第5章 闇からやってくるモノ 2
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中間門の外。平民たちが住まう城下。
人々は上空を飛び回る魔獣たちに怯え、日が落ち始めて薄暗くなった街を悲鳴を上げながら散り散りに駆けていく。
ある者は馬を使い、ある者は赤子を抱きながら、またある者は年老いた母を背負って逃げている。
彼らが向かう先は、中間門近くにいくつか存在する教会だ。
中間門の内側に住まう者たち、つまり王族や貴族の屋敷の地下には普通に存在している結界部屋だが、それらは設置だけでも莫大な資金が必要になるため、自分たちが生活するだけのお金を稼ぐのが精一杯の平民たちの家の地下には結界部屋がない。
そのため、平民たちが万が一の災害や災いから逃れるための場所として、中間門の壁に沿って建ち並ぶ教会の地下には共同の結界部屋があるのだ。
大門入り口や壁の近くに住まう者たちが教会まで逃げるのは一苦労だ。自らの身を守らなければならない状況で、自分たちの住まいからは距離の離れた中間門まで走っていかなければならないのだから。
本当ならば街のあちこちに共同の結界部屋を設けるべきなのだろうが、そもそも国民全員が魔力を持っているわけではないため、もし街の至るとこに避難場所を作ることができても、それを管理し、結界を発動させることのできる魔力持ちを結界部屋の数だけ雇わなければならない。
国を揺るがすような非常事態など、そう頻繁に起こるわけではない。たった数度の危機のために人を雇うのは、国にとって不利益となるのだ。
そのため教会の地下に結界部屋を作り、教会の《神官》たちは通常業務の他に、今回のような非常時で結界部屋を作動する役割も担っている。教会の《神官》たちは全員がそれなりに優秀な魔力持ちな上、教会は貴族平民関係なく全ての人間を受け入れる場所なので、避難場所には丁度いいのだ。
自らの身を守るために、距離は遠くとも安全な教会に向かって走り続ける人の群れ。その中に、10歳近くの少年と、その少年の手を引いて走る母親らしき女性の姿があった。足の長さが圧倒的に違う少年は、母親に引きずられるようにしながら、それでも必死に走っている。母親の方はどうやら右腕を怪我しているらしく血を流しながらも、左手は少年の手をしっかり掴んで離さないように努めている。
お互いの手をしっかり掴んでいた母子だったが、とうとう少年の方が道の真ん中で転倒してしまった。
母親は慌てて踵を返す。すると、まるでその瞬間を狙っていたかのように、少年の頭上を暗い影が覆った。
少年は振り返る。そこには、大口を開けて急降下してくる魔獣の姿があった。恐怖のあまり、少年は顔が一気に青冷める。しかし、声を上げることはできず、咄嗟に自分の頭を庇うようにして丸くなる。
心の中で、声にならない願いを叫ぶ。
――誰か、助けて!!
その時、大きな気配が魔獣の上に降りてきたかと思うと、それはそのまま片足で魔獣の頭を踏みつけた。その勢いは凄まじく、魔獣はその頭を地面にめり込ませ、そのまま動きを止める。
文字通り大地を割るほどの大きな音と衝撃に、少年は思わず振り返る。そしてそこに広がった光景に目を丸くした。魔獣の頭を踏みつけたのは、大賢者オフィーリア・バラクだったのだ。
いつもの白いドレスではなく、軽装備の女性騎士のような白いパンツと黒のジャケットを身に纏い、いつもの黒いマントを羽織っている。
オフィーリアは呆然としている少年を見下ろすと、魔獣の頭から降り、少年の前まで近づいて膝を折る。
「……傷を見せなさい」
「…え……?」
「その傷では走れないだろう。見せなさい」
オフィーリアはそう話しかけながら、少年の右膝を指差す。どうやら転倒した際に擦りむいたらしく、少年の膝には血が滲んでいる。
少年が言われた通りオフィーリアに傷を見せると、オフィーリアはそこに軽く手を当てる。すると、オフィーリアの指先が赤い光を放ち、光が消えると同時に少年の傷も消えていた。光魔法と併用した、癒し系の治癒魔法だ。光魔法は相手の体力も回復させるため、少年の体からは疲労感も消えている。
「ほら、これで走れるだろう?」
「…っ、ありがとう!」
表情は無表情で冷たくも見えるが、優しい声で話しかけてくる彼女の様子に、少年は満面の笑みで感謝の言葉を述べた。
そこへ、一連の出来事を見ているしかできなかった母親がハッと我に返り、少年の元へ駆けつけて強く抱きしめる。
《氷の王女》としての彼女の噂を知っているらしい母親は、オフィーリアに対して怯えた様子で怯えながら、何度も「すみません」と謝りながら頭を下げる。
だが、恐怖の表情を隠そうともしない母親に対しオフィーリアは気にした様子もなく口を開く。
「そんなことをしている場合か。早く逃げなさい」
そう言うと、母親の右腕の傷を指差し、少年にしたのと同じように赤い光を放ち、治癒魔法で母親の腕の傷を癒やす。
それに気づいた母親は、深々と頭を下げる。
「あ…ありがとうございます!」
叫ぶようにそう言うと、母親は少年の体を抱きかかえ、走り出す。
母子を見送ると、オフィーリアはフゥ、とため息を吐く。と、近くの建物に目をやり、飛行型魔力系の跳躍魔法で、建物の屋根の上まで飛び上がった。屋根の上から上空を眺め、残っている魔獣の数を確認する。
……10分前に視認した魔獣の数は50体ほど。今はその半分以下の20体くらいだ。
(…いくら私やマギーアの騎士たちが総出で対処しているにしても、処理が早すぎる。それに、侵入してきた魔獣が飛行型の魔獣ばかり、というのも気になるわね)
――30年前、現在の大賢者オフィーリアが透視能力によって知った魔獣の思考は、単純だ。ただひとつ、「闇に向かって進め」。
何故か闇を好む彼らは夜間しか活動しない。警戒心も強いので、人がいるような気配を感じると自らの身を守るために人間たちを襲うのだが、本能のみで動く彼らには理性も知性もない。
そのため、何かの目的を持って人里に近づくこともなければ、人の命令に従って行動することもない。そもそも、ここまで大量に群れて行動するようなこともないはずだ。
飛行型の魔獣は、魔獣の中でも最も最弱の魔獣。飛行型はサメと同じで、活動を続けていなければ死ぬ。なので制圧するのは簡単だ。魔法で動きを封じるか、オフィーリアが先ほどしたように地面に叩きつけてしまえばいい。
そんな魔獣ばかりが、いくら夜が近づいていたとはいえ大群でこの街を襲いにくるなど、いくらなんでも不自然だ。
結界の一部が破られた時点で、誰かがこの件に絡んでいるのだろうと思ってはいたが、恐らくこの魔獣たちもその誰かが、敢えて飛行型の魔獣だけを呼び寄せているのだろう。
だがだとしても、こんな最弱の魔獣たちばかりを集めてどうするのか。街の破壊が目的ならば、魔獣の中でも最も力のある陸上型魔獣を呼び寄せた方が確実だ。
まるで、オフィーリアやマギーア部隊たちの処理の早さまで見越した上で、上空だけに注意を向けさせたいかのような…。
「…そうか、これは陽道ね」
つまり犯人の狙いは、街の破壊でもそこに住まう人々の殺戮でもない。オフィーリアを含めた街の警備たちの注意を上空の魔獣たちに向けさせ、その隙に地上で本来の目的を果たそうとしているのだろう。
恐らく、先日ロワ宮に忍び込んだ者と今回の騒動は関係がある。あの青年はロワ宮の書庫で何かを探していた。今回もそれを探すつもりでいるのなら、標的になるのはマギーアの訓練所か、トレゾール邸だ。
マギーアの訓練所には、記録保管庫にレヴィン王国建設からの歴史を記した『世界の記憶』の本があり、他にも貴重な魔法書がいくつかある。トレゾール邸にも貴重な魔法書や、《禁術の書》の写しもあるのだ。
あれらに手を出されるのは、非常にまずい。
「ここはあの子たちに任せて、私はそっちに向かおうかしらね」
とはいえ、いくらオフィーリアでも2つの場所を同時には見られない。オフィーリアが今いる場所から最も近いのはトレゾール邸だ。万が一に備えて傀儡人形たちを待機させてはいるが、相手は街の傀儡たちの目を避け、不完全とはいえ三大賢者の大魔法結界を破ることができた強者。人形たちだけでは心許ない。
「…ジェイ。ここはマギーアたちに任せて、訓練所に向かいなさい。何者かが侵入する恐れがあるわ」
口の中で呟くように命令すると、オフィーリアの頭の中で「御意」と答えるジェイの声が響く。
透視魔法を応用した、精神感応魔法だ。何やらジェイの声がどこか苛立っているようにも聞こえたが、今はそんなことをいちいち気にしている余裕はないので触れないことにした。
オフィーリアは踵を返すと、勢いをつけて飛び上がり、まるで獲物を見つけた鷹のような速度で建物の屋根ギリギリを飛行する。
オフィーリアは、苛立っていた。
それはジェイの苛立ちに触発されたからではなく、何者かが結界を破ったと知った時点で既に怒り心頭だった。
今回の一件は、そもそも前回の《貼り直し》の際にもっと精度の良い結界を張れていれば防げたかもしれないのだ。
張り直しとは、文字通り街を守っている結界を張り直すこと。
結界魔法には、大きく分けて2つの方法がある。ひとつは、自らの盾にして行う方法。水魔法と併用して行う場合も含まれるが、主に魔力を突風のように流すことで防いだり、鋼鉄のように固めて守る方法がこれに当てはまる。
そしてもうひとつは、守護型魔法の文字を刻んだ魔石に魔力を込めて行う方法。
1つ目の方法は自らが結界魔法を使用している間だけしか持続できないが、2つ目は一度魔石に魔力を込めてしまえば一定時間は結界を持続させることができる。街を守る結界は、この2つ目の方法を利用した大魔法結界だ。
大門を支える柱は、全て巨大な魔石で作られていて、その全てに守護型魔法の文字が刻まれている。大魔法結界は、三大賢者がその魔石に魔力を込めることで発動させている、《目に見えない鉄壁》なのだ。
ただし、魔石はあくまで魔力を貯めて使用するためのもので、魔石そのものに魔力があるわけではないので、魔石の中の魔力が少なくなると定期的に魔力を込め直さなければならない。これが《張り直し》だ。
だが、問題がある。
複数名で行う大魔法は、お互いの均衡を保つために放出する魔力の量をピッタリ合わせなければならない。ひとりでも放出する魔力の量が少なかったり多かったりすると、上手く魔力の均衡を保てず魔法は崩壊する。そして崩壊した魔法の代償は、激痛となってそのまま術者に返ってしまう。魔法の世界では《反動》と呼んでいる現象だ。
オフィーリアは、三大賢者の中でも最も力の強い魔力持ちだ。当然だが、彼女が誰かと大魔法を行うとなれば、彼女の方が相手に合わせて魔力放出量を下げることになる。魔石に込める魔力の量が多いほど結界の精度は上がるが、反対に魔力の量が少なければ結界の精度は当然落ちる。
これまでは他の大賢者2人の魔力放出量もそれなりに多かったので問題なかったが、近年Silver light……《灯火》の力が衰えてきている。そのため、オフィーリアも、もうひとりの大賢者Silver flame《火炎》も、《灯火》に合わせて力を抑えざるを得なかったのだ。
今回は、そんなところを狙われたためにこのような事態になった。オフィーリアはそう考えている。実際数年前ならば、いくら張り直しの時期が近づいていたとしてもここまで大事にはならなかっただろう。
つまり犯人は、張り直しの儀式の頻度を知っていて、《灯火》が力を失いつつあることも知っている可能性がある。
となると、やはり、《あの女》しか考えられない。
「……面倒なことになるわね」
オフィーリアは心底忌々しそうに顔を歪ませた。もっとも面倒なのはこの件の裏にいる《女》の始末ではない。その《女》を捕らえた後にクラトスがどのような行動に出るかという事だ。それを考えるだけで頭が痛くなる。
全て、あの二人のせいだ。
そもそも街の結界も、オフィーリアひとりでしようと思えば張り直すことはできるのだ。
こんな非常時に他人を責めるのは時間の無駄と分かってはいるが、それでも腹が立つものは腹が立つ。
苛立ちを隠せない様子でそんなことを考えていると、目的の場所が見えてくる。
トレゾール邸から少し離れた上空で動きを止めると、しばらく遠くから屋敷をじっと見つめる。見た限り屋敷に仕掛けてある結界には異常がないし、屋敷内の傀儡人形も正常に活動いている。
「……杞憂だったかしら?いくらあの人が関わっているとはいえ、トレゾールは王宮よりも警備が厳重だし…」
そう呟きかけて、ふと気がついた。トレゾールから2軒離れた建物の陰に、人の影があることに。どうやらトレゾールに向かっているらしい小柄な人影。フードを深く被って顔を隠しているつもりらしいが、オフィーリアはその正体にすぐに気がついた。
「…あの子……」
驚愕のような声を零すと、オフィーリアは心底楽しそうにニヤリと笑う。
…それはまるで、その人物がこのままトレゾールを暴くことを、望んでいるかのようだった。




