愛されることはありますか?
朝、目が覚めると小鳥の優しげな囀りが聞こえてくる。窓を開け放てば吹き抜けるのは朝の爽やかなそよ風。空には燦々と照り輝く太陽があり、地上には季節の花々が華麗に咲き誇る少し広めの庭がある。そしてそれを手入れする庭師のエドムは今日も息災。
ここは世界の東のほど近く、エヴァニアという小国。リトアール邸。
「ああ……、今日も私の穏やかで平和で息災な一日が始まるのねっ!」
リトアール家の一人娘、アデリア=エヴァ=リトアール。彼女は今部屋の中を一人、楽しげにくるくるくるくると回っていた。
服を翻し、髪を靡かせ、鼻唄を歌いつつ時折机にぶつかりながらも、狭い部屋の中をくるくるくるくる。くるくるくるくると回っていた。飽きる事なく、くるくるくるくるくるくるくるくる━━━━━。
「……うっ」
「アデリアお嬢様」
あまりに回りすぎて三半規管を殺られたアデリアは口元を押さえ踞る。そんな彼女に声をかけたのは、アデリア付き執事見習いのセイバス=チャコという男。何物にも動じなく常に飄々とした態度を崩さない彼は、やはりアデリアのそんな姿を見ても動じずにそこに立っている。
アデリアは踞ったまま、そんなセイバスをギロリと睨み付ける。
「セイバス、音もなく許可なく呼吸もなく私の部屋に入るなとお前には何度言ったら分かるのかしら」
「申し訳ありません。つい」
「つい?ついとは何ですついとは」
「出来心です」
やはり飄々とした態度のセイバスにアデリアはビシリと人差し指を突き付けた。
「お前のその『出来る』という心、この私自ら今日この日この時を限りに再起不能なまでに握り潰して差し上げます。即刻ここにお出しなさい」
「畏まりました」
で、用事は何かしら?
『出来る心。出来心。byセイバス』と達筆に書かれた紙を受け取りつつアデリアは立ち上がる。尋ねたアデリアにセイバスは「実は」と話を切り出した。
「デュオ様がお出でになられております」
「帰って貰いなさい」
アデリアは間髪いれずセイバスにピシャリと言い放つ。
デュオ、とはハイランド家の嫡子でありアデリアの穏やかで平和で息災な一日を脅かすここ最近の超要注意人物デュオ=ハイランドの事。奴がまたここに来たのだ。呼ばれもしていないのに。
「アデリアは体調が優れない様だと言って帰って貰いなさい」
「お嬢様、嘘はいけません。私の妹が泣いてしまいますから」
「会ったこともない貴方の妹と私に何の関係が?」
「妹は可愛いんです。とても……とても可愛いんです」
「…………だから何の関係が?」
アデリアが何故かセイバスの『可愛い妹』話を延々と聞かされていると、コンコンと部屋の扉がノックされた。アデリアの返事も待たずに開かれたソレの向こう側から現れたのは、招かれざる客デュオ=ハイランドその人。
「アデリア姫!」
部屋に入るなり即座に両手をぺたりと床に付け頭を下げたデュオ。ああ嫌だ。アデリアはデュオのその姿に心底嫌そうに顔を歪ませた。
のちにこの行為は世界の何処かで『土下座』と呼称される。だが、それはまた別の話である。
「アデリア、お願いだ!私の子供を産んでくれ!」
「嫌です」
開口一番デュオはアデリアにそう懇願したのだがアデリアは無情にもきっぱりとそれを断った。
「そのお話は以前お断りしたはず。デュオ様、お帰り下さいませ」
冷たくそうあしらいセイバスに目配せしたアデリア。「デュオ様はお帰りだ」。だが、セイバスはそんなアデリアの視線を受け流す。何故なら。
「お嬢様。お話ぐらい聞いて差し上げては如何です?可哀想ではありませんか」
「セイバス……」
セイバスは今両手に紙袋を一つずつぶら下げ持っている。その紙袋の中にはここエヴァニアでは見たことの無いようなお菓子がこれでもかと言うほど沢山詰め込まれ、溢れかえっていた。
にっこりと微笑むアデリア。
「セイバス。それは何かしら」
「デュオ様から頂きました賄賂です」
「賄賂と分かっていて受け取るんじゃないわよこのバカ者!!」
「申し訳ありません」
だがセイバスはそれを手離す気は全くないらしく「デュオ様。この間の和菓子という物、妹がいたく気に入りましたのでまた宜しくお願いします」と土下座中のデュオに話しかけている。
「任せてくださいセイバスさん」
「駄目だ!この見習い執事!全然使えねぇ!!」
セイバスの中の序列。妹→アデリア。
「アデリア姫、私はチエとの子供を作らなければならないのです」
ガクガクとセイバスの首根っこを掴み揺さぶるアデリアにデュオは真剣な眼差しを向け口を開く。
「話を聞いてくださいますか」
「お断り致します」
「実は……」
「おいこら」
デュオいわく。
ハイランド家には昔から『古の記憶』を大切にするという習慣があるのだと言う。古の記憶、所謂前世と呼ばれるものや、魂に残された数々の人々の生きざま。輪廻転生を繰り返すその時の生者たちの遠い遠い数多の思い出達。
それをハイランド家の人々は『夢見』という形として見ることがあるのだと言う。
「私の古の記憶はチエという者との最後の瞬間でした。喧騒の中、彼女と私は話をしていました。いつかこの国が平和となって私達の間に子供が出来たなら、その時はその子供に……その時考えた名前を付けようと」
デュオはアデリアを見る。
「アデリア姫、お願いです。私はチエとの約束を叶えたいのです」
「だからと言って何故私が」
今まで話した事も会った事とて一度としてない、そんなアデリアに開口一番この男は子供を産んでくれと言ったのだ。それはよく知りもしない初対面の女性に対して言う言葉だろうか。意味がわからない。
「誰でも良いという訳ではないのです。数々のお見合い写真を見て、そして実際に貴女に会って……。私は気付きました。貴女がチエなのだと」
「私がチエさんだというのもよく分かりませんが……お見合い写真?何の話です」
アデリアは見習い執事のセイバスに視線を向ける。するとセイバスは何処から取り出したのか、数枚の写真をアデリアの目の前にビラリと広げて見せた。
そこに写っていたのは間違いなくアデリアで。
「お見合い写真です」
「ちょっと待てお前ソレ完璧隠し撮り写真じゃねぇか」
セイバスが見せてくれたのは、カメラ目線の一切無い正真正銘本物のアデリアの隠し撮り写真。
「この他にもまだあります」
セイバスは手品のように次から次へと懐からアデリアの隠し撮り写真を取り出しては床にばら蒔いて行く。
一枚。三枚。五枚。十枚。十五枚……。アデリアは唖然としたままソレを立ち尽くし見つめ続け、気が付けば床はアデリアの隠し撮り写真でいっぱいいっぱいになっていた。
「数が尋常じゃないけどぉっ!?」
「出来心です」
セイバスは飄々とした態度を崩さない。
「アデリア姫、私はチエである貴女の子供にチエと二人で考えた子供の名を付けたいのです!!お願いします。結婚したいだなどと大それた事は申しません。どうか子供だけでもっ」
「……っ、私はそれがそもそも嫌だと言っているのです!」
結婚も無く、ましてや恋や愛すらない。どうしてそれで子供などつくれよう。そこのところが何故この男は分からないのか。
「デュオ様。どうかアデリアお嬢様のお気持ちもお考えになって下さいませんか」
「セイバス」
そんなアデリアの気持ちを読み取ってくれたのか、セイバスがデュオに言う。さすがアデリア付き執事である。何も言わずともアデリアの気持ちが分かったのだな、とアデリアは床に散らばる隠し撮り写真の事はこの際一切水に流して、セイバスがビシリと言い放つのに期待に胸膨らませた。
「そうです!言っておやりなさいセイバス!」
「はい。ですが、お嬢様もお嬢様ですよ。私だけでなくデュオ様にもそうはっきりと自分の思う所を仰ればよいではありませんか」
「う……」
「子供をつくるための男性との『夜の営み』的な行為が初めてで、怖くて怖くて不安で不安で仕方がないだけなんだ、と」
「違うっ!!なんかちがぁぁうっ!!」
「アデリア姫、そうだったのですか」とそれで納得しかけたデュオにアデリアは全力で否定する。
「違います!!違うに決まっているでしょうっ!?何故この男の話を鵜呑みにするのですかっ!?」
「お嬢様、嘘はいけません。お嬢様は男性との経験ゼロではありませんか」
「違うわよ!!いや、違わない、違わないケド違いますっ!!その話じゃなくて……っ!!」
お嬢際が悪いアデリアに、セイバスは「仕方がありませんね」とそれでもため息を吐く事すら無く、飄々とした態度を崩さないままアデリアと向き合う。
「私自らがデュオ様と向き合う前の練習台となりましょう」
そう言うとセイバスは徐に執事服を脱ぎ始めた。
「いっ!?」
「ご安心下さい。優しくして差し上げます」
「ば、ばかっ、何をいっ……ぎゃぁぁぁぁぁっ!!ネクタイを弛めるなぁぁぁぁっ!!!」
ずずいと迫り寄ってくる『危機』に蹴りを入れるアデリア。を、見ていたデュオは言う。
「アデリア姫大丈夫です!私にはきちんとした経験がありますのでちゃんとリード致します!!」
「ちなみにお嬢様、私にもありますのでご安心下さい」
「安心できるかぁぁ!!というか、今いらない情報を耳に入れてしまったわ!!聞きたくなかった!!聞きたくなかったわよぉぉっそんな話ぃぃ!!……ってそうじゃなく!」
どうしてそう話が飛躍するのだろうか。子供が欲しいだなんて結婚ありきの物ではないのか?愛や恋や好きや嫌いや。喧嘩や仲直りがあって、そういう『お付き合い』が積み重なってからのソレではないのか?
それともデュオは『チエ』であるというアデリアの事を実は好いてでもいるのだろうか。
「デュオ様。デュオ様は私の事が好きなのですか?」
「いえ。アデリア姫の事は別に好きでも嫌いでもありません。チエの事は少なからずも想ってはおりますが」
「…………」
なるほど。
『アデリア』ではなく『チエ』が好き、と。アデリア本人ではなく、アデリアの中にいるんだかいないんだかよく分からないチエという女性がデュオは好きなのだと。
「デュオ様」
アデリアは微笑みを浮かべた。それはもうデュオやセイバスの呼吸を一瞬止めさせるほどの極上の微笑みだった。
「デュオ様。やはりそのお話、お断りさせて頂きます」
「すまないのぅ、セイバス」
アデリアの父、イリナス=エヴァ=リトアールは目の前に立つ娘付きの見習い執事に申し訳なさそうに愚痴をこぼした。
「お前には無茶な事ばかりさせてしまっておるのぅ」
「いえ……ですが、やはりお見合い写真を各方面にばらまいたのが功を奏した様で良かったですね」
全く男の気配が無かった今までと違い、少なくとも一人、今はアデリアに興味を持ってくれている男がいる。ハイランド家の嫡子、デュオ=ハイランド。変わった男だが悪い男ではない。まぁ、彼が興味を持ったのはアデリアというよりはアデリアの中の別の女性、なのだが。
「アデリアお嬢様の前世……というものが『チエ』という名の女性である限りデュオ様はアデリア様をお諦めにはならないかと思います」
「前世のぅ……」
出来ればアデリア自身を好きになって貰いたいものだ。イリナスはため息を吐いた。
「大丈夫でしょう。逢瀬を交わし続けていればいずれはデュオ様もアデリアお嬢様自身に興味を持って下さる筈ですから」
「そうかのぅ。そうじゃのぅ……。そうじゃといいのぅ。……アデリアものぅ、別に悪い娘ではないのだがのぅ」
「お嬢様にもちゃんとした女性としての魅力、というものはありますよね」
まぁ、妙に固いところは多々ありますが。とセイバス。
わしに似て奥手じゃからのぅ。とイリナス。
「男の方に多少強引に行って貰わないとアデリアはいつまでたっても一人身な気がしてのぅ……。不安じゃ」
「アデリアお嬢様は惚れっぽい所もある様ですから。今はデュオ様を毛嫌いされておいでですが、きっとそのうち嫌よ嫌よも好きのうちとデュオ様に引かれていくのではないかと私は思いますよ」
ご安心下さいとセイバスが言うと、イリナスは苦笑した。そうしてイリナスはセイバスを見て暫く、ゆったりと穏やかに笑いながら口を開く。
「わしはな、お前がアデリアの相手でも良いかと思うておったのじゃよ。お前もアデリアの事、愛しているとまではいかないまでも嫌いなどではないじゃろぅ?」
『アデリアの事、好きですか?』
イリナスのそんな問いにやはり飄々とした態度のままセイバスは「どうでしょうか」と一言そう口にしただけだった。