ミルキーウェイ
空は、今日も青かった。
昼食後の授業なんて出る気がなくて、俺は屋上への階段を上った。屋上へ続くドアの鍵が壊れている事を、優等生が集まるこの学校の人間は知る筈も無かった。お陰で物置代わりにされて埃っぽい階段は、そこかしこに年代物のテストや授業のプリントやらが雑然と積まれている。細く差し込む光が埃に乱反射して、スターダスト。錆び付いたドアを開ければ目の前にある太陽がハレーションを起こして、光が網膜に焼き付いた。
階段の陰に隠れるように日陰に寝転んで、空を見上げた。相変わらず空は晴れていて、まだ七月も始まったばかりだと言うのに梅雨なんてどこ吹く風。
「……たっりーなぁ、おい」
誰に言う訳でもなく、呟いた。流れていく雲が、留まる事しか出来ない俺を嘲笑うかの様で、無性に悔しかった。俺だって、空を飛べたら。
チャイムがなって、午後の授業が始まったようだった。校庭でウチの担任が怒鳴る声と、クラスの連中のマラソンのかけ声がここまで届く。……そっか、次体育だったか。炎天下の中走らされるならここに居た方がマシだ。ただぼんやり空を見上げている方が。走り続ける風は俺の上を通り過ぎて、またドコかへと急ぎ足で走り抜けた。
「……あっちぃ」
いつの間にか寝入っていた俺の上には、太陽が顔を出していた。空は既に、少しずつ赤く染まっている。光の波長とプリズムの関係。短い波長はもうすぐどこかの空へ。名残を惜しむかのような赤い光は、まだ手を広げたまま。
ギィと音がして、屋上のドアが開いたようだった。が、俺は急ぎもせず、寝転んだまま。先生か、それとも用務員か。どちらにしても見つかる事に変わりがなければ、慌てたってしょうがない。
瞼を通す光が消えて、誰かが頭上に立った事を知った。けれど影は怒鳴りもせず、諭しもせず、突っ立ったまま。暫く沈黙が流れたままだったが、流石の俺も居心地が悪い。先に沈黙を破ったのは、俺、のつもりだった。
「……だ」「やっぱりここに居た」
反射的に目を開けたら、太陽を背負った影が居た。つーか、お前、スカート。……いや、俺的にはいいんだが、そりゃお前、マズいだろう、色々と。
「斎藤?」
「正解。原口君に聞いたら多分ここだろうって。意外だったわ、屋上って鍵開いてるのね。私も今度からここ来てみようかな」
原口、後で覚えておけ。というか、何で斎藤。
「学年トップの斎藤さんが、何でまたこんな所に」
「やめて、学年二位の白石君」
「……ただのまぐれですって。で、どういたしましたか」
必要以上に丁寧な俺に、斎藤は憤慨してるようだった。風が吹き抜けて、ふわりと香水が香った。さっぱりした甘い香りは茜色の空に似合っていて、何だかとても胸が痛かった。俺にしては珍しい感傷。
「最悪。折角鞄持って来たのに。原口君から伝言。俺は帰るからどうにかしやがれ、だって。何の事だか分かる?」
……本気で原口、次会った時に死ぬ程奢らせてやる。
俺が、この俺が、何でこんな受験まっしぐらな高校で耐えているのかと言えば、この目の前に居る才女の所為だって事を、ガキの頃からの幼なじみの原口は、それこそ良く知っている。だから本当は、この場から逃げ出したくてしょうがない。さっさと起きて、ありがとうと言って、じゃぁ、と別れればいいのに。殆ど停止してる思考はそこまで考えついても、行動に移せないようだ。
「正直、分かりすぎる程に。悪かったな、メッセンジャーさせて」
「んーん、いいよ。アタシも白石君に話したい事あったし」
「とりあえずさ、座れば?……スカートが気になる」
我が校の自慢の才女は、けたけた笑いながらその場にしゃがみ込んだ。取り敢えず心臓の変化は収まったようだ。顔が近いのは、目を閉じればごまかせる話で。
「やっぱり噂どーりだ」
なんだよ、噂って。
「変な所で、紳士なんだってね?」
放っといてくれ。
「……こんな所で寝てたら、日焼けしない?」
「ま、俺も男だし、焼けても別に」
「そっか。アタシなんて焼けたら最後だもんなー。冬まで美白に専念しそう」
そう言って、またけたけた笑った。彼女がこんなに笑うのを、俺はあまり見た事が無い。彼女自身があまり笑わない人だと言うのが半分、俺が直視出来ないのが半分。目を開けてまじまじと見る笑い顔は、やっぱり斎藤らしくて、思いのほか俺はこの人に参ってるんだと自覚をしてしまった。お陰で更に居心地が悪い。彼女は笑いやんでは、また俺を見てくすくす笑って、を繰り返している。あまりに平和な時間。
ふと気付くと、肌に触れる空気が随分と冷たかった。また寝入ってしまったのだろうか。目を開けたら、残り火を引きずるように沈みゆく太陽と、うっすらと見える星々と、彼女の顔。……はぁ?!
「な、なんだよ、斎藤、お前帰んなかったの?!」
「だって、白石君あのまんま寝ちゃうし。帰ろうかと思ったけど、残して帰るの気が引けたし」
だからって起きるの待ってるか、普通。ため息を一つだけこぼして、俺はまた目を閉じた。止めてくれ、頼むから。星の下で、なんてロマンチックにも程がある。これ以上一緒に居たら、言ってしまいそうで怖い。原口が仕掛けた罠に引っかかるなんて癪だ。絶対奴はこうなることを見越してたはずだ。少なくとも、なにかしらのきっかけになるようにと。
目を開けて広がる星空を見ながら、ぼんやりと考えた。どうやってこの状況を切り抜けるか。答えは、見つかりそうにない。
「よかった……」
暫く黙っていた斎藤が、ぽつりと呟いた。
「何が?」
「晴れて良かった、って」
「……なんでまた」
「あら、白石君はどうでも良いのかしら。今日、七夕よ?」
こてんと首をかしげた彼女の、黒くまっすぐな髪がさらりと揺れる。
「織り姫と彦星、か」
「去年は雨が降っていたから、今年は晴れて会えるじゃない?幸せだろうなぁ、と思って」
「……そうかな。雨が降ってた方が、いい気がするけど。二人で会ってる時くらい、カーテンを引いてやってもいいと思うし。それに俺は、一年に一回しか会えないなんて耐えられないよ。力づくでも会いに行く」
いつも思っていた。一年に一度しか会えない二人。毎年、その日を待ちながら、お互いを思い続ける日々。そんなの、俺には堪え難い。どんなことをしてだって、会いたいのなら会いに行く。そう、ずっと思っていた。目の前の人間に、会う為になら。
そっと目線をやると、彼女は暗闇でも分かる程目を見開いて、それから極上の微笑みをよこした。
「吃驚した。白石君、ロマンチストなんだね」
……失敗した。言うんじゃなかった。
「生憎とね」
つっけんどんに返して、また目を閉じた。網膜には彼女の微笑みが焼き付いている。マズい。何でこう、無防備に笑うんだ。一歩間違ったら口走ってしまいそうだ。そんな事態だけは、何としてでも避けたい。
「白石君の彼女さん、幸せだね~」
「はいはい、どうせ俺には彼女なんていませんよ」
やる気の無い返事をしてごろりと彼女に背を向けた。語尾に消えたのは、あなたが好きだから。because。なぜならば。導かれる答えは、ただ一つなのに。数学程簡単なら、困りはしない。人間の思考。
「だって、彩花は?」
「あれはただの幼なじみ。因に俺は利用されてるだけだし。」
隣のクラスで幼なじみの彩花は原口が昔っから好きで、あの馬鹿の友人をやっている俺が情報収集やら何やら、よくかり出される。……って、何で俺は言い訳をしてるんだ。というよりも、既にこの状況に耐えられなくなってきている。
「つかさー、斎藤、お前帰ったら?俺まだ居るし、暗くなるぜ?」
空は既に光の波長なんか一切残らず、人工的な白色だけがボヤリと地上を光らせていた。相変わらず晴れた空には雲一つなくて、小さいながら星が必死に光を届けている。そう言えば今何時なんだろう。いつも付けている時計は、今日はベッドサイドのテーブルの上。
随分と長い沈黙が流れて、俺は流石に不安になった。目を開けたら、相変わらず同じ位置に座っている斎藤が、怒っているんだか、泣いているんだか、きれいな顔を歪めていた。
「さ、斎藤?」
寝転んだまま頭だけ真後ろに向けたから、頭皮が嫌な音を立てた。すぐ傍にある彼女の手首が白く浮かんで、綺麗だとかどうでもいい事が頭を翳める。
「居ちゃ、ダメ?」
「あ、いや、ダメとか、そう言うんじゃなくて……さ」
「じゃなくて、なに?」
「斎藤……言葉尻取るなよ」
半日程コンクリの上に寝転んでいた体は、思うように動かない。もそもそと起き上がろうとすると、俺の両肩を思いのほか力強いあの白い腕がおさえた。
「一緒に居ては、いけませんか」
多分、初めて見るんだと思う。彼女の目は、空よりも黒くて、横から入る光が反射して、それから俺が映っていた。それなのに瞳の中の俺が異様に歪んで、もしかしたら斎藤は泣いているのか、とか妙に冷静なのか混乱しているのか分からない頭が考えていた。
「……アタシは、あなたが好きですが、隣に居ては、いけないでしょうか」
瞬きする度に分かるまつげの長さとか、多分化粧とかしていないのになんでこんな綺麗な肌してるんだろうとか、ああ、今日つけてる香水の名前を聞かなきゃとか、やっぱり俺は混乱しているようだった。
「いや良くない訳無いじゃないですか」
「……それってさ、意味分かってないで言ってるよね」
急に肩に置かれた両手から力が抜けて、俺は自由になった。
ついで、俺の思考も復帰。それこそ生まれて初めてだと思う程、頭の中で反芻を繰り返して、飛び起きた。
グランドの明かりで半分だけ照らし出された、泣き笑いみたいな、あまりに不自然な笑顔。痛々し過ぎて、それが俺の所為なのかと思うと酷く哀しかった。そっと引き寄せてみたら、ほのかに香る香水。抵抗も無くふわりと腕の中へ入ってくるから、逆にそれが俺を狼狽させた。
「……斎藤。」
ひくり、と彼女の肩が揺れる。ひとつゆっくりとため息をついた。
「頼むから、原口に今日何があったか言うなよ」
俺から離れようとしている彼女を逆にきつく抱きしめた。あまりにもしょーもない台詞を、言わなくてはいけない。結局敷かれたレールを走ってしまったけれど、こうなれば。勢いを付ける為に大きく息を吸った。初夏の夜の空気は湿気を含んで、少しだけ雨の匂いがする。
「斎藤、俺、お前の事が好きなんだわ」
もういちど、ひくり、と彼女の肩が揺れた。馬鹿、と言う彼女の声が、震えていた。ばか、ばか、ばか……ばか。
「……だな」
どうしようもない、と思った。隠し続けるのか、いつか伝えるつもりだったのか。それさえも自分がわかっていなかった気持ち。まるで女々しくて、しょうもなくて。へらっと笑ったら、急に彼女が顔を上げた。
「泣かせた責任は、重いからね?」
目を真っ赤にさせて、それでもゆっくりと笑った。いつの間にか背中に回った手が暖かくて、つい涙しそうになる。
「覚悟しておくよ」
ふふ、と笑ってまるで逃げるかのように腕の中から飛び出した彼女は、ぱたぱたと走って屋上の真ん中に立った。ちょうどグランドの明かりが彼女を迎えるように光を放っていた。逆光になった彼女は、あまりに眩しい。空を見上げる影。つられて、空を見上げた。いつの間にか空には、たくさんの星。ほう、とため息をついたら、星が一つ流れた。彼女を見やったら、笑った気配がした。それから、空を指差した。
「願い事は?」
「もう、しない。他の人に譲るわ」
「……へぇ」
「帰ろう?」
「その前に、メシ。食って帰るだろ?」
「そうだね、そうしよっか」
金属製のドアが、重い音を引きずって閉まった。屋上に響く残響。空は何も見ていないような、全て見ていたような。グランドの白い光と小さな星の光が、コッソリと会話を交わす。気まぐれな風がふいと現れて、残っていた香水を夜の空にばらまいた。甘くて柔らかな香り。織り姫と彦星は逢う事が出来ただろうか。夜のミルキーウェイ。今年は、氾濫を起こさず。