第3章 裏切り者 3
クラトスは気持ちを整えるかのように大きく息を吐き、本題へ移る。
「……先ほど、貴様の息子から私に報告があった。夕方頃に、ロワ宮内で侵入者の気配がしたかと思えば、すぐに消えたと」
怒りを噛み殺した声でそう言い放つ。
彼に報告しに来たのは、オフィーリアの息子だったのだ。
剣士としての腕はまだまだだが、魔法戦では隊の中で断然トップの実力者。父親のわからない子供ということで、クラトスははじめ甥に対していい印象を持っていなかったのだが、騎士としてマギーアの副団長になってからの彼の実力は認めていた。
しかし、やはり国一番の魔力持ちは、大賢者オフィーリアを置いて他にはいない。彼女の息子が感知できた侵入者の気配に、オフィーリアが気づかない訳が無い。そもそも中間門から内側は彼女の警備が最も厳重だ。にも関わらず王城に入られるまで気付けないということそのものがおかしいのだ。
クラトスが怒り心頭なのは、それが主な理由だ。
オフィーリアをじろっと睨みつけるが、彼女は白々しい態度で答える。
「おや、それはそれは。王室の皆様に怪我などありませんでしたでしょうか?」
「しらばっくれるな。貴様の息子が察知できたことに、貴様ほどの化け物が気づかなかったわけもない。何故私に報告しに来なかった?お得意の魔法で、いくらでも伝えにくることはできたはずだ」
「……先ほどから人を化け物扱いしておりますが、わたくしを化け物たらしめたのはどなたでしたでしょうか?」
そう冷たく答えるオフィーリアの顔から、笑みがスッと消える。氷のような瞳が、暗い部屋の中で金色の光を放っている。
殺気のような視線を浴びせられ、クラトスは思わず硬直する。背筋が凍りつくような恐怖が、彼を襲う。
……まるで、獣のような眼光。
感情が動く時に光る瞳。一説には、瞳の光り方で感情の種類が分かると言った賢者もいたが、この光は、一体どんな感情を表しているのか。
……私の娘も、いずれこんな不気味な目を向けるようになるのだろうか。
クラトスは必死に平成を装い、言葉を続ける。
「確かに、お前の言う通りだ。だがそれならば、私は貴様という化け物を生み出した、いわば創造者。番犬を使う主だ。飼い主の手を掴んだ犬にはそれ相応の仕置きをする。当然だろう」
「……やれやれ、今度は犬扱いですか。わたくしはいつからあなたのペットになったのやら」
呆れるようなオフィーリアの言葉を黙殺し、クラトスは殺気にも似た暗い瞳で彼女を見上げる。魔力持ちのそれとは違い、ただの人間からの殺気など彼女にとっては痛くも痒くもない。
それでも少し間を置いてから、ようやくまともに話す気になったかのように中央階段からゆっくりと降りてくる。
クラトスの前に並ぶと、オフィーリアの身長はヒールを履いていてもクラトスより頭1個分ほど低く、今度は彼女がクラトスを見上げるような形になる。
「……お前たちは下がりなさい」
傀儡人形たちに目配せをしながらそう声をかけると、「イエス、マスター」という2つの声が重なる。人形たちは踵を返すと、元いた場所まで戻って再び目を伏せた。そうしてじっとしていると、まるで置物だ。
その様子を見守ってから、クラトスは不快そうに眉を寄せる。
「……気味の悪い人形だ」
「あらあら、その気味の悪い人形を従えているくせに?」
オフィーリアの言葉に、クラトスは押し黙る。
畳み掛けるようにオフィーリアは言葉を繋ぐ。
「……臆病者の国王陛下?」
嘲笑うような声と笑みで、オフィーリアが妖艶に語りかける。
クラトスは不快そうな顔をさらに歪ませてオフィーリアを睨みつけた。が、オフィーリアはお構いなしに言葉を続ける。
「《気味の悪い》人形を自分の護衛につけるのも、こんな時間に私を訪ねてくるのも、些細なことに目くじらを立てるのも、全てはあなたが臆病だからでしょう?」
「…黙れ」
「その《勇敢な国王》の仮面がどのようにして剥がれ落ちるのか、見ものですわ」
「黙れ、お前に何が分かる」
「何も分かりませんわ陛下。所詮わたくしは別の人間ですので」
「人間だと?化け物の間違いだろう。御託はいいからさっさと説明しろ」
クラトスはそう答えると、苛立ち混じりに前髪を掻き上げる。
クラトスの《表》の顔は、彼ら兄妹の父である、前王ポリュデウケス・レヴィンにそっくりだった。
ポリュデウケスには、2つの《表》の顔があった。1つは民の前に見せる『優しくて強い王』の仮面。そしてもう1つは、家族の前に見せる『冷たくて無関心な父』の仮面。《裏》の顔は、正直自分の妻にさえ見せていたかどうかも分からない。
ポリュデウケスはそれこそ、偽りだらけの存在。血も心もかよっていない傀儡人形のような男だった。
クラトスは、父を嫌っていた。ああはなるまいと思っていた。
だが今は、父のようになることで自分も同じように国を平和に導けると信じている。
実際、ポリュデウケスの時代は大きな戦争も動乱もなく、比較的平和な状態が続いていたからだ。
それで父を模倣しようと思ったその気持ちも分からなくはないが、そもそも当時と今では時代も直面している問題も違うのに、同じようにいくと本気で思っているのか。
父を嫌悪しながら、父のような人間になり、妹を憎みながら、妹の力に頼っている。
その根底にあるのは、恐怖だ。
クラトスの裏の顔は、《勇敢な国王》とはかけ離れた、ただの臆病者。
24年前だって、行方不明になっていたのは、彼らが逃げたからだ。
20年前の、あの事件。犠牲になった魔族たち。彼らの残された家族や同族からの復讐を恐れ、報復を恐れ、身を守るためにクラトスは気味が悪くても優秀な傀儡人形を護衛につけている。
これで歴史には《勇敢な国王》と称されて残るのだから、笑ってしまう。この男のどこに勇敢な一面があるというのか。
……本当の意味での勇敢な王は、オフィーリアの知る限りひとりしかいない。
オフィーリアはため息をこぼし、口を開く。その顔から再び笑みは消えている。
「確かに、夕方頃に何者かの気配を感じました、なんらかの力によってうまく隠されている様子だったので、わずかに、ですが」
「侵入者の目的は」
「書庫で何かを探している様子でしたが、それが何なのか、また何のために使用するのかを視る前に気付かれ、《抵抗》を受けました」
オフィーリアの最も得意とする魔法は、氷系魔法だ。だが、他にも得意な魔法がある。
隠密型の、透視魔法。
人や物、世界の記憶や、隠していることを読み取る魔法。
意思もなければ抵抗もしない物や《世界》が覚えている記憶を読み取ることは、容易で正確だ。そのままそれが国の歴史として本に残されるほどに。
だが人の記憶は、自らの解釈や「知られたくない」という本人の意思によって揺らいだり、隠されたり、書き換えられたりする。特に相手が同じ魔力持ちである場合には、絶対に隠したい秘密であればあるほど強い《抵抗》を受けることがあるのだ。
だが、大賢者ほどの実力者ならば、隠そうとしている記憶まで遡って暴き、全て視ることはできる。よほど強い精神力の持ち主か、実力のある魔力持ちでない限りは、彼女に隠し事をすることができない。
しかしそんな彼女の透視魔法が、《抵抗》を受けた。相手はそれなりに力のある人間だということだ。
「報告を避けたのは、少し気になることがあったからです。相手の実態が掴めない以上、不確かな情報を流しても国民に要らぬ恐怖と不安を与えるだけ。それにもし報告すれば、あなたはわたくしの意見など聞かずに街の警備を強化するように命じたでしょう。それでは相手も警戒して尻尾を見せません」
淡々と話すオフィーリアの姿に腹が立ちつつも、クラトスは反論することができない。特に彼女が後半に言っていたことは、自分でもその通りだと納得してしまったからだ。
ぐうの音も出ない様子のクラトスを見つめるオフィーリアの心中には、彼に報告することを避けた別の理由があったのだが、それは黙っておくことにする。
その理由は、彼にとって聞く意味のないことだ。
「……事情は分かった。それで、侵入者が何者なのかも分からないのか?」
「詳しくは分かりませんが、おそらく半端者……それもディアヴォロスの手の者かと」
「…ならば、中間門を越えた時点で気付くのではないのか?」
「もちろん、そのはずです。ですが、今回は感知できなかった。侵入者が宮内で魔力を使用したことによって気付くことができましたが、そうでなければ何かしらの被害が出ていたことでしょう」
オフィーリアの返答に、クラトスは腕を組んで口元を摩りながら低く唸る。
オフィーリアの傀儡人形は、オフィーリアの魂と連動している。それらが傷つけられれば、その痛みはそのままオフィーリアにも伝わり、またそれらが魔族の気配を感じれば、すぐにオフィーリアにも伝わるようになっている。
たとえ相手が容姿を偽っていても、魔法で姿を隠していても、隠そうとする相手の思惑や魔法の痕跡まで探り、その正体を見破ってしまうのだ。
だが今回に限り、宮内に入られるまでオフィーリアに気づかれなかった、ということは考えられる可能性は2つ。
「既に《登録》が済んでいる者か、貴様を欺けるほどの化け物、ということか」
基本、王族と貴族以外は中間門を越えることができない。だが、王族と貴族相手に商売をする商人や仕立て屋などは、傀儡人形に自らの《血》を1滴だけ飲ませて登録することで、中間門を自由に越えることができる。それは半端者でも、ただの人間でも同じだ。
「ディアヴォロスにそれほどの実力者がいるとは聞いたことがない。となると、登録済みの半端者が裏切った、ということか」
「いいえ、傀儡たちが登録している半端者は《神族寄り》だけです。侵入者気配は、魔族に近いもののそれでした。《魔族寄り》はそもそも、大門を抜けることすらできません」
半端者の魔族寄りと神族寄りの区別は、主に瞳の色で判断される。
瞳が赤く髪の色が白かそれ以外の半端者は《魔族寄り》。逆に瞳の色が黄色で、髪の色が黒かそれ以外の半端者は《神族寄り》と呼ばれるのだ。
魔族寄りは文字通り、半端者の中でも魔族に近い者なので、テオスに住むことも入ることもできず、本来はディアヴォロスに住んでいるはずなのだ。
クラトスは怪訝な顔をして尋ねる。
「……まさか、後者だと?」
「私以上の力の持ち主など、探そうと思えばいくらでもいましょう。けれど、今回はそういうわけでもなさそうです」
「ではなんだ」
尋ねられて、今度はオフィーリアの方が腕を組み、考えるような姿勢を取る。
オフィーリアが透視して知った限りの情報では、侵入者は確かに、それなりに力のある魔力持ちではあるが、オフィーリアほどではない。
歳はまだ若く、19か18といった青年ほどで、経験も浅く人を傷つけたことすらない様子だった。
そんな青年が、たったひとりで中間門の厳しい警備を抜けて侵入できようはずもない。
「……おそらく、誰かが手助けしたのでしょう」
傀儡人形の監視を避け、王城の中で最も警備が厳しいロワ宮の内部に半端者を手引きできた者。そして、ディアヴォロスと繋がりのある者……。
そんな芸当ができる人物を、オフィーリアはひとりしか知らない。
そしてそれは皮肉なことに、彼女がクラトスに隠したもうひとつの理由に関係することでもある。
「……アグネス」
「――っ」
その名前に、クラトスは息を呑み、目を見開く。
彼がそのような反応をするであろうことを、オフィーリアは予測していた。だが彼女の知っている限りだと、その人物以外あり得ないのだ。
「彼女は私よりも魔力が低い。ですが、私さえもその存在を感知できなくなる隠密型の魔法を得意としています」
隠密型の魔法には、影系魔法、闇系魔法、透視魔法、幻術魔法の4種類があり、その中でオフィーリアでもその気配を感知できなくなってしまうのが、闇系魔法。魔力の少ない者でも扱える魔法で、姿はおろか魔法の痕跡まで消してしまう魔法だ。
それを得意としていて、尚且つ彼女の知る限り最もディアヴォロスと関わりが深い者、そして現在行方が分からない彼女ならば、侵入者と協力していてもおかしくない。それにオフィーリアは、アグネスのことをよく知っているので、彼女が魔族に協力しているとしても何ら不思議に思わないのだ。
オフィーリアの推測に、クラトスは目を見開いたまま震える声言葉を絞り出す。
「…確かに、アグネスをディアヴォロスに向かう路で見たことがあるという証言が過去にあったが、しかし……」
信じられない。
クラトスのその言葉を飲み込んだ。
……あれから約20年長らく聞いていなかった、その名前。生死すら定かでなく、彼がずと探していた、その名前を。よもやこんな形で聞くことになるとは、思わなかった。
クラトスは今ようやく、オフィーリアが何故報告を避けたのか、心から理解できた。確かにこんな不確かな情報、聞かされたところでクラトスや国民に不安と恐怖を与えるだけで、何の意味もないことだ。
クラトスの瞳が、震えている。
戸惑いを隠せない様子の彼に気付いて、オフィーリアは諭すような声で話しかける。
「陛下、私情はお捨てください。でなければ足を掬われます」
わざと《陛下》という言葉を強調して言い放つ。お前は王なんだと知らしめるかのように。どこか寂しく、暗い金色の瞳だけが、ただ真っ直ぐにクラトスに向けられている。
クラトスはオフィーリアの忠告にハッと我に返りわざとらしく咳払いをすると、気持ちを切り替えてからオフィーリアに命じる。
「…侵入者の動向を探り、見つけ次第捕えて尋問せよ。もし本当に協力者がいるならば、その者もとらえて処罰しておけ。分かったな、《白銀の厄災》」
「……御意のままに」
オフィーリアは深々と頭を下げて、クラトスに応じる。クラトスはそれを確認すると踵を返して屋敷を出る。
鈍い金属音を立てて扉が閉まってから、オフィーリアはゆっくりと頭を上げる。その瞳は、クラトスに向けられたものとは比べ物にならないほどに暗く、寂しい輝きを放っていた。
《白銀の厄災》。そう呼ばれることに今更抵抗はないが、その名を呼ばれるたびにオフィーリアは、賢者の役職を与えられ、《儀式》を受けた日のことを思い出す。
全てを失い、心を殺し、《賢者》の仮面を被ると決めた20年前。《白銀の厄災》という名前は、これから自分が背負ってくべき業と、偽っていくべき《表》の顔。本当の姿を知られないように、オフィーリアはただひたすら己を作り替えていったのだ。
そうして《心優しい王女》から、《白銀の厄災》に生まれ変わった彼女の心に今も渦巻いている感情は、夫、半端者の王への煮えたぎるほどの憎悪と怒りだ。
*
民間の住宅街の中に、誰も知らない屋敷がある。そこは何十年も昔に半端者で初めて男爵の地位に就いていた男が、死ぬ直前まで住んでいた家で、中はかなり荒れているが、それなりに広くて立派な屋敷だ。
残念ながらその男爵は、結婚はしていたものの子宝に恵まれず、彼が病死した後に絶家してしまったらしい。
初代のみで絶えた貴族の名前など、歴史の中に残るはずもなく、当時は珍しかった半端者の貴族だが、今はあちこちに存在していて珍しいものではなくなっている。そのために男爵の名前は人々に忘れられ、誰も知らないこの屋敷だけが残ってしまったのだ。
その屋敷の地下室には、当主が客人や取引相手との密談に使用された談話室がある。書斎と思しき部屋に地下への隠し扉があって、それを開けると地下に続く長い階段があった。それを降りていくと、談話室に通じる木製の古い扉が現れる。
その扉を、ニコラオスは控えめにノックする。
すると中から、女のくぐもった声が聞こえてきた。
「……神の名は」
「アトラス」
短く答えると、中から扉を開けられた。そこには、黒髪で目元を赤いマスクで隠し、黒いマントを身に纏った壮年の女性が立っている。
女はニコラオスの姿を見ると、口元だけでにっこりと微笑む。
「おかえり、ニコラ。遅かったのね」
「…ごめん」
「まぁいいわ、入りなさい」
女に促され、ニコラオスは部屋の中に入った。
古びたローテーブルの両脇に、向かい合わせになるようにして継ぎ接ぎだらけの2人掛けのソファーが2つ並んでいる。部屋の中を照らしているのは、壁の四隅についた蝋燭と、ローテーブルの上でチロチロと炎が揺れている燭台だけ。部屋の中はひどく薄暗い。
合言葉に互いのミドルネームを使うのが、彼らの合図。
レヴィン王国の人間は、自身の子供のミドルネームに神の名前を使うことが多い。そうすることで、自身の子供が神の加護を受けると信じられているのだ。
そのためこの国では自身のミドルネームを、《神の名》という。神の加護と信じられているだけあって、神の名は特別な意味を持っており、それを共有できるのは自分の家族か、心から信頼できる相手にだけだ。
ニコラオスは女の姿を、上から下まで舐めるように見つめてから、尋ねるようにして口を開く。
「…どこか行ってたのか?母さんの表の格好、見るの久しぶりだ」
「ん……?あぁ、まぁね。ちょっと人に会ってきたの」
《母さん》と呼ばれたその女は、ニコラオスの母親だ。
母はニコラオスに答えると、自身の頭の上に手をかけて、被っていたウィッグをずるっと滑らせるように外す。黒髪の下に隠されていた髪色は、白だ。
母はウィッグをすぐそばのソファーの上に半ば乱暴に投げ捨て、瞳の色を隠していたマスクに手を伸ばし、捨てる。
その瞳の色は……黄色。純粋の神族だ。
「…それで、《禁術の書》は見つかった?」
「…いや、探してる暇がなかった。……その、邪魔が、入って」
そう答えるニコラオスの脳裏に、あの、お人好しな王女の顔が蘇る。これまでの人生において、あそこまでお人好しな人間に会うのは、初めてだった。
恐れることも疑うこともない真っ直ぐな瞳、侵入者であるニコラオスに自分の名前を明かしたり、自分を襲ってきた相手をすぐに衛兵に引き渡さず、話を聞きたいと言い出した、変わり者の彼女。
しかし不快に思うどころか、ニコラオスは命令も忘れて彼女との会話を楽しんでしまった。
ニコラオスとしては、彼女を《邪魔》呼ばわりするのは正直本意ではなかったのだが、詳しく説明すると長くなるし、ややこしいことになりそうなので、母にこの話をするのは避けようと決めた。
それよりも、報告しなければならないことがあるのだ。
「それと、ごめん。うっかり宮内で魔法使っちまって、氷の王女に俺のことがバレた」
「…そう。なら、急いで片をつけないとね」
「…どうするんだ?氷の王女は本当に強い。実際に対峙したわけじゃないけど、あれは駄目だ、桁が違う」
思い出しただけで、鳥肌が立つ。ニコラオスの顔色は、薄暗い部屋の中でもよく分かるほどに青くなる。
あれはもはや、人の次元では測れない。まだ背中に彼女の視線を感じるようだ。
まるで獣、いや、化け物に睨まれたような、吐き気がするほどの緊張感。遠くから向けられたものであるにもかかわらず、命を危険を感じるほどの殺気。ひとり2人殺しただけでは、あんな殺気は向けられない。
初めて本物の殺意に触れたニコラオスは、自分でも情けなくなるほど足がすくんでしまって、すぐには動けなかったのだ。
「咄嗟に抵抗したけど、氷の王女は一瞬だけ俺の心を覗いた。俺が《禁術の書》を探していることに、気づかれたかも……」
「それなら心配いらないわ。もし気づかれても、きっと彼女は何もしない。……それどころか、私の目的を知ったら、彼女の方から協力を申し出てくれるかもしれないわね」
母の顔が、ニヤッと妖艶な笑みを浮かべる。何かを企んでいる時の、彼女の顔だ。ニコラオスは、この母の顔が苦手だ。母がこういう顔をする時は、大抵面倒なことを考えている時だから。
ちなみにニコラオスは、母の目的を全ては聞いていない。ただ、《禁術の書》を手に入れることの重要性をスザンナに説いたのが母である、ということは知っていた。
他の魔族たちは《敵》である母に不信感を抱いているので、危険を冒してまで《禁術の書》を手に入れることにあまり乗り気でない者の方が多かった。だが母は代表の側近としてスザンナからは絶大な信用を得ているので、母の意見は見事彼女に聞き入れられたのだ。
正直ニコラオスは、母のためになるならば自分は目的など知らずとも構わないと思っていた。しかし、セレナと言葉を交わして、母が何のために《禁術の書》を欲するのか、また何に使うつもりなのか…。
母は何が楽しいのか愉快そうにクスクスと笑いながら、まるで独り言のように言葉を続ける。
「《禁術の書》については、万が一見つからなかった時のことを考えて、《あの人》と交渉しているから。彼が受け入れてくれれば、何とかなるはずだわ」
「……母さん」
母の言葉を遮るようにして、ニコラオスは声をかける。母は顔だけをニコラオスに向けて、首を傾げる。
「ん?」
「母さんは、何をしようとしているんだ?」
ニコラオスがそう尋ねると、母にはそれが想像もしていなかった質問だったらしく、驚いたように目を見開いた。それもそのはずだろう。ニコラオスが《目的》というものに興味がなかったことは、彼女が1番よく分かっているのだから。
驚いた様子の母に気づいていないふりをして、ニコラオスは母からの返答を待つ。
母の性格をよく知っているニコラオスは、こんな直球で尋ねても母が容易に詳細を話してくれるとは欠片も思っていなかった。きっと曖昧な言葉を一言だけ答えられ、あとは何も語りはしないのだろう。
そうは分かっていても、聞かずにはいられなかったのだ。
テオスの街とディアヴォロスの街とで大きく違う、歴史の解釈。立場が違えば違った解釈が生まれるのも当然なのかもしれないが、だが一応は同じ国に住む同じ歴史を経験した者たちだ。
だというのになぜここまで誤差が生まれるのか。そして、一体どちらの解釈が本当の歴史なのか、ニコラオスはどうしても知りたくなったのだ。
正直、それを知ったところで何も変わらないとは思うが、それでも気になってしまったのだ。
……あのおかしなお姫様に影響されただろうか?
母は少し考えてから、再びニヤリと妖艶な笑みを浮かべる。およそ息子に向ける笑みではない。おそらくまた、何かを企んでいるのだろう。
嫌な予感がしながらも、ニコラオスは母の返事を待つ。
そして、母は静かに答えた。
「革命よ」
 




