第6章 戦う理由 2
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「……ニコラオス、本当に連絡してくるのかなぁ」
独り言のようにそう呟いてから、再度ため息を漏らす。
準備が終わり次第連絡する。そう言っていたニコラオスだったが、あれから7日間、何の連絡もなかった。侵入者を捕らえた、という話も聞かないので、捕まってはいないのだろうが……。
そう思ってセレナは安堵しかけたが、すぐに心の中で自分の気持ちを否定する。
まるで、彼の安否を本気で心配するかのようなことを思ってしまったが、彼も自分で言っていた通り、彼はディアヴォロスの人間で、自分はテオスの王女。立場だけでは敵同士だ。セレナが彼を少しでも心配するとすれば、それは彼が捕まってしまったら、魔法を教えてもらうことができなくなってしまうからだ。
それ以上の理由はない。……と、思う。
そう自分に言い聞かせようとするが、セレナは心の中にモヤモヤとした何かを感じた。
本当に、彼は警戒すべき敵なのだろうか。
そもそも魔族たちがテオスの王に敵対するのは、クラトス王が魔族たちとオフィーリアの交易を一方的に断ち切ったから、とのことだったが、そもそもクラトスがそこまでディアヴォロスの者たちと敵対する理由は何なのか。
単純に、半端者の王と交流のあった魔族を追い出し、2度と同じ歴史を繰り返さないためなのかも知れない。だが、それならばただ彼らを追放すればいいだけで、殺す必要はない。それも、直接彼らやりとりをしていたオフィーリア本人に《排除》させるとは……。
そこまでするほどに、魔族は嫌悪の対象になるのか。そこまで嫌悪するほどに、魔族は恐ろしく危険な存在なのだろうか。
セレナが知っている魔族は、ニコラオスひとりだけ。それも純粋の魔族ではなく話をした時間も短い。だがそれでも、ニコラオスが悪人ではないことは分かる。悪人どころか、彼は我々と同じ普通の人間だ。
ディアヴォロスで生きながら善と悪との葛藤に苦しみ、間違っていると心の中で思いつつも、唯一の家族である母親のために力を尽くしたいと願っている。
セレナにとっては、彼は自分の実の父や母よりもよっぽど情が深い人物であるように感じた。
「……まるで、ここだけずっと冬が明けていないみたい」
冬の寒波のように冷たい王室。それはいくら暖炉に火を灯しても、服をいくつ重ねても変わらない。その寒さは物理的なものではなく、心の冷たさが招いているものだからだ。
心の奥底が寒くて痛いのに、誰もこの状況を変えることはできない。元々持つつもりもない《情》は、誰かに何かを言われたからと言って急に目覚めるものではないのだから。
と、その時。扉をノックする音が聞こえて、セレナはハッと我に返る。
「…誰?」
「俺だ。入っていいか?」
セレナの問いかけに返ってきた声は、クラニオのものだった。
セレナは、妙に緊張した。
騒動の日以来、セレナはクラニオと顔を合わせることがなかった。というより、気まずくて合わせる顔がなかったのだ。
情が極端に薄い王室だが、唯一カレンとクラニオの2人だけが、セレナにとっては家族同然だ。そんなクラニオの言葉を無視して、セレナは城下に下りた。
父から受ける罰は何も怖くないと思っていたセレナだったが、クラニオに何を言われるかはずっと気にしていた。
ちなみにカレンは、泣きながらセレナを抱きしめ、「ご無事で何よりでございます」と言うだけで、特に怒るようなことはなかった。
セレナは緊張したが、せっかく来た彼を追い出す理由はない。
「…どうぞ」
セレナがそう答えると、クラニオは扉を開けて中に入った。その顔は、怒ってもいなければ、笑ってもいない。母親とそっくりの無表情だった。
クラニオはそのままセレナの近くへ歩み寄ると、彼女が座るソファーから少し離れたひとり掛けのソファーに腰掛ける。2人はお互いに少しの間何も言わなかった。
その表情には悲しみも怒りもないが、セレナは知っている。クラニオが何も言わず無表情の時は、言葉にできないほどの怒りを感じている時だと。
……せめて、怒っているのなら目を吊り上げるなり眉間を寄せるなりしてほしい。クラニオやその母オフィーリアの無表情は、襲い来る魔獣やクラトス王の激昂よりよっぽど恐ろしい。
「…あの、従兄様」
「……俺をまだ《従兄様》と呼んでくれるなら、何故俺の話を無視した」
悲しみを含んだクラニオの声に、セレナの心が一瞬チクン、と痛みを覚える。
申し訳なさそうに俯くと、小さな声で「ごめんなさい」とだけ呟く。国王としてたった一言、「立場をわきまえよ」と言っただけのクラニオの言葉や、間接的に兄を貶すためだけに「王族の自覚がない」と言ったオフィーリアの言葉とは違う、心からセレナを心配するが故に出た叱責の言葉。
クラトスのそれよりもずっと温かく、オフィーリアのそれよりもずっと優しい。こんな人の言葉を無視してしまったのだと考えると、後悔などしないと思っていたセレナの心にようやく罪悪感が芽生えた。
俯くセレナに、クラニオは言葉を続ける。
「お前だけの問題じゃない。お前は王女なんだ。お前に何かあれば、お前を守る立場の人間も罰を受ける。それは時に、罪に見合わないほどの重い罰であることもあるんだ。俺にとってはそんな罰どうってことないが、お前は違うだろ。自分とは関係ないと思っていた人たちが自分よりも思い罰を受けているという事実を、あぁそうかと思うだけで済ませられるようなやつじゃないだろ、お前は」
「……うん、ごめんなさい」
謝罪の言葉を述べるセレナの頭を、クラニオは優しくポン、と撫でる。
確かに、クラニオの言う通りだ。
自分だけが罰を受ければいいと思っていたセレナにとって、自分を守ることを仕事にしている人たちは《無関係の他人》だ。そんな人たちを巻き込んでまで、セレナは自分の我儘を貫き通したくはない。
セレナは今、ニコラオスやオフィーリアが言った「王女としての自覚」の意味を、ようやく理解する。自分の行動1つが、周りの人間に影響を及ぼすのだ。
落ち込むセレナの顔を見下ろしながら、クラニオは呆れるようにため息を溢す。
セレナがクラニオを兄のように思っているように、クラニオもセレナのことを妹のように思っている。そんな彼女が周りの思惑で婚約者となったことに戸惑った時期もあったが、セレナが今までと変わらずクラニオを「従兄様」と呼ぶので、クラニオもこれまでと変わらず彼女と接してきたのだ。そのため、今回の一件で周りからは「婚約者のくせに王女を守らなかったとは」と陰口を叩かれたが、クラニオはそれら全てを無視した。
何故なら、セレナが彼を「従兄様」と呼ぶ限り、自分はいつまでも彼女の兄で、彼女は自分の妹でしかないからだ。
そんな彼女がクラニオの言葉を無視して危険な城下に下りた。そのことに少なからず衝撃を受けたクラニオだったが、同時に、気になっていることがあった。
クラニオは彼女の頭を撫でていた手を下ろすと、口を開いて尋ねる。
「セレナ、何を調べているんだ?」
「……え」
「今までひとりで黙って城を抜け出すようなことなんてなかったのに、今回、あんな緊急時にも関わらず抜け出した。何か、理由があったんじゃないのか?」
「……何で分かるの?」
「当然だろ。何年一緒にいると思ってる」
そう言うと、クラニオは優しく微笑む。その笑みは、セレナを優しく包み込むような温かさがあり、思わず全てを委ねたくなるような安心感がある。
セレナは、考えた。
セレナが調べている20年前のことは、クラニオにも多少は関係のあることだ。これまでは、クラニオは多忙なので頼れないと思い、ひとりで調べてきたが、こうして面と向かって尋ねてきてくれるのならば、頼ってもいいのではないか。
……もちろん、ニコラオスのことまでは話せないが。
「実は、20年前のことを調べているの」
「――っ!?」
セレナの回答に、クラニオは目を見開き、息を呑む。
…20年前?
クラニオの脳裏に、ひとりの男の顔が浮かぶ。
《真実》を知りたくて母親の部屋や執務室に忍び込んで調べていた際に、たまたまデスクの引き出しから出てきた写真に写っていた男。
その男の容姿を見た途端、クラニオの中に根拠のない確信が生まれたのだ。セレナはクラニオの様子に気づくことなく言葉を続ける。
「色々調べていたら、あちこちに矛盾点があることに気づいて、それで、叔母様のお屋敷に何か当時の書類とか記録とかが残っていないかな、って思ったの。でも素直に聞き出したところで叔母様は見せてはくれないだろうから、混乱に乗じて忍び込もう、って……」
嘘は言っていない。ニコラオスのことは隠しているが、セレナがあわよくばトレゾール邸に忍び込もうとしていたことは事実だ。
クラニオは疑わしそうな目でじっと見つめてきたが、セレナはそれをまっすぐに見つめ返した。クラニオもオフィーリアのように透視魔法を得意魔法のひとつとしているため、もし心を視られればニコラオスのこともバレてしまうだろう。第二覚醒をしていないセレナに、それを防ぐ術はない。
セレナは見破られることを覚悟した。が、クラニオが次に口にしたのは、セレナの予想とは違う言葉だった。
「……カ、半端者の王のことなら、俺も少し調べてた」
「え、そうなの?」
「あぁ、俺の父親が誰なのか知りたくてな。周りはジェイ隊長が父親だと思っているみたいだけど、俺にはそうは思えないんだよ」
クラニオの頭に、これまでのジェイの様子を思い起こしながら、事情を説明し始める。
同じ交ざり者。それだけで考えれば確かに2人は親子のようだ。2人の容姿も、似ていると言われれば似ている。だがセレナは、彼らが父と息子の関係だとは思えない。
そう思う理由の1つは、ジェイのオフィーリアに対する態度だ。
周囲の話が本当ならば、ジェイとオフィーリアは主従の関係以上に、1度か2度は一夜を共にした仲ということだ。だがセレナが見ている限りの2人の関係は、あくまで主人と従者の関係にしか見えない。
マギーア部隊の隊長としてのジェイは、皆をまとめる強いリーダーなのだが、普段のジェイは、オフィーリアに対してもクラニオに対しても忠実な従者でしかなく、クラニオはジェイが自分に対して《父》のような顔や態度を取るのを見たことがない。
たとえ表向きは主従のような姿を演じているだけで、本当にオフィーリアとジェイが男女の関係だったのだとしても、オフィーリアについて話す時のジェイは愛しい女性に向けるような様子ではなく、あくまで彼女を尊敬し、ただ純粋に敬愛しているようにしか見えないのだ。
幼少の頃、クラニオはジェイに対し、自分の父親は誰か、と尋ねたことがあった。その時ジェイは、まるで何かを懐かしむような顔をしてから、悲しげな声で答えたのだ。
――許されるのであれば、自分が貴方様の父となりましょう。
当時はこの言葉を、「本当はジェイが父親なのに、何らかの理由があってそうは名乗れないのだ」という意味だと思っていた。
だが、成長するにつれて、その言葉はジェイが本当の父親ならば決して口にすることはないものだと理解したのだ。そしてオフィーリアの部屋にあった写真を見つけた。顔を見ただけではそれが誰なのかは分からなかったが、その男の隣に立っていた《人物》で、その男が、恐らく半端者の王なのだろうと判断した。
そう判断した時、クラニオの中に1つの最悪な結論が生まれたのだ。
「写真のことを母さんに言っても、きっと否定されるかはぐらかされるだけだろう。だが、疑わざるを得ないんだ。俺の父親が……」
――……半端者の王なのではないか。
クラニオはその言葉を飲み込んだが、彼の痛みを堪えるような顔から、セレナは彼の言葉を察する。
セレナも、その可能性はずっと考えてきた。当時のオフィーリアと半端者の王の関係を考えれば、クラニオの父は彼女の従者であるジェイではなく、彼女の夫であった半端者の王だと考えるのが自然だ。
だが、誰もがその可能性に目を瞑り、クラニオの父親はジェイである可能性が高いと信じて疑わない。まるで、何者かによってそう思い込まされているかのように……。
クラニオは首を横に振り、痛みの表情を払拭する。
「…だが、屋敷内のどこを探しても、当時のことが分かるような書類や記録はなかった。あるのは基礎魔法の本や、魔獣の生態についての資料、それと、《禁術の書》の写しとか他にも貴重な魔法書ばかりだった。まぁ、母さんのことだから、記録とか書類のような機密文書は隠している、ってだけなのかもしれないけどな」
そう言ってから、クラニオは苦笑する。
セレナはつられて苦笑しかけたが、その時、クラニオが何気なく言ったその言葉にハッと我に返り、目を軽く見開く。
……《禁術の書》の写し。
それがトレゾール邸にあったと、クラニオは言ったのだ。
《写し》ということはどこかに原本があるということなのだろうが、それでもやはりセレナが思っていた通り、《禁術の書」はオフィーリアの元にあるらしい。
ニコラオスがロワ宮の書庫に侵入してまで手に入れたがっている魔法書。すぐにでもその内容について問いただしたかったセレナだったが、本来覚醒前のセレナ魔法書に触れることすらできない。それなのにセレナが禁術の書の名前を知っていたら、流石に怪しまれるだろう。
セレナは必死に冷静を保ちながら、まるで今初めてその言葉を知ったかのような態度を装って口を開く。
「……《禁術の書》、って?」
「ん?あぁ、そうか。お前は知らないか。《禁術の書》っていうのは、まぁ、文字通り禁術と定められている魔法の呪文や魔法陣なんかが記されている魔法書のことだよ」
「…そういえば、叔母様もよく言っているよね。私たち魔力持ちには、たとえできたとしてもしてはいけないことがあるって……」
セレナの言葉に、クラニオは大きく頷く。
オフィーリアが、魔力教室の冒頭で必ず子ども達に言い聞かせる言葉。
――何でもできるからこそ、してはいけないこともある。
セレナのこの言葉を、魔法に頼りすぎではいけない、という意味だと考えていた。魔力は己自身、魔法は鏡。魔法を扱いすぎると、いずれ鏡が耐えられずに砕け散ってしまう。だから魔法に頼りすぎるのはよくない、ということだと思っていたのだが、どうやら《禁術》のことを差していたらしい。