初事件
午前6時30分。
円山はけたたましい目覚まし時計のベルに促され、もぞもぞと布団から這い出た。
寝ぼけ眼でぼんやりとニュース番組を眺めつつ、昨日買っておいた菓子パンを頬張る。
簡単な朝食を終えれば、まだ覚めきっていない意識を冷たい水で無理やり叩き起こして、手早く制服に着替えて装備品を身に纏った。
午前7時。
ミニパトに乗り込むと、赤色灯を点灯させながらゆっくり走り出した。
警察官も他の公務員と同じように、午前9時からが本来の就勤時間であるが、駐在所に勤務する警察官は例外なのである。
なぜなら、駐在所に勤務する警察官にとって、最も重要な任務があるのだ。
「おはようございます!」
「おはようございます」
「おはよう、元気だねー」
「おっちゃん誰ー!?」
「新しい駐在さんでしょ!父ちゃんが言ってたもん!」
「そうだよ、よろしくね。それから、僕はまだおっちゃんじゃないよー」
午前7時30分、駐在所の前で円山は幾人もの子ども達に囲まれていた。
重要な任務、それは登校する子どもたちの見守りである。
事故や事件が滅多に起きないこの酒井村において、地域の宝とも言える子ども達を守るというのは非常に重要な任務なのである。
この酒井村には学校がない。
以前は酒井村にあった酒井小学校という学校に小学生は通学し、中学校からは皐市内の中学校にバスで通うというスタイルだったそうだが、市町村合併により酒井村が皐市に組み込まれたのを機に、児童が少なかった酒井小学校は皐市内の小学校と統合されることになったそうだ。
子ども達は駐在所前のバス停に集まり、7時40分ころに到着するバスに乗り込んで登校することになっており、円山はこの子ども達の自宅からバス停までの間の道路をパトロールすることになっているのだ。
谷酒井に住む子どもは細い路地を抜けてバス停まで来るのだが、山酒井と池酒井に住む子どもは大通りを通ってくる必要があり、早朝の時間帯は居眠り運転をする車や、道路が空いているのをいいことに速度超過をする車が走る危険性があり、子どもたちが事故に遭わないようにパトロールを行うのだ。
5年ほど前に居眠り運転の車に、池酒井からバス停に向かっていた子どもが撥ねられて死亡する事故が発生したことがあるそうで、その現場近くには小さな地蔵堂が建てられており、今でも遺族が花を手向けたり、子どもたちが掃除をしたりと、被害児童の冥福と交通安全を願って丁重に扱われている。
ちなみにその当時の駐在所の勤務員は、事故を防げなかったことを悔やんで警察官を辞職し、現在の行方はわからないそうだが、被害児童の月命日になると必ず誰ともしれず地蔵堂に花が手向けられているため、当時の勤務員がお供えしているのだろうと言われているが、誰もその姿を見たことがないらしい。
子ども達にオモチャにされなが待つこと10分、到着したバスに乗り込む子ども達を見送ると、円山はようやく騒がしさから解放されたことと、子ども達を無事に見送れたことに安堵の息を吐いた。
しかし、その時あることに気付いた。
松本早苗がいなかったのである。
確か皐市内の高校に通っているはずであり、今のバスに乗らなければ遅刻してしまうはず。
しかも彼女が通っているのは県内でも指折りの進学校で、校則も厳しいことで有名だ。
「寝坊でもしたのか?・・・仕方がない、送り届けてやろうかな」
正直なところ、彼女が遅刻しようがどうだろうが円山には関係のない事なのだが、そうはいかないのが駐在の性だ。
警察官であると同時に住民でもある駐在は、住民たちと良好な関係を築く必要がある。
それができなければ職務上必要な地域事情を知ることもできない上に、最悪事件が起きても住民の間で解決(揉み消しともいう)されてしまうこともあるらしい。
それほど住民に気に入られるかどうかということは、駐在警察官にとって死活問題なのである。
そして、今回のような事態はある意味チャンスなのである。
子どもが遅刻するとなれば親が学校まで送ることになるが、それでは親が会社に遅刻する可能性があったり、限られた朝の時間を浪費してしまうことになる。
そこで、親の代わりに駐在が学校の近くまで送り届ける役目を名乗り出ることで、好印象を得ることができるのである。
例え断られたとしても、住民に「何かあれば駐在に言ってみるか」と思わせるきっかけとなり、それを積み重ねていくことで信頼を得ることにもつながるのである。
「下心がある、偽善だ」と、そう言われれば否定はできないが、それでも人のためになるのであれば、警察官は堂々とそれを行うべきなのである。
よって円山は、ミニパトカーに乗り込むと奥田から引き継いだ酒井村の地図を頼りに、そのまま松本早苗の家へと向かうことにした。
駐在所横の小道に入り、道なりに直進していった突き当たりに2階建ての洋風の一軒家が見えた。
ここが松本家の家である。
古い和風建築が目立つ酒井村の中では、色とりどりの花が植えられた広い庭と淡い緑色の外壁の三角屋根の家は非常に目立つ、というよりは異色である。
昨夜、駐在所に保管されている住民名簿を読んだところ、松本家は親子3人の核家族世帯で、父親は貿易会社に勤務しており現在は海外へ単身赴任中、母親は専業主婦であり、どちらも酒井村の出身ではないらしかった。
ふと見ると、庭先に設置された屋根付きのガレージに高級外車が一台駐車されているのが見えた。
どうやらまだ家にいるようだ。
敷地の前にミニパトカーを停めて降り、インターホンを押す。が、返事は返ってこない。
二度、三度押してみるが応答はない。
「遅刻しそうで慌てているのかもしれないな。ちょっと玄関まで行って声をかけてみるか」
門を押してみると鍵はかかっておらず、すんなりと円山は玄関に向かって歩みを進める。
玄関前にはもう一つインターホンが設置されていたため、もう一度押そうとした円山は、ふと、あることに気付いた。
あまりにも静かなのである。
普通なら、遅刻しそうな娘を急かす声や、慌しく走り回る音でも聞こえてくるはずなのだが、それがない。
「もしかして、まだ寝てるのか?」
親子揃って寝坊。その可能性もある。
ならばやはり、声をかけるべきであろう。
そう思って再度インターホンを押すと、今度は大きな声をかける。
「松本さーん、おはようございますー!朝からすみません、駐在でーす!」
近隣の迷惑にならない程度に声を抑えつつ、大き目の声をかけたが、それでも返事もなければ人が動く気配も感じなかった。
「おかしいなー。いないのか?」
そのとき。
ブゥゥゥウン
円山の右耳の傍を虫の羽音が通り過ぎた。
思わず身を仰け反らせつつ通り過ぎた虫を目で追ってみると、一匹の大きな蝿が飛んでいくのが見えた。
そのまま蝿は庭先を一回りすると、玄関から見て右、大きな掃出し窓がある部屋 (おそらくリビングがあるのであろう) の方向へ飛んでいくと、壁面の上部に設置された通気孔へと入っていったようだった。
「何だ、蝿か。蜂かアブかと思って焦った・・・」
そう呟きつつ、通気孔から掃出し窓へと視線を下ろしたとき、ある異変に気付いた。
部屋の内側から掃出窓に向かって、いくつもの黒い点のような物がぶつかっているのである。
「あれって、まさか・・・」
円山の脳裏に、ある想像が浮かぶ。
ごくり、と喉を鳴らすと、丸山は玄関前から庭へと足を向け、じりじりと掃出し窓へと近づく。
ぱちっ。ぱちっ。ぱちっ。
掃出し窓に近づけば近づくほどに、点が窓にぶつかる音は大きくなる。
そして、掃出し窓の前に立った円山は、想像を確信へと変えた。
蝿。蝿。蝿。
おびただしい数の蝿が黒い礫となって掃出し窓に殺到しているのである。
窓越しでも聞こえてくるほどの羽音を響かせる大きな蝿が、無数に室内を飛び回っているのである。
さらに、円山はもう一つの異変を察知していた。
心を激しくざわつかせ、胃の奥底からむかむかと吐き気と不快感を沸き立たせる臭い。
死臭。人間の、死臭。
円山は、これまでにも何度か、この臭いを嗅いだことがある。
しかし何度嗅いでも慣れることもない不快な臭いによって吐き気が込み上げてくる。
涙目になりながらも、吐き気を無理矢理押さえつけ、掃出し窓から室内の様子を窺った。
まず目に映ったのは、天井からぶら下がった髪の長い女性の背中。
首を吊っていることは一目瞭然である。
おそらく、すでに事切れているだろう。
そして、その足元に目を落とすと、女性が踏み台に用いたのであろう椅子が倒れており、その椅子の向こうの床には、もう一人、人が倒れているようである。
部屋の奥に倒れている人物を見ようと、窓に顔を近づけ、目を細める。
円山は、掃出し窓に向いているその人物を、その顔を、見た。
「ひっ!」
薄暗い室内から、光を失った虚ろな瞳が、松本早苗の目が、じっと円山を見つめていた。