第6章 戦う理由 1
蝋燭の明かりだけが揺れる、暗い談話室。
純粋の魔族のような姿をした女と、マントを羽織りフードを深々と被った男がソファに向き合って座り、話をしている。
男は顔が隠れていてその正体は分からないが、女の方はニコラオスと行動を共にしている、彼の《母》だ。
互いに譲らない想いと瞳で見つめ合い、重々しい沈黙が流れている。その場にいるだけで圧倒されるような緊張感。その空気を断ち切ったのは、男の諦めたようなため息だった。
「……分かりました。例の魔法はこちらでなんとかしましょう。ただし、条件があります。成功しようが失敗しようが、被験者は必ずこちらに返還すること。そして、今後は何があっても、今朝のように関係のない平民たちを危険に晒すような真似はしないこと」
そう条件を述べる男の声は、怒りに震えている。
彼女が男と向き合って話をしたのは片手で数えられる程しかないが、この男がこれほどに怒りを露わにするのは珍しい。と、女は呑気なことを考えた。
犬のようにいつも《主人》の後ろにくっついて、心を無くした《主人》の代わりに感情を動かすこの男が、主人とは関係のないところで怒りの表情を見せるとは……。
だが、それも仕方がない。今回女が行ったことは、《陽動》としてというよりもこの男に対する《脅迫》に近いのだから。
彼女と男が《この件》について話し合うのは、今回で2度目だ。1度目の話し合いの際には、男が彼女の要求を拒否したため、女は彼への警告として件の騒動を引き起こしたのだ。
オフィーリアの傀儡人形が交代する時間を知っていた女は、そのタイミングで結界の一部を破壊し、ディアヴォロスで開発された魔獣を召喚する特殊な魔法器具を用いて魔獣を呼び寄せた。
とはいえ、彼女があえて弱小の飛行型魔獣ばかりを呼び寄せたのは、街の被害を最小限にするためのせめてもの配慮だ。いくら前触れのない奇襲だったとしても、オフィーリアやマギーア部隊の騎士たちの実力ならばすぐに対処でき、死傷者も最小限で済ませられるだろうと確信したからこそ、女はこのような挑発をしたつもりだった。
……そうこの男に話したところで、ただの言い訳にしか聞こえないだろう。
確かに、関係のない者たちを巻き込む必要はなかった。それについては、ニコラオスにも指摘されていたため彼女も既に懲りていた。他人に指摘されるより、息子であるニコラオスに指摘される方が堪える。
女は思わず小さなため息を漏らしたが、それを誤魔化すように妖艶な笑みを浮かべ、男の目の前に静かに右手を差し出す。男は彼女の手と彼女の顔を見比べてから、《握手》を求められているのだと気づき、同じく右手を女の目の前に差し出す。
女は口を開く。
「いいでしょう。取引は成立です」
女の言葉で、2人は互いに手を握って固い握手を交わす。
すると、握りしめられた互いの手から、2人の魔力が流れて混ざり合う。すると、女から伸びる黄色い魔力の光と、男から伸びる紫色の魔力の光が相手の手首に巻きつく。少しして魔力の光が消えると、2人の手首に鎖の跡のようなアザが刻まれた。
魔力持ち同士だけが交わすことのできる、《魂の誓い》。
口約束や書面上の約束よりも確かで、決して破ることはできない誓約。魔法によって刻まれたそれは、万が一どちらかが約束を違えた場合、誓いを破る行動をした者が命を落とす、という危険な誓い。
だが危険な分、重要な契約や取引の場では最も有効な誓約だ。
この、誓約という名の《呪い》は、誓約に従った行動をとることで解くことができるが、逆にいえばそれ以外の方法では決して解かれることはない。それはたとえ賢者や、街一番の魔力持ちである大賢者オフィーリアであろうと同様だ。
大賢者ほどの実力者でも抗うことのできない《誓約》。それだけでも魔力持ちたちはこの誓約の恐ろしさを理解する。そのため1度この誓いを交わした者は、自らの身を守るためにも誓いを守らざるを得ないのだ。
男は女から手を離し、自分の手首に刻まれた誓約の証を見下ろすと、何かを決意したかのように強く拳を握りしめる。
――全て、あのお方のため……。
男の決意は己の欲のためではなく、全ては彼の《主人》のため。
たとえその主人を裏切るような行動を取ることになったとしても、それも全て主人のためだ。《あの日》を境に心を失った主人を、救うために……。
そう思って、自分の行動は正しいと心の中で自分に言い聞かせたのだった。
一方の女の方は、取引が上手くいったことに心から満足していた。
恐らく彼女と男が目指しているものはほとんど同じだ。一度は拒否されたとしても、彼女がどれほど本気であるかを知ればきっとこの件に乗ってくると確信していたのだ。手間はかかったが、これでようやく目的を果たせる。
……ようやく、あの子を……。
*
「……はぁ」
セレナは大きなため息を漏らす。白い長ソファーに腰掛けながら、何度読み返したから分からない本をめくる。その本は歴史書でも歴史を基にした物語でもなく、実際の出来事とはなんの関係もない一般小説。10代の男女の純愛を描いたものだ。
セレナは普段恋愛小説など読まないのだが、これまでの出来事から歴史書の内容に不信感を持っていたため、現実とは全く関係のない内容の本をカレンに持ってきてもらったのだ。
例の騒動から既に7日が経過しているが、セレナはあの騒動以来、プランセス宮の自室から出ることが出来ずにいた。
その理由は、言うまでもない。先日の騒動の際に王城を抜け出して危険な城下に降りたことが、クラトス王にバレてしまい、1週間の謹慎を命じられたのだ。
クラトス王の怒りは凄まじく、それは彼女の不在に気づくことが出来なかった使用人や、彼女が結界部屋に行くまで見送ることをしなかったクラニオにも向けられた。だがセレナはそんな父を説得し、罰ならば自分ひとりだけに与えて欲しいと懇願した。そのおかげで、使用人やクラニオはお咎めなしで済んだ。
彼女に説得されたクラトスは、セレナに対してたった一言叱責するような言葉を吐き捨てると、1週間の謹慎命令を下したのだ。
その間、クラトス王のすぐ隣で玉座に座っていたサラ・レヴィン王妃は、実の娘が責められているにも関わらず何も話すことはなく。あろうことかセレナと1度も目を合わせることもなかった。
分かっていたことだが、サラ妃は自分の娘に対して怒りも悲しみも感じていないらしい。《氷の王女》と呼ばれるオフィーリア・バラクよりも、サラ妃やクラトス王の方がよっぽど氷のようだ。
「……はぁ」
今日何度目かのため息を漏らし、セレナは開いていた本をパタン、と閉じる。彼女が手に持つその本院街にも、目の前のローテーブルには退屈凌ぎのためにカレンが持ってきてくれた数冊の一般小説が積み上げられている。だがセレナは、その全てをこの1週間の間で2回ほど読み終わってしまっていた。
それは決して、内容が面白かったために何度も読み返したわけではなく、それ以外にすることがないため、結末が分かっていても何度も読み返すしかなかったのだ。
謹慎が明けるまでセレナは、プランセス宮を出ることはもちろん、自室からも出るなと厳命されている。そのため、新たに本を持ってくることもできない。部屋の本棚にはいくつか本が並んでいるが、その全てが既に何度も読み込んでいて、その内容も空で暗唱できるほどだ。
これまで何度か謹慎命令を受けたことはあったが、それでも今まではプランセス宮から出なければある程度自由に行動できていた。自室からも出るなと言われたのは、今回が初めてだ。
室内から扉で繋がっている隣の部屋はバスルームになっており、食事もカレンが部屋まで運んできてくれるため、セレナはこの7日間本当に一歩も部屋から出ずに、退屈極まりない生活をしていたのだ。
唯一の救いは、明日の朝になればようやく謹慎が解けるということだ。
セレナは持っていた本をローテーブルの上に置くと、ふと、騒動の日のニコラオスとのやり取りを思い出す。
*
「私に、魔法を教えて!!」
「……は?」
突然の要求に、ニコラオスは素っ頓狂な声を上げる。無理もないだろう。
魔法器具を無事破壊し、魔獣たちが退散していく様子を確認すると、用はなくなったと言わんばかりにニコラオスは、その場から立ち去ろうとした。
だがそんな彼をセレナは引きとめ、先ほどの要求をしたのだ。
立場上は敵にあたる人物に「魔法を教えてほしい」など、普通だったらあり得ない話だ。
ニコラオスは目に見えて分かるほど動揺していた。
「お前、何言ってんだ?敵の俺に魔法を教わろうだなんて……馬鹿なのか?あぁ、馬鹿だったか」
「馬鹿って何よ、失礼ね」
「馬鹿じゃなきゃ、間抜けか?昨日といい今日といい、まったく危機感がないにも程がある。王女の自覚がないのか?」
ニコラオスはそう言って、心底呆れるように大きなため息を吐く。
そんな彼の様子に、セレナは怒りが湧いたが、このように彼から馬鹿にされるのは別に初めてではない。昨日も、彼から「危機感がない」と言われ、「変な女」だと鼻で笑われた。今更「馬鹿」だの「間抜け」だの、「王女の自覚がない」だのと言われたところで、わざわざ目くじらを立てることもない。
そう心の中で言い聞かせ、セレナは怒りを押し殺す。
今のセレナには、そんなことをいちいち指摘するよりも重要なことがあるのだ。
「どう言われたっていいわ。私は何としてでも覚醒しないといけないの。叔母様や従兄様は多忙だし、カレン……私の乳母は高齢だから負担をかけたくないし……他に頼める人がいないのよ」
真剣な顔つきでセレナがそう訴えると、ニコラオスは彼女につられて呆れ顔から真剣な顔つきへと変わり、真っ直ぐにセレナの顔を見つめる。
セレナの魔法に対する姿勢は、もはや執着に近い。
本来、次の女王になる立場であるセレナにとって、魔法は特別必要がないものだ。だがセレナは、自分が調べようとしている20年前の真実。それを今後ひとりで突き止めるためには、今のままの無力な自分では限界があると考えている。
せっかく魔力持ちとして生まれたのだから、中途半端なままで放置するよりもどうにかして覚醒させて利用した方がいいに決まっている。
それに、魔力持ちの方が圧倒的に多いこのテオスの街で、なかなか魔力が覚醒しない遅咲きのセレナは生きづらい。だから、何とかして魔法を扱えるようにならないといけない。セレナはそう考えていたのだ。
そんなことを考えていると、ニコラオスは少しの間じっとセレナを見つめたのち、ゆっくりと口を開く。
「……どうして、魔法を習いたい」
「…?それは、20年前のことを知りたくって……」
「どうしてそこまで知りたがる、それを知ってどうするつもりだ?」
「え……?」
どう、する……?
思わぬ質問に、セレナは言葉を詰まらせる。
セレナが20年前のことを調べているのは、将来この国を治める立場の人間の責任として、真実を知るべきだと考えたからだ。
だが、それを知ったのちにどうするのか、自分は何をするのか、そんなことを考えたことはこれまで一度もなかった。
今更20年前のことを知ったところで、それによって当時に命を落とした者たちが生き返るわけではないし、国が大きな変化を遂げるわけでもない。それに、偽りだらけなのは20年前の歴史だけではないかもしれない。それを考えれば、セレナが20年前の出来事にここまで執着する意味は何もないということになる。
それでも、セレナの頭にはニコラオスへの要求を撤回するという選択も、20年前について調べることをやめるという選択も浮かばなかった。
自分がこれほどまでに、20年前の真実について知りたがる理由は何か?それを知って、今後自分はどうするつもりなのか?
セレナは俯いて考え込む。
言葉を失くしてしまった様子のセレナを見下ろして、ニコラオスは小さくため息を漏らす。そして諦めたような様子で口を開いた。
「…まぁいいよ。お前は一応それなりに魔力があるみたいだし、その気があるなら教えてやる」
ニコラオスはそう言うと、セレナの肩に優しく手を置く。セレナは驚いたようにパッ、と顔を上げ、ニコラオスを見上げる。ニコラオスは、真剣な目つきは変わらないが、口元をわずかに上げて笑みを浮かべている。
彼の優しげなその表情に、セレナはホッと安堵のようなため息を吐く。
ニコラオスは続けて口を開いた。
「ただ、一応俺はこの街に侵入している部外者だ。迂闊なことをしてお前の親父さんにバレたら何されるか分からないからな。少し準備をして、いずれこっちから連絡する。それまでは余計なことをするなよ?」
「………うん」
半ば放心状態で空返事のようにセレナがそう返答すると、ニコラオスは「絶対だぞ」と念を押す。辺りを見渡して誰もいないことを確認してから彼女に背を向け、路地裏へと駆け出していく。
逃げるように走り去るニコラオスの背中を見送ってから、セレナはようやくハッと我に返る。慌ててニコラオスを呼び止めようと口を開きかけたセレナだったが、既に闇の中にニコラオスの姿はどこにもない。
もう少し話をしたかったのだが、仕方がない。彼はいずれ連絡すると言ったのだ。その連絡手段は分からないが、待つしかない。
そう思い直して、セレナはひとまず王城へ戻ろうと振り返る。すると、誰もいないと思っていたそこに、とある人物が立っていた。
「わっ……」
セレナは思わず小さな悲鳴を上げる。
そこには、魔獣の対処をしていたはずの人物、オフィーリア・バラクが立っていたのだ。オフィーリアはいつもと同じ無表情のまま腕を組み、こちらを見ている。
セレナの心を、恐怖のような感情が一気に襲う。ピクリとも変わらないその表情だけでは、彼女が怒っているのか悲しんでいるのか分からない。が、オフィーリアの感情が決して穏やかなものではないことは容易に想像できる。
「お……叔母様。あの……」
一体いつからそこにいたのか。ニコラオスと会っていたことを知られただろうか。いや、もし知られていたらオフィーリアはもっと怒りの表情を露わにするだろう。それにこのテオスの街に侵入者がいると知れば、彼女はわざわざセレナの前には現れず真っ直ぐニコラオスを捕まえに行くはずだ。
いやしかし。もしかすると今はあえて彼を逃し、セレナにニコラオスのことを尋ねてから彼と彼の同行者らしい《母親》まで捕まえようと考えているのかも知れない……。
そんなことを考えていると、オフィーリアは口を開いて呆れるような声で尋ねてくる。
「セレナ、こんなところで何をしているの。それも、ひとりで」
「……え?」
緊張していたセレナは、オフィーリアの問いかけでポカン、と口を開ける。オフィーリアはさらに呆れるような声で言葉を続ける。
「え?じゃないわよ。クラニオはどうしたの?あの子、あなたを最後まで送り届けなかったの?……全く、あの子ったらいつまで従兄のつもりでいるのかしら。自分の婚約者を放置するだなんて」
「え、いや……従兄様のせいでは…私が勝手に抜け出しただけなので……」
「あの子だけの問題じゃないわ、あなたは王女なのよ、セレナ。こんな時に王城を抜け出すなんて、一体何を考えているの?」
「え、っと……」
どうやら、オフィーリアはニコラオスとセレナが一緒にいる場面は見ていなかったらしい。そうでなければ、こんな質問を尋ねてくるはずがない。もし見ていたならばオフィーリアが一番に尋ねてくる言葉は、「あの男と何を話していたの?」だろう。セレナはひとまず安堵したように、ホッとため息を漏らす。
オフィーリアはそんなセレナの様子を見ると、眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな顔をする。
「……王族としての自覚が足りないのは父親そっくりね。来なさい、ロワ宮まで送るわ。あなたのお父上に話さないとね、『あなたの娘がひとりで城下に降りていた』と。陛下はきっとお怒りになるでしょうね」
オフィーリアはそう言うと、中間門の方へ向かって歩き出す。セレナはその後に続いた。
オフィーリアの言う「王族としての自覚が足りない」という言葉は引っかかったが、正直セレナの心に罪悪感や、罰への恐怖など少しもない。父から罰を受けるのは初めてではないし、そもそもあの冷たい父のことだから、きっと罰の内容も叱責も大したものではないだろう。そう思っていた。
そんなことよりも、セレナの心にはニコラオスのことがオフィーリアにバレなかったことの安堵の方が勝っていて、これから受けるであろう罰のことなど頭になかったのだ。
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