香る山
暇潰しに、お嫌でなければ。
「次は~香山、香山」
車掌の声に目を覚ます。僅かな眠気を振り切り、下車の準備を始める。
電車の乗客は数人ばかりで窓から景色がよく見えた。
手には文庫本を握っている。
眠ってしまう前に読んでいた頁を思い出し再び開き、栞を挟み閉じた本を鞄へ入れ、ゆっくりと顔を窓へ向けた。
疲れ目には優しく、深緑の山々が通り過ぎる。懐から懐中時計を取り出し時刻を確認する。曽祖父から貰ったこの古めかしい時計は俺の宝物であり、かなりの年代物らしい。
時を刻む秒針の音が、揺れる列車のリズムと調和し、なんとも言えない心地良さを感じる。閑散とした車内に広がる環境音は俺の心を和ませた。
「十一時か、昼時だな」
呟きは思いのほか響いた。幸いにして他の乗客には聞こえなかったらしい。
「ありがとうございました。香山、香山です」
一抹の恥ずかしさを胸に秘め電車を降り、足早に待ち合わせた場所へ向かった。
改札を通り、階段を下った所で俺は立ち止まった。どうやら彼女(件の人物)は先に着いていたらしい。此方に気付いたらしく、向かって来た。
「貴方が、長谷部 晋介君?」
「ええ。札島先生……ですよね?」
両親の仕事の都合で俺は全寮制の高校へ編入学することになっている。元々住んでいた土地からはかなり離れていて、知り合いはいない。
もっとも、新天地で一人生活するというのも中々に楽しみなのだが。
今日は入寮初日と言うこともあり、俺が入るクラスの担任である札島先生が諸々の説明も兼ねて迎えに来たと言うわけだ。
「そうよ。札島妙子、これからよろしくね。……それにしても随分と荷物が少ないわね?」
怪訝な顔をする彼女に少々笑いながら答える。
「大半は寮へ送ってありますよ」
いくら電車で来ているからといって流石に荷物全てを運んでは来れないだろう。
「そうよね。いけない、うっかりしていたわ」
顔が僅かに朱を帯びる。少し苦笑する彼女は取り繕うように矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「そ、それより。この香山へようこそ、歓迎するわ」
妙齢の女性の可愛いらしい一面に俺はなんとはなく、得をした気分になった。
「これから、世話になります」
軽く一礼した俺を満足そうに見る彼女は、手に持った鍵を弄んでいる。じっとしているのは嫌いな性格の様だ。
「さあ、どうぞ。乗ってちょうだい」
私物であるという乗用車のドアを開け、得意気な表情を浮かべる先生はきっと運転好きか車好きなのだろう。
「では、失礼して」
乗車を促す彼女の言う通りに荷物を後部座席へ置き、助手席に座った。
「行きましょうか」
鍵を差し込み、エンジンをかける。
「あ、あら?」
「…ハンドブレーキ、下がってませんよ」
発進した時に感じた違和感を指摘する。どうやら後者だったようだ、お世辞にも上手いとは言えない運転で道路を走る。
ある程度落ち着いてきた所で彼女は口を開いた。
「ごめんなさいね、あんまり運転は得意じゃ無いのよ。この車を買う時も家族から反対されてね」
申し訳なさそうに謝るも、話は徐々に家族の愚痴へと変わっていく。
「……そういうことがあったのよ。長谷部君、聞いてる?」
「ええ、とても」
「それでね、父が昔気質な人で女は家事が出来れば良いとか言って私を嫁がせようとするのよ。まだまだ働きたいのに」
昔気質と言うには少々古すぎる考え方の持ち主だと思うが。
「……けど、今の時代はまだ良い方よ。古くは大正の始めから、女性の職業改善は行われてきたけれど先はまだまだ長いわね」
話を聞いていると、どうやら彼女は歴史に明るいらしい。担当教科はそういう方面なのだろう。
「職業婦人、ですか?」
俺が知る僅かばかりの知識を騒動員させ紡ぎ出した単語はどうやら正解だったらしい。
「そうよ、よく知ってるわね。今で言うならばOL少し前はBGとも呼ばれてたわ。職業婦人は大正時代の働く女性を指す言葉ね」
それから暫く札島先生の歴史講釈が続いた。
「長谷部君は歴史は好き?」
「どちらかと言うと……好き、なのでしょうね。まあ、数学や英語よりかはよっぽど」
返しは酷く曖昧なものだった。理由は既に終わったモノであるからか、酷く、時たま閉鎖的に感じるのだ。『過去』と言うものは、なんとも狭苦しくて息苦しい。
何故だかそう思えてしまう、勿論楽しく感じる部分もあるのだが……。
「そう、それは良かったわ。私の担当教科は日本史なの、これからよろしくね」
前方を見ながらはにかむ彼女の笑顔は社交辞令などではなく、心底嬉しがっているようだ。
「……ええ。よろしくお願いします」
視線を窓へと向けると目的の寮が見えてきた。
これから一年ほど過ごすこの町は俺に何をもたらしてくれるのか。
ふと先程読んでいた文庫本の一説を思い出した。
『人生とは選択の連続である』
そんな浮ついた言葉が心中を駆け巡った。