第5章 闇からやってくるモノ 3
*
「……よし、誰もいないわね」
小さな声で確かめるように呟くと、できるだけ物陰に隠れながらトレゾール邸に近づいていく。先ほどまで避難のために教会に向かう人々の波に飲まれそうになったが、ここまで来ると流石に人はひとりもいなくなっている。
そんな空っぽな道を、身を隠しながら歩くセレナが警戒しているのは、言うまでもなく上空の魔獣たちと、それを処理するオフィーリアたちだ。
周りを警戒するように見回す彼女の目的は、この騒動の裏にいると思われるニコラオス。
今回のこの騒動に本当に彼が関わっているのか、何故関係のない他人を巻き込むような手段をとったのか、本人に聞いて確かめなければならないのだ。
先日知った限りで、彼がこの街に入った目的は《禁術の書》を手に入れること。
セレナは彼が帰った後、書庫の本棚を一通り調べてみたが、どの棚にも《禁術の書》という題名の魔法書はなかった。《禁術と犯罪》という歴史書はあったが、そこに記されていたのは禁術を悪用した歴史上の大罪人の話ばかりで、どう考えてもニコラオスが求めているものとは思えない内容だった。そもそもその大罪人がどんな禁術を使ってどんな罪を犯したのか、という詳細は濁されていて、本当の歴史かどうかも怪しい。
王宮の書庫になく、マギーア訓練場の記録保管庫は王族と王族に血の近い者しか入れない。ということは、他に考えられる場所は大賢者オフィーリアの屋敷か、賢者の中で最年長であり大賢者でもあるSilver light、《灯火》の屋敷のどちらかだ。
だが、《灯火》は20年近く前から体調不良を理由に屋敷に引きこもっており、張り直しの儀式の時以外はどんな緊急時でも屋敷から出てこない。そのためニコラオスが侵入するなら、警備担当としてマギーア部隊と共に前線に立つオフィーリアの屋敷だろう。
トレゾールの近くまで来ると、カーテンが開いている窓から遠目で室内を覗く。しかし、目に見える範囲でおかしな様子はない。
まだ来ていないのだろうか。やはり考えすぎだったのだろうか。
そもそも屋敷の主人が不在とはいえ、オフィーリアの魔力で動く傀儡たちが守っているトレゾールに侵入するのは、簡単なことではない。セレナは一応オフィーリアの血縁だが、たとえ血縁でも今トレゾールに足を踏み入れたら間違いなく傀儡人形たちに捕らえられることだろう。流石に手荒な真似はされないだろうが。
あわよくばトレゾール邸に忍び込んで、20年前の出来事に関する情報や書類を探してみようと考えていたのだが、彼が来ていないのならば仕方ない。
そう思って引き返そう、セレナは踵を返す。と、その時。
脳を貫くような魔獣の奇声が聞こえて、セレナは声をした方を振り返る。
セレナの目の前に映ったのは、大きく口を開けてこちらに襲いかかる魔獣の姿だった。
「……っ!!」
息を呑む彼女の脳裏を掠めたのは、《死》。
逃げなければと思うよりも先に、足がすくんで動けない。どうやって切り抜けようかと考えるよりも先に、目の前が真っ白になる。
人間は本当の恐怖に直面すると、声を上げることすら出来なくなるのだと聞いたことがあったが、本当にその通りなのだと、そんな呑気なことを考えている。
その時、セレナを我に返らせるような男の声が、彼女の耳に響く。
「伏せろ!」
「――っ」
その声の主について考える間もなく、セレナは頭を抱えてその場にしゃがみ込む。
その刹那、地面が大きく揺れたと同時にセレナに襲いかかってきた魔獣は地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。セレナはその様子をポカン、と見つめ、少し間を置いてから肺が空っぽになるほど大きく息を吐く。
助かった、と思ったと同時に、セレナの上を焦燥感に満ちた怒号が降り注ぐ。
「お前、何考えてるんだ!」
今まで人から大声で怒鳴られたことがなかったセレナは、思わず身体をビクッと震わせる。声の方を見上げると、彼女の背後に仁王立ちで立っていたのは、ニコラオスだ。
昨日のあの子供のような笑みとは一変、眉間に皺を寄せ、青筋を立て、慌ててやって来たせいかもしくは怒鳴り声を上げたせいか、息を切らせてそこにいた。
「ニコラ…」
「どうしてこんなところにいる!護衛もつけずに、ひとりで!死にたいのか!?自分の身も守れないくせに、軽率な行動をするな!!」
セレナの呼びかけを遮り、ニコラオスは興奮した様子で捲し立ててきた。その言葉全てが正論すぎて、セレナは反論することもできずに彼の怒号をただ受け止める。
「……ご、ごめん。確かに、その通りだった」
ニコラオスに叱咤されて、セレナは一気に冷静になる。
先ほどまでの自分は、何をしてでも真実を知らなければという思いだけで城を飛び出したため、自分に降りかかる危険については頭からすっぽり抜け落ちていたのだ。
だが、実際に感じた命の危機。それに対して何もできず、声を上げることすらできなかった無力な自分。ニコラオスが来てくれなければ、今こうして息をすることすらできなかったのだという事実が一気にセレナの上に降りてきて、セレナは目頭が熱くなった。
かと思うと、まるで川の氾濫のように大量の涙を流す。ニコラオスはそんな彼女の様子に思わずギョッとする。
先ほどまでの焦燥と怒りも忘れて、オロオロと慌てた様子でセレナを見下ろす。頭でも撫でて慰めるべきか、赤の他人に触れられたら不快だろうかと考えて、行き場のない手が宙を掴むように泳いでいる。
「お、おいなんだよ。泣くなって。怒鳴ったりして悪かったよ。言いすぎた」
ぎこちない手つきでセレナの頭に手を置くと、軽く撫でる。彼の手は、テオスの政敵であるにも関わらず本当に優しくて、本当に彼女を案じているのだと錯覚してしまうほどに温かい。
ニコラオスに撫でられて少し冷静になったセレナは、手のひらで涙を拭いながら首を横に振る。
「違うの。怒られたからじゃなくて……なんか、急にホッとしちゃって。襲われそうになった時、本当に怖かったはずなのに、声も上げられなくて……ニコラオスが来た後もずっと現実味がなくてぼんやりしてたんだけど、生まれて初めて本気で怒られて、あぁ、本当に助かったんだって思ったら……」
「……」
本当に怖かった、本当に死ぬかと思った。
でもそう感じられるのも、今ここに生きているからで。もしあのまま死んでしまったらその恐怖ごと、自分はこの世から消えてしまうわけで。
襲われた恐怖と、助かってよかったという安堵の気持ちが一気に溢れ出して、手のひらで何度拭っても抑え切れないほどの涙となってこぼれ落ちてくる。
ニコラオスはしばらくしてから小さくため息を吐くと、セレナの手を掴んで立ち上がらせ、そのまま勢いよく自分の胸に抱き寄せた。
突然の彼の行動に、セレナの涙はピタッと止まる。それでもニコラオスが、彼女を離すことはなかった。
「…ニ、ニコラオス、何して……」
「…俺の周りには、たかが魔獣に襲われただけでギャーギャー泣くような奴なんていないから、こうするしか慰める方法が思いつかないんだよ。嫌なら昨日みたいに《抵抗》すればいい。ま、俺に同じ手は二度も通じないけどな?」
揶揄うようにそう言ってから、クックッ、と小さく笑う。
不器用ながらもセレナを安心させようとしてくれている彼の心が伝わって、セレナは今までに感じたことのないような気持ちを感じた。
この気持ちは、一体何だろう。
婚約者のクラニオに抱きしめられている時とは違う。クラニオは婚約者である前に従兄なので、家族に抱きしめられているような安心感はあれど、それ以上の感情を抱くことはない。けれど、ニコラオスは違う。
安心感は確かにあるが、それとは別の、ざわざわとして苦しいような、痛いような心の疼き。彼が触れている部分が、まるで地獄の業火に焼かれているかのように熱い。
けれど、それでも、このまま離してほしくないと思っている自分がいた。
初めての、感覚。
この感情、この気持ちは、まさか……。
「…落ち着いたか?」
頭の上から聞こえるニコラオスの声に、セレナはハッと我に返った。先程までの優しい態度とは打って変わって、彼は半ば乱暴にセレナの肩を押し除けて身体を離す。
先ほどのザワザワとした感情が消えて、名残惜しいような、もどかしいような感情が彼女の心を占める。もう少しこのまま彼に抱きしめられていたら、このざわざわとした感情の正体が分かったかもしれないのに……そう思いかけてセレナは「何を言っているんだ」と心の中で否定する。
王族や貴族の女性は、夫や家族以外の異性にみだりに肌を触れさせたりはしない。「このまま抱きしめられていたい」だなんて、まるで痴女の考えだ。
セレナは頭を振って先ほどまでの考えを振り払うと、ニコラオスの顔を見上げる。彼の顔からは、既に怒りの色も焦燥の色も消えていた。
「……あの、ありがとう。助けてくれて」
「…別に。顔見知りに目の前で死なれるのは後味が悪いと思っただけだ。お前のためじゃない」
ニコラオスはそう言うと、ふい、とセレナから目を逸らす。彼のそっけない態度にセレナはムッとして何か言い返そうと口を開きかけたその時、彼の耳がわずかに赤くなっていることに気付いた。
セレナは彼のその反応に、思わずクスッと笑う。先ほどセレナを抱きしめた時や、昨日彼の魔法を褒めた時もそうだったが、彼は少々天邪鬼な気があるらしい。
と、その時。セレナはふとここに来た目的についてを思い出す。
「そうだわ、ニコラオス。今朝従兄様から聞いたの、今回の襲撃は、誰かに仕組まれたものだろうって」
「……」
セレナの問いかけを聞いて、ニコラオスは逸らしていた視線を再びセレナに向ける。彼の瞳は、まるで全てを悟っているかのような、この後に彼女が尋ねてくるであろう言葉を知っているかのような雰囲気を漂わせている反面、わずかに罪悪感に満ちたような色が滲んでいる。
……これ以上、聞く必要はなかった。
知り合って間もないが、彼が嘘をつけない性格だということは何となく分かる。やはり今回の一件には、ニコラオスが関わっているのだ。
セレナの心に、煮えたぎるような怒りと、同じくらいに強い悲しみが湧き上がってくる。セレナは拳を握り締め、声を荒げた。
「…どうして……。あなたたちが憎んでいるのは私の父上なんじゃないの!?それなのに、罪のない街の人たちまで巻き込んで、こんな危険な真似をするなんて……っ!!」
「……仕方ないんだ」
セレナの怒りの叫びに、ニコラオスは諦めたような声でそう答える。
謝ってくれるとは思っていなかったが、それでも少しは申し訳ないような顔をすると思っていた。瞳に映っていたわずかな罪悪感の色は、既に消えている。
期待と大きく違う彼の返答に、セレナは思わず「え…」と声を漏らす。ニコラオスは淡々と言葉を続ける。
「俺だって、こんなやり方が正しいとは思えない。今回の件は、俺の母が勝手に始めたことで、俺が計画を知った時には既に事が起きていて止めようがなかったんだ。……それに母さんがそうしなければと思ったのなら、俺はできるだけ母の力になりたいと思っている。女手一つで俺を育ててくれた人だ。裏切れない」
そう語るニコラオスの声には、心からの後悔とやるせなさ、その反面で自分を育ててくれたという母親への尊敬と愛情に満ちていて、聞いているセレナさえも心を締め付けられるような思いになる。
ニコラオスは、血を吐くような思いで言葉を続ける。
「ディアヴォロスの連中も、目的のためならば手段を選ばない野蛮な考えの持ち主ばかりだ。そんなのは間違ってるって思っていても、俺ひとりの力じゃどうにもならない。たったひとりの反対意見なんて、誰も耳を貸さない……」
「――っ」
セレナは彼の言葉に、自分と共通するような何かを感じた。
セレナは幼い頃から、神族こそが絶対の正義で、それ以外は排除すべき悪だと、耳にタコができるほど言い聞かされてきた。
だが、実際に魔族や半端者たちが悪事を働いた場面を、この目で見た事があるわけではない。ましてや自分の傍には、実の兄のように優しく見守ってくれていた《交ざり者》のクラニオいるのに、何故彼らを全て悪だと決めつけなければならないのか。歴史書のたった数ページにしか記されていない悪行だけで、一体彼らの何がわかるというのか。それをずっと疑問に思っていた。
だが、その疑問を口にするたびに、周りの大人たちは皆口々に同じ言葉を言った。
――そんな疑問は今すぐに捨てなさい。
考えることを放棄させ、ただ自分たちが信じる《真実》だけを、幼いセレナに叩き込もうとしてきた。
幼い子どもの純粋な疑問にすら、誰ひとり耳を貸さない。疑問に思うことすら許さない。
この世界には、そんな人間たちが溢れている。
だから誰もが、記された歴史に疑念も持たずに盲信して、数々の矛盾に目を瞑って、自分たちにとって都合の悪いことは全て揉み消してきたのだ。
セレナは何も言えずに俯いた。
確かに彼の言う通り、大勢の意見にたったひとりで立ち向かうのは無謀だ。彼が不満と疑念を持ちながらも、それを押し殺して大勢に従い、目的も理由も何も考えずに流されざるを得ないような状況になっている気持ちも分かる。
彼が唯一何かのために動くとすれば、それは彼を愛し、彼をひとりで育てたという母親のためだけだろう。
彼の気持ちも、分からなくはない。セレナも、もしカレンやクラニオが何かに困っていたとしたら、どうにかして力になりたいと思ったことだろう。
……けれど。
「……それって、生きていると言えるの?」
「は?」
呟くようなセレナの言葉に、ニコラオスは訝しげな声を上げる。セレナはパッと勢いよく顔を上げると、力強い口調で続けた。
「たとえ大切な人のためでも、自分の正義を押し殺してまで従うなんて、そんなの死んでるも同然じゃない」
「……っ……」
彼女の言葉に、ニコラオスは図星を突かれたように言葉を詰まらせる。セレナはさらに追い詰めるように口を開いた。
「私だって、人のことは言えないわ。国のため、一族のためって、ずっと自分を殺すことを強いられてきたし、それに従って生きてきた。けど、少なくとも今私が、従兄様の言葉に逆らってまでこの場所にいるのは、この国のためでも、一族のためでもない。私が、ただ知りたいからよ!」
肩で息をするほどの勢いでそう言い放つ。セレナの瞳には、確かな決意と願いの色が滲んでいる。セレナにとっては、初めてに近い感情だった。
勇気と恐怖は、常に共存している。力強い口調でニコラオスと向き合うセレナの手は固く握られ、恐怖と緊張で小刻みに震えている。けれど、大きな疑問と不信感を抱いたまま、己自身を殺してまで大勢に埋もれるのは、嫌だ。
……嫌ならば、怖くとも踏み出すしかないのだ。
「……ニコラオス、魔獣を止める方法はないの?」
「……」
セレナの問いに、ニコラオスは血が滲みそうなほどに唇を噛み締める。その瞳には母を裏切りたくないという信念と、しかしそれでも捨てきれない正義の心とが混ざり合い、ひどく葛藤している様子が見てとれる。
しばらく考え込んでいたニコラオスは、恐る恐る口を開く。
「……あるには、ある」
「――っ」
ニコラオスの、おそらく裏切り行為に等しいような返答。それはひどく弱々しく、震えていて、セレナの心に罪悪感がよぎった。が、それを隠してニコラオスの言葉の続きを待つ。
「…魔獣たちは、特殊な二つの魔法器具によって呼び寄せられている。うち1つでも破壊すれば……」
「…それって、どこにあるの?」
セレナが尋ねると、ニコラオスは首を横に振った。この後に及んで話せないとでもいうつもりなのかと思ったセレナだったが、ニコラオスはひどく悔しげな表情をして、「分からない」と呟いた。
「……言ったろ。俺がこの件を知った時にはもう手遅れだった、って。母さんからこの計画を聞いた時、すでに二台あった魔法器具のうち1台は街のどこかに置かれた後だったんだ。2台目は破れた結界のすぐ真下に置いてあるらしいけど、そいつは魔獣たちが結界から外に出れるようにとっておきたいから、どこにあるか分からない一台目の方を破壊しないといけない」
「魔法器具なら、魔力の流れを追えるんじゃないの?」
「……無理だ。魔法器具には強力な闇系の隠蔽魔法がかけられている。大賢者オフィーリア・バラクへの対策としてかけられた魔法だから、俺如きの魔力じゃ探すのは不可能だ」
「そんな……」
セレナは嘆くように声を漏らす。覚醒している魔法使いが不可能だと言っていることを、遅咲きの自分が出来ようはずもない。そんな彼女の絶望を嘲笑うように、辺りはだんだんと暗くなっていく。夜は魔獣の活動時間。マギーアの騎士やオフィーリア、そして彼女の人形が押さえてくれているものの、それもいつまでも保つわけではない。人形にも騎士にも、魔力の限界はあるのだ。
――どうすれば…。
と、その時。セレナの目の端で何かが動いた。
目を向けると、それはまるで蛍のよう小さな光で、まるで「気付いて」と言わんばかりにセレナの周りを浮遊している。そしてセレナと目が合うと、喜んでいるかのようにセレナに近づいてくる。
光がセレナの耳元を飛んだその時、囁き声のような音が彼女の耳をくすぐった。
「え?」
「ん、どうした?」
咄嗟に漏れたセレナの声に、ニコラオスは不思議そうな顔をする。どうやら光は、彼の目には映っていないらしい。
光はセレナの周りをしばらく人懐っこく飛んだ後、誘うように裏路地へと飛ぶ。時々空中で立ち止まり、こちらを振り返っているように……セレナには見えた。
生き物の形をしているわけでないただの光の玉が、目が合ったり、喜んだり、振り返ったりするわけがない。実際にしていたとしても、それがこちらに伝わるわけはないと分かっている。だが、なぜかセレナには「そう見えた」のだ。
「……ついて来いってこと?」
答えるとは思えない光にそう尋ねると、光はまるで肯定するように大きな円を描いて飛び、先へと進んでいく。
状況が読み込めないニコラオスは、セレナと、セレナの視線の先を何度も見比べてから口を開く。
「おい、さっきから何ブツブツ言ってるんだ?」
「……ニコラオス。もしかしたら、だけど。魔法器具の在処が分かるかもしれない」
「…は?何言って……」
ニコラオスが言い切るよりも早く、セレナは光の後を追って裏路地へ一歩踏み出し、そのまま歩き出した。薄暗く狭い路地の中を浮遊する光は、不気味な誘いのようであり、しかし明確な道しるべのようもであった。
「お、おい。どこ行くんだよ」
困惑するような声で尋ねるニコラオスだが、セレナは聞こえていないのか何も答えず、振り返りもせず歩いていく。
ニコラオスは元々の目的地であったトレゾール邸とセレナを交互に見比べてから、「クソッ」と舌打ち混じりに声を上げ、セレナの後を追いかける。
*
「……面白いことになったわね」
屋根の上から2人の様子を伺っていたオフィーリアは、大して面白がっていないような顔でそう呟くと、浮遊魔法を使い空中を歩くようにして悠長に2人の後を追った。
ニコラオスの話を聞いてすぐ、オフィーリアはその魔法器具を探そうと魔力探知を試みたが、なるほど確かに闇系の隠蔽魔法の気配がして、簡単には場所の特定ができない。だが、逆に言えばその隠蔽魔法の気配を追えばだいたいの場所は特定できるのだ。
しかし、オフィーリアは敢えてそれを試みなかった。
――…さっさと探し出して解決するよりも、こちらの方が面白そうだ。
*
光の案内によってたどり着いたのは、下東町の端。下東町にも下西町のように民家があるが、ここは下西町よりは管理が行き届いている場所だ。バラク公爵家の別邸や、平民向けの学校も近い。そんな場所に不審物があれば住民の目に入りそうなものだが、市壁のすぐ下に、それは堂々と置かれていた。
それは円盤のような形をしていて、中央には黒い魔石が嵌め込まれている。
「…これだ」
驚きを隠せないような声で、ニコラオスは呟いた。
「下町を横断するように配置してたのか…お前、よく分かったな」
「……いや、私が分かったというわけじゃ……」
セレナはそう言って彼女をここまで誘導した光を探したが、どこを見渡しても姿が見えない。消えてしまたのだろうか?それとも、目の錯覚だったのだろうか……。
「…まあいい、こいつを破壊すればここを目指して来る魔獣たちはに西の方に引き返していくはずだ」
「あ…うん」
ニコラオスの言葉に、セレナは思い出したようにそう答える。光の行方やその正体は気になるが、今はそれを考えている暇はない。
目的を改めるように、セレナは円盤に目を向ける。
円盤の周りには、黒い魔力が流れていた。それは見えるものなら恐ろしくて触れることも躊躇うような悍ましい魔力で、セレナは思わず尻込みしそうになる。だが、これを壊さなければ魔獣たちによって街が破壊されてしまう。
セレナは生唾を飲み込み、勇気を振り絞って一歩を踏み出す。だが、彼女の進行を妨げるものがあった。
「待て」
そう言って、ニコラオスは円盤とセレナの間を隔たるように腕を出す。セレナは驚愕の表情でニコラオスの顔を見上げた。
「ニコラオス?」
不思議そうな声で尋ねたセレナだったが、ニコラオスの赤い瞳を見てハッと我に返った。
そうだ。彼はあくまでディアヴォロスの人間。テオスの王女に手を貸すこと自体、そもそもがおかしいのだ。
身構えるようにセレナは手を握りしめる。が、そんなセレナの懸念を真っ向から否定するように、ニコラオスは口を開いた。
「こいつには周囲の魔力を吸収する性質があるんだ。覚醒していないとは言え、魔力持ちのお前が下手に触ったら魔力を食われるぞ」
「あ…そう、なんだ」
真剣なニコラオスの言葉に、セレナは円盤から離れるように一歩足を引く。ニコラオスにとっては敵である種族の人間でも、その身を案じて止めてくれる彼の背中を見上げながら、セレナはホッと安堵のため息を漏らす。
――…やはり彼は、悪い人間じゃない。
しかし直に触れないとなると、やはり魔法で壊すしかないが、遅咲きのセレナに魔法は使えない。
「従兄様に知らせて壊してもらう?…でも、今は魔獣の対応で手が離せないだろうし……」
「…俺がやる」
「え?」
思いがけないニコラオスの言葉に、セレナは驚愕の声を上げた。
時間的にも他の魔法使いを呼ぶより、この場に唯一いる魔法使いのニコラオスに壊してもらえれば助かるが。
「……いいの?」
伺うように慎重に、そう問いかける。
母を、仲間を裏切れないと言っていた彼が、この魔法器具のことを話してくれただけでも勇気ある行動だったろうと推測できるのに、魔法器具の破壊まで任せていいのだろうか。
そんな想いを込めて彼の顔を覗き込むと、ニコラオスは一瞬だけセレナに目を向けると、すぐに魔法器具へ目を向ける。
「……下がってろ」
それは肯定とも受け取れる返答だった。彼の言葉に従い、セレナは少し後ずさる。
ニコラオスは魔法器具に歩み寄ると、胸ポケットから棒のようなものを取り出して構える。棒の先には赤と黄色が混じったような色の魔石がついており、棒は木製だがよく見ると不思議な細工が彫られている。
魔法使いがたまに使う《杖》だと、セレナは瞬時に理解した。
杖を使う魔法使いは何人かいるが、用途は人によって様々だ。大賢者オフィーリアはほとんど杖を使わないが、誰かと共に魔法を使うときは杖を使用する。その方が「手加減がしやすい」そうだ。
常に杖を使用する魔法使いにとっては、杖は魔法を実現しやすくするための道具らしい。ニコラオスにとっては、果たしてどちらなのだろうか。
そんなことを考えていると、ニコラオスは杖の先を魔法器具に向け、大きく深呼吸をする。
「……《大いなる炎よ、闇を焼き壊せ》」
詠唱には緊張の色が滲んでいたが、彼の魔力は呼応するように杖に集まり、杖の先から炎を吹き出した。その炎は円盤から溢れ出す黒い魔力とぶつかり、競り合う。だが少しして、ニコラオスの炎は黒い魔力に弾かれ、同時にニコラオスの体も後方に弾かれた。
「なっ……!?」
ニコラオスは後ろに倒れ込みそうになったが、なんとか耐える。その様子にセレナは慌てて彼に駆け寄った。
「ニコラオス、大丈夫!?」
「あぁ…」
「今、何が起きたの?」
「……魔法器具が持つ魔力に押し負けた」
「え……?」
押し負けた。セレナは信じられないと言うように声を漏らす。
セレナはオフィーリアを筆頭に強い力を持った魔力持ちばかり見てきたので基準は分からないが、それでも、彼の周りを漂う魔力の流れを見れば、ニコラオスの魔力が少ない方ではないということは分かる。
それでもそんな彼が、魔力で押し負けたと言うのだ。
一体どれほの魔力が、この魔法器具に込められているのだろうか。
「こいつは周囲の魔力を吸収して起動する。この辺りは教会や大賢者オフィーリアの屋敷も近いから、周囲に魔力が多いんだろう」
「どうすればいいの?」
「魔法器具に込められた魔力量よりも強い魔力を当てれば壊せると思う…が、ここにいるのはたった今押し負けたばかりの俺と覚醒もしていないお前だけだし、どうしようも……」
「………私が力を『貸せれば』、できる?」
「は?」
セレナの言葉に、ニコラオスは驚いたような顔でセレナを振り返る。彼女の脳裏には、昔クラニオから聞かされた話がよぎっていた。
魔力持ち同士は、稀に他者へ魔力を分けることができる。己ひとりの魔力で魔法を行使できない場合や、命に関わるほど魔力が枯渇してしまった場合に応急処置として魔力を分け与えることができるのだと、幼い頃クラニオが覚えたての知識を意気揚々と語ってくれたのだ。
セレナにとってはおぼろげで浅い知識のため、遅咲きの自分にそんな芸当ができるのか、という疑問が心を支配する。だが、覚醒していなくとも魔力操作はできるのだから、可能性は低くないはずだ。
「……そんなこと、できるのか?」
どこか不安げな様子のニコラオスに、セレナは「えっ」と声を上げる。
「知らないの?」
「……魔力を分けるなんて、聞いたことないぞ」
ディアヴォロスでは、魔力の貸与については教えられないのだろうか。ニコラオスは疑うような顔をしている。だが、詳しく聞いている余裕はないため、口にはしなかった。
今は、魔法器具を破壊することが最優先だ。
「…私も従兄様に教えてもらっただけで、本当にできるかは分からない。けど、今はそれしか方法はないと思う」
「……」
セレナは努めて真剣にこ訴える。ニコラオスはやはり、信じられないといったような様子で彼女を見つめ、言葉を迷っている。
仕方がない。セレナ本人も疑心暗鬼だというのに、聞いたことすらないというにニコラオスが簡単に信じられないのは当然だ。
諦めるように、セレナは目を伏せる。
「……分かった」
「…………え?」
「試してみよう」
思いもよらない返答だ。セレナは目を丸くして彼を見つめた。
ニコラオスの顔には、未だ濃い疑念の色が見える。だが、それでも視線はまっすぐに彼女を見つめていた。
「…いいの?」
「早くしろ、時間がないぞ」
ニコラオスがそう言うと同時に、魔獣のけたたましい声が響いた。その声はかなり近く、慌てて西の空を仰ぎ見ると、おそらくマギーアの騎士と交戦中であろう魔獣の翼が、屋根の隙間からチラチラと見えている。
先ほどまで魔獣の襲撃は、マギーアの騎士によって下西町より他には及んでいなかったはずだが、夜が近づいてきて魔獣の数が増えたのだろうか。
このままでは、魔法器具に呼び寄せられた魔獣がここへ来てしまう。確かにあまり時間はないようだ。
「…やるぞ」
「うん」
互いの言葉を合図に、ニコラオスは再び魔法器具へ杖を向け、セレナはニコラオスの傍らに立ち、その手にそっと手を置く。
緊張を紛らわせるように、セレナは大きく息を吐き出し、軽く目を閉じる。
幼い記憶へと意識を向け、クラニオの言葉を思い出す。
――まずは自身の魔力に集中し、その流れが手を伝ってニコラオスへ流れていく様子を強くイメージする。そして、詠唱……詠唱………。
(…あ、どうしよう)
セレナの記憶は、ここまでだった。
詠唱を教えてもらおうとした時点で、カレンに止められたのだ。子供だけで魔法の訓練をするのは危険ですと、強く叱責されたのだ。
(せっかくニコラオスが協力してくれているのに。もう時間がないのに。このままじゃ、街が……っ)
強い焦りと恐怖。最悪の未来ばかりが浮かんで、魔力操作に集中できない。そのためにさらに焦りが増していく。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう…………………。
その時。
――…セレナ……
「――っ」
頭の中で女性の声が響き、セレナは小さく息を呑む。
冷たく、優しく、耳元を通り過ぎる風のように儚げな声。しかし、頭に直接話しかけるようにはっきりと聞こえた声。
それは、セレナがよく知っている声のようだったが、何故か、声の主の顔が浮かばない。まるで、声の主が強い力で思い出させないようにしているかのようだ。
しかし。誰のものかわからないのに、不思議と恐怖や怪しさは感じなかった。
――セレナ、今から言う言葉を繰り返しなさい。
不思議とも不気味とも言える感覚を抱きながら、しかし何故か勇気をもらえるような安心できる声に、耳を傾ける。促されるように、操られるようにして、セレナは口を開いた。
「……《トル・ハニシュマ》」
詠唱ような言葉の意味は、それを口にしたセレナ本人も分からない。だが、セレナ自身のま力はどうやらその意味を知っているらしい。恐怖と焦りでビクともしなかった魔力はその流れを変え、セレナの手を伝ってニコラオスの中へと入っている。
セレナの力を感じたのか、ニコラオスの肩がピクリと動き、肩に力が入る。
ニオラオスは、確信した。
――…行ける!!
杖を強く握り直し、大きく息を吸う…
「《大いなる炎よ、闇を焼き壊せ》!!」
強く、強く、願うように命じる。彼らの願いに応えるように、ニコラオスの杖の先から、先ほどとは比べものにならない程の大きな炎が出現し、魔法器具の黒い魔力とぶつかる。
炎と黒い魔力は互いに迫り合い、悲鳴のような音を放つ。
長いような短いような迫り合いの末、押し勝ったのは………ニオラオスの炎だった。
炎はモヤのような黒い魔力を焼き払い、中央の魔石はガラスが割れるような甲高い音を立てて砕け散る。
と同時に、衝撃波という名の風が二人を襲った。
「うっ…!」
「きゃっ!」
突然の風に、ニコラオスは咄嗟に背後のセレナを庇うように腕を広げ、セレナは小さな悲鳴を上げながらも必死にニコラオスの腕にしがみつく。
しばらくすると風は止み、辺りはシン、と静まり返った。
「……やっ、たの?」
セレナは恐る恐る目を開け、魔法器具を確認する。
先ほどまで黒い魔力を放っていたそれは、その名残だけを残して粉々に砕け散っていた。
ニコラオスもそれを視認すると、安堵するように大きく息を吐き、
「みたいだな」
「…そうだ、魔獣は…っ!?」
やり切ったと言わんばかりのニコラオスから手を離すと、セレナは西の空を見上げて目を凝らす。
屋根の隙間からチラチラ見えていた魔獣は、弧を描くようにくるりと向きを変え、悍ましい声を上げながら西へと飛び去っていく。
鳴き声が遠くへ離れていくのが分かると、セレナはようやく確信した。
「…上手くいったな」
セレナの思いを代弁するように、ニコラオスがそう呟く。彼の口調には、彼自身の複雑な心境が見え隠れしていたが、セレナがじ目の前の現実と己の確信を心から理解するには、十分すぎる言葉だった。
(……まも、れた……?)
ニコラオスの手を借りながらではあるが、それでも遅咲きの自分が、魔力操作も苦手なはずの自分が、その魔力で、魔法で、この街を守れた……。
「…………や」
「…うん?」
「……やったぁ!!」
セレナの歓喜の声が、あたりに響き渡る。すぐ近くでその声を聞いたニコラオスは、あまりの声の大きさに思わず耳を抑え、苦悶の表情を浮かべる。
「……耳が潰れる」
だが、そんなニコラオスの文句が聞こえていないのか、セレナはその場でウサギのようにピョンピョンと跳ね、「やった、やった!」とはしゃいでいる。
「…まったく」
呆れるようにポツリと呟き、ニコラオスは頭を掻く。
彼の心には、己の母の意思に反する行動を取ってしまったことへの罪悪感と後悔、しかし己の正しいと思ったことをやり遂げることができたことへの満足感とゆ愉悦感が入り混じり、吐き気すら抱いている。
だが、目の前で幼子のようにはしゃぐセレナの姿は、不思議と不快ではなかった。
自然と口元が緩み、心の中に優しい熱がじんわりと広がる。
「……よかったな」
自然とその言葉がこぼれ出た。
ニコラオスが自身の発言に驚愕するよりも先に、セレナは彼の方へバッと振り返り、勢いよく彼の手を取って握りしめる。
「…っ。お、おい」
「ありがとう、ニコラオス!」
満面の笑顔、ほんのりと赤らんだ頬、涙ぐむように潤んだ黄色い瞳。
政敵であるはずの魔族に平気で近づき、その手に触れ、感謝を述べる。ちっとも王女らしくない、幼子のようなおかしな女。
ニコラオスは、この手を振り払うべきなのだ。
魔族として、ディアヴォロスの人間として。
だというのに、彼は今、テオスとディアヴォロス。神族と魔族という確執や因縁を全て忘れ、ただのニコラオスとして心からの笑みを浮かべていた。
*
一連の流れを建物の上から見下ろしていたオフィーリアは、ニコラオスの顔をじっと見つめる。
魔法で魔族の姿をしているが、あの青年は半端者。それも、昨日ロワ宮に忍び込んだ魔族寄りだろう。
昨日の出来事を一部しか視ていなかったオフィーリアだったが、セレナが何かしらの理由で侵入者を庇って父親に報告しなかった、ということは知っている。親しげに話す彼らの様子から見て、恐らくオフィーリアの知らなかったところで彼らは多少なりとも心を交わしていたのだろう。
セレナに手を握られたその男は、どこにでもいる青年のような笑みを浮かべている。その面差しは、オフィーリアの脳裏にとある情景を浮かべさせた。
半端者の赤子をその腕に抱き、愛おしそうに話しかける神族の女の姿。
彼女はオフィーリアのよく知る人物であり、この一件にも絡んでいると思われる《裏切り者》だ。
《裏切り者》はその赤子を心から愛し、たとえこの世でたったひとりになったとしてもその赤子を守ってみせるとオフィーリアに誓っていた。
「……あの子が、《平和の夜明け》?」
納得するように口の中で呟くと、心底楽しそうに、かつ冷酷な笑みを浮かべる。
セレナの視線の先にいる青年の瞳は、この茜色の空のような色をしている。…魔力を放てば、どのように変化するだろう。
兄にこのことを知らせずにいれば、彼らはこのまま逢瀬を重ねるだろう。
心の中でそんなことを考えているオフィーリアの表情は、まるでそんな展開になることを期待しているかのようだった。




