【アニメ第1話放送記念】残骸1 奴隷について/ステータス0ってなに?
フラムが奴隷商人に買われて、ミルキットと出会うまでの間の話です。
「君は、なぜ今も奴隷商人を続けているのかな」
黒いスーツを身にまとった、壮年の男性が言った。
そこは暗くじめじめとした、石造りの地下室。
地味でどこか趣味の悪い装飾とは裏腹に、テーブルの上には肉をふんだんに使った料理が並んでいた。
男はナイフとフォークで器用にソテーを切り分け、自分の前方に座る別の男に目を向ける。
彼――奴隷商人のヤーガは答えた。
「王国の締め付けが厳しくなり減っていった奴隷商人。そこに商機を見出したから、ですよ」
大陸は二つの種族が支配している。
北側が魔族、南側が人間族だ。
現在、人間領に関しては全域を王国が統治しているが、百年前までは複数の国家が存在しており、領土の奪い合いを行っていた。
王国に今も残っている奴隷制度は、その名残である。
いくらこき使っても心が痛まない労働力として、そして一種のトロフィーとして、戦時下においては人を人として扱わないメリットがデメリットを上回っていた。
だから規制されなかった。
つまり、国同士の争いが終わった今の時代においては、不要な制度だった。
当然ながら少しずつ締め付けは強くなる。
奴隷を愛好する貴族に気を遣ってか、王国は一律禁止にはしなかったが、数年ごとに少しずつ規制は強まっていく。
こうして奴隷売買の旨味は薄れ、一人、また一人と奴隷商人は減っていった。
「堪えればいずれは自分に需要が集中する、と」
「実際そうなっているでしょう。おかげさまで、それなりに裕福な暮らしをさせてもらってますよ」
ヤーガはグラスに入ったワインをぐいっと飲み干した。
だが、彼の前に料理は並んでいない。
「アンヴォロさんはどうなんです、そんな料理をリクエストするぐらいですから、さぞ稼いでいるのでしょうけど」
「私は己のやるべきことをやっているだけだよ。まっとうに商人としてね」
「まっとうな商人が、裏社会にべったりの奴隷商人なんぞと付き合いますかねえ」
「君とは長い付き合いだ。繋いだ縁は大事にしたいと思っているんだよ」
「それは料理の腕を評価していると思っていいんですかい?」
ヤーガの問いに、アンヴォロという男はわずかに微笑む。
そしてスープを口に運ぶと、頬を上気させながら「はぁ……」と息を吐いた。
「さすが、深みが違う。家畜は与える餌により肉の味が変わるというが、やはり薬草を与えるとその味が染み付くものなのだな」
「はっ、結局は薬が好きなだけなんでしょう」
「思えば君と初めて出会ったときもそうだった。確かに私は、そういう味を好んでいるらしい」
ヤーガはかつて料理人をしていたが、店を繁盛させるために料理に中毒性のある薬を混入させたことがある。
そこで当時すでに商人だったアンヴォロと出会い、彼から引き継ぐような形で奴隷商人になったのだった。
「私はね、君が奴隷商人として生き残れたのは、こういったサービスが行き渡っていることも理由の一つだと思うよ。商才がある」
「お褒めいただき至極光栄ですな。しかし調理させるのはアンヴォロさんぐらいのもんだ、おかげでゴミが高値で売れて助かってますがね」
「優れた技術には高い金を払いたいと思うものだよ。だからこそ、君には末永く奴隷商人を続けてほしい」
「人魔戦争で魔族の奴隷が流通するようになってれば、話は変わったんでしょうがねえ」
「もう三十年も前の話だよ。君が奴隷商人になるより前だ、そこに理由を求めても意味がない」
「けどアンヴォロさんが奴隷売買に見切りを付けたのは、それも原因でしょう?」
「ゼロと言えば嘘になるがね。しかし君に言いたいのはそういうことではない」
アンヴォロの表情がわずかに険しくなった。
ヤーガもそれに気づく。
「何か情報を仕入れたんですかい? また王国の締め付けが厳しくなる、とか」
「英雄を買ったらしいな」
その単語を聞いて、ヤーガは肩をすくめた。
「フラム・アプリコットですか。いや、あんなステータス0の女が英雄だとは思えませんがねえ」
「事情はどうあれ、あれは教会に選ばれて旅に出た人間だよ」
「それは……でも大枚をはたいて買ったんですよ?」
「法の抜け道を探せば合法的に奴隷を生み出す方法はあるが、彼女については違うのだろう」
「……ジーン・インテージならなんとかしてくれると」
「庇ってくれるほどの関係性を築けているという根拠は?」
「こっちは大金を支払ってるんですよ!」
「私に取ったところで現実は変わらん。金と心中するか、高い勉強料と割り切って切り捨てるか。私なら後者を選ぶがね」
アンヴォロに落ち着いた調子で論破され、ヤーガは「ぐ……」と言葉に詰まる。
前のめりになっていた彼は椅子に深く腰掛けると、大きく息を吐き出した。
それを見たアンヴォロは、聞き分けのいい弟子に満足し笑みを浮かべる。
「奴隷となった英雄を保有しておくのはリスクが高すぎる。男として一発逆転を狙う気持ちはわかるが、今回ばかりはさすがにね。これは純粋な善意からの忠告だよ、ヤーガ君」
「……わかりましたよ。アンヴォロさんがそこまで言うんなら間違いないんでしょう」
だがそれでもなお不満だったのか、ヤーガは黙り込んでしまった。
静かな空間に、アンヴォロの咀嚼音だけが響く。
しばらくして、彼は全ての料理を平らげると、丁寧に手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
命に感謝を。
心からそう思いながら。
そしてアンヴォロは立ち上がり、早々に部屋を出ようとする。
ヤーガはそんな彼を呼び止めた。
「本当に食材に関しての話を聞かなくてよかったんですかい。いつもならあんたが興味を持つから、まとめたっていうのに」
びっしりと文字が記されたメモ用紙をひらひらと振るヤーガ。
アンヴォロは振り返ることなく答えた。
「フィノという女性だ。年齢は二十代前半、西区の娼館で働いている間に薬物中毒になり、その薬代を求めて自ら奴隷になることを受け入れた哀れな女性」
食った奴隷の話など、アンヴォロが知るはずもない。
なぜならフィノは、つい最近ここに来たばかりの新人奴隷だったのだから。
だがアンヴォロはそんな彼女のパーソナルデータを饒舌に語る。
わざわざ振り返り、両手を広げて、その情報すらも平らげるように。
「知っているかな。彼女はエニチーデという田舎の出身で、故郷を出る前は純朴で天真爛漫な女の子だったんだよ」
恍惚した表情を浮かべるアンヴォロを見て、ヤーガの頬が引きつる。
「あんた、まさか……」
「いやあ、美味だった。満腹だ。唾棄すべき破滅の味というのは、どうしてこうも甘美なのだろうねえ」
そして腹をさすりながら、改めて部屋を出ていくアンヴォロ。
ヤーガは思う。
あんな化物がのうのう生き残っているのなら、自分のような奴隷商人もまだ大丈夫だろう、と。
◇◇◇
時は遡り、五日前。
フラムがジーンに売られてから三日が経過した。
牢に入れられ、逃げないよう鎖で繋がれたフラムを奴隷商人のヤーガが繰り返し蹴りつけている。
「クソがッ! 好き好んで奴隷を買ってる連中がッ! 今さら日和ってんじゃねえよ!」
「げほっ……がふっ、ぐ……」
「何だよステータス0ってッ! 気にしないで、いつも通り、おもちゃとして使い潰せばいいものをぉッ!」
「や、やめ……あうぅっ……!」
顔に痣がつかないよう、入念に胴体を狙うヤーガ。
フラムは冷たい床の上にうずくまり、ダンゴムシのように縮こまっていた。
「このまま大損こいて終われるかよ……お前は絶対に高値で売りさばく。お前もちゃんと客に媚びろよ、いいな!?」
「うぅ……」
「返事ぐらいしろよ奴隷の分際でッ!」
「あぐぅっ!」
「チッ、なんでこんなことに……」
ぶつぶつと文句を言いながら、ヤーガは牢を出た。
残されたフラムは、体に残る鈍い痛みに顔をしかめる。
(おかしい……おかしいよ……どうして私が、こんな目に……)
頬の焼印もヒリヒリと痛む。
あまりに理不尽な状況に、何度も何度も涙を流した。
そんな中――正面の牢に入れられた女が声をかけてくる。
「うわ、何そのステータス」
第一声がそれだった。
どうやらスキャンをかけてきたようだ。
フラムが顔をあげると、そこには金色の髪をした、二十代ぐらいの女の姿があった。
フラム同様にボロ切れを着ており髪もぼさぼさだが、その雰囲気や目つきから、明るく人懐こい人物だろうと推測できる。
ただ一点、目つきがどこか虚ろなところが気になるが。
「フラムちゃんさぁ、どうやって生きてきたのぉ? 普通死ななーい?」
「ステータス0と言っても、別に動けないわけじゃ……ないんで」
「あ、ごめんね、あたしフィノ。ここ来たらお薬もらえるって言うからついてきたの。あれ痛かったよね? あれ、フラムちゃんもされたんでしょ?」
「えっと……これ?」
フラムが戸惑いながら頬の奴隷紋を指すと、何が面白かったのかフィノはケラケラと笑った。
「あっははは、白目剥きながら漏らしちゃったらしいんだけど、フラムちゃんどうだった? ああいうの好きなお客さんにはウケよかったのに、ここのやつぜんぜんノリ悪くってさあ!」
「はあ……」
「あれ、でもフラムちゃんここにいるってことはお金ほしかったんでしょ? なんで? フラムちゃん綺麗だよね、キラキラしてパチパチしてる。繋がってない?」
「ご、ごめんなさい、よくわかりません」
「なんでなんでなんでー? どうして繋がらないで生きていられるの? ケーブルが降ってきたでしょう? 突き刺さってるよ? みんな、みーんな刺さってるのに気づいてないだけえぇぇ!」
突如として鉄格子を掴み、叫びだすフィノ。
やはり目が虚ろに見えたのは気のせいではなかったらしい。
おそらく、薬とやらの影響で正気を失っているのだろう。
しばし獣のように吠え続けた彼女は、あるとき突如として大人しくなった。
ぺたんと床に座り込み、絶望しきった表情でぶつぶつとつぶやく。
「あ……ごめんね、あたしったらまたやっちゃったみたい……ごめん、ごめんなさい……ごめん……」
ぽろぽろと涙を流す姿を見て、なぜかフラムの方が申し訳ない気持ちになってくる。
あやすわけではないが、彼女は困惑しながらもその問いに答えることにした。
「ステータスって、あくまで戦う力を表した数値らしいんで、0でも動けはするん、ですよ。まあ、子供に腕相撲で負けちゃうぐらい貧弱ですけど」
実際、赤子の頃は普通の人間でも0が並んでいることは多い。
つまりフラムは成長するにつれて、その異常性が認識されたということだ。
途端にフィノは泣き止み、目をキラキラさせながら食いついてくる。
「へえぇぇぇ、そうなんだぁ~! 不思議だねえ! 神様のおかげで生きてるの?」
「生まれてすぐのときは、本当に体が弱くて、すぐにでも死んじゃいそうなぐらいだったらしいんですけど」
「えぇ、すっごぉーい!」
「けど、家族や村の人たちががんばってくれて、そのおかげでどうにか生き延びて、ます」
「故郷は森が綺麗だった?」
「え……まあ、綺麗、でしたけど。森が多すぎて、うんざりしてる子もいましたけどね」
「いいよね、森って。心が落ち着いてさ、あの柔らかい枯葉の上を走り回るの、めちゃくちゃ疲れるんだ」
「は、はあ……」
「でもその上に飛び込んで、寝転がって、虫が体を這い回って、うふふ、うふふふふ……懐かしいなあ……」
フィノは両腕を投げ出し、仰向けに寝転がる。
「遠いなあ……とおい……とおい……」
そのまま同じ言葉を何度も繰り返した。
フラムが呼びかけても反応は返ってこない。
瞳からは完全に光が失われており、意識だけがここではない別の世界に飛んでいってしまったようだった。
(……私も、いずれああなるのかな)
ぼんやりとそんなことを考えながら、まだ消えない痛みから逃げるように、フラムは目を閉じた。
◇◇◇
それから、フィノはたびたびフラムに話しかけてくるようになった。
もっとも、その問いに意味があることの方が稀だったが。
「甘い言葉に誘われて故郷をでなければよかった、って思ったことはある?」
どうやら今回は、脈絡はないが内容はまともらしい。
「……あります、けど、たぶん私に選択権はなかったから」
故郷であるパトリアから送り出されたときのことを思い出す。
ステータス0で体も弱く、友人たちが学校を卒業して親の仕事を継いでいるのに、自分は農作業一つできない。
そんな中で『神様に選ばれた』と言われて、断れるはずなどなかった。
「ああ、そういうやつなんだ。ごめんねバカで。うん、あたしはバカだったんだ」
時折フィノはやけに卑屈になる。
薬の影響で支離滅裂な発言も多いが、そこに関してはフラムは本音であるように思えた。
「つまらない毎日、退屈な閉塞感、それを愛おしいと思える才能が欠けていた」
「私……故郷にいたときは、一年のうち半分ぐらいはベッドで過ごしてたんです」
「ステータス0だから?」
「はい。それで窓から同世代の子供たちが遊んでる姿を見て羨ましいと思いながら、色んな本を読んでました」
「出たかったんだ」
「私もバカだったんです。故郷にいた頃も、そんなに長くは生きられないんだろうなって思ってましたけど、それでもこんな場所で死ぬよりは……」
三十歳まで生きられたらいい方。
そのとき、親や親しい友人に看取られて静かに逝けたら。
そんな夢を見たことだってあった。
一人失意の沼に沈むフラムだったが、フィノは意外にも冷静な言葉を返した。
「死なないよ」
フラムは顔をあげる。
そこには、今までで一番理性的な表情でフィノは語る。
「あたしたちは商品なんだから。フラムちゃん、自分の体を見てみなよ、そんなに真っ白じゃない」
フラムは言われるがままに体を見てみたが、そこには汚いボロ切れに包まれた、汚れた体があるだけだった。
満足に風呂にも入れていない状況で、匂いだって気になってきた。
だが――フィノはそういう物理的な話をしているのではないのだろう。
実際、見た目では何ならフラムより彼女の方が綺麗な体をしていたが、彼女は自らの肉体を見た瞬間――
「毛虫が体の中を這いずり回るあたしですらまだ価値があるのに」
徐々に理性を失い、狂乱していく。
まるで、おぞましい化物でも見たかのように。
「今から奴隷として売られて買われてしていくっていうのに、どうしてあんたは自分に価値がないなんて思えるのぉぉおおおおッ!」
頭をかきむしり、振り乱し、そして叫ぶ。
「ああぁぁぁああっ! うああぁぁああああっ!」
さらにうずくまって床に向かって怒声を浴びせたかと思うと、その声に涙が混ざりだした。
「ああ……ああぁ……お母さん……おかーさーん……」
その嘆きもまた、狂乱の中にありながら、本音であるようにフラムには思えた。
王都に夢を見て故郷を出て、けれどうまくいかなくて落ちぶれ、奴隷になった。
フィノの歩んできたそんな軌跡が見えるようで、フラムは目を背けたくなった。
フィノは顔をあげることなく語りかける。
「ごめんねフラムちゃん、あたし、頭がおかしいの」
「……うん」
「あは、見てたらわかるか。薬使うとねぇ、なーんも考えなくてよくなるの。よくなるんだけど、頭の中がぐるぐるぐるって、渦巻いて、どこかに繋がるの」
王都の暗部では、そういう粗悪な幻覚剤が売られているのだろう。
治安の悪い西区などでは、路地に入るだけで中毒者が地面に倒れ込み、呻く姿を見ることができるのだという。
「繋がった人たちの意識が見えるの。羅列、濁流、今も、あたしたちを押しつぶすみたいに。空から意識が降ってくる。きっとあたしたちを殺しに来たんだあぁぁああ!」
フィノは牢屋の天井を見上げて、そこにはいない誰かに呼びかける。
「ごめんね……みんな、バカなあたしを許して……ごめんね、ごめんね……」
成れの果て。
そんな言葉がピッタリ似合うその有り様に、フラムはより深い絶望を抱くのだった。
◇◇◇
そして数日後、フィノは買われた。
奴隷商人のヤーガに連れられ、牢を出る彼女は上機嫌だった。
「お先~! 運がよかったらまた会おうね、フラムちゃん」
あれから何度も奴隷商人に罵声と暴力を浴びせられたフラムは、もはや手を振り返す力も残っていなかった。
連れて行かれるフィノを見送り、そしてバタンと重たい鉄の扉が閉まる音を聞いた。
商品である奴隷が閉じ込められるこの部屋と、それ以外のスペースは分厚い扉で区切られている。
しかし、完全に音が途切れるわけではない。
騒がしかったフィノがいなくなったことで途端に静かになり、外の音はわずかにフラムの耳に届いた。
「ああぁぁぁあ……なんでっ……えぇっ! い……ぁあああッ!」
それはたぶん、女性の断末魔だった。
なぜたぶんなのかと言えば、その常軌を逸した絶叫は動物の鳴き声のようにも聞こえたからだ。
例えば、屠殺される家畜のような。
「がぼっ、お、おぉおお……ごっ、ごぶっ、あぎいぃぃいっ! があぁぁあああっ!」
声は数十分間続いた。
フラムは必死で両手で耳を塞いで、何も考えずに済むように瞳をぎゅっと強く閉じた。
それでも、嫌な可能性はいくらでも頭に浮かんできた。
話は聞いていた。
奴隷を購入する貴族の中には、奴隷を虐げ、痛めつけるために使う者もいると。
フィノがもしそういう主に当たってしまったとするのなら。
持ち帰るまで我慢できず、この奴隷商人のアジトで実行するような異常者だったのなら。
彼女にこれから待ち受けているのは、筆舌に尽くしがたい地獄だろう。
そして自分もまた――そうなる可能性が高い。
だから考えたくなかった。
そうこうしているうちに数時間が経った。
扉が開き、車輪がカラカラと床の上を進む音がした。
同時に、焼けた肉の香りが漂ってくる。
フラムが薄っすらと瞳を開くと、配膳用のカートを押すヤーガの姿が見えた。
彼はフラムの視線に気づいたのか、足を止めて語りだす。
「たとえば他人に迷惑をかけることしかできない人間がいたとして、そいつを金貨一枚で奴隷として取引できたら、それは悪だと思うか?」
悪だ。悪に決まっている。
フラムはそう断言できる。
しかしそれを悪だと感じない人間が存在するのだと、その言葉で認識した。
「薬中の人間なんて誰も買いたがらない。でも、本来なら金貨一枚で取引されるはずだった人間が、俺が手を加えるだけで金貨五十枚で売れる。付加価値ってやつだ。これ、俺っていいことをしてるんじゃないか?」
そんなわけがない。
人間を売り買いして、そこに善など生まれるはずがない。
しかし、売る人間がいれば買う人間もいる。
救いようのないクズとクズが繋がって、この世の地獄ができている。
そして力なき人間はそれに抗えない。
それが、目の前に突きつけられた現実である。
「お前はその逆だ、フラム・アプリコット」
ヤーガはそう言うと、カートの上に乗った皿から肉の切れ端を一枚つまみ、フラムの目の前に投げ入れた。
ぺちゃりと、久しく口にしていない肉厚のソテーが汚れた床に落ちる。
「少しはそいつを見習え」
「……なに、これ」
「フィノだ」
瞬間、漂っていた香りや、茶色いその焼け色がおぞましいものに見えた。
「うぷ……う、うえぇ……」
横たわったまま嘔吐するフラム。
しかし最近は満足な食事すら与えられていないので、吐き出されるのはほとんど水分だった。
床を汚すフラムを見てヤーガは「ふん」と見下すように鼻を鳴らすと、再びカートを押して前へ進む。
「血抜きも捌くのも大変だってのに、フルコースがご所望とは。恩人じゃなけりゃあ断ってるよ……」
そう愚痴を零しながら。
「ううぅ……あ、あぁ……」
――自分も、じきにああなるんだろうか。
フラムの体はガタガタと震えた。
時折、逆流してきた水分でむせる。
ヤーガが去ってもなお、焼けたフィノの匂いが消えてくれない。
調理された彼女の断片には、いつの間にか虫がたかっていた。
「やだ……やだ……やだ、やだ、やだ、やだぁっ! うわあぁぁぁぁあああっ!」
ふいにフラムは叫んだ。
頭を床にぶつけて、髪を振り乱して、まるで正気を失ったフィノみたいに。
「いやだ……お父さん、お母さん……」
やがて故郷を想いながらそう呟いたのを最後に、フラムは動かなくなった。
何も感じない、何も考えない、ただ真っ白な思考の中で時が過ぎるのを待つ。
壊れた心。
それはある意味で、この地獄から逃れる唯一の方法だった。
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