エピローグ
列車の上に『彼』は立つ。長い、結われた髪がなびいた。
着ている外套が風にはためき、彼は手袋をつけた手を軽く振る。演奏者のようなそれに、誰もが見惚れることだろう。
リン、と鈴のような音が響き、空中に幾つもの魔法陣が浮かび上がる。細かい模様が描かれたその陣が、意味を発現させた。
――爆発。
煙幕のように使われたそれらのせいで、空中から列車を襲ってきていたヨゴトコウモリたちの群れを追い払った。
長身の彼は小さく息を吐き、それから夜空を見上げる。
列車の速度で煙幕はあっという間に後方に追いやられ、ヨゴトコウモリたちも見えなくなった。
「ルキア様!」
車窓から顔を覗かせ、ボンネットをおさえている女性を見下ろし、彼は微笑む。
「終わりましたよ、トリシア」
「に、にこっ、じゃないです! 旅行に行くときまでこれって、ありなんですか!」
泣きそうな顔に彼は苦笑してみせた。可愛いなと思っていたなんて言ったら、彼女は怒りそうだ。
「様付けはやめるって、何度も約束しているのに。貴女も直りませんね」
「なっ、直るわけないじゃないですかっ!」
もう! と彼女は頬を膨らませて顔を引っ込めてしまった。
ルキアは前髪を掻き上げ、片眼鏡のチェーンを軽く引っ張る。
身軽に車内に戻ると、窓から入ってきた夫に彼女が仰天して悲鳴をあげた。
「きゃあああ! 何やっているんですか、あなたは!」
「なにって、トリシアの元に早く戻りたかったので」
「えっ、遠征ついでの旅行なんですから、急がなくても大丈夫です!」
むっとしたように言う彼女はぷいっと横を向いてしまった。
覗き込むように腰を折り、ルキアは小さく笑う。
「こうして列車で旅をしていると、昔を思い出しますね、トリシア。あの頃の貴女もとても愛らしかったですよ」
「っ」
カッと顔を赤くして、トリシアはわめいた。
「なに言ってるんですか! あれから3年しか経ってないのに!」
一等客室に部屋をとっているファルシオン夫妻は、なかなかに騒がしかった。
それもそうだろう。夫が、かの有名な『紫電のルキア』なのだから。
貴婦人らしい格好をしているが、トリシア自身、あれからあまり成長したとは思えない。
相変わらず社交の場に出てもろくに会話もできないし……。けれど、夫であるルキアはめきめきと成長していき、今では……。
そっとうかがう。
ルキアの身長は伸び、トリシアを軽く越えていた。それに、美貌はそのままで、美しい青年へと変化を遂げていたのだ。これでまだ17歳だというのだから、どれほど世の中不公平なことか。
「ん? なんですか? キスでもしたくなりましたか?」
「しっ、したいとか思ってません! もう! ルキア様はいつもそうなんですから」
「常にしたいと思っているから、仕方ないでしょう」
あっさりと言われて、掠めるようなキスをしてくる。抗議をする暇すらなかった。
幸いにも、部屋には二人しか居ないので誰にも見られずに済んだ。
ルキアは少しだけ意地悪な笑みを浮かべて、そっと人差し指を唇の前に遣った。
「静かに。さあ瞼を閉じてトリシア。愛しい人……」