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キミとふたりで異世界召喚

シュウは選択を間違えない

作者: もずくっこ

異世界召喚されたカップルの彼氏の方が、俺の彼女かわいいな~!って連呼してるだけの話です。

 



 網代木柊が初めて彼女に出会ったのは、文芸サークルの新メンバー紹介を兼ねた飲み会でのことだった。

 正確には、網代木柊が通う大学には、文芸サークルは二種類あった。作る方と読む方だ。網代木柊の所属していた文芸サークルは読む方であり、第二文芸と呼ばれていた。

 創作意欲のある人間は第一文芸に入る。第二文芸は過去の卒業生が寄贈した本をただひたすら読んでいたいとか、内職がてら好きに使える部室が欲しいとか、そういう自由気ままな理由で入ってくる人間がほとんどだ。

 だから幽霊部員も多く、全員が顔を合わせる機会など年に数回しかない。主に学園祭の準備期間と新歓活動関連なのだが、この日はその数少ない機会のうちのひとつ、新歓の飲み会だった。

 いい加減な乾杯の音頭ののち、おのおの好き勝手に席に散らばる。知り合いで固まるもの、さっそく新入生に声をかけるものと様々だったが、網代木柊はひとりの女子が気になっていた。

 席はテーブルの向かい側で、斜め二つ隣なので、正面を向けば視線はかみ合わないはずなのに、やたらと目が合う。まだ初めの挨拶くらいしか言葉を交わしていないのに、じっと見つめられている。……気がする。

 どうも観察されている気配に堪えかねた網代木柊は、開始から三十分ほどして、席を代わり始めた周囲に紛れ、彼女の近くに移動した。


「どうしたの?」

「……えっ?」


 威圧的にならないようにそっと呼びかけたつもりだ。それなのに、彼女はまさか自分に声をかけられたとは思っていない様子で、どんぐりみたいな目を丸くして、きょときょとと首をすくめ、他の誰かではないのかと周囲を探してから、網代木柊を見返した。ふわふわとボリュームのある髪も相まって、小動物的な愛らしさがある。


「やたら目が合うから。俺、なんかおかしなところあるかな。髪が跳ねてるとか」


 わざとおどけた素振りで尋ねる。網代木柊は目がつりがちの切れ長で、素の顔だと不機嫌そうに見えるとよく言われるため、それを緩和するように努めている。

 案の定、彼女はやっぱり動物のように素早く瞬いた後、ほわっと笑った。網代木柊とは正反対に、ただそこにあるだけで幼くあどけない印象を与える顔だ。


「いいえ。あのぉ、センパイの名前って、ヒイラギって読むんですか?」

「うん? ああ、違うよ。シュウ。アジロギシュウ」


 彼女が見ていたのは、胸につけた名札という名の紙切れだったらしい。初対面の酒の席で名前などすぐに覚えられるものではないから、今回の飲み会ではメンバー全員が身につけている。

 なんだ名前か、俺のことじゃなかったのか、といささか気恥ずかしくなった網代木柊の横で、のん気に手をたたいた彼女は、変わらずほわほわ笑っていた。


「なあんだ。アジロギヒイラギって、韻を踏んでるのかと思ったぁ」


 満足そうな声音は、思い悩んだクイズの答えが出たとばかりのさっぱりした声で、そのままグビグビとウーロン茶のカップを傾け始めたものだから、網代木柊はもう興味が失せたようなその横顔をまじまじと見つめてしまった。

 そして、たまらず噴き出した。


「君、そんなこと、ずっと考えてたの!」


 飲み会の開始から三十分も、飽きずに名前の読み方をあれこれ考えていたというのか。あんなに真剣な表情で?

 笑気が収まらず肩を丸める網代木柊を、不思議そうに見つめる彼女の口はぽかんと開いたままだ。つるつるした白い歯が覗いている。

 無防備で、子どもみたいだ。あけすけで、動物みたいだ。無条件で愛らしい、何かだ。

 網代木柊が生来持ち得ないものを持っている彼女がとても気になって、網代木柊は、シュウは、今度はこちらから、彼女の名前を尋ねた。

 それが、フキちゃんとの出会いだ。







 水を汲むために下りた沢からえっちらおっちら戻ってきたシュウは、待たせていた彼女を見た途端に、せっかく汲んできた水の入った皮袋を放り投げて駆け寄った。


「フキちゃん!」

「あ、シューくん、お帰りなさい~」

「ただいま! 何食べてるの!」


 ぐむぐむと頬を膨らませたフキちゃんは、慌てて華奢な手をすくい上げたシューくんを見上げ、ぱちくりと瞬いた。かわいい。

 フキちゃんはシュウのつり目気味の顔つきをよく「絵本に出てくるいいキツネ顔」と称するが、それをいうならフキちゃんの面立ちはリスに似ている。シュウはフキちゃんが食べ物を頬張った時にできる頬袋を見るのが好きだ。

 フキちゃんは少し困ったように一生懸命咀嚼していた。物を口に含んでおしゃべりする習慣のないフキちゃんである。どうにか口の中の物をなくして、シュウの問いかけに一刻も早く答えようと頑張っているのだ。ぐむぐむぐむ。焦って喉に詰まらせやしないかとハラハラしてしまう。

 放り投げた皮袋の存在を思い出して拾いに行くと、少しばかりこぼれてしまっただけで中身は無事だったので、幾分か頬袋のボリュームが落ちたフキちゃんにそっと差し出す。

 多少減ったとはいえ、半ばほどは水で満たされた袋が重いのか、ちんまりした両手で皮袋を支えて、んくんくと喉を鳴らしては水を飲んでいる。かわいい。

 シュウは、皮袋の代わりにフキちゃんの手から受け取ったものを観察した。フキちゃんのかじりついた跡が残るそれは、手のひらサイズのりんご、に見える何かだ。『シュウたちの世界』を基準にして言うなら、日本産のものより小ぶりで、なぜか表皮の色が茄子紺である。毒々しい。一瞬で食欲の失せる見た目をしている。


「……おいしくないよ?」


 なんとか水で口内のものを流したらしいフキちゃんが、そろそろと忠告した。あまりにじっと見つめていたので、シュウが興味を持ったのだと思われたらしい。


「ぱさぱさしてて口の中が乾くし、味ないよぉ。甘くないとかじゃなくて無味だよ~」


 唇を尖らせてブウブウ不満を垂れながら、お勧めしないと示している。


「じゃあなんで食べちゃったの」

「だって……おいしいかもしれないと思ったから……」


 フキちゃんの丸い瞳が伺うように上目遣いになる。かわいい。習い性で、もはや仮面のように微笑が貼り付いたシュウの顔が、でれでれとやに下がりそうになって、慌てて頬を引き締めた。


「気付いた? これ、どこにでもあるんだよねぇ。ほら、あっちにも、あっちにもさ」


 きょときょととあちこちを指さす桜色の爪先を追えば、確かにちらほらと枝葉の影から茄子紺の色彩が覗く。暗色だったので目立たず、あまりシュウの視界には入っていなかったが、確かに意識すると森の中のいたるところで実がついている。


「多分ねぇ、ものすごーく生命力が強いんだね。肥沃な土壌でなくても育つんだ。実が甘くないのは、付加価値をつけなくても種を運んでもらえるくらい、周囲の土地が痩せてるってことかなぁ」


 くりくりと丸い目が、じっと茄子紺のリンゴを凝視している。フキちゃんは見るものすべてに興味を持つ。今はこのリンゴに夢中らしい。

 シュウはそれを取り上げて、黄変し始めた歯型の上からかぶりついた。


「あっ」

「ほんとだ。おいしくないね」

「だ、だからおいしくないって言ったのに!」

「水分奪われる。粉っぽい」

「水飲みなよぉ、なんで食べたの……」

「フキちゃんだって食べたでしょう」

「フキコはぁ、おいしいかもって思ったんだもん……」


 すかさず寄越された皮袋に口をつけながら、唇を尖らせるフキちゃんを眺め、次いで足元を観察する。


「どうしたの」

「食べたの、一口だけ?」

「そうだよぉ、おいしくなかったし」

「そっか、じゃあ、大丈夫かな」


 念のため、他の食べかすの落ちていないことを確認したシュウが、おおざっぱに噛み砕いた果肉を飲み込む。


「何が大丈夫なの?」

「んー……まあ、今後はもっと気をつけて、あやしいものをみだりに食べないこと」

「みだりじゃないよ! 少なくとも三種類以上の動物が食べてたの確認したし!」

「それでも。ここは日本じゃないんだから。ほら、今日はあの岩山まで行くんでしょ?」

「……そうだよぉ」


 子ども扱いされたと思ったのだろう。なだめるために頭を撫でた手を振り払って、フキちゃんはシュウをねめつけた。その小さな身長からだと上目遣いになる。かわいい。威嚇の用途をなしていない。ひたすらにかわいいだけだ。

 シュウは目尻を下げて笑って、芯が見えるほどかじりとったリンゴのくずを投げ捨てる。フキちゃんとシュウの体積の差と、嚥下したリンゴの量を比べれば、追加分はいらないだろう。

 これで、大丈夫だ。

 もしも先ほどのリンゴに、遅効性の致死毒が含まれていたとしても、共に死ねる。





 もしも、風雨を阻む屋根の下で眠り、毎日三食の食事を食べ、洗濯された衣服を身にまとい、学業のために学校へ通えることが幸福の定義だとするなら、シュウは確かに幸福であった。

 少なくとも、シュウ自身はそう認識していた。

 シュウには、戸籍上の父親がいない。アジロギは母親の名字である。

 もちろん、血縁上の父親は存在するのだが、シュウは一度も会ったことがなかった。母親が言い含めたわけではない。意図して顔を合わせないように、シュウが逃げ回っていたのだ。

 シュウの母は定職に就いていない。昼も夜も関係なくどこかにでかけることはあったが、いつも美しく着飾っていたので、仕事ではないだろうと思っていた。実際のところ、どうなのかは尋ねたこともない。

 ただ、彼女は家政をおろそかにすることはなかったし、不在の際もシュウの食事は三食しっかりと用意されていた。糊の利いた白いシャツも、埃の積もらない床も、家の中はきちんと整えられていた。そして、彼女は家には居着かなかった。まるで役割さえこなせばあとは好きにさせてくれとばかりに。

 言うなれば彼女は、母親ではなく、妻ではなく、一人の女だった。物心がついたころは、母親の理不尽さに納得がいかず、ぐずって甘えたがったこともあったシュウだが、自制が利くようになると、次第にその事実を理解した。

 もたらされるべき愛情が与えられないのではない。そもそも、彼女にとってのシュウはそういう対象ではないのだ。それだけのことだ。

 知り合いの年上のおねえさんと一緒に暮らしている。そう思うようになってからは、シュウの精神はずいぶんと安定した。

 実際、母親は年の割に若く見えた。彼女が日々たゆまぬ努力をしているところが大きいだろう。なぜならば、彼女の魅力の有無はそのまま死活問題となるからだ。

 収入のない彼女と、職に就ける年齢でないシュウの生活を支えていたのは、シュウの血縁上の父親からの金銭的援助である。シュウの母親は、古風にいえば妾、婚姻を伴わず男女の関係になった、いわゆる愛人だ。

 シュウはその彼の名前も、容姿も知らない。自ら尋ねることのない息子に対し、母親もわざわざ相手の情報を言い聞かせてやったりはしなかった。ただ、シュウが彼を避けていることには気付いているらしく、来客の予定があるときは、シュウにその日時を伝えてくれた。

 一度だけ、彼の訪問とかち合いそうになったことがある。来ることは解っていたが、午前と教えられていたので、もう帰っているだろうと高をくくって帰路に就いた中学生のシュウは、家の前に停まる一台の自動車にぎくりと身を竦めた。

 黒のセダンで、後部座席側はスモークガラスになっていて内側が伺えない。だから、その中に誰かいるのか、今は空なのかもわからなかったが、シュウは何かを考える前に体を反転させ、突っ張る手足で必死に駆けだした。

 まるで凶器をかまえた殺人鬼から逃げ出すように、必死に、みっともなく、我も忘れて逃げ出した。

 早く、一人で生きられるようになりたかった。

 誰の手も借りず、幸せになりたかった。

 高校を出てすぐに働きたかったが、息子の将来になど何の興味もなかったはずの母親が、初めて大学進学を勧めてきた。恐らくは、血縁上の父親の意向なのだろう。

 少しでも認知することのない息子への愛情があるのか、罪悪感か、あるいは、ただ血が繋がっているというだけでも、自分の子が高卒という身分になることに嫌悪が勝ったか。

 シュウには彼らの意図などわからないし、理解する気もなかった。何もかも振り払って、家を飛び出てもよかった。

 けれども結局シュウは、自分の矜持と人生を天秤にかけて、大学へと進むことにした。叶えたい夢などひとつもなかったが、どんな職に就くにせよ、選択肢は多い方がいいに違いない。

 せめてもの抵抗の代わりのように、家から通えないほど離れた大学を選び、学生用の安いアパートに住み、極力仕送りには手を付けないようにアルバイトをして生活費を稼いだ。

 親の庇護下を抜けない中途半端な反抗は、まさしく児戯でしかなく、胸中では常に自嘲と自虐が絶えなかった。

 幸せになりたかった。

 まるで、生まれてからのすべてを否定したいかのように。

 でも、どうすれば幸せというものが手に入るのかは、わからなかった。

 それがどんな形で、どんな手触りで、どんな温度なのか、軽いのか重いのか、そもそも手に触れられるものなのか、それともあくまで抽象的な存在に過ぎないのか、そんなことさえもわからなかった。

 大学に進学してから、数多あるサークル活動のうち、文芸サークルに加入を決めたのは、卒業生達が寄贈していったという蔵書の中の、様々な資格の参考書が目的だった。

 本に夢中になる人間は、他の誰かなど気にも留めない。他人の人生に興味がない。そういうところも気に入った。

 幸せになりたくて、なりたくて、生きていればいつかは手に入るかもしれないから、そんな曖昧な希望に縋って、ただ死なないだけの毎日を過ごしていた。

 フキちゃんに出会うまでは。





 目的の地に向けて歩けば歩くほど、荒廃していく様がシュウにも目に見えてわかる。フキちゃんが生き汚いと称した茄子紺色のリンゴの枝も段々と見つからなくなる。大地は涸れ、木々はまばらになり、空気は淀んだ。

 先ほど水を汲むために降りた沢も、川とも呼べないようなちょろちょろした水がかろうじて流れているだけだったので、水筒に溜めるのがすいぶんとかかってしまった。

 足元も徐々に悪路となり、露出した岩がごろごろと現れだしたので、シュウはフキちゃんの小柄な体を抱えていくことにした。勇者として召喚された者の特典なのか、身体能力が異様に向上しているのが、今はありがたい。


「どこまで登ればいい?」

「んーと、あのね、あっちの方角に行きたい」


 空を見て、峰峰の連なりを見て、フキちゃんの爪先が指し示した方向へと進むシュウである。上空には雲がかかり、進行方向へ向けてどんどん黒々と雲海をたなびかせている。


「ウンウン、いい感じ~」


 肉眼でもわかるほど早い雲の動きに、フキちゃんはにんまりと口角をあげている。同じ空を見上げてみても、シュウには何もわからない。ただ彼女の企図するところに従うだけだ。

 休み休み、半日ほど山々を駆け抜けて、とある岩山の頂きを臨む。

 ここまで目的地に近付くと、もうほとんど草木は見受けられなかった。地面には、ただ乾いた岩盤がひび割れている。動物の気配など、虫の一匹すら羽音を立てず、不気味な静寂が場を支配していた。

 見通しのいい山頂から下界を眺め下ろすと、地上の様子など伺えないほど濃度の高い霧が凝っていた。灰色のような、紫色のような、藍色のような、どす黒い濃色の霧が一つの生き物のようにうごめき、大地をねぶり回している。


「うーん、何にも見えないね」

「霧濃いねぇ」

「あれに本気で地上から接触する気だったのかな、あの人たち。行ったところで目の前見えないんじゃないかな」

「危ないよね~遭難しそうだよぉ、へくちっ!」


 かわいらしいくしゃみをこぼすかわいいかわいい彼女に、シュウは慌てて上着を脱いで細い肩に引っ掛けた。今いる岩山は標高もかなりのものなので、肌に感じる空気もずいぶんと冷え込んでいる。


「ごめんね、寒いよね。さっさと終わらせようか」

「うん……でも待って、もうちょっと……」


 攻撃的にとがった岩の端に二人並んで、山岳へ足を踏み入れる前に買い求めた干し肉をぐむぐむと噛みながら、ぼんやり空を眺める彼女からのゴーサインを待つ。くりくりとした目がじっと雲の流れを観察している。あるいは、計算している。

 岩場に乗り上げる二人の横を通り過ぎていた勁風が、ある瞬間にふうっと和らいだ。ぱたんと瞼を上下させたフキちゃんは、上方を仰いだまま、傍らのシュウの袖を引く。

 彼氏はもちろん抗わずに、愛しの彼女による無言の命に従って、岩の露出した地面に二足で立った。片手には、自然のない岩山において悪目立つするほどに、きらびやかで装飾過多な長剣がある。


「いいの?」

「うん……ううん……まって……あと、うん、一分」


 若さが張り詰めた桜桃のような唇が、ぽかんと半分開いたまま小さく動いて、ぶつぶつ何かを呟いている。ほとんど口内で消える独り言は、聞き取ろうとすればできなくはないけれど、恐らくシュウには理解できない類いの複雑な数式であろうから、シュウはよくしつけられた犬のように、大人しく次の指示を待った。

 頭上では今をもっても曇天があやしくうねり、ヘドロのようにぎらぎらと気色の悪いつやを帯びている。


「肩に」


 短い命を耳にするやいなや、規律乱れぬ武官のそれに似て、シュウは肩上に黄金の聖剣を構える。本来剣術で用いる型ではない。さながら槍投げの要領だ。

 姿勢は岩山へと向かう前に、何度も練習させられたのですでに体が覚えている。フキちゃんは、長剣がその見目にふさわしい重量を持ち得ていることと、『勇者』には薪よりも軽く扱えるものであることに目をつけた。

 しばらくは、それこそ槍のように成形した木の枝を、何本も何本も投げる訓練が続けられた。フキちゃんは傍らで頬杖を突きながら眺め、時折角度や体勢を修正しながら猛特訓を監督していた。


「角度が……こっち、うん……そう、ありがと」


 柔く小さな手が、シュウの体に触れて僅かに直す。指示を与える声はどこか上の空で、回転する頭の大部分は別のことに気を取られているとわかる。


「じゅう、きゅう、はち」


 未だに子どもらしさの抜けない、甘やかな少女の声でのカウントダウンが始まる。

 首の傾き、退いた片足の幅、柄を掴む指の握り方。


「なな、ろく、ごお」


 とん、と突かれた肩甲骨のあわいが詰まる。


「よん、さん、にい」


 右腕を大きく引き、左足の腱が伸びきる。ぐうっと上半身が反り返った。限界まで引き絞った弓のように。


「いち」


 ほんの寸間、風が止む。


「――ぜろ」


 溜めに溜めた全身のバネを弾いて、聖剣が投擲された。体中の全力を掛けられた右足が地面に半ばまで食い込み埋まる。

 ごおぅっ。

 指先が剣の身から離れた瞬間、ひときわ強い谷風が吹き上げた。気象を読んだフキちゃんの想定通りの狂風が、勇者の膂力によって飛び出した刃先のある鈍器を運び、ぐんぐんと飛距離を伸ばしていく。

 シュウが慌てて小柄な彼女を捕まえて、両腕に収め、身を吹き飛ばさんと荒れる暴威から庇う間も、金色のきらめきは羽でも生えているかの如く、悠々と空を渡り、濃霧を切り裂き、中空に大きな大きな弧を描いて、暗色に渦巻く不吉の源泉へと、狙い澄ましたように吸い込まれていった。

 一拍の奇妙な空白を開けて、大地を揺るがす衝撃が爆風とともに駆け巡った。


「……っ! ……!!」


 根のつく地べたさえひっくり返さんばかりの振動に、シュウはもはや体を支えることもできず、すさまじい圧にて岩壁へめり込んだ。

 ぎりぎりと奥歯を噛みしめて、あちこちで山岳から弾けた瓦礫が降り注ぎくるのを、身のうちに庇った柔らかいものに一片も触れることのないよう、こわばった総身で抱え込むのに精一杯になっていたものだから、着弾ならぬ着『剣』地帯からひとすじの光線が空へと立ち上り、そこから円状にぶ厚い雲を晴らしていくさまなど、見守ることはあたわなかった。

 どれほどの時間を耐え抜いただろう。数十秒か、数分か、それすらもわからない。

 ただ、大陸の隅々まで轟いたのではないかと思わせるほどの地鳴りが弱まり、遠のいていくのを感じて、シュウはきつく瞑目していた瞼をゆっくりと上げた。力を入れ続けた顎骨が痺れたように痛い。

 頭の裏や背中に降り積もった小さな岩片を振り払い、次いで、胸廓へ触れるほどにしがみついて抱えていた彼女を見下ろす。僅かに腕を緩めると、こほっ、と掠れた咳が落ちる。『勇者』でない少女には、鋼の蔦にきつく締め上げられるようなものだっただろう。


「ごめ、フキちゃん、大丈夫?」


 焦燥のにじむシュウの問いかけに、フキちゃんは子猫のようにぎこちなく首を振るわせてから、恋人の胸板の上で軽く伸びをした。かわいい。シュウは彼女を落とさないように気をつけながら、浅く胸を上下させた。


「うーん……なんかぁ、耳がまだおかしいけど、平気ぃ……あっ、空」

「え?」


 首を反らせたフキちゃんがぽかんと口を開くのに、シュウも頭上を仰ぐ。重い雲など欠片もない、抜けるような青空が広がっている。視線を下ろすと、山々の頂の向こうに荒廃したモノクロームの大地が広がっていたが、あの不気味な霧は嘘のように晴れていた。


「……うまくいったね」

「えへへぇ、よかったねぇ」


 互いに砂礫を被ったおかげで埃っぽい鼻先を付き合わせて、にんまりと笑う。

 フキちゃんは、シュウが初めて出会い、今後邂逅するかもわからない、本物の天才だ。

 彼女は、突如人を召喚してきたあの無礼な国で邪険にされ、暇を持て余しながら、じっと物理法則に相違がないのかを観察してきた。空を見上げ、この国の気象変動の法則をカメラのように記録し続けていた。どうやら人間離れしてしまったらしい恋人の体を嘆くでもなく、力学に当てはめてパフォーマンスの幅を見極め、冷徹に計算と修正を繰り返していた。

 元々、『勇者』による魔霧の解消方法はワンパターンで、地上からの正面突破一択であったらしい。召喚した国軍の兵士を大量に引き連れて、道中の凶暴化した動物たちを退けつつ、あの濃霧の中に突入する。

 拡散して薄まった霧でさえ人々に害を及ぼすのだから、当然、霧に巻かれた兵士達は狂乱する。互いに討ち合っている合間を、唯一影響が出ない勇者が駆け抜けて、渦中に剣をたたき込むのが慣例とのことだった。

 あたまがわるい、とフキちゃんは言った。何百年も繰り返している割には、進歩が見られない。他人の力を借りることばかり繰り返してきたから、そもそも向上心がないのだろう。

 見張りを付けられながら、城の書庫でめぼしい書籍を片っ端から頭に叩き込んだフキちゃんは、ほぼ一ヶ月でこの国に見切りを付けた。

 しかし、いかに勇者が常人ならざる力を持っているとしても、肉体そのものを弩弓と化すなどと、フキちゃんでなければ実行しえなかったろうなぁ、とシュウは思う。フキちゃんは、様々な要因を連立させて、それが可能であると導いたから、確信を持って行動したのだ。

 フキちゃんは天才だ。けれどもそれは頭がいいこととイコールではない。

 フキちゃんは、常に頭の裏側で、目に映るものすべてのことを考えている。コップの内側で起こるしぶきの反射紋。ハトの羽ばたきによって発生する揚力。枝から落ちた葉が風に巻き上げられて宙に描く幾何学的な模様のこと。

 フキちゃんのお家は、フキちゃんが生まれた頃に父親が鬼籍に入り、生活は楽なものではなかったと聞く。上二人の兄と、一人の姉、そして母親に、フキちゃんの五人家族は、肩を寄せ合って互いを尊重しながら生きてきた。三人の兄姉が高卒で働く中、家族全員がフキちゃんに高等教育への進学を勧めたらしい。

 全員がわかっていたのだろう。フキちゃんの異能は、ただ日常生活を送るだけであれば不要なものだ。有効に用いるには、もっと専門的な知識と確かな目を持つ隣人が必要だ。

 男女交際を始めてから、シュウも幾度か彼女の家の団欒に招かれた。生家ではついぞ知り得なかった和気あいあいとしたコミュニケーションに、肩身が狭いような心地がしたのは確かだったが、フキちゃんがあんまりに変わらない様子なので、何度か訪問するうちに気にならなくなった。

 フキちゃんは基本的に、他人のことなどどうでもいいのだ。他人からの評価を自分の中の基準に入れていない。

 その究極的な自己中心性は、シュウに安らぎをもたらした。

 シュウに興味のないフキちゃんの傍では呼吸がしやすかった。

 シュウに興味を持ったフキちゃんの目はただ現実だけを見据えていて、何一つ逃げ隠れする必要がなかった。

 シュウに好意を示すフキちゃんの思考に嘘はない。勘ぐる余地さえなかった。だってそもそもが、フキちゃんは誰にどう思われようと関係がないのだから。

 愛されることに抵抗はなく、愛することに躊躇はない。そんなフキちゃんの横で、シュウは自然に降り来るものを受け取っていればよかった。

 いつの間にか、幸せになりたいという幼い夢さえ、思い返さなくなっていた。


「これからどうしようか」

「ううん……」


 ぽかんと口を半開きにしたフキちゃんが、荒涼たる大地を見下ろしながら、何かを逡巡している。呆けたような表情で、きっとたくさんのことを考えている。でもそのほとんどは、恐らく現状を考える上ではいらない情報だろう。

 フキちゃんは天才だが、社会不適合者だ。

 シュウはそれを自身への福音だと思う。それでこそ、彼女の人生にシュウがつけ込む隙がある。

 小さな体を膝の上に、今度はきつくなりすぎないように加減しながら抱きしめ、儘子を宥める仕草でゆらゆらと揺さぶった。ウンウン悩んでいる彼女を邪魔しないトーンでささやく。


「じゃあ、何が食べたい?」

「うんと、魚! 魚食べたいなぁ」


 ぱっと返ってきた希望に口元が緩む。食に関心が高いフキちゃんは、あの不愉快な城でさえ、異世界料理に興味深そうにしていた。


「それなら、川を目指そう。淡水魚がいなかったら、そのまま下って海に行こうか」

「淡水魚いいなぁ、……食物連鎖で濃縮されてたりしないよねぇ……」

「ああ、あの霧? 公害みたいな? どうなんだろうね、聞いてみないと」


 小柄なフキちゃんを両腕に抱えて、シュウは岩岩の間から埋まった足を引っこ抜く。何度も抱っこを繰り返せば、フキちゃんも慣れたもので、だらんと脱力して身を委ねている。猫なら胴が長く伸びていそうな感じだ。かわいい。


「とりあえず人里に出ないとね。どっちから降りればいい?」

「んと、んと……こっちかなぁ。まっすぐじゃなくて、時計回りに、巻き貝みたいに」


 あの国の地図は標高地形図も含めて詰め込める限り頭に詰め込んであるフキちゃんは、くりくりとした目を瞬かせながら空を見、山脈を眺め、地上を見透かすように視線を下ろした。

 彼女の頭に並んでいるであろう数多の情報は、シュウにはわからない。理解する必要もない。シュウは凡人なので、天才の考えは予測し得ない。


「さっきの地震で、岩場もかなり動いたと思うからさぁ、足下がねぇ」

「フキちゃん、こっち向いて」


 シュウは珍しく、意図してフキちゃんの思考を遮った。

 きょとんと丸くなったフキちゃんの目と視線がかち合う。振り向いた頭の角度を固定して、薄く開いた唇を奪う。

 重なる口唇の薄い表皮の間で、砂埃の感触が邪魔をする。


「……じゃりじゃりしたぁ」

「したね」


 未だに埃っぽい鼻梁をすり合わせて、二人は笑う。

 細い糸目をますます細くしたシュウの顔は、まさしくフキちゃんがいうところの、「絵本に出てくるいいキツネ」にそっくりであった。







 衣食住が足りて、高等教育に進むための最低限度の援助がある、それを網代木柊は幸福の定義としていた。

 だから、シュウには幸せがわからなかった。

 ずっと、人並みの幸せというものを探していた。形のなく、基準のなく、物語の中に登場する幻想のようなそれに恋い焦がれていた。

 けれども、今は、幸せになりたいとは思わない。

 それはすなわち、この腕の中の存在が、幸せそのものだという何よりの証左だろう。




 

黒見冨貴子フキちゃん:生活は苦しかったが、愛だけは溢れるほど注がれていた女

網代木柊シューくん:生活上では何不自由なく育ったが、ひたすら愛に飢えている男


5/30誤字脱字修正(ありがとうございます~!)

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