝利を収め——つまり、優勝してしまったのである。

 応援席で固唾を呑んで見守っていたレティシアが、呆然とするほどの快勝ぶりだった。

 そして今——場所は再びのオービニエ邸。庭に設えられたあのテラス席で、レティシアはエルヴェと向かい合っていた。

 正面に座ったエルヴェは上機嫌そのもの。真新しい白い騎士服に、今度は聖騎士の徽章を付けている。それを見せびらかしに来ただけで済めば良かったのだが、そうは問屋が卸さなかった。

 机に置かれた手を、そっと上から覆うようにして握りしめたエルヴェが、顔を寄せて囁いてくる。


「これで、結婚してくれるね?」

「い、いえ……ちょっと待って、わ、私は考えるって言ったのよ」

「そう、オービニエ家の娘としての誇りにかけて、ね」


 そう言うと、エルヴェはにんまりと笑って見せた。


「ね、いい加減素直になりなよ……レティシア、僕のことが好きでしょう?」

「なっ……ば、なっ……!?」

「僕は、きみが好きだよ、レティ。ううん……そんなのじゃ足りない、愛してるんだ」

「は、えっ……え?」


 気付けば、エルヴェは既に席を立っている。テーブルを半周回ってレティシアの隣に立った彼は、机に手を突くとその身体を傾けた。

 見上げた顔に影が差し、ゆっくりと彼が近づいてくる。避けようと思えば避けれるはずだし、以前と同じように手で防ごうと思えば防げたはず。

 だが、レティシアは何かに魅入られたようにそのまま、彼の唇を受け入れた。

 一度目は、唇同士を軽く触れあわせただけ。それを何度か繰り返すうちに、だんだんと一度の時間が長くなっていく。ちゅっと吸い付かれ、唇を舐められるとぞくぞくした感覚が背筋を這った。その得体の知れなさに、思わず逃げようとするものの、机に置かれたのとは反対の手が、いつの間にかレティシアの後頭部をしっかりと掴んでいる。


「レティ、聞かせて」


 口づけの合間に、エルヴェが囁く。酸素が足りなくなってぼうっとした頭で、レティシアは小さく頷いた。


「すきよ……」


 ぽろりと口を突いて出たのは、素直な気持ちだ。

 そうだ、本当はずっと彼のことが好きだった。幼い頃、一緒に本を読んでくれて——ちょっと押しに弱くて、それでいていざという時は頼りになる、そんな男の子のことが。

 だからこそ、彼の変化が怖かった。自分一人だけのものだった背中が、どんどん逞しくなって他の人にも見つかってしまう。それが本当は嫌だった。

 まるで自分一人だけが取り残されているようで、彼のことになると全く素直になれない。そんな自分本位な自分のことも本当は嫌だった。

 だけれど——そんな自分のことを、彼は愛していると言ってくれる。


「レティ、かわいい僕のレティ……」


 そっと頬を撫でる手に拭われて、いつの間にか自分が泣いていることに気付く。唇が再び近づいて、今度はその涙を吸われた。

 くすぐったさに身をよじるが、彼の力強い腕は離してくれない。


「僕と、結婚してくれるね」

「ええ……」

「や、やった……! レティ……!」


 だめ押しのような一言に、レティシアはとうとう陥落した。

 頷くと同時に、エルヴェが歓声をあげてぎゅっと抱きしめてくる。この腕の中では、もう素直になって良いのだ。胸板にぎゅっと顔を押しつけられながら、レティシアは陶然として目を閉じた。



◇ ◇ ◇



 それから一年後。よく晴れた初夏のとある日——首都にある聖堂で、聖騎士エルヴェ・グランジュとオービニエ侯爵令嬢レティシアの結婚式がつつがなく執り行われた。

 新郎は聖騎士の証、白い騎士礼装に身を包み、肩からは金の刺繍が美しいマントをなびかせて祭壇の前に立っている。

 その視線は、聖堂の入り口に真っ直ぐに注がれ、花嫁の入場を今か今かと待ちわびていた。

 やがて、ゆっくりと扉が開き、真っ白なドレスに身を包んだレティシアが父であるオービニエ侯爵に付き添われ、静かに場内へと入ってくる。

 肩口の大きく空いたドレスは、レティシアのアラバスターのような肌を美しく引き立てていた。腕の部分は繊細なレースに覆われていて、どこか禁欲的な雰囲気を漂わせている。

 きゅっと締まったウエストから、大きく膨らんだスカート部分にも、やはり同じレースがあしらわれていて、ふんわりと柔らかな曲線を描いていた。

 表情はまだ見えない。分厚いヴェールが、彼女の美しい赤い髪から首もとまでを覆い隠しているからだ。

 ごくり、と小さく喉を鳴らし、エルヴェはじっとその姿を見つめた。

 ——やっと、この日が来た。

 一体何年待ったことか。ずっと傍で見守ってきた少女が、今こうして自分の花嫁としてこの場に立っている。

 しずしずと赤い絨毯の上を歩いてきた二人が、エルヴェの前でピタリと足を止めた。分厚いヴェールの中で、彼女がこちらを見上げた気配がする。


「レティ」


 小さな声で呼びかけると、レティシアは小さく頷いて、白くて小さな手を差し出した。恭しくそれを受け取り、祭壇の方へと向き直る。

 既にその場に立っていた司祭は、二人を等分に見やると頷いて口を開いた。


「これより、エルヴェ・グランジュならびにレティシア・オービニエの婚姻の儀を執り行います。異議のあるものは?」


 慣習通り、たっぷりと時間を取って、司祭は周囲を眺め回した。だが、当然のことながら異議の声が上がることはない。

 再び頷いた司祭は、視線をエルヴェとレティシアの二人に戻した。


「異議のあるものなし。それでは、これより二人には夫婦としての……」


 手順通り、司祭の説教が始まる。だが、エルヴェは既にそれをほとんど聞いていなかった。隣に立つレティシアのことばかりが気になってしまうからだ。

 ——良い匂いがする……早く顔が見たい……。

 そわそわちらちらと視線を走らせるエルヴェとは違い、レティシアはじっと司祭の言葉に耳を傾けているようだった。それがなんだか悔しくなって、小さく咳払いをする。

 ——あとどれくらい経てば、二人きりになれる……?

 レースの編み目から見えるレティシアの肌に早く触れたい。この一年、ずっとこの日を待ちわびていたのだ。

 もう待てない。純白の花嫁衣装を早く脱がせて、余すところなく彼女の身体全てに触れたい——。


「ん、それでは……神の御前で誓いを」


 はっと気付いたときには、もう結婚式も終盤にさしかかっていた。そこまでにエルヴェが発言するべき場面もあったはずだが、無意識にこなしていたようだ。司祭の言葉に促され、レティシアのほうへと身体を向ける。彼女もまた、同じように体勢を変え、二人は祭壇の前で向かい合った。

 いよいよだと思うと手が震える。そっとヴェールに手をかけると、レティシアが小さく息を呑むのが聞こえた。

 逸る気持ちを抑え、ゆっくりとヴェールをあげる。魅惑的な口元に、愛嬌のあるかわいらしい鼻。それから、意志の強そうなくっきりとした青い瞳が順に現れる。

 そこには、エルヴェの女神がいた。


「レティ……綺麗だ……」


 思わず、そんな言葉が口から零れた。いや、いつだってレティシアは可愛い少女で、美しい女性だったが、今の彼女は記憶にあるどんな時よりも、ずっと可憐で煌めいて見えた。

 壊れ物に触れるかのように、そっとその頬に手を添える。愛らしいバラのつぼみのような唇にそっと触れると、これまでに交わしたどの口付けよりも甘い味がした。

 唇を離すと、潤んだ瞳のレティシアがこちらを見上げている。そのあまりの愛らしさに、背筋が震えた。


「もうこのまま、家に帰ろう」

「……何を言ってるの」


 半ば本気だったのだが、その言葉を聞いたレティシアが半眼になってエルヴェを軽く睨み付ける。いつだったかのことを思い出して、エルヴェは笑うと、もう一度その頬に口付けをした。



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