第5章 闇からやってくるモノ 1
プランセス宮の自室に戻ってきたセレナは、長ソファーに腰掛けてボウッと天井を見上げていた。あまりに想定外だった事実と情報量の多さに、脳がひどく疲労しているのを感じる。
何の気なしに壁掛け時計に目をやると、まもなく18時になろうとしている。自室に戻って、カレンに休憩するように言ったのが17時50分頃だったので、10分程度ボウッとしていたらしい。
デスクには昨日書庫から持ってきた歴史書がいくつか積み上がっているが、読む気にはなれない。デスクの向こう側の窓は茜色に染まり、まもなく日暮れだと分かる。
セレナはソファーからなんとか立ち上がると、デスクに歩み寄り椅子に腰掛ける。
(……忘れないうちに書き留めておこう)
セレナは普段日記として使っている手帳をデスクの引き出しから取り出し、同じ引き出しから白い万年筆を取り出す。
手帳をめくって空白のページを開くと、万年筆の蓋を開けてペンを走らせる。
クラニオから記録の内容を書き写すことは禁じられているので覚えている内容をそのまま書き出すことはできないが、疑問点を書く程度ならば問題ないだろう。
セレナは先ほど感じた疑問を、覚えている限り全て書き出し始める。
隠ぺいも改ざんもできないはずの保管庫の記録に記された、黒塗りの文言。事故があったことを思わせるような内容の後に、それを否定する文言が続いたこと。そして何より、第三者の存在を匂わせるような一言……。
黒塗りの文言のせいで確証の薄い内容だったが、それでも24年の事故がただの不幸な事故ではなかったのではないかと疑うことはできる内容ではあった。だというのに、テオスの街の歴史書にはあくまで『不幸な事故』だと記されている。
まるでこの街に生きる全ての人間が、その事実を必死に隠そうとしているかのようだ。
「……ディアヴォロスでは、どう伝わってるんだろう…」
セレナはペンを走らせながら、ポツリとそう呟く。
テオスの街ではただの事故でしかないが、ディアヴォロスでは違う歴史が伝わっているかもしれない。現に20年前に行われていた交易についても、テオスに住むセレナとディアヴォロスに住むニコラオスとでは認識が違った。
ニコラオスに聞けば、また何か分かるかもしれないが、次は一体いつ会えるのか……。
「……ん?」
部屋の外にが騒がしいことに気づくと、セレナはピタッとペンを止めて扉の方を見る。
詳細は分からないが、何を持っていけだとか、誰それを呼んでこいと叫ぶ声や、バタバタと慌ただしく廊下を走り回る足音が聞こえてくる。
いつもはこの時間に、使用人たちが忙しなく動き回ることはない。それに今日はこの後、入浴や夕食以外に何も予定はなかったはずだ。
何かトラブルでもあったのだろうか?急な来客か?そんなことを考えたセレナだったが、よほどの緊急事態であれば声をかけにくるだろうと思い直し、再び手帳に目を落とす。
と、その時。窓の外から何かの叫び声がして、セレナは思わずビクッと肩を震わせる。衝撃で万年筆が手から落ちた。
その叫び声がただの人間のものなら、誰かが外で騒いでいるのだろうか、と思うだけで済んだだろう。だがその声は明らかに人間のそれではなく、獣とも思えないような悍しい奇声。鼓膜を突き破るようなけたたましい声だ。
「……何?」
心のどこかで幻聴か、と思う自分がいたが、ただの幻聴で身体が震えるような感覚を覚えるわけがない。さらに奇声の他にも、何かが崩れる音や、人間の悲鳴と思われる声が窓の向こうから聞こえてきている。
セレナは恐る恐るといった様子で後を振り向き、窓の外を見る。すると、そこにはまるで地獄のような景色が広がっていた。
セレナは慌てて立ち上がり、その光景に息を呑む。
茜色の空を覆い尽くす、大きな翼を持った生き物の大群。その見た目は鳥に似ているが、顔も体の大きさも、普通の鳥のそれではない。
人の身体を軽く掴み上げられそうなほど大きくて鋭い爪に、獰猛な牙。ギラリと光る双眸の色は魔族のように赤く、その瞳孔はまるで蛇のように鋭い。その嘴は、その気になれば成人男性を軽く2人ほど丸呑みできそうな大きさだ。
セレナは、その生き物のようで生き物とは違うモノの名前を、知っている。
「…魔獣……っ!」
魔獣。
それは、今から30年ほど前に突如として現れた、魔力を餌としている人間でも動物でもない獣たちのことだ。
それまでは御伽話に登場してくるだけの存在だったそれらの正体は、30年の時を経て分かってきている部分もあるが、未だ謎に包まれていることの方が多い。
魔獣は飛行型、陸上型、水中型と、大きく分けて3つの種類がある。それぞれにそれぞれの生態や特徴があるが、彼らの全てに共通している大きな特性は、暗闇を好み、光のある場所には決して近寄らないということ。そのため本来彼らは夜間しか活動せず、日中は異界へ帰っていく、といわれている。
しかし、異界の存在に対する真偽は定かではないため、異界への入り口がどこにあるのか、そもそも異界が本当に存在するのかも分かっていないのだ。
テオスの街が魔獣に対して取っている対策は、夜間でも街の明かりを絶やさないようにすることと、街全体を覆っている結界。そして魔獣に対抗することを目的に結成された、魔力持ちのみのマギーア部隊。
夜しか活動しないモノたちが、よりにもよって、まだ夜になりきっていない人の街にやってくるとは。しかも、大賢者の結界で守られているこのテオスの街に。
テオスの街を守る結界は、オフィーリアを含む三大賢者が協力して施した大魔法結界だ。それは主に、悪意ある者たちの侵入を防ぐためのものだが、魔獣を近寄らせないようにする効果もあった。
だというのに……。
「どうして……何でこんなにも多くの魔獣が…!?」
恐れるような声で呟き、後退りして窓から離れる。とその時、突如部屋の片隅の方で誰かの魔力が流れたのを感じる。それは、セレナが小さい頃からよく知っている人物の気配。
セレナは気配のする方へ視線を向けると、白いカーペットの上に橙色の光を放つ魔法陣が出現した。魔法を学んだことがほとんどないセレナだが、その陣には見覚えがある。飛行型魔法と光魔法を併用して行う、光の陣の転移魔法だ。
魔法陣には紙に直接書いて行う紙の陣と、魔力の流れを利用して作る光の陣がある。魔力持ちの中で光の陣を使える者は何人かいるが、光の魔法陣の色は、本人の魔力の色によって変わる。赤に近い色の魔力を持つ魔力持ちは、この町では3人しかいない。
ひとりは大賢者オフィーリア・バラク、もうひとりはオフィーリアの従者ジェイ、そして最後のひとりは……。
「クラニオ従兄様!」
閃光と共に光の陣から現れたクラニオの姿に、恐怖していた心が一瞬で軽くなると同時に、セレナは逃げるようにクラニオに向かって駆け寄った。
クラニオは勢いよく抱きついてくるセレナの身体を慣れた手つきで受け止め、声をかける。
「セレナ、大丈夫か?」
先ほどまでの優しい声とは違い、少し緊張感のある声色だ。その声に、セレナはかなり緊迫した状況なのだろうと理解する。
クラニオの胸に顔を埋めるようにして抱きついてきたセレナは、慌ててクラニオの顔を見上げ声を上げる。
「従兄様、一体何があったの!?どうして魔獣があんなに……!」
「待て、大丈夫だから落ち着け」
半狂乱になりかけているセレナの頭に手を置き、宥めるように優しく撫でる。その慣れた手つきに、興奮気味になっていたセレナは少し落ち着いてくる。
昔からセレナは、ムキになったり気になることがあったり、不安なことがあると感情的になってしまう癖がある。
そんな人間は他にも多くいるだろうが、彼女の場合、覚醒が遅れているというだけでれっきとした魔力持ちだ。魔力持ちは感情が昂ると、魔力が暴走して自分の心が魔力に食われてしまう危険がある。特に自分で魔力をコントロールできないセレナのような魔力持ちの方が危険だ。魔力が暴走した時に、自分で魔力を抑制できない魔力持ちはたちまち魔力に飲まれてしまう。
そのため彼女は、感情が昂った時には今のようにクラニオに頭を撫でられたり、カレンに優しく宥められたりして気持ちを鎮めるのだ。
セレナがフゥ、とひとつ息を吐くと、クラニオは彼女が落ち着いたと判断し、彼女の身体を少し離して口を開いた。
「何があったのか、俺もまだ詳しくは分かってないんだ。ただ、どうやら結界の一部が破れて、そこから魔獣たちが入り込んできているらしい」
「破れた?叔母様たちの結界が!?」
あり得ない。セレナの頭に浮かんだのは、その言葉だ。
賢者は、魔力持ちの中でも特に力の強い魔力持ちで、且つ先祖返りでなければ得られない称号。そんな賢者たちの中でも、特に飛び抜けて優秀な魔力持ちが、三大賢者と呼ばれる者たちだ。
《Silver light 白銀の灯火》、《Silver flame 白銀の炎》、《Silver disaster 白銀の厄災》。
大賢者である彼らの実力は、普通の魔力持ちはもちろん賢者をも軽く凌駕する。
そんな彼らが協力して張った大魔法結界が、一部とはいえ破られるなんて……。
「…あり得ない」
思わず口から零れてしまった言葉。クラニオは大きく頷いて同意する。
「あぁ。いくら《張り直し》の時期が近づいてきていたとはいえ、あの3人の結界が自然に破れるとは思えない。恐らく、誰かが意図的にやったんだろう」
「……意図的に?」
クラニオの言葉に、セレナの心臓がドクン、と跳ね上がる。
やましいことは何もしていないのに、まるで図星を突かれたかのような心の震え。
セレナの反応を見て、彼女が恐怖を覚えているのだろうと思ったのか、クラニオは彼女を励ますように優しく言葉を続ける。
「心配するな。破れた結界は母さんが修復してある。だが、既に結界の中に入ってきている魔獣たちは始末しないといかない。俺は副隊長として、部隊の指揮を取らないといけないんだ。お前は《結界部屋》に隠れていろ。お前の乳母ももうそこに行っているはずだから、いいな」
半ば早口でそう言うと、クラニオは俯くセレナを残し、手のひらを床に向けてかざして光の転移陣を出現させる。と思うと、閃光と共にクラニオの姿が消えた。
クラニオが最後に言った《結界部屋》とは、王城にある7つの宮と2つの塔全ての地下室に存在している隠し部屋のこと。部屋の中央に守護型魔法の文字が刻まれた魔石の柱が立っていて、魔力持ちがそこに魔力を込めることで、その部屋そのものが結界になる、というものだ。
街に危険が迫った際に、緊急避難場所として数年前にオフィーリアが発案したものだ。王族と貴族の屋敷の地下には必ずあり、そこに逃げ込めば結界魔法が効いている間中にいる人間は安全なのだ。
いや、そんなことはどうでもいい。
セレナの頭は、逃げるよりももっと重要なことでいっぱいになっていた。
……意図的に。
つまり、誰かが何らかの目的のために結界の一部を破壊し、魔獣たちの通り道を作って、どんな方法を使ったのかは分からないが飛行型の魔獣たちを街に放ったということだ。
誰が、どうやって、何のために……。
方法までは分からないが、それをしたのが誰なのか、この騒ぎが何のためなのかはかろうじて予想がつく。
…予想が、ついてしまった。
何故なら今この街には、神族にとっては宿敵ともいえるあの街から、ある目的のために《魔族寄り》が潜んでいることを、知っているから……。
「……ニコラオス、どうして……」
恐らく今回の騒動には、ニコラオスも関係している。証拠はないが、そんな気がする。
心の中では「彼じゃない」と思いながらも、直感と呼ぶべき場所でそう感じている。結界を壊し、魔獣たちを侵入させ、関係のない街の人々を危険に晒すなんて……。そんな酷いことを彼がするだなんて、考えたくない。けれど、彼が関わっていると仮定すると、その目的まで自然と予想ができてしまうのだ。
それでも、否定したい気持ちが拭えない。
昨日の彼の様子からは、そうは見えなかった。私と同じようにお人好しで、他人を傷つけたくないと願っていて、人を騙すことなんてできない。少し寂しそうな目をしていたが、どこにでもいる普通の青年に見えたのに……。
人は見かけによらないということなのか、騙された私が馬鹿だったのだろうか。
セレナの目頭から涙が滲む。悔しいのか、悲しいのか、腹立たしいのか分からない。それでも、ひとつだけ分かることがある。零れ落ちそうになる涙を手のひらで拭うと、セレナは心を決めたように顔を上げる。
こうしてはいられない。耳に入ってくる情報だけを信じて従っていたら、これまでと同じだ。
自分の目で確かめると、決めたのだ。真実を知りたいのならば、自分が動くしかない。
セレナは頷くと、クローゼットから藍色のマントを引っ張り出して羽織りフードを深く被る。
「…よし」
気がつくと、クラニオと話している間に使用人たちの避難も済んだのか、扉の向こうは静かになっていた。音を立てないようにゆっくりと部屋の扉を開く。先ほどまでそこにいたのであろう廊下には誰もおらず、辺りには静けさだけが広がっている。
何故使用人たちが、このプランセス宮の主人であるセレナに一切声をかけにこなかったのかは疑問だが、恐らくクラニオが連れてくるだろうから問題ないとでも思ったのだろう。
抜け出すなら、今だ。
セレナは部屋を飛び出し、地下へ向かう階段とは反対の方角。プランセス宮の裏口の方へ駆け出したのだった。




