第4章 マギーア部隊 〜記録〜 3
『………悪魔の手により長と番は地に伏した。』
セレナはひどく困惑した。
保管庫の記録は、賢者や魔法使いたちが《透視魔法》で視た世界の記憶をそのまま言語化して念写したものだ。
魔法書のように書き手の魔力が宿っているわけではないが、記録の内容は魔法以外では書き加えることができず、改ざんすることもできないようになっている。にもかかわらず、明らかに意図的としか言いようのない不自然さで文字が潰されている。
偽りない真実を求めてここに来たセレナは、この黒塗りの文言に絶望のような恐怖のような、複雑な興奮を覚えた。
セレナは半ば乱暴にページをめくり、同じように黒く塗り潰されている箇所がないか確認する。しかし、最後のページまで見ても他に黒塗りの文はない。
内容もそこそこに本を閉じ、次の『パラフ暦21年〜30年』の本に手を伸ばす。同じく中を確認したが、やはり黒塗りの文はなかった。
……どうなってるんだろう。どうして事故の部分だけ…?
「…あ……」
疑問を抱きながらページをめくり続けていると、セレナはとある文言を見つけて手を止める。
その文言とは。
『パラフ暦24年1月。平和に最も近い時代の王、崩落。』
「……」
読み始めはあまり期待していなかったセレナだったが、予想外の内容の連続に言葉を失う。
パラフ暦24年1月。その年番から連想される事件はたったひとつ。
《反乱》だ。
半端者の王が自ら命を絶つに至った事件。と同時に、半端者の王政が終わることとなった事件。
だが、テオスの街の民にとって、半端者の王が治めていた時代は、『恐怖の王国』と言われるほどに恐ろしい時代だ。半端者の王の名も、誰もが知っていても決して口にはしないほどに忘れたい歴史なのだ。
「……『恐ろしく寂しい人でありながら、心の美しい人だった』、かぁ……」
カレンの言葉を思い出し、小さく呟く。
カレンの言葉の意味が、この『平和に最も近い時代』に関係しているのだとしたら、半端者の王の本当の姿は歴史に残る大犯罪者とは違うのかもしれない。
その後の文言は、『パラフ暦24年2月。神の生まれ変わり、最も賢き者として名を成す』や、『パラフ暦24年3月。街を封じる見えない壁の建設』などといった、歴史書にも記されている内容を連想させるような文が並んでいる。『パラフ暦23年5月。新たな平和の夜明けの誕生』といったよく分からない文言もあるが、少なくとも黒塗りで隠されている『パラフ暦20年6月』の文言以上に不可思議な箇所は見当たらない。
セレナは冷静さを取り戻すように大きく深呼吸をすると、本を閉じる。
記録を本棚に戻すと、流し読みだったために内容がまともに入っていなかった『パラフ暦11年〜20年』の記録を手に取った。
パラフ暦20年の記録を開き、内容を指でなぞりながら口に出して読む。
「…『雨は全てを押し流す』……。洪水とか、土砂崩れが起きたってことかな…?」
24年前の事故の詳細は、何故かどの歴史書にも記載されていない。馬車に乗っていて崖から転落したということは分かっているが、そもそもどこの崖から落ちたのか、何故転落したのかなどの詳細はどの歴史書にも記されていないのだ。
平民や下位の貴族の事故ならば、詳細が記されていないのも納得だが、事故で死んだのは国王と王妃、それも何百年も前の王ではなく、24年前の王。1万年以上続いたパラフの歴史を考えれば比較的最近の出来事だ。生前のポリュデウケス王と関わってきた者もまだ生きている。
だというのにどの歴史書にも詳細が記されていないのは、この黒塗りの文言と関係があるのだろうか。
この文言と歴史書に記されている『どこからの崖から転落した』という内容を照らし合わせて推測するに、おそらく雨による土砂崩れが発生し、事故が起きたのだろうと理解することができる。
セレナは続きの文を読み、黒塗りの行を指でそっと触れる。
元々の文字の上に黒のインクで塗り潰したのならば、触った感触でなんとなく分かるはずだ。しかし、そんな様子はない。ということはつまり、これは魔法で念写した際に此の黒塗りの行がそのまま念写されたということ。
世界の記憶そのものが、黒塗りで隠されている、ということだ。
「……『神の生まれ変わりは、長と番と同じ馬の車に乗って、流された。しかし馬の車を流したのは雨ではなく………』…?結局土砂崩れじゃないの?」
口元を触りながらうーん、と低く唸る。
土砂崩れか洪水が起こったような記述がありながら、しかし馬の車、馬車を流したのは雨による災害ではないと言う。
ならば、結局事故の原因はなんだったのか。雨による災害が原因ではないと明記しているのに何故それを示唆するような言葉が前提にあるのか。
理解のできない内容に、セレナは自身の頭に暗いモヤが発生したような気分になる。
だが、黒塗りの後に記される最後の1行に、セレナはハッと息を呑んだ。
『………悪魔の手により長と番は地に伏した。』
「……悪魔の、手により……?」
先ほどは黒塗りの行に気を取られてしまったので疑問にすら思えなかったが、これは事故について記述した文言だとは思えないような表現だ。
悪魔の手。
テオスの街で『悪魔』というと、魔族もしくは魔族の血が混ざった半端者のことを指している。ただの比喩表現という可能性もあるが、少なくともこの文言を見て理解できることは……。
「……事故じゃ、ない?」
24年前に起きた事故は、もしかすると事故ではないのかもしれない、ということ。
信じていた歴史がひっくり返るような内容。黒く潰された箇所にさらなる真実が隠されている可能性はあるが、内容が一部しか分からない今の状態だけでも街中の歴史書を全て書き換える必要必要を感じてしまうほどだ。
「事故じゃないとしたら、一体どうして……」
そう呟いた時、突然手元が真っ暗になりセレナはビクッと身体を震わせる。周囲を確認するように見渡すと、どうやら魔法の燭台の明かりが消えたらしく、部屋全体が暗くなっていた。
「…お、ちょうどいいタイミングだったな」
と同時に、部屋の外からクラニオの声から聞こえてくる。
セレナは慌てて扉の後ろを見ると、クラニオが部屋に入ってくる姿が見えた。
「あ、あれ?クラニオ従兄様?2時間後に来るって……」
「…?もう2時間経ってるぞ?」
「えっ……!?」
セレナが驚愕の声を上げる。それを見たクラニオはやれやれ、と呆れるように苦笑し、胸ポケットから懐中時計を取り出し、セレナに見せる。
暗いのでよく見えないが、時計の針はすでに17時半になろうとしていた。
「明かりをつけた時は15時だったから、ちょうど2時間経ってる」
「う、うそぉ……」
「嘘じゃない。現に明かりが消えてるだろ?まったく、一度集中すると時間の感覚がなくなる癖は相変わらずだな」
クックッと喉を鳴らすように笑いながら、クラニオはセレナの頭を優しく撫でる。子供扱いをされているようで気恥ずかしいような腹立たしいような感覚になったものの、クラニオの手が心地よくて、文句を言う気にはならない。
クラニオは少しすると満足したように手を下ろし、口を開く。
「……勉強か?」
「え?」
クラニオはそう言いながら、セレナの手元を覗き込む。
「急に保管庫に入りたいって言われた時は驚いたが、多分勉強の一環なんだろうなと思ったんだ。何か収穫あったか?」
「あ……っ」
クラニオの視線がセレナの手元の記録に向けられているのに気づき、セレナは慌てて本を閉じる。
「あ…えっ、と。まぁ、それなりに?」
誤魔化すようにそう言うと、クラニオは不思議そうに首を傾げ、「ふーん」と返答する。
隠さなければならない特別な理由があるわけではないが、《半端者の王》はテオスの街の大犯罪者。そして、クラニオの母であるオフィーリアは《半端者の王》の元妻だ。母親を尊敬しているクラニオに、「《半端者の王》について調べている」とはさすがに言いにくい。
それに、まだ確かな確証を得たわけでもないことを不用意に口にするべきではない。
セレナは本を棚に戻し、話を逸らすように微笑む。
「クラニオ従兄様は、お仕事終わった?」
「ん?あぁ、まぁ大体は。あ、ミートパイ。さっきラントが持ってきてくれて、仕事しながら食べた。美味かったぞ、ありがとな」
「そう、よかった」
安堵するように返答すると、クラニオは微笑み返してくる。
「…どうする?まだ続けるなら明かりをつけようか」
「あ、いや。18時から休憩を取ってもらう予定になってるから、今日は戻らないと。従兄様、ありがとう」
「そうか?じゃあ出ようか」
「うん」
頷きながら返答すると、セレナとクラニオは踵を返して扉に歩み寄る。と、その時。視界の端にどこかで見たような何かを捉えて、セレナは立ち止まり目を向けた。
本棚の陰に隠れていたので先ほどまで気づけなかったが、扉から見て左の壁に肖像画が飾られている。
――この絵のモデル、どこかで見たような……。
「セレナ、どうした?」
「あ、ううん。なんでもない」
クラニオの声にセレナはハッと我に返り、彼の後を追って部屋を出る。保管庫の外には変わらずカレンが立っていた。
――……高齢のカレンを2時間立たせて置くのは間違いだったかもしれない。
扉の横で待つカレンの姿に、セレナは今更ながらそう考えた。
「カレン、待たせてごめんね。疲れてない?」
「大丈夫ですよ」
カレンはそう言って優しく微笑む。
その顔に疲れた様子は見えないが、今日は念の為いつもより長く休憩してもらった方がいいかもしれない。セレナは城に戻ったらその旨を彼女に伝えようと決めた。
クラニオは保管庫の扉を閉めると、無詠唱で施錠魔法をかける。
記録保管庫の鍵は魔力持ちならば誰でも開けることはできるが、入り口には特殊な結界魔法が施されており、王族と王族に近い血筋の者以外が立ち入ろうとすると弾かれる仕組みになっている。
結界魔法は大賢者オフィーリアが施したものなので、その精度は何より確かなものだ。
部屋を施錠すると、クラニオはセレナの方を振り向く。
「セレナ。帰るなら城まで送ろうか」
「ありがとう。でも大丈夫。大体ってことは、まだ少し仕事が残っているんでしょ?ここに来る時はカレンと2人だったし、帰りも平気よ」
「…そうか?ならせめて正門まで送るよ」
「うん、ありがとう」
クラニオが廊下を歩き出すと、セレナもそれに続き、後を追うようにカレンも歩み出す。
セレナはクラニオをうまく誤魔化すことができたことに安堵していたが、それと同時にもしかすると気づくべきではなかったかもしれない事実に鼓動が早くなるのを感じた。
ニコラオスから聞いた氷の王女と魔族たちの交易を裏付けるような記録は探す暇がなかったが、それは別の新たな収穫を得ることができた。
何故か隠されている、24年前の事故の記録。第三者が介入したことを示唆するかのような『悪魔の手』という文言。
一体誰が、なんのために消したのか。隠された黒塗りの文言の下には何が隠されているのか。
「……やっぱり、一刻も早く覚醒しないと」
誰にも聞こえないような声で、セレナは小さく呟く。
それは決意に似た響きを持ちながら、どこか焦燥感に満ちた声だった。
*
「……」
オフィーリアは、トレゾール邸の三階のバルコニーでベンチに腰掛けながら、城下の街を見下ろしている。いつものマントはなく、賢者の象徴である白い生地に金色の刺繍があしらわれたドレスを身に纏っている。
中間門の中に150体、城下の街にも150体の傀儡たちが巡回していて、ちょうど今は、12時から18時までの時間を担当する傀儡のグループと、今から24時まで巡回する傀儡のグループが交代する時間帯だ。
トレゾール邸の門の前でそれぞれの担当の代表が、担当時間に起きた出来事について、魔法による《引き継ぎ》をしている様子が見える。先ほどまで巡回をしていた傀儡のグループは、これからオフィーリアが魔力供給と点検を行い、再び同じ時間に巡回することになるのだ。
基本的に《疲労》というものを感じない傀儡人形だが、機械仕掛けの人形は魔力供給が必要である上に、こまめに点検していなければいざという時に対応することができない。傀儡人形は、わずかな不具合だけでも故障の原因になるとても繊細な魔法器具だ。そのためオフィーリアは巡回用の傀儡1200体を、朝6時から12時までの午前グループ、12時から18時までの午後グループ、18時から24時までの夜間グループ、そして24時から朝6時までの早朝グループの4グループに分けて、交代で巡回させているのだ。
左手にワイングラスを持ち、飲みかけの赤ワインをくゆらしながらオフィーリアはベンチの肘掛けに頬杖をつく。
西の空が茜色に染まり、日暮れが近いことを知らせている。
「主人様」
オフィーリアの耳に、聞き馴染んだ声が響く。
気だるげに声のした方を振り返ると、そこには彼女の唯一の従者であるジェイが立っていた。
まるで感情がないかのような顔だが、彼の瞳は心からオフィーリアを案じているかのように揺れている。
返事をしない主人の様子を気にする素振りもなく、ジェイはさらに言葉を続ける。
「オフィーリア様、まもなく日暮れです。お身体が冷えますのでお部屋にお戻りください」
「……『身体が冷えるから』、ねぇ……」
皮肉っぽくそう呟きながら、嘲笑うように鼻でふっと笑う。
比較的暖かい季節ではあるが、それでも日が暮れると肌寒くなる。ジェイの心配は尤ものように聞こえるが、オフィーリアからすれば……いや、全ての《賢者》からすれば、彼の言葉は無用な気遣いだ。
ジェイは、自分は《賢者》になるべき器ではないと考えているため、《賢者》としての自覚がないのだ。
(……たかが気温で駄目になるような身体は、あの日に捨てたわ)
オフィーリアはすっと笑みを消し、冷たい視線でジェイを睨みつける。そして尋問するかのように、低い声で尋ねる。
「ジェイ、お前。昨夜は一体どこに行っていたの?」
「……」
怒りにも似た主人の視線を受けながらも、ジェイは表情ひとつ変えずに真っ直ぐに受け止める。
いつだってそうだ。大賢者オフィーリアの従者になるよりもずっと前から、この男は何事にも恐れないし、揺らがない。真っ直ぐにただ己の《主人》だけを見つめ、《主人》の命に従い、それだけが最高の幸せであるかのような態度を見せる。
実際にこの男の心の中は、己の《主人》への忠誠心で満ち溢れている。だからこの男の心を視ても、それで分かるのはただ真っ直ぐな思いだけだ。
氷のように冷たい沈黙が長々と続くかと思われたその時、ガラスが割れるような甲高い音がその沈黙を破る。
音は西の方角で鳴り、それと同時に何かの禍々しい気配が入り込んできた。
それは、夜を好むモノ。
まもなく日暮れとはいえ、まだ明るい人里などに好き好んで現れたりはしないはずのモノたちの気配だ。
オフィーリアは息を呑む間もなく慌てて立ち上がり、気配のする方を振り返る。下西町の端、数年前から誰も住まなくなった廃屋が立ち並ぶ方角。
茜色の空を駆ける大量の黒い影に、オフィーリアは自分の目を疑った。
「…まさか……っ!」