第十三話 閑話 ウサギの耳事情を少し
「まったくもう」
珍しく気分が良いとかでベッドで体を起こしている母親が盛大に溜息をついた。別に私の顔を見たから憂鬱になったわけじゃなくて、私が今しがたした報告に対して溜息をついているのだ。
「そうやって良い御縁をことごとく潰していくのはそろそろやめてほしいのよ、お母さんは」
「そんなこと言ったって。仕事があるのにお見合いの相手とのデートを優先させるわけにはいかないでしょ?」
「仕事仕事って。仕事は老後の面倒はみてくれないわよ、年金は別として。お母さん、暁里ちゃんのことが心配でおちおち治療もしていられないわ」
「そんなこと言わないでよ。私はお母さんがよくなってくれないとおちおち仕事もお見合いも出来ません~」
母親がこの附属病院に入院して既に2年が経っている。最初はちょっとした検査入院だった筈があれよあれよと言う間に入院が決まり、あっという間に2年と言う月日が経ってしまった。留守がちな父親と兄に代わって自宅は私が一人で留守を預かってはいるけれど、家族がいない家はガランとしていて寂しい。
「そう言えば自衛隊の訓練の視察に行ったんでしょ? どうだった?」
「うん、なかなか興味深いものだったよ。海保とはまた違った意味で凄いね」
ちなみにうちの父親と兄は海上保安庁に勤めていて、私が防衛省に入省することが決まったと聞いて「この裏切り者~」と訳の分からない非難を浴びせかけてきた。ちなみに親子関係も兄妹関係も至極良好。良好すぎて兄はシスコンの気があるのでは?と最近では少しばかり心配してはいるのだけれど。
ちなみに父親は私が男だったらソナー要員として何が何でも海保に引っ張るつもりだったとか。父親は帰ってくるたびにお前の耳を遊ばせておくのは才能の無駄遣いだと言っている。
そう、私の耳、正確には聴覚なんだけど少しばかり規格外。よく聴こえると言うか聴こえすぎると言うか。小さい頃はそれで随分と苦労した記憶があるけれど、その特殊な聴覚のお陰で職場に新しいコピー機とファックスの複合機が入ることになったのだから、まあ感謝しないといけないのかもしれない。
「現代の忍者みたいな人達だったよ、レンジャーさんって」
「そうなの。お父さんとお兄ちゃんの前ではあまり褒めないようにね、直ぐに拗ねちゃうから」
「分かってる。ほんと、大人気ないよね、あの二人。海保LOVEなのは分かるけどさ」
物事には限度と言うものがあって、過ぎたるはなお及ばざるが如しと昔の人が言ったように何事も程々が一番だ。私の聴覚も含めて。
そんな訳で聴こえ過ぎてしまう耳を持つ私は当然のことながら人ごみが苦手だ。大人になって“耳を塞ぐ”ということを覚えてからは何とか普通に生活をしているけれど、それでも雑踏に踏み込むと周囲が発する様々な音に圧倒されてしまう。そんな中で駅前のパン屋さんに入り周囲の音の洪水から逃れることが出来てほっとしていたところで、何処かで聞いた覚えのある声が耳に入ってきた。
「あ、超絶ウサギ耳女」
驚いてトレーにパンを乗せていた手を止めて声のした方に目を向ければ、数週間前に事務次官の視察に同行した時に顔を合わせた陸上自衛隊の隊員さんがこちらを見ていた。あ、聴こえちまった?という呟きと共に苦笑いしている。
「チョウゼツウサギミミオンナ?」
何だか凄い名前をつけられてしまったみたいだ。何となく気まずげな顔をしているその人と一緒にいた女性が、何てこと言うのよとテーブルの下で足を蹴っている。痛そうな音。そんなに蹴られ続けたら足の骨が凹むのでは?なんて要らぬ心配をしてしまう。
その隊員さん……安住さんはこの商店街が地元だということだった。こんな偶然もあるんだなとちょっと感心してしまった。で、一緒にいた女性は安住さんの婚約者さんなのだそうで、今からケツに敷かれているんだよなあと彼が呟くと即効で脛に蹴りが入っていた。やっぱり痛そうな音……。お巡りさんがそんな暴力的で良いのかな? お相手が現役自衛官さんだからちょっとやそっとでは壊れないと思っているとか?
お二人と話している時に携帯のバイブ音がした。カバンから取り出して見ると父親が明日帰るぞっていう連絡だった。そっか、だったら久し振りに父に甘いものでも買っておいてやるか。お二人と別れて店を出ると、あまり気が進まないけどもう一度商店街に引き返すことにする。父親もそうだけど商店街の真ん中ほどにある櫻花庵さんの水饅頭はとても美味しくて私のお気に入りスイーツの一つだ。一つぐらい父親に食べさせてやっても良いかな……。
擦れ違う学生さんたちの甲高い声に内心顔をしかめつつ、商店街のメインストリートに面しているお店を眺めながらもと来た道を引き返す。そんな途中でいきなり声をかけられた。こんな聴覚のお陰で不意打ちを食らうなんてことは滅多に無いものだから心底驚いて相手の顔に目を向けた。……日焼けが凄い、それがその人を見た第一印象だった。
「お姉さん、落とし物だ」
「え?」
携帯を耳に当てながら何か細い棒みたいなものをこちらに差し出してきたのだけれど、それを見るよりも先に耳の方が携帯電話の向こう側のただならぬ単語を聴き取った。
『狩りを手伝えって言われたんだが、お前はどうする?』
狩りを手伝え? この人、猟師さん? 最近のハンターさんは狩りを手伝えとかなんとか携帯で連絡取り合っているの? それとも……もしかして何かの隠語?
「俺は構いませんけど、俺達がやってもいいんですかね?」
やっちゃう? なにをやっちゃうの? 殺すにおくり仮名のるで『殺る』とか言うよね、もしかしてそのやっちゃう? ってことはこの人、ヤクザ?! 万が一、私が今の会話を聞いていたと分かったらもしかして私も消されちゃうかもしれない? だめだめ、父親と兄はともかく私には病気の母親が!
多分、声をかけられてから数秒しか経っていないのに一年分ぐらいのことを脳内で考えた。そしてその結果、私は差し出されたものを有難く受け取るどころか脱兎の如く逃げ出すという行動に出たのだ。
後に慌てると碌なことが無いというのを改めて思い知ることになるのだけれど、この時の私はいたって真面目に考えてその結果の行動だったんだ。……一応は。




