第1章 黒い影 3
ジェイは返答を待っていたが、なかなか返事がない。
不思議に思ってジェイの顔を見上げたセレナは、彼の顔に思わずヒュッと息を呑む。
ジェイの紫色の瞳が、暗く澱んだ輝きを放っている。その顔からは、笑みが消えている。セレナの背後にいるカレンも、何やら気まずそうに視線を逸らして青い顔をしていた。
魔力持ちは、感情によって瞳の色が変わる。
これは、威嚇だ。
これ以上踏み込んで来たら、対応を検討することになる。そんな、決して穏やかではないようなことを考えているように見える。殺気にも似た圧だ。
「……ジェイ?」
「……失礼しました。そうですね。主人様が王室を捨てなければ、殿下に直接ご助言されることもあったでしょう」
「……えぇ」
苦笑混じりにそう答えるセレナ。ジェイの顔には笑みが戻っていたが、その瞳の輝きは相変わらず暗い。
「ですが、私はあくまで従者ですので、主人の意向に従うのみです。申し訳ありません」
「い、いいえ……」
ジェイは深々と頭を下げる。そんな姿に、セレナはむしろこちらの方が申し訳ないような気持ちになる。
オフィーリアが王室を離れたことについて、ジェイに謝られる道理はない。謝らないでください、というように胸の前で手を振った。
「王女殿下。僭越ながら、私が魔力操作の指南を務めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
ジェイは頭を上げると、穏やかな顔でニコッと笑いながらそう提案する。
先ほどの表情との差に困惑しながら、セレナは務めて冷静に答える。
「えぇ、ではよろしくお願いします」
「御意」
ジェイは短く答えると、セレナの正面に立ち、水晶を握るセレナの手の上から包むようにして自身の両手を添える。
「……では、集中して。ゆっくりと自分の中の魔力を引き出していきましょう」
優しく助言する彼の様子に、先ほどの面影はもうない。
ジェイの言葉に耳を傾けながら、途端、ある言葉が彼女の心に引っ掛かる。
その言葉は、セレナが1年前から調べているとある事柄に関係があるように思えたが、今それについて考えていると、目の前にいるこの男に勘付かれてしまうような気がする。セレナはできるだけそのことを考えないように努めながら、訓練に集中を傾けた。
「………」
セレナの顔を見下ろすジェイの顔からは再び笑みが消えていたのだが、セレナはそのことに気づかなかった。
*
灯りを落とし、誰もいなくなったトレゾール邸の薄暗い大広間。魔力教室は子供の集中力の短さを考慮して、毎回1時間ほどで終了する。訓練中は恐ろしく賑やかな大広間は、人気がなくなると真冬のように一気に寒々しくなる。
この屋敷に暮らしている人間は、主人であるオフィーリアと従者のジェイ、現在は王城にある《トレゾール宮》に住み、たまに帰ってくるオフィーリアの一人息子だけ。人間の使用人はひとりもおらず、熱を持たない傀儡人形が屋敷を守っているのだ。
ジェイは凍えるような寒さに耐えながら、大広間の片付けを続ける。
「ジェイ」
途端、オフィーリアの冷たい声が降ってくる。
ジェイは声の方向へ身体を向け、片膝を付く。オフィーリアは訓練のはじめと同じく、中央階段の上に立っていた。
跪くジェイの顔に、先ほどセレナに向けていた笑顔はない。
「ジェイ、さっきセレナと何を話していたの?」
大賢者としてでなく、オフィーリア・バラクとして話す彼女は、少女のような声色だが小悪魔のような不気味さもある。
「……大したお話ではございません」
「…あなたにしては珍しく、ひどく動揺していたようだけど?」
オフィーリアは妖艶な笑みを浮かべて、ジェイを問い詰める。まるで責めているかのようだ。
……賢者の従者は、自身の主人に嘘や隠し事ができない。
ジェイは観念するように頭を上げ、まっすぐに彼女を見つめる。
「……王女殿下に、《バラク》の始まりについてそれとなく問われました」
「…そう。やっぱりあの子、色々調べているみたいね。それで訓練に身が入らないなんて滑稽だけど」
まるで初めから知っていたかのような口振りでそう言ってから、クスクスと嘲笑し階段をゆっくりと降りる。ジェイは咄嗟に彼女の元へ駆け寄ると、いつもの通り彼女の手を取ってエスコートした。
そして彼女が階段を降り切ると、ジェイは手を離して再び彼女の傍らに片膝をつく。
「いかがなさいますか。殿下はあの方と違い、聡いお人です。きっかけ次第では、すぐに答えに辿り着くでしょう」
「ジェイ、あの人は鈍いわけじゃないわ。見ないふりが上手なだけよ。……聞かれたのは、《バラク》のことだけ?」
「正確には、主人様が王室にいれば魔法の指南を受けることができたのに、と」
「…そう。その程度ならまだ大丈夫そうね。あの子が《バラク》の正体に近づいたと判断したら、その時は知らせなさい」
「……よろしいのですか」
そうジェイが尋ねると、オフィーリアはクスクスと楽しげに笑う。彼女の黄金の瞳は、薄暗い部屋の中で怪しげに光り出す。
《感情》が動くと、輝きが変化する瞳。それはまるで、小さな炎が瞳の奥で燃えるようにユラユラと揺れている。
ジェイがどういう意味で「いいのか」と尋ねたのか、オフィーリアは分かっているのだ。
彼女は何も言わなかったが、その不気味に輝く瞳と小悪魔のような笑い声が、ジェイにとっては答えだ。
応じるように、ジェイは深く頭を下げる。
*
王城に戻ったセレナは、プランセス宮の自室に戻る前にいくつか本を持ってこようと、ロワ宮の書庫へと向かって歩いていた。
本来ならば、王族がひとりで移動するなどあってはならない。たとえ城内であっても、必ずひとりか3人は傍に誰かいるものだ。
だが、魔力持ちは別だ。
貴族や王族の魔力持ちには、『同じ魔力持ちの使用人以外傍についてはならない』という決まりがある。
今この城にいる魔力持ちの使用人は、高齢で引退間近のカレンだけ。セレナは歳を取って疲れやすくなっていたカレンを気遣って、「傍にいてもらう時間を決めるから、それ以外は休んでいて」と言い、決めた時間以外はひとりで過ごしているのだ。
とはいえ、傍に誰もいない状態であちこち動き回るのは危険なので、書庫から本を持ってきたら自室で次にカレンが来る時間まで大人しくしているつもりだ。
どこかもの寂しい、真冬のように冷え切った長い廊下を歩いていると、セレナは遠くから人影が見えてくるのに気づいた。
壮年の男を先頭にして、数名の騎士と使用人そして少年のような姿をした数体の傀儡人形を連れた小集団。
どこかに行軍でもするのかというほどの大所帯だが、セレナにとっては見慣れた光景だ。
先頭の男は、白く長い髪を後ろでひとつに束ねており、冷たく細い垂れ目の色は黄色。垂れ目なのに、優しい印象は一切なく見ているこちらが萎縮してしまいそうなほど鋭い眼光が、まるでこの世の全てを憎んでいるが如く空を睨んでいる。
今年で44歳になる男だが、その見た目は年齢よりも老けて見える。
年齢よりもずっと若いオフィーリアやジェイを見た後だからこそ、余計にそう思うのかもしれないが。
皺ひとつないシャツに、グレーのズボン。洒落っ気のない服装だが、服の生地そのものは上質なものだ。
男の姿に思わず緊張するセレナと、男の双眸がばっちりと合う。男は元々の顔の皺が分からなくなるほどに眉間に皺を寄せ、セレナの前に足早でズンズンと歩み寄ってくる。セレナはそれを見て立ち止まると、ドレスの裾を持って広げ、軽く頭を下げる。
外出用のドレスなので少々丈が短く、あまり広げるとみっともないが、仕方ない。
セレナは口を開く。
「父上、ただいま戻りました」
男はセレナの言葉に答えないまま、彼女の前で立ち止まり上から下まで品定めするように見つめてくる。
この男こそが、現王クラトス・V・レヴィン。セレナの父であり、民話に登場した《勇敢な王子》だ。
セレナが派手な服装や装飾品を好まないのは、この父の影響が強い。クラトスは催事の時以外はワイシャツにズボンといったシンプルな服装ばかり着ている。
「……またバラクのところに行っていたのか」
不機嫌そうな、クラトスの声。
何を考えていいるのか分からない、ガラス玉のような瞳で睨みつけられ、心底居心地が悪い。
クラトスが実の妹であるオフィーリアを《バラク》と呼ぶのはいつものことだが、ただ叔母の家に行って魔力操作を教わってきただけだというのに、そんな目で見なくてもいいじゃないか。
そう言い返したいのをグッと堪えて、セレナはただ短く「はい」とだけ答える。
クラトスが妹に同情して彼女に爵位を与えたという噂が嘘だと分かるのは、これが理由だ。
「勉強の方はどうなっている。最近はいらぬことに注力しているようだと聞いたが」
「……」
探るような父の目から逃れるように、セレナは視線だけを父から逸らす。クラトスの、他人の心を見透かさんとするその眼力が、セレナは嫌いなのだ。
……そこまで興味もないくせに。
この人が望むのは、自分の言う通りに動く人間だ。
まるでオフィーリアが魔法で操る、傀儡人形のように。
だから、この人の機嫌を取るのは簡単だ。
ただ、従順なフリをすればいい。
「…国のため、日々精進しております」
「……どうだろうな。まぁ、期待しておこう」
色のない声。
この人にとって、《期待》という言葉は彼が毎日直面している書類よりも軽い。
「陛下、そろそろ……」
クラトスの背後で側近のひとりがそう言うと、クラトスはため息混じりに頷き、セレナとすれ違うようにして立ち去っていく。セレナは父の後ろ姿を軽く頭を下げたまま見送る。
…彼は確かに、国にとっては頼りの王なのだろう。だが、家族に対してどこまでも冷たい。自分の妻にさえ、愛情を向けているようには見えない態度を取る。
私は絶対に、あんな大人にはならない。
クラトスの姿が遠くなると、セレナは頭を上げて踵を返す。
先ほどより少し寒くなったように感じられる廊下を再び歩き出し、目的地である書庫へと再び向かっていった。
*
「……」
魔法書の棚の前に、痩せた背の高い男が立っている。
男が何かを探すように、いくつかの本を開いては軽く中を確認し、「違う」と呟いて棚に戻すという行動を繰り返していた。
そのうち苛立ってきたのか、徐々に動作が乱暴になっていく。
どこだ、どこにいる……!?
男には、とある本を見つけて帰らねばならない理由があるのだ。
…今度こそ……。
その時、書庫の重い扉が鈍い音を立てながら開く。
「――っ」
男は息を呑み、棚の陰に身を隠す。
誰か、入ってきた。
息を潜めて、扉の方を覗き見る。
重く厚い扉の前に、白い人影が立っている。若い、神族の女だ。
扉を閉めると、女は書庫に響くほどの大きなため息を吐いた。ひどく疲れ切った様子だが、男はその姿を見て、確信する。
あれは、《同族》だ。
ならば、あの女に聞けば何か分かるかもしれない。
女は、男が隠れている本棚とは真逆の本棚に近づき、本を探し始める。男は足音を殺して女の背後に忍び寄る。
女は何かを考えるように低く唸りながら、本を探している。
…《同族》がこんなに近くにいるのに、この女は気づかないのか?
男は疑問に思ったが、まぁいいと心の中で呟き、懐から短剣を取り出す。
隙を見計らい、女がこちらに背を向けた瞬間、白く細い腕を伸ばしてその身体を固める。騒げないように片方の手で女の口を塞ぎ、すかさずもう一方の手で短剣の先を女の首筋に突きつける。
女の身体が驚いたように大きくビクン、と跳ね上がる。
男は怖気づきそうになる心をなんとか奮い立たせ、努めて冷酷な声を絞り出す。
「……動くな」
一章工事完了(2024.12.3)