第2章 出会い 1
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「……はぁ」
セレナの大きなため息が書庫内に響いたとほぼ同時に、重い扉が半ば耳障りな音を立てて閉まる。
疲労感で、肩がどっと重く感じる。
……父と話していると、ひどく疲れる。
父の機嫌を取るのは確かに簡単だ。
だが、従順なフリを貫いて、己の心を殺し続ける行為は、人間にとって他のどんなことよりも神経が削られることだと、セレナはよく知っている。
苛立ちを振り払うようにして、セレナはいつもより大股歩きで歴史書が並ぶ本棚へ歩み寄る。
オフィーリア・バラクが王室を離れた20年前の歴史。セレナが幼少の頃から聞かされてきたそれは、どれもあの民話と同じ、『哀れな氷の王女とそれを救った勇敢な兄王子』という、まるで御伽噺のような物語だ。
だが、本物の歴史が御伽噺のように美しいわけがない。
セレナの心の中で、ジェイの言葉が蘇る。
……『王室を捨てなければ』…。
ジェイは確かにそう言ったのだ。
オフィーリアが王室を『離れた』事実はこの国誰もが知っているが、『捨てた』という記録はどの本にもない。
ひょっとすると見逃しているだけなのかもしれないが、離れたと捨てたは大きな違いだ。
セレナは一冊の歴史書を手に取ると、中を開いて20年間の記述に目を通す。
そこに書かれた《氷の王女》の話は、以下の通りだ。
『当時オフィーリア・レヴィン第2王女は、伯父である《半端者》が王に即位した途端発言力を失った。
彼女の父である前王ポリュデウケス・レヴィンと母であるエイレーネー王妃が馬車の転落事故で亡くなったショックから、オフィーリア・レヴィン第2王女はひどく心を病み、《半端者の王》の即位後魔法がうまく扱えなくなっていたため、抵抗することができなくなっていたのだ。
その後、オフィーリア・レヴィン第2王女が《半端者の王》と結婚してからは夫である王に支配され、自由を奪われ、誇り高き《賢者》の未来も奪われた。精神的にさらに追い詰められたオフィーリア・レヴィン第2王女は、何度も魔力暴走や自殺未遂を繰り返し、《悪魔》と《半端者の王》が契約というの名の交易を行っていた頃には、すでに心身ともに限界であった。
そんなオフィーリア・レヴィン第2王女を救ったのが、現王クラトス・レヴィンだ。
オフィーリア・レヴィン第2王女は、自身を救った兄への感謝の印として、自らの忠誠を王へと捧げた。
王の命令のもと街中に人形を配置し、街の警備を担うこととなったのだ。
《半端者の王》の死後氷の魔法に目覚めたオフィーリア・レヴィン第2王女は、《半端者の王》と交易していた《悪魔》たちを、神の名のもとに排除した。
表情ひとつ変えずにやってのけたオフィーリアは、その残虐性と氷の魔法から、彼女は《氷の王女》と呼ばれるようになったのである。』
「……やっぱり、これも同じか……」
セレナは小さく呟き、本を棚に戻す。
今目を通したものは初めて読む歴史書だったが、多少言い回しに違いはあれど内容そのものは今まで読んできたものとほとんど同じだった。
この歴史には、クラトスら兄妹の仲を知り、様々な歴史書を読んできたからこそ見えてくる矛盾がある。
まず、『オフィーリア・レヴィンは父である前王ポリュデウケス・レヴィンの死を悲しみ心を病んだ』という記述。
その部分は他の歴史書では『オフィーリア・レヴィン第2王妃は両親と同じ馬車に乗っていて事故に遭った』という記述が加わっていたり、別の章では『オフィーリア・レヴィン第2王女と父王ポリュデウケスは不仲であった』という記述があったりと、信憑性に欠ける。
また、『オフィーリア・レヴィンは自分を救った兄クラトス・レヴィンに感謝し、自らの忠誠を捧げて街の警備を担った』という記述。
確かに、オフィーリアは大量の傀儡人形を街の警備のために巡回させている。はたから見れば王の命令に従って警備をしているようだ。
だが、オフィーリアがクラトスに忠誠を誓ったということも、そもそもクラトスがオフィーリアを救ったというのも、セレナからすればかなり疑問だ。
クラトスは、なぜか実の妹であるオフィーリアを嫌っている。
自分の娘がオフィーリアの屋敷に行くだけで、あからさまに嫌悪感を示すほどだ。
そんなクラトスが、妹のために半端者の王を討とうとするだろうか。
オフィーリアの方も、助けられれば誰しも感謝はするだろうが、不仲だった人間に対して忠誠を誓ったりするものなのか。
セレナはそんなことを考えながら、できるだけまだ読んだことのない歴史書を探し、いくつか手に取って腕に抱える。
と、その時。セレナは背後に何かの気配を感じた。と思うと、白い影が背後から伸びてきて、彼女の口を塞ぎ、拘束する。
「――っ!?」
セレナは音なく息を呑む。
首筋に当たる、硬く冷たく鋭い感覚。それが短剣の刃先だと分かった途端、セレナは思わずビクッと大きく身体を震わせる。
「……動くな」
冷たく響く、若い男の声。
自分よりも大きな、自分とは違う他人の身体と体温を背中に感じて、セレナは緊張で硬直し、腕に抱えていた本がバサバサと音を立てて床に落ちる。
細いのに力強い腕に固められて、身動きひとつ取れない。口を塞がれているので、声を上げることもできない。
嗅いだことのない、男の体臭。感じたことのない気配と、魔力の風。思わず緊張してしまったセレナだが、不思議と恐怖は感じていない。
セレナが危機感を感じていないのを察したのか、男は短剣を握る手にグッと力を込める。そして先ほどよりも低く、地底から出たような声を上げる。
「間違っても抵抗しようとは思うな。お前は俺と同じ《同族》なんだろうが、俺はお前の敵だ。それに、俺の方がお前より強い」
男の声は、まるで洞窟の中で反響しているかの如く、不気味な色を持ってセレナの耳に届いてくる。なのに、セレナはまだ、恐怖していない。
……同族。
……同族。
同じ神族だということか、魔力持ちだということか?
《同族》なのに《敵》ということは、この男はもしかすると神族ではないのかもしれない。となれば、《同族》とは同じ魔力持ちだという意味だろうか。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。どうにかして、この状況を脱しなければと考えていると、男は首筋に息がかかるほど顔を近づけ、懇願するように口を開く。
「女、俺は《禁術の書》を探している。存在くらいは知っているだろう。どこにあるか答えれば、危害は加えない」
先ほどまで冷たく、恐ろしい色を見せていた男の声が、今はまるで優しく囁きかけるような色に変わっている。
その声色はどこか幼く、顔は見えないがもしかすると男の年齢は自分とあまり変わらないのかもしれないなどと、セレナは呑気に考えた。
……まさか王城の、それも最も警備が厳しいロワ宮に、侵入者がいるだなんて、思いもしなかった。
テオスの街には、街全体を囲む高い壁がある。
街に入るには下町の東側にある東門と、西側にある西門。そして南にある一番大きな大門と呼ばれる門を通る必要がある。そこには傀儡人形が立っていて、中に入る者だけでなく外に出る者にも目を光らせている。
平民の住まう下町と貴族街をつなぐ中間門の通行は特に厳しく、国王とオフィーリアの許可を得た通行証が必要なのだ。
街を警備している傀儡人形は少年少女のような姿をしているが、国一番の魔法使いであるオフィーリアの魔力で動く軍用魔法器具だ。身体能力だけでなく魔法さえもオフィーリアと同等のもの。並の魔法使いが傀儡の目を盗むことも、制圧することも不可能に近い。
そんなオフィーリアの鉄壁の守りを抜けて、侵入してくるだなんて……。
そう思ったが、彼が魔法使いならば、確かに覚醒前の自分よりは強い。ここは大人しく彼の質問に答えるべきだろう。
セレナは、拘束されて動きにくい状況で必死に首を横に振る。
「…言わないのか、それとも知らないのか?どちらにせよ、教える気がないのならお前の首を切り落とす」
男は吐き捨てるようにそう言うと、短剣を握る手に再び力を込める。セレナは慌てて、この状況から逃れる方法を考えるために、必死で思考を巡らせる。
相手はおそらく訓練を積んだ男で、こちらは筋トレすらしたことのない素人の女。魔法はもちろん、腕力でも敵わない。
自分にあるのは、探究心と、覚醒前の魔力のみ……。
と、その時。彼女の脳裏にオフィーリアの言葉が蘇る。
何年前だったか、オフィーリアが唯一直接教えてくれた、『覚醒前でも使える護身術』。