第9章 指輪と真実 2
「念の為、兄上にはアグネスが誰かと魂の契約を結んでいるらしい、と報告したわ。でも、まさかそれで彼女を取り逃してしまうなんてね。黙っておいた方が良かったかしら?」
オフィーリアはそう言うと、くっくっと鼻を鳴らすように笑う。
ジェイはそんな彼女の様子を、悲しげな表情でじっと見つめる。オフィーリアはジェイの視線に気付くと、スッと笑みを消して見つめ返す。
「……何?」
色のない低い声でそう尋ねると、応えるようにジェイは口を開く。
「オフィーリア様。貴女様がその指輪とロケットを再びお付けになられたのは、自分に、あの方の奪回をお命じになるつもりだったからではないのですか?」
「……」
オフィーリアの左手の薬指で、今まで隠されてきた銀の指輪がキラリと光る。彼女の首から下げられたペンダントの先に蓋付きの丸い金色のケース繋がっていて、その蓋の中央には赤い魔石が埋め込まれている。
――このロケットに大切な人の写真を入れて愛用すると、絆がより深まる。
これを彼女に贈ってきた男は、そう言って笑っていた。
幼い少女だった当時の彼女は、そんな御伽話のような伝承を心から信じて、毎日身に付けて愛用した。
あの日。あのロケットを贈った張本人である半端者の王、カストル・レヴィンが死んだあの日に、オフィーリアはロケットを含め彼からもらった贈り物は全て、《宝物》の部屋に隠した。
そんな《宝物》たちの中で、ロケットや指輪を身に付けるようになったオフィーリアを見て、ジェイは恐らく彼女がカストル・レヴィンを許したと思ったのだろう。
だから、そのままアグネスを見逃すと思い込んだようだが……。
「…ジェイ、分かっていないようね。彼女らがやろうとしていることは、逆にあれを死よりも残酷な運命に落とす行為よ。それに、あれは私の星。自分のものを取り戻すのに、他人の手なんか借りないわ……私には幸い、私の代わりに動いてくれる《手足》が腐るほどあるんだもの。あれらは私の魔力で動いているから、偽ったり裏切ったりしない」
皮肉をたっぷり込めてそう言うと、オフィーリアはクスクスとおかしそうに笑う。
オフィーリアの言葉に、ジェイの顔から恐怖の色も悲しみの色も消える。そうして、心から深謝するように頭を下げる。
……全てを理解していると思っていた。
賢者になるよりもずっと前から彼女を敬い、彼女を見てきた。烏滸がましいと分かっていながらも、彼女を妹のように思ったことさえある。
――ジェイ、お前に私の《心》を預けます。
20年前。全てを失って絶望の淵にいた彼女は、再び立ち上がるために、壊れかけの自身の心を俺に預けてくださった。
だからこそ。彼女の《心》である俺こそ、彼女を誰より理解していると思っていた。
だが、どうやら全てではなかったようだ。
「先走ってしまい、申し訳ありません。如何なる罰もお受けいたします」
「ジェイ。己の心を、多少先走った行動を取ったからといって自ら罰するような真似はしないわ。けど、簡単に裏切るような心なら、切り捨てることくらいわけないのだからね」
「決して、主人様を裏切るような真似は致しません。20年前のあの日から、私は主人様ただおひとりのものでございます」
決意に満ちた強い口調で、ジェイはそう答える。
……そうだ。全ては、オフィーリア様のために……。
*
「……それ、本当?」
カレンの報告を聞いたセレナは、あまりの衝撃で思わず手に持っていたパンの欠片を床に落としてしまった。
報告をしたカレンの方は、セレナがそれほど動転するとは予想していなかったようで、目を丸くしてきょとん、とする。紅茶を淹れようとしていた手を止めると、努めて平静な態度で、また病み上がりのセレナを労るような優しい口調で答える。
「ご心配なく。城下に潜伏していた侵入者のひとりは、既に捕縛されてクリム宮の厳重な警備の下拘束されております。逃亡中のもうひとりも、傀儡人形やマギーア部隊が全力で探索しております故」
「……」
カレンの言葉から、セレナを心から案じて、不安を取り除かなければ、という優しくも強い心が視える。しかし、セレナの心を占めていたのは、カレンが口にしたような不安ではなかった。
昨日ようやく覚醒の熱が治まり、体調も万全に戻りつつあったのだが、その瞬間から、セレナは自分の中に今までなかった大きな変化が起こっていることに気がついていた。
セレナがまずはじめに気が付いた変化は、聴覚だ。いや、正確には透視魔法の使用において重要だと言われている、《心の目》。
この場にいない人間の声が聞こえてきたり、目の前の相手の考えが、意識せずとも直接脳に届くようになったのだ。しかもそれは、かなり広範囲に広がっているらしく、分かっている限りでは、王城の敷地内にいる者の《声》が聞こえてきている。
それは自分の意思では止められず、聞こうと強く意識すれば、特定の人間だけの声に集中することはできるが、一切聞こえなくすることはまだ難しいようだった。恐らく、そうなるためには、正式に魔法の訓練を受ける必要があるのだろう。
そして、次に気が付いた変化は、視覚。
ホタルのような小さな光が部屋の中を飛び回っているのを初めて見たセレナは、最初はそれの正体が分からなかった。が、よく見ようとして目を凝らしてみると、それが人間のような姿をしていることに気が付いた。
人のようであるが、その背には蝶や小鳥のような羽が生えており、人の手の中指ほどの大きさしかない。
思い当たる候補はあるが、正確にはそれが何か分からない。しかし、それらが人間ではないことは明らかだ。
そしてそれは、今も数人ほどフワフワと部屋の中を楽しげに飛んでいる。
カレンは見えていないのか、見えているのに見えないふりをしているのかは分からないが、それが飛んでいる方向へ視線を向けるような様子はない。
人ではないものが見え、人の心の声が聞こえる。
これは間違いなく、自分の魔力が無事に覚醒している証拠だ。まさか魔法訓練を受ける前から、ずっと望んでいた透視魔法のような能力を得ることができるとは思っていなかったが、セレナにとっては好都合だ。
セレナは軽く俯くと、未だ無数に頭に入ってくる声から、ただひとつの声だけを探して集中する。違ってくれと願いながら、その声に強く意識を向ける。
集中すればするほど、他の声が徐々に小さくなる。そうして雑音にも似た騒音が消えてなくなると、セレナの期待を裏切るように、わずかな声が頭の中に響いてきた。
――……セレナ…。
それは、今にも消え入りそうなほど弱々しい男の声だ。
「……カレン、侵入者の監視は誰がしているの?」
「はい、マギーアの副隊長様がなさっておられるようです。なんでも、侵入者はかなりの実力を持った魔力持ちだったそうで。ですが、副隊長直々の監視であれば、心配はないかと」
「クラニオ従兄様が?」
セレナがそう聞き返すと、カレンは静かに首肯する。
確かに、クラニオはこのテオスの街では5本の指に数えられるほどの実力者だ。そんな彼の警備に不安を覚える者はいないだろう。その点に関しては、セレナもカレンと同意見だった。
同時に、セレナの中ではカレンのものとは別の安堵と、少しの期待が入り混じっていた。
…クラニオ従兄様なら、もしかすると。
セレナはまだわずかに重い身体を動かして、ベッドから降りる。その姿に、カレンはギョッとしたように目を見開くと、慌ててセレナの身体を支えた。
「セレナ様!?いかがなさいましたか?何か必要なものがあればわたくしが……」
「……会わせて」
「え?」
「……侵入者がどんな人か、顔が見たいの。従兄様がいるんだもの。大丈夫、でしょ?お願い」
セレナの要望に、カレンが不思議そうに首を傾げる。当然だろう。もしかすると自分を狙ってやってきたかもしれない侵入者に会いたいだなんて、普通はありえない。
だが、セレナは「もしかしたらその人は、自分の知人かもしれない」のだとは言えなかった。それを話すことで、侵入者の存在を黙認していたことを追及されたくないから、という理由ではない。ただなんとなく、今はまだ言わない方が良いと、思ったのだ。
正確には、「今は言うべきではない」という予感がするのだ。魔力の声が訴えかけてきているような、抵抗し難い警告。
カレンは少し考えるような顔をしてから、強い口調で言い放つ。
「なりません。いくら副隊長様がご一緒とはいえ、セレナ様が自らお会いになるのは危険です。それは、まだお身体の調子も万全ではないのでしょう?」
「そう、だけど……」
初めてカレンに叱られるような口調で強く言われ。セレナは俯く。カレンの表情は厳しく、怒っているようだったが、セレナの心から心配して言っているのだろうという思いが伝わってくる。
……これ以上は、彼女を困らせるだけだ。
セレナは諦めたようにベッドへ戻る。カレンはその姿に安堵するようにホッと息を漏らすと、淹れかけていた紅茶のポットを少し開けて見る。
「紅茶が冷めてしまいましたね、淹れなおして参りましょう」
「ありがとう」
紅茶のポットをカートに置くと、カレンはカートを押しながら部屋を出ていく。その背中を最後まで見送ると、セレナは小さくため息を吐いた。
……クリム宮の牢に閉じ込められている侵入者とは、間違いなくニコラオスのことだろう。彼が母親と潜伏していたことが、王に知られてしまったようだ。
セレナの心に、大きな心配と不安が降りてくる。
だが、セレナが心から案じていたのは、ニコラオスと自分が秘密裏に会っていることが王に知られたかもしれないことではない。もちろんそれも心配ではあるが、問題はその後。レヴィン王国の王女と密会していたディアヴォロスの人間が、どのような処罰を受けるのか、ということだ。
クラトス王は、ディアヴォロスの人間の言葉など、絶対に信用しない。たとえニコラオスがセレナに危害など加えておらず、むしろ彼女の願いに応じて覚醒を手助けしてくれたのだということが分かったとしても、何らかの罪を彼にかけ処罰を下すことになるだろう。
このテオスでは、たとえ何もしていなくても、ディアヴォロスの人間がこの街に足を踏み入れた時点で重罪なのだから。
「……どうにかして、こっそりニコラオスの所に近付けないかな…」
独り言のようにボソッと呟いてから、否定するように首を横に振る。
私はまだ覚醒したばかりで、ちゃんとした魔法はまだ使えない。カレンがいつにも増して心配性なこの状態で、誰にも知られずにこの部屋を出るのは難しいだろう。
夜になるのを待ってから、こっそり外へ出ようか。そう考えたが、それほどまでに時間があるとは思えない。
どうしたものかと途方に暮れていたその時、耳元で何かの音が響いた。
いや、声だ。
それは、小川の水がせせらぐような静かな声だったが、はっきりと意味を持ってこの耳に流れ込んできた。
――たすけて、あげようか?
「えっ……?」
驚きのあまり思わず声を漏らし、声のした方へ視線を向ける。すると、セレナの周りを取り囲むようにして、青白い、蛍火のような光がいくつも現れる。声をかけられるまで、それらがこれほど大量にいると気付けなかったことが不思議なほどだ。
その光は、よく見ると人の形をしていて、容姿は長髪の少女であったり、短髪の少年であったりと様々だ。だが皆一様に、興味津々といった眼差しをこちらに向けてきている。
それは、セレナが覚醒してからよく見かけるようになった者たちだったが、これほど大勢集まってくるのを見るのも、それらがこちらに声をかけてくるのも、今日が初めてだった。
――たすけてあげようか?
再び同じ声が耳元に響く。すると、まるで一雫の水が水面に落ちるとそこから水紋が広がっていくように、他の者たちも続けて同じ言葉を繰り返し尋ねてくる。
セレナは、直接話しかけられたことで、彼らの正体に見当がついた。
「……あなたたちは、精霊ね?」
――そう。私たちは水の精霊。
セレナの言葉に応えるように、ひとりの精霊がそう言ってクスクスと笑う。それに共鳴するようにして、他の者たちもクスクスと笑い、部屋全体が精霊たちの笑い声に包まれた。
この世には、魔獣の他にも人ではない存在がいると、セレナは幼少の頃クラニオから聞いたことがある。精霊や妖精は、その代表だ。
その際に、妖精と精霊の違いについても聞いた。
妖精は、魔力持ちならば誰もが見ることができるが、彼らは自らの意思で人の前に現れることはなく、それらが気に入っている場所を住処にしている。だが、召喚魔法によって呼び出すと応じてくれる、どちらかといえば人間に対して友好的な存在だ。
対して精霊はそこにでも現れるが、魔力持ちの中でもその姿を見ることができる者とできない者がいる上に、たとえ召喚魔法で呼び出しても応えてくれるかどうかは彼らの気まぐれ次第。人に対して有害ではないが、必ずしも友好的とは限らない。自由かつ残酷すぎるほどに純粋な者たちのことだ。
同じ魔力持ちにも関わらず、カレンはこれらの存在に全く気づいていない様子だった。もしかすると本当に気付かないふりをしているだけかもしれないが、呼びかけもなしにこちらに話しかけてきたその様子から、彼らが妖精ではなく精霊だと断定したのだ。
セレナは緊張するように顔をこわばらせたが、落ち着きを取り戻すように大きく息を吐く。
……少しでも彼らを恐れたり、心にスキを作れば、身も心も持っていかれてしまう。
セレナは毅然とした態度で精霊たちに尋ねた。
「助けるって、どういうこと?あなたたちは人間のことにあまり関わらないって、聞いていたんだけど」
クラニオから聞いていた話では、精霊は自ら人間たちの事柄に干渉することがほとんどない。だが、万が一彼らが気まぐれにこちらと関わってくるようなことがあれば、その際には彼らが欲するものと、こちら側の要求を明確かつ具体的にして言葉を交わさねばならない。彼らの《約束》は絶対。《約束》を違えたり、彼らの言葉の意味を少しでも履き違えれば命取りになる。
彼らからの救いの手が、必ずしもこちらにとって最良の結果になるとは限らないのだ。
尋ねられた精霊たちは、相変わらず楽しそうにクスクスと笑ってから、子どものように無邪気に答える。
――檻の中の、半魔の子に会いたいんでしょ?手伝ってあげる。
――半魔の子の前まで、運んであげる。
どこか不気味にも見える笑みを浮かべながら、彼らは悪魔の誘いのように囁きかけてくる。
半魔とは、魔族寄りの半端者のことだ。逆に神族寄りの半端者のことは半神という。
今この辺りで檻の中にいる半魔というと、ニコラオスだけなので、半魔の子とは彼のことだろう。
この水の精霊たちは、セレナをニコラオスの前まで連れて行ってくれるというのだ。恐らく、セレナとカレンの話を聞いていたのだろう。
精霊はどこにでもいるが故に、どこにいても人の言葉を聞いている。彼らが気まぐれに人に力を貸すのは、人の言葉をよく聞き、面白そうだと感じるからだ。
彼らの心は、子どものように純粋で、悪魔のように残忍。
 




