第8章 第2覚醒と指輪 1
……熱い、熱い。
まるで身体の芯から焼かれるかのようだ。この熱は、一体何?
助けて……誰か、助けて……。
*
「……だれ、か……」
息を漏らすように呟くと、セレナの眠りは覚めた。
寝ぼけ眼を何度か瞬かせると、ぼやけて合わなかった焦点が合って、視界がはっきりしてくる。
セレナの目の前に広がったのは、いつも通りの天井。閉め切られたカーテンからわずかに入り込んでくる光は薄暗い。セレナは時間を確認しようと壁がけ時計にちらっと目をやる。時計の針は、もうじき6時になろうとしている。この時期のこの時間ならば、もう少し明るくてもおかしくはないはずだ。
そう考えていると、セレナは窓の向こうから地面を強く叩くような水の音が響いていることに気づく。どうやら、雨が降っているらしい。
セレナは、雨の日が苦手だ。
ジメジメとした嫌な空気もそうだが、何よりセレナが嫌なのは、雨の日になると決まって頭痛がすることだ。
例に漏れず今日も、セレナは寝起きからズキズキとした頭の痛みに襲われた。頭を抱え、布団の中で身を丸くする。
そういえば、山で迷子になったあの日も、雨が降っていたことを今思い出す。暗闇や、周りに誰もいないということへの恐怖の方が強い印象に残っていて、他のことはほとんど忘れてしまっていたようだ。
「……起きなきゃ」
セレナはそう呟いたものの、身体を起こすことができない。心なしか、少し熱っぽい気がする。
今日の予定は、お昼前にはニコラオスとの魔法の訓練が、午後には帝王学の授業として、元王族で今は教師をしている教授が来ることになっている。こんな体調でそれらをこなせるかは、分からないが……。
だが、一般的な授業内容がほとんど終了して、今は自習のようなことばかり行なっている帝王学はともかく、ニコラオスとの訓練にはなんとしてでも向かわなければならない。彼は、自分の身を危険に晒してまで訓練に応じてくれているのだ。メサジュ以外の連絡手段がない以上、せめて直接会いに行かなければ。
腕に目一杯力を込めて、身体を無理に起こそうとする。しかし、それでも上手く身体を動かすことができない。
セレナはさらに激しさを増していく頭痛に、頭を抱えてうーうー、と低い声で唸る。
何なのだろうか、この痛みは。
いつもの頭痛とは、何かが違う。
ガンガンと脳みそを揺らすような激痛。身体の表面は熱いのに、中心はひどく寒いような気がする。ここ数日、毎日魔力の訓練をしていて、無理が祟ったのだろうか?だとしても、こんな症状は今まで一度もなかった。
魔力持ちは、覚醒前でも覚醒後でも関係なく、基本的には頑健だ。傷の治りも早く、病にもかかりにくい。セレナも生まれてから16年間、大きな病気はもちろん風邪を引いたこともほとんどなかった。
故に、この症状の意味が分からない。
少し息苦しいような気もして、セレナは恐怖に襲われる。
とその時、扉がノックされてくぐもった声で聞こえてくる。
「セレナ様、カレンです。朝食の準備が整ってございます」
それは、カレンの声だ。
まだ起床時間にもなっていないはずだ、と思っていたセレナは、慌てて壁がけ時計に目をやる。すると、先ほどまで6時頃だと思っていた時計の針が、既に8時を過ぎている。かれこれ2時間ほど、セレナはベッドにくるまっていたようだ。
「カ、レン………」
そう呼ぶセレナの声は、自分でも驚くほど掠れていて、力がない。それでもカレンの耳には聞こえたのか、そしてその声色からセレナの異変を察したのか、彼女から返ってきたのは焦燥感に満ちたような声。
「セレナ様!?どうなさいましたか!?」
「たす、けて……カレンっ……」
「失礼しますっ」
カレンはそう答えると、蹴破るような勢いで扉を開けた。部屋の中に飛び込むと、ベッドにくるまるセレナの姿を見つけてピタッ、っと動きを止める。
「こ、これは……」
驚くように目を見開き、驚愕の声を上げる。
カレンには、セレナの身に起きている異変の正体が分かっている。
今までセレナの身の内に押し込められて、固く閉ざされていた魔力が激しい波のようになってセレナの周りに流れている。その波は、まるで宿主であるセレナを責めるように流れており、それがセレナを攻撃している。
カレンは緊張するように唾を呑み込み、恐る恐るセレナに尋ねる。
「…セレナ様。身体の中心が寒いような感覚はございますか?」
「……?うん、でも、外は、熱いの……焼けるみたいな……」
「…やはり」
カレンはそう呟き、納得した。と思うと、途端に悲しいような、嬉しいような、何ともいえない複雑そうな顔をする。
そんなカレンの表情に、セレナはますます不安になり、思わずその目からは涙が滲む。
恐怖に震える声をあげて、恐る恐るカレンに尋ねた。
「か……カレン、私…病気なの?」
セレナの問いかけで、カレンは我に返ったようにハッとする。
セレナは涙に濡れた瞳でカレンを見つめ、必死に助けを求めるように手を伸ばしている。
……主を不安にさせてしまうとは……。
カレンはそう心の中で自分を叱責してからセレナの前に膝を折り、伸ばされたその手を強く握りしめる。
カレンを真っ直ぐ見つめるカレンの瞳には、決意のような強い意志と、喜びのような明るい光が輝いていた。
そうして、口を開く。
「セレナ様。このような状況で申し上げるべきではないとは存じますが、あなた様の乳母として、述べさせて頂いても宜しいですか?」
「……何?」
いつも以上に畏まった様子のカレンに、セレナは意識せず緊張した。カレンの顔は今までに見たことがないほどに真剣で、怖いほど真っ直ぐにセレナを見つめている。
その緑色の瞳が、魔力が流れるように光った。
感情が動くと光る、魔力持ちの瞳。
蝋燭の炎のように時折淡く、時折激しく光る今のカレンの瞳は、はたして、どんな感情を表しているのだろうか。
カレンはしばらくじっとセレナを見つめたまま、言いにくそうに口をもごもごと動かしてから、意を決したように、ぎこちないながらも嬉しそうに笑みを浮かべて口を開いた。
「……第二覚醒、おめでとうございます」
「――っ」
その言葉に、セレナは思わず息を呑む。
……覚醒……。
その兆候が出たと言われたのは、つい昨日のことだ。ニコラオスは、兆候が出てから覚醒するまでに、少なくとも数日はかかるだろうと言っていた。
だが、まさか翌日になって第二覚醒が起こるとは思っていなかった。
正確には、この発熱は単なる序章で、この熱を己の意思で下げることができてはじめて、覚醒したと言えるのだが、それでも発熱した時点で、その先の未来は決まっている。
覚醒か、死か。
セレナはしばらく信じられず、固まっていた。
…私が、覚醒?
夢か、嘘かと思った。
しかし、セレナがずっとそれを望んでいたことを知っているカレンが、そんな笑えない嘘をつくはずがない。また、この熱と胸の苦しみは、とても夢ではあり得なかった。
……事実、なのか?
歓喜の笑みをうっすらと浮かべるセレナを見つめると、カレンは少し間をおいてから口を開く。
「……陛下にお伝えしなければなりませんね。それと、万が一に備えてオフィーリア様……いえ、バラク公爵様もお呼びしなければ」
カレンはそう言うと立ち上がり、慌ただしく退室していく。扉の向こうで、カレンが焦燥した声で「オフィーリア様に連絡を……」「陛下にもご報告しなければ……」などと叫びながら、プランセス宮の使用人たちに指示を出して回っていた。
普段はオフィーリアのことを「バラク公爵」と呼ぶカレンが、「オフィーリア様」と名前で呼んでいるその様子から、彼女がかなり焦っているのが伝わってくる。
そしてそんなカレンの様子から、セレナはようやく現実を理解できた。
「覚醒、私が……」
喜びを噛み締めるようにそう呟く。
胸の痛み、苦しみは確かなものだが、それよりもようやく覚醒したのだという事実への喜びの方が大きく、セレナは思わず口元を緩ませる。
カレンが言ったように、覚醒はただおめでたいだけのものではなく、これからこの苦しみはさらに強くなり、溢れ出る魔力が、いずれ己の心を飲み込むかもしれないのだ。
また覚醒してからも、おめでたいだけでは終わらない。
魔法の世界は、普通の人間の世界とは常識が何もかも違う。これまでは王女だという理由から許されてきた自由が奪われることもある。
それでも、魔力と同じように溢れ出る喜びに、セレナは笑みを隠せない。
カレンは、大賢者のオフィーリア・バラクを呼びに行った。オフィーリアが直接診てくれるのならば、恐らく大丈夫だろう。そう安心して目を閉じかけたその時、セレナはとあることを思い出して、ハッと我に返る。
「……ニコラに、どうやって連絡しよう」
覚醒の発熱は、恐らく数日ほど続く。ということは、セレナはこれから数日ニコラオスの元へ行けないのだ。そのことを、どうやって彼に伝えよう。
セレナがニコラオスとあっていたことは、当人同時以外誰も知らない。テオスに侵入している立場のニコラオスとの密会を、他の人に話すわけにもいかない。
「どうしよう……」
セレナは布団の端をぎゅっ、と握りしめて考える。
まさか、こんなにすぐ覚醒するとはセレナも思っていなかったが、恐らくニコラオスも思っていないはずだ。間違いなく今日も、あの廃校でセレナが来るのを待っているだろう。
……どうにかして、ニコラオスと連絡を………。
そんなことを考えていると、セレナは自分の視界がぐらりと揺れたのを感じる。どうやら考えすぎて、熱が上がったらしい。セレナは考えることをやめ、軽く目を伏せた。
*
「……遅いな」
廃校の教室で、古びた椅子に腰掛けながらニコラオスはそう呟く。そうして、日々我ながらもかろうじて動いている壁がけの丸時計に目をやる。
……もう、約束の時間をとっくに過ぎている。
セレナはこれまで、約束の時間を1分でも遅れたことがない。また事前の連絡なしに突然約束を破るような真似をしたこともなかった。
動きの鈍い時計の針の音が、うるさいぐらいに耳に響く。
恐ろしい程の緊張感に苛まれ、ニコラオスは無意識に足を揺する。
……ひょっとして、何かあったのか?
ニコラオスの心を、死に似た恐怖が襲う。だが、途端に我に返り、否定するように首を横に振る。
「いや、来ない方が普通、か」
そう呟くと、ニコラオスは呆れるようにため息を吐く。
……いつの間にか、彼女がここに来ることを、自分に会いに来ることを当たり前のように思っていたようだ。
だが、忘れてはならない。
彼女はテオスの街の王女で、自分はディアヴォロスの魔族寄り。
あの日の出会いがなければ、本来口を聞くもできない関係なのだ。いずれ敵として対峙するかもしれない相手と馴れ合ったところで、後に待っているのは絶望しかない。
そう、分かっているのに。
ニコラオスの心の不安が、晴れることはなかった。
そう思うのは、きっと彼女が……。
「……しょうがねぇな。ちょっと様子見てやるか」
テオス内で魔法を使うと氷の王女に気づかれてしまう恐れがあるが、少しならば問題ないだろう。
そう、心の中で言い聞かせてから立ち上がると、ニコラオスは魔法器具が置かれている棚の方へ近寄り、そこからミロワールを手に取る。
ミロワール、通称『心の鏡』。
覚醒前の魔力持ちの訓練に使われるのが主だが、これにはそれ以外にも、もうひとつ別の使い道がある。
手鏡、姿見、水面や瞳の反射など、《鏡》の性質を持っている物を通して、離れた場所からでもそこに映る情景を見ることができるのだ。
偵察にもよく使われる魔法器具だが、これには使用するにあたり絶対の条件がある。
それは、そこに《鏡》となってミロワールに繋ぐことができることのできる物があると、知っていること。また他者の瞳を通して見る際には、その相手からあらかじめ許可を得ることが必要だ。
ニコラオスは、突然セレナから《目》を借りる許可を得ていないし、第一他人に自分の目を使われるなど、不快以外の何ものでもないだろう。
相手が異性ならば、尚更だ。
となれば残る方法は、セレナの部屋の《鏡》に干渉し、その姿をこちらに映すこと。
当然ながら、ニコラオスはセレナの部屋に入ったことはない。なので彼女の部屋に鏡があると、直接確認したことはない。
だが、以前ニコラオスがセレナに送ったメサジュの瞳には、ミロワールと同じような性質をもった水晶玉がはめ込まれている。それを通じて、セレナの部屋に大きな鏡がついたドレッサーがあることは確認済みだ。




