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第三幕

 怪鳥の眼がこちらをみた。視認、された。

 悪寒に襲われてルキアは咄嗟に視線を逸らす。ビシッ、という音。

 敵から目を逸らすなど、愚の骨頂だ。そうは思ったが、直感はルキアの命を助けた。

 咄嗟に足を止めたからこそだった。

 目の前の土が、空から降ってきた光線に当たって…………石化した。

(…………なんの、魔術、ですか)

 これは。

 呆然と目の前の事象を検分する暇などない。千切れた魔法陣の隙間から、あの怪鳥は飛び出したあの眼球から妙な光を発したのだ。

 詠唱を続けてはいるが、こちらのほうが分が悪い。

 次から次へと魔法陣は引き千切られ、その隙間から狙う怪鳥。

 網目をくぐって迫ってくる敵の攻撃にルキアは戸惑うしかない。戦慄はしない。ルキアは軍人で、恐れる感情が極端に低いのだ。

 軍人は常に死と隣り合わせ。けれどもむざむざ殺されるわけにはいかない。

(せめて『ヤト』の全員が遺跡に着くまでは)

 そして。

(トリシアたちが完全にこの場を……)

 去ってくれればと。

 そう思っていた矢先に、魔法陣が完全に食い破られた。

 あの光が来る!

 ルキアには詠唱の時間は与えられなかった。防御することすらできない。

 だから。

 任務の途中で殉死とは、としか思わなかったのだ。時間稼ぎはできただろうか?

 その時だ。

 光が直撃する直前に、何かが目の前をよぎった。何か、とはわからず……ただ自分が受けるべき光をソレは受けた。

 こちらによりかかるように倒れ込んでくるので、受け止める。

 ルキアは………………唖然、とした。

 身体の右半分が完全に石化した……『トリシア』が、腕の中に倒れ込んできたのだ。

(トリシア……?)

 なぜ彼女がここにいる? ブルー・パール号は発車したはずだ。居るはずがないのに。…………ここに居る。

 石化とは? 内臓もか? では血管はどうだ?

 医学の知識はマーテットほどはない。ルキアは驚愕に目を見開き、彼女の顔を覗き込んだ。

 なぜ。

 それしか浮かばなかった。

 そして…………彼は生まれて初めて感じた感情『激怒』と『悲哀』が混在した『戦慄』に…………涙が一筋、流れた。



「よせ、ルキアーっっ!」

 誰かの悲鳴が遠くで聞こえる。

 トリシアの薄く開かれた眼前で、驚愕に目を見開くルキアが自分を覗き込んでいる姿が見えた。

 真っ直ぐにこちらを見てくる彼の紅玉のような瞳につけられた片眼鏡が音もなく粉微塵に砕けた。

 それを境に彼の表情が苦痛に歪み、片手で顔を覆ってから声にならない悲鳴をあげた――――。

(ルキ……ア……さ……ま?)

 どうしたの? と声をかけようと思って腕をあげようとするが、そういえばなぜ自分はルキアに抱きかかえられているのだろうか?

 不思議になっていると、顔の右半分が動かない。なぜだろうかと疑問になる。

 ルキアの口から放たれたのは悲鳴ではなく『唄』だった。

 言葉にならない旋律に乗せられた声が歌となり、『唄』となって大気に満ちた。

 ――途端。

 空気が激しく振動を起こし、あたり構わず周囲の人間、いや、生き物や無機物を攻撃し始めたのだ。

「ひぃっ!」

 小さな声をあげて猫背のままオルソンがそそくさとオスカーの防御結界へと逃げ込む。

 半円の防御結界の中には『ヤト』の残る8人が立っており、こちらの様子をうかがっていた。

「よせ! ルキア、『唄』を止めろーっっ!」

 オスカーの横で説得の声を張り上げているのはロイだ。

「ルキア! 声が聞こえているのか! ルキアっ!」

 必死に大声で呼びかけているというのに……。

 ルキアを見上げるトリシアは、彼が天に願うように、何かを祈るようにひたすら歌っているようにしか見えなかった。

 言葉にもなっていないメロディはただ美しいばかりで、大地を傷つけ、飛んでいた怪鳥をズタズタに切り裂いた。

 降って来る血の雨に青ざめるトリシアは、どすん……、と地鳴りのような音をたてて落下してきた怪鳥だったものに視線を馳せる。

 絶命した生き物は不気味としか言い様がないが、それでも残虐な殺し方だった。

「ル、キア様……も、もう無事です……。かい、怪鳥は……退治、しました……よ?」

 小さな、出せるだけの精一杯の声でそう語りかける。

 彼の袖を引っ張る。

 涙が、出てきた。

 なぜ彼は泣きそうな声で唄を歌うのだろうか?

「トリシャー! 聞こえてっかぁー!」

 馴れ馴れしい声はマーテットだろう。

「ルッキーは、封印具が壊れちまってぇー! 自制がきかねぇのよー!」

 ふういんぐ?

 もしやいつもつけていた片眼鏡のことだろうか? だがどこにも魔術文字は……。

 そう考えて、ハッとした。

 眼鏡の裏側だ。フレームの裏側にそれが記されていたとしたら、トリシアには、いや、他の誰にもわからない。

「代理のもんがー! どっかに隠されてっからぁー! 見つけて身につけさせろぉー!」

 マーテットのだらしない大声に苛立ちながら、トリシアはなんとか身を捩る。

「じゃねえとぉー! おれっちらもおまえもぉー! ルッキーもー! 全員がここでお陀仏だぜーっ?」

 なぜ最後だけ疑問系なのだ! 腹立たしく思いながら、左腕を動かす。

 ああ、聞こえる。嘆くルキアの声が。

 天地にいるモノたちに呪いを降りかけている彼の響きが。

(どこに……どこにあるの……)

 上着の上から触り、内側の隠しポケットの中に予備の片眼鏡があるのを発見した。同じ金色の縁取りのものだ。

 裏側には流麗な魔術文字が記され、封印を記す事柄を示している。

「る、ルキア、様……!」

 重たい腕を動かしてルキアの両頬を包む。そして彼の顔をこちらに向けさせた。

「ル……」

 それ以上言葉が続けられなかった。

 ルキアの右目だけが色が違っていたのだ。どす黒い錆色に変化し、ゆるゆると色が混ざっている。ぐちゃぐちゃとした色合いにトリシアは恐怖に硬直しかけてしまう。

 囁くような声に変わったが、ルキアはまだ歌い続けている。

 まるで子守唄のようだが、それは抜群の破壊力を持つ強力な『魔術』の一つだ。

「ルキア様……も、もう、大丈夫、ですから」

 それだけ言って、なんとか片眼鏡をつける。チェーンを耳にきちんとつけて、外れないように固定させた。

 ぐらり、とルキアの肉体が揺れて、『唄』が止まった。そのまま彼はトリシアのほうへと倒れ込んでくる。

「えっ」

 驚きに目を瞠るトリシアは、ルキアとの不意の接触に仰天した。

 彼の少し冷えた唇が、自身の唇を塞ぐように覆いかぶさってきたのだ。

「んぐっ」

 ぎゅ、と唇を引き締めるが、それでも触れている箇所の熱を感じてしまう。

(わ、私の、私のファースト・キスが……!)

 ぶつかるような、こんな事故みたいな!

 信じられないと呆然として、無理やりルキアを押し退ける。『ヤト』のメンバーにはルキアが倒れたくらいにしか見えていないはずだ。

 火照る頬にトリシアは情けなさを感じてしまう。

(……ルキア様とキスしちゃったのに……嫌じゃないなんて……どうかしてるわ)

 どうか、している。

 天空を仰ぎ見れば、青々としていたはずの空はいつの間にか曇り、灰色に包まれていた。

(え?)

 ぽつん、と何かが頬に当たる。

「『加護を汝らの頭上にも』」

 詠唱が聞こえると同時に、気絶しているルキアとトリシアの上に雨があっという間に襲い掛かってきた。だがそれは魔術で作られた防壁に阻まれている。

 視線を遣れば、両手を交差させているオスカーの姿が目に入った。彼らは結界を維持しながらこちらに近づいて来ている。徒歩で進んでいるのは、オスカーの防御結界を前へ前へとずらしながらだからだろう。

 やっと近くまで来ると、マーテットがすぐに駆け寄ってきてルキアを抱き起こした。

「おーおー。右目が開いたままだよ。こえー!」

 げらげらと笑うマーテットの不謹慎さに「ごほん」と大きく咳をして注意をしたのはロイだ。

 右の瞼を閉じさせてから、マーテットはルキアの身体を無遠慮に地面に転がして、検分を始める。

「肉体に異常はねぇなー。残念だなー。解剖のチャンスだと思ったのによー」

 あまりのセリフにロイがマーテットの後頭部を殴る。トリシアはいい気味だと内心で舌を出した。

「それじゃ、トリシャのほうも診てやるかー」

 マーテットがこちらを見た瞬間、ぎくりと背筋が凍りつく。何をされるのかと怖くて喉をごくりと鳴らした。

 彼はこちらを見下ろし、屈んでじろじろ見てくる。

「あの怪鳥の攻撃を受けたにしちゃー、『傷がねぇな』」

「……え?」

「彼女は右半身が石化していたのだぞ!」

 ロイの咎めるような声に、自分がそんな状況で倒れていたのかと血の気が引いていった。

(右半身? でも……いつから?)

 いつ。

 いつ、その状態から『脱した』?

 途中までは身体が重くて気にもできなかった。トリシアは痛みを堪えながら起き上がる。

 どこも、平気だ。多少痛いのは、なにかの後遺症かもしれないが……筋肉痛に似ているので、さほど気にすることではないだろう。

 降り注ぐ雨を億劫そうに見上げているオルソンは、くいっと親指で遺跡を示す。

「とりあえず場所を移そうぜ」



 遺跡の中は奇妙な静けさで満ちていた。だが、ざわめきを肌で感じる。

 なにかを警戒するようなおかしな気配が漂っている。昔語りだとすれば、精霊、と称するものか……それとも、幽霊?

 横たえられたルキアには外傷もなく、トリシアは今は自分の足で立っていた。身体のあちこちが痛いが、構ってはいられなかった。

「あの……デライエ少佐、ルキア様は……?」

「機密事項だ。教えられないな」

 すっぱりと言われてトリシアは軽く目を見開く。それもそうだ。

(私……なにやってるんだろう……。列車から飛び降りて、ルキア様庇っちゃって……。らしくない、わよね)

 落ち込むトリシアのほうをマーテットがじろじろとぶしつけに見てくる。

「べっつにいいんじゃね? 教えても」

「マーテット!」

「ロイロイもあたまかったいんだからさぁ。いいじゃん。だって、そいつ、攻撃されても無傷なんだぜ?」

 その意味に気づいたかのように、全員の視線がトリシアに集まる。

 びくっとして身を竦めるトリシアは、視線の意味を考えて恐ろしくなった。

 マーテットはにやにやと笑っている。

「まぁ、ルッキーが殺しちゃったから石化が解除されただけだとは思うけど……」

「……気には、なりますね」

 レイドが細目のまま顎に手を遣っている。

「どこにでもいる平民の娘だ」

 ギュスターヴの一喝のような声に、わいわいしていた全員が静まり返る。

「『運が良かった』だ。マーテットもヒューボルトも研究対象として目をぎらつかせるんじゃない」

「へいへーい」

「承知しました」

 どちらも渋々というような様子にトリシアは安堵してしまう。

「でもさー、どーせルッキーは自分のことは喋っちゃうから、機密でもなんでもないんじゃね?」

 軽い口調で、唇を尖らせて言うマーテットはルキアの横顔を靴底でぐりぐりといじっている。

「やめてください!」

 庇うように彼の前に立って阻むとマーテットが「へへっ」と笑った。

「マーテット!」

 ロイの声が飛ぶ。だが、それより先にマーテットがトリシアの顔を片手で掴んでいた。

「平民の女風情が、おれっちら『ヤト』に敵うとでも思ってんのかぁ?」

「女だと愚弄するなら、わたくしが相手をしよう!」

 パーン! とムチの音が床を鳴らす。静観していたライラだったが、女性を蔑視されるのは気に障るようだ。

 睨むライラをマーテットが笑みで返している。

(……マーテット様って、ルキア様と全然違う……)

 別人だからなのかもしれないが、笑みの種類が違うのだ。

 無邪気で柔らかいルキアの笑顔と違い、マーテットの笑みは打算が見え見えなのだ。だから余計に腹が立つのだろう。

 汚れのついたルキアの横顔を、取り出したハンカチで拭いていると、ロイが屈んでこちらをうかがってきた。

「申し訳ない。マーテットが……」

「いえ、ルキア様が無事ならべつに私のことはいいんです」

 さらりと言い放ってから、驚く。

 いつの間に、自分は、自分のことよりルキアのほうを大事にしていたのだろう?

 仰天すると同時に驚愕のあまり硬直してしまうトリシアを、ロイが心配そうに見ていた。

「ぎゃっはっは! この化物小僧が無事ならいいだってよー! すげー! 平民の女ってスゲー!」

 げらげらと笑うマーテットは、今度はオスカーに殴られて吹っ飛んだ。

「下劣だ。見ていて不愉快だ」

 断言するオスカーはルキアの傍に来ると様子をうかがった。

「魔封具は無事に作用しているな。でもあの場面で壊れる理由がわからないのだが……」

「起きたルキアに聞けば良い」

 尊大な態度で言い放つライラに全員が頷いた。トリシアは厳しい表情で眠っているルキアにもう一度視線を遣った。



 ルキアが目覚める前に、遺跡の調査は進められていた。参加することのできないトリシアは留守番として、ルキアの傍に居ることとなった。

 彼らは一度遺跡に入りかけたのだが、ちょうどそこでルキアが怪鳥からの攻撃を受けたのをライラが目撃し、全員に声をかけたのだそうだ。助けに戻る、と戻らないとに意見は一瞬でわかれたが、直後にトリシアが彼を庇って負傷。そして続けてルキアが暴走したので遺跡には入らなかったそうだ。

 彼らはルキアが怪鳥を倒したせいか、遺跡の様子が変わったと言っていた。

(様子って何がかしら……。まぁ、一般人の私にはよくわからないからいいけど)

 膝を抱えて座っているトリシアは、列車から飛び降りた際にできた傷を確認して、嘆息した。ますますお嫁の貰い手がなくなることだろう、この破天荒な行動を繰り返すようでは。

 遺跡の内部には植物がない。生気が欠片も感じられなかった。

 そう思っていたら、寝息を立てていたルキアがぱちりと瞼を開けてむくりと起き上がった。

「ルキア様!」

 歓喜に震えながら起き上がったトリシアが近づくと、彼はこちらを見てから目を見開く。

「……トリシア……」

「ルキア様、今は遺跡の中なんです。他の方たちは地下へと探索に向かわれました」

 オスカーに説明された通りのことを告げると、ルキアは安堵したようにほぉ、と小さく息をついて微笑んだ。

「……よかった」

「は?」

「無事みたいで。トリシアが」

 いつものように砂糖菓子のようにふんわりと笑うルキアの表情がすぐに苦痛に歪む。

「でも……自分はあなたが怖いです」

「怖い? どこがです?」

 トリシアは自分自身を見下ろす。汚れてしまった添乗員の制服姿の平民の平凡な娘しか、彼の目の前にはいないはずだ。

 それなのに怖い?

 きょとんとするトリシアから視線を逸らすルキアは、じり、と後退した。

「私はルキア様に勝てるような能力などありませんが……」

「ありますよ!」

 彼は大声で言ってくる。なんだか自棄になっているような、意地になっているような。

 ルキアは畏怖でもしているような仕草で、視線をぱっと伏せた。

「魔封具を、破壊しました。一瞬で」

「え?」

 あれは、壊した、と言うのだろうか?

 勝手に壊れたように見えたし……。

(その前に、ルキア様……すっごく驚いてたように見えたけど……)

「なぜルキア様は魔封具をつけていらっしゃったんですか?」

 トリシアの質問に、彼は大きく目を見開いて、顔をあげた。あまりにも美しい宝石のような瞳に、トリシアはびくりと反応してしまう。

(訊いちゃ……いけないことだったかしら?)

 彼は右目を隠すように手をかざし、それから小さく息を吐き出して表情を曇らせた。

「魔力が異常に高いのです、自分は」

「え……」

「それを抑えるために魔封具を使っています。普段は本来の力のほんの少ししか出していません」

「あ、あれで、ですか?」

 信じられない。

 最初の出会いでの落雷を魔術で使用した時でさえ、彼は片眼鏡をつけていた。

 飄々として、笑顔で簡単に事を運んだ魔術師が…………ルキア=ファルシオンだった。

「人の手には余るものなので、必要な時以外は封じているのです」

「必要な時って……」

「戦争の時です」

 さらりと、彼はすごいことを言ってのけた。

 あの能力で相手を一掃するのだろう。

 恐怖で青ざめるトリシアは、マーテットが「化物小僧」と言っていた意味がやっとわかった。

 皇帝直属でいるのも、軍にいるのも、有り余っている「能力」のせいだろう。

「自制、できないんですか……?」

「意識がはっきりしている時はいいんですけど、そうではない時は……。意識が、濁流に呑み込まれたようになるのです」

「唄を歌っていらっしゃいましたよ?」

「ああ……」

 どこか苦笑に近い笑みをルキアは浮かべた。

「それは一番古い強力な魔術です。自分が習った中の、古代魔術なのですが……。どうやら、自分と相性が良いようで」

「…………」

「魔力が暴走すると、口ずさんでしまうらしいのです」

「くちずさむ?」

 おかしな表現にトリシアは怪訝そうにする。

「ええ。『口ずさむ』んです」

 魔術に理解がないため、トリシアにはよくわからなかった。だが、それほど強力な魔術をいとも簡単に使ってしまうルキアは……こわい。

「……厳重に封じているのですが、その魔封具があんなに簡単に壊れるとは」

「あの、私は壊しておりません」

「えっ? で、ですが……」

「気づいたら、私は倒れていて、ルキア様が見下ろしていたんです。憶えておられませんか?」

 尋ねると、彼は不思議そうに目を丸くし、それから困惑したように逡巡する。

「………………あぁ…………あぁ、そう、でした、ね」

 何度か瞬きを繰り返し、それからゆっくりと…………トリシアを見つめてきた。

「…………無事、だったんですよね」

「夢じゃありませんよ」

 なるべく軽く言うと、ルキアがまた身を引いた。

「そう、ですか。夢、じゃない……」

 あちこち視線を動かすルキアの肩をしっかりと持つ。

「夢じゃありませんてば!」

「…………っ!」

 はっ、と息を吐き出してルキアはトリシアの手を振り払った。そしてすぐに目を瞠って「すみません」と謝ってくる。

「ご婦人になんてことを……! 申し訳ありません!」

 頭をさげて謝罪するルキアを、トリシアは不思議そうに見てしまう。

「殴ってくださって構いませんよ、トリシア」

「いえ、ですから……なんでいつもそんな乱暴な解決法をとろうとするんですか」

「……はっ」

 息を吐き出すルキアは、俯く。

「…………怖いですよ、やはりトリシアは」

「なにがですか?」

「わからないですから」

 溜息混じりに呟くと、ルキアは両膝を抱えた。

「あなたと居るのは嬉しい気持ちになるのです。これは前も言いましたよね?」

 楽しい気分になるのだと臆面もなく言われたのは憶えている。

 トリシアが頷くと、彼は続けた。

「ただ……なにかおかしいのです。あなたが自分を庇った時、正直、意味がわからなくて」

「意味がわからない?」

「今も、よくわかりません」

「は?」

「一緒に居ると安心しましたが……今は怖くて、多少…………言い難いですが、苛立っています」

「私に、イライラする、と?」

 何かしただろうか? 庇っただけなのに、ひどい言われようだ。

「苛立ちますが、傍にいないと、嫌です」

 嫌なんです、と強く言うルキアは颯爽と立ち上がった。ふらつくかと思われたが、その足取りはしっかりしている。

「意味がわからないので、怖くて、すごく……知りたいのです」

 その視線を真っ向から受け止めて、トリシアの胸が高鳴る。

 そこに居たのは、知りたがりの、無邪気な少年ではない。

 『ヤト』に属する冷酷な魔術師の軍人でもない。

 ただ……熱い眼差しを向けてくる……一人の男がいた。

 頬がじんわりと熱くなり、トリシアは視線を逸らす。

(な、なになに? いきなりなんなの?)

 わけがわからないのはこっちだ!

 にっこりといきなり微笑まれて、拍子抜けしてしまうトリシアだった。

「さ、では行きましょうかトリシア」

「い、行くってどこへですか?」

「皆を追うのです。怪鳥を倒してしまった今、地下がどうなっているのか気になります。

 彼らに限り、問題はないと思いますけれどね」

 掌を差し出すルキアの手を、掴む。簡単に立ち上がれてしまった。

(そうよね。ルキア様って意外に体育会系なんだったわ)

 ブルー・パール号ではラグの活躍のほうが目につきがちだったが、ルキアは軍で鍛えられているのだ。体術もそれなりに使えるのだろう。

「あの……眠くないのですか?」

「え?」

「いえ、魔術を使われた後はいつも睡眠を必要とされていましたから」

 ルキアはにっこりと笑った。いつもの笑顔にトリシアはほっとする。

「今はそんなことはないですよ。溜め込んだ魔力を一時的とはいえ解放したので、元気です」

「魔力って、溜め込むことができるんですか?」

「うーん。説明が難しいですね」

 ルキアはトリシアの手を握って歩き出す。遺跡の、地下へと通じる階段へと向かって。



 石造りの階段には灯りがないので、ルキアが指先に光を集めて先へと進んでいる。随分と下へと続いている。どこを歩いているのかわからない。

 先を進んでいるであろう『ヤト』のメンバーの足音は聞こえてこない。

「あの……私に喋っちゃっていいんですか?」

「何をでしょう?」

「魔封具のこととか、色々です」

「?」

「デライエ少佐は、機密だとおっしゃっていました」

「あはは。少佐なら言いそうですね」

 にこやかに言うルキアは、トリシアの手を離そうとはしない。子供の手のはずなのに、ルキアの手はトリシアより大きい。

「構いませんよ。周知の事実ですし、機密扱いはされていますが、隠す必要性はありません」

「でも……」

「トリシアは自分以上に、そういうことを気にしますね」

「え? そ、そうですか?」

「ええ。あなたは現実主義者ですから、気になりますよね、そういうことは」

「…………」

 その通りだ。

 自分は融通がきかない……現実主義者だ。だから、ルキアとは恋に落ちることはない。彼とは階級も育ちも違う。別世界の人なのだ。

 ……そう、何度も言い聞かせていたのに。

(なんでだろう……。いつの間にか、居心地が良くなってた)

 情けない。

「言えないことは言いませんから、ご安心を」

「あ、はい!」

 慌てて返事をしたので、声が大きくなった。

 あ、と小さく呟くトリシアを軽く肩越しに見てきたルキアは微笑む。

「元気がいいのは良いことですよ。本当に無事だと、自分も安心できました」

 ぎゅ、と手を握る力が強くなる。トリシアはどくどくと鼓動が異常に速く動いていることに気づいていた。

 ルキアの行動に動揺している。もっと心をしっかり持たなければ。

 前を歩く小さな背中。なのに……彼がいれば、と思う自分もいる。

(私、おかしい……)

 絶対におかしい!

 嫌だ、こんな自分は!

 否定の感情が渦巻くトリシアは、ルキアを見つめながら、彼の嫌な部分を挙げていくことにした。そうすれば、きっとこの落ち着かない気分はなくなってくれるはずだから。

(まず、空気を読まないわよね、全然。それにいつも『軍』がどうのって言ってるし……。規律正しいのに、自分のことには無頓着で……)

 髪を結うのでさえ、彼は最初は物凄く嫌がっていたのだ。軍務に必要がないと言い張ってまで。

 無理やり髪を結って、着替えさせた彼はとてもかっこよかった。思い起こしてトリシアはうっとりとしてしまう。

 彼は少尉なのだ。階級があって、美貌もあって、貴族。手の届かない人なのだ。

(ああああ! やだやだ、なんですぐにいいほうに考えを持っていこうとするのよ! ルキア様は私とは身分が違うっていうのに!)

 あれ?

 でもそこで疑問になった。

 かつんかつんと二人の足音が響く中、暗闇を照らす小さな灯り。

(なんで……私、ルキア様が私のこと好意的に見てるっていう前提で考えてるの?)

 おかしな話じゃないか。それこそ。

 彼は確かにトリシアのことを気に入ってはいる。だがそれは、玩具に対してのものと大差はないはずだ。恋愛感情ではない。

 そのことに気づいたトリシアは愕然とし、がくんと足から力が抜けそうになる。

(そ、そうなの、よね……。ルキア様は、私のことを……好きってわけじゃ……)

 あからさまな好意はわかるが……恋愛感情かと問われると疑問だ。苛立つとまで言われたが、オモチャを独占したい子供の心境に近いものではないのか?

 訊けば……応えてくれるだろうか?

 きっと、こたえてくれるだろう。

 仰天して、トリシアは足が止まる。

「トリシア?」

 振り向くルキアを、トリシアは泣きそうな顔で見つめてしまった。彼は驚いている。

「どうしました? やはりどこか怪我をしているのでは……? マーテットは診てくれましたか?」

「……私」

「はい?」

「なんでも、ないです」

「…………」

 ムッとルキアの顔がしかめられる。

「トリシア」

「は、はい」

「前も言いましたが、自分はきちんと言葉にしてくれないとわからないのです。なんでもないなら、その表情はなんですか」

 怒ったように言うルキアはトリシアの手を軽く引っ張って身を寄せる。

「言ってください。ほら」

「…………言えません」

「…………」

 ルキアは睨むようにこちらを半眼で見上げてきた。それは凄みのある美貌で。

「や、やめてください……」

 顔を伏せるトリシアはもう涙声だった。

 彼はずるい。言葉にしないとわからないと言ってくるくせに、そんな顔をされてはこちらが迫力負けしてしまう。

(やだ……。私、ルキア様の顔に弱かったかしら……)

 これほどまでではなかったはずだ。一体いつから?

「トリシア」

 下から覗き込むように見上げられる。半眼で睨んでくるルキアは、爪先を伸ばして身長を、軽くトリシアに近づけた。

「トリシア」

「…………」

 何度も名前を呼ばれて、顔から火が出そうに恥ずかしかった。見上げられる。逃げられない。逃げたいのに、手を握られていて。

「あなたは感情の起伏が激しい。ですが、いつも自身の内部で完結するので、自分にはわかりません。あなたが、何を考えているのか」

「ルキ、ア……さ、ま」

「キスしますよ? 言わないと」

 目を見開くトリシアの唇を、爪先をさらにあげてルキアは奪った。

 素早く身を離し、彼はどこか不思議そうに「ふむ」と呟く。

「な、なにするんですか!」

「なにって、キスです。したくなったので」

「し、したくなったって! な、きょ、許可をとってください! 私、未婚の……」

「あなたを誰かに渡す気はありませんよ」

 さらりとルキアは言ってくる。

 色気のある表情で彼は妖艶に笑う。

「好いていると言ったはずです。怖いですけど」

「ルキア様のそれは、独占欲と同じです! 恋愛感情ではありません!」

「そうでしょうか」

 彼は不思議そうな表情をしてみせた。

「あなた以外の女性を見ても、キスをしたいと思ったことは一度もありませんよ?」

 心臓を撃ち抜かれたような破壊力があった。トリシアは腰から力が抜けてその場に崩れ落ちる。

「トリシア!」

 慌てて支えるルキアを、彼女は情けなさそうに見上げた。

「あ、あなたは……ご自身の持つ威力を、もっと自覚なさってください……」

「はい?」

「ルキア様は」

 トリシアは悔しそうに彼を睨む。

「私より綺麗なんですよ? それに、階級だってある立派な軍人ではありませんか。前も言いましたけど、平民の私と貴族のルキア様ではつりあわないんです!」

「そんなこと、誰が決めたのですか?」

「誰って……じょ、常識ですけど」

「軍律や法律で、貴族は平民を娶ってはいけないとは書かれていません。あなたを自分の恋人にするのに、なにか障害があるでしょうか?」

「世間体という障害があります!」

 はっきりと言ってやると、ルキアはどこか納得したように甘く苦笑した。

「なるほど……。あなたが気にしていたのはそのことでしたか」

「え……?」

「いいでしょう」

 彼は不敵な笑みを口元に浮かべた。珍しい表情に、トリシアは目を見開く。

「そんな『障害』など気にならないほど、自分に夢中にさせてみせましょう」



 宣戦布告を、されてしまった……。

 呆然としながらルキアに手を引かれて歩くトリシアの頭はぼーっとしたままだった。

 彼に、告白、された……? のだろうか。あれは。

 いくら鈍くても、目を逸らしていても、間違いようがない。

 ルキアはトリシアのことを恋人にしたいと言ったし、娶るのに問題はないとまで言った。

(でも、ルキア様が気にしないだけよね……)

 そんなことを考えていても、先程言われたことに顔が自然に熱くなる。

 生まれて初めて男性に告白されてしまった。しかも、とびきりの美少年に。これでときめかないなら、ちょっとどうかと思う。

 例に漏れず、トリシアの心臓は早鐘のようにやまない音に手が微かに震えてしまう。

 危険だ。頭の中で警鐘が鳴っている。

 ルキアを好きになるのだけはダメだとトリシアの脳内で警告が何度もされている。今までだってあった。だが、今はその比ではない。

(私が……ルキア様を好き?)

 好きになることが? いや、好き、なのだろうか?

 自分の気持ちさえ持て余し気味なのに……。

「あの」

 小さく声をかけると「はい?」と振り返らずにルキアが応えてくる。

「る、ルキアっ、様はっ」

 声が上擦った。情けない。

「わ、私のことが、す、す、すっ」

「す?」

(ああもう、恥ずかしい!)

 真っ赤になりながらなんとか勇気を出して続けた。

「すっ、好き、なのですか?」

「何度も言ってますが、好いておりますよ?」

「れ、恋愛感情でしょうか……?」

「恋愛をしたことがないのでわかりかねます」

 あっさりと言われてトリシアは硬直しそうになってしまう。

(そ、そういえば私も恋愛なんてしたことない……)

 内心、引きつりながらそう考えているとルキアの笑う声が聞こえた。

「怖いのに、傍に居ないと嫌だなんて……不思議な感情ですね」

「え?」

「もしもこの感情に名前をつけるなら……たぶん、『恋』だとは思うのです」

「…………」

「あなたのことが怖くてたまりません」

 楽しそうに言う言葉ではないと思う……。困惑するトリシアのほうを彼は振り向かずに階段を降りていく。

「私は、怖くないですよ。お、怒ったりしない限りは」

「…………そうでしょうか」

 ルキアの真面目な声音にトリシアは不思議そうに軽く首を傾げた。

「また、あんなことになったら…………」

 小さな囁きに「え?」と返す。彼は「いいえ」と小さくかぶりを振った。

「気にしないでください。自分が未熟だと再確認していただけなので」

「ルキア様ほどの人が未熟、ですか?」

「ははっ。買いかぶりすぎですよ、トリシア」

「……そう、ですか?」

 疑いつつ尋ねると、ルキアが軽く振り返ってきた。長い髪がそれに合わせて動く。

「そうですよ」

 笑みを浮かべているルキアは少し目を細める。そして唇に人差し指を当てた。

「静かに。様子がおかしい」

「は、はい」

 小声で応じて頷くトリシアの全身に緊張が走る。そもそも階段を降りてばかりだった。一体どれくらい深いのかもわからない。

 先を歩いているはずの『ヤト』のメンバーと会わないのはなぜなのか……。一本道だったはずだというのに。

「…………魔術で惑わせているのでしょうか……。おかしな感じです」

「惑わせて、ですか」

「単純な動きに合わせて、階段も続くようですね……。あまりに長いのでおかしいとは思っていたのですが」

「階段が、動くんですか!?」

 そんな奇天烈なことが起こるのだろうか?

 びっくりしていると、ルキアは頷く。

「トリッパーの世界では、動く床もあるとか。階段が動いても不思議はありませんよ」

「はぁ……、なんだか想像しにくいですね」

 そういえばあのトリッパーの青年は今頃どうしているのだろうか?

 そんなことを考えている間にルキアは横の壁に手を触れている。

「魔力が強いほうが惑わされるように仕組まれてますね」

「そ、そうなんですか?」

「はい。魔力の少ない研究者たちは簡単に進めたんでしょう」

「どうされるのですか?」

「どうって……邪魔なので、この魔術を破ります」

「や、破っちゃっても大丈夫なんですか?」

 なんだか怖い。トリシアが不安そうにすると、ルキアがふわっと笑った。

「破る、という言い方は正確ではないですね。『ほどく』という表現のほうが正しいです」

「ほど、く?」

「絡まった紐をほどくのと同じ要領ですよ」

 すっ、と光を集めていた人差し指で円を空中に描く。リン! と鈴のような音が鳴ると同時に魔法陣が周囲に浮かび上がった。

 次の瞬間、ぐらりと足元が揺れて『着地』した。

 周囲の景色が違っている。そこは大きなホールのようになっていた。

「ここは……?」

「…………遺体がありません」

 冷たい目で呟くルキアは不可思議そうだった。

「おかしいですね。研究者たちの遺体は放置してあったはずです。腐臭もしないのは変です」

「ル、ルキア様……」

「やはりここは異常です」

 離れないように、とトリシアに注意をするとルキアは周囲をざっと見渡して唖然とする。

「あれは……?」

 さらに階下へと通じる階段が数箇所あるが、その一箇所からなにかが染み出してきていた。

 黒い影の塊のようなものは「オオオ……」と低く唸りながらこちらへと這い上がってくる。

「トリシア! 退がってください!」

 ルキアが庇うように前に出て影に対峙した。

「あ、あれはなんですか……?」

 じりじりと後退しながら尋ねる。きっとルキアにもわからないことのはずなのに、答えを求めずにはいられなかった。

「さあ? 自分にもわかりかねますが……この遺跡には『番人』がいるようですね」

「番人、ですか……」

 あの怪鳥もだろうか?

 トリシアは自分がルキアの前に飛び出した瞬間を思い出す。無我夢中だったあの時と違って、素直に身体は恐怖している。

(なんだろう……。でも)

 でも。

 ルキアのほうをちらりと見遣る。彼が、とても頼もしい。

 絶対的な自信を持っているわけではないのに。それなのに、彼はこうして自分を安心させることができる。

 半透明の影が触手をぎゅ! と伸ばしてくる。あまりの速さにトリシアの目では追えなかった。

 触手を防いだのはいつの間にか作り出されていたルキアの防御魔法陣だった。目の前に美しいレースのように広がっている模様の円は、薄く光っている。

「怖くありませんよ」

 トリシアのほうを見てルキアは微笑んだ。

「自分がついていますから」

 どこかでそんなに自信が出てくるのだとトリシアは言いたくなる。けれどもルキアは嘘は言わない。

 人差し指と中指を立てた状態で、ルキアは床のあちこちを指差した。示したその場所に小さな魔法陣が広がり、展開していく。

 近づいてこようとする影はそこで立ち止まり、上部に大きく伸びたり縮んだりしていたが近づいてこなかった。

「…………」

 気持ち悪い。なんだこの物体は。

「……ふむ。やってみますか」

 ルキアはひとりごちてパン! と大きく両手を合わせた。引き剥がしたその掌に、光るあやとりがある。まるで籠のようなそれがぶわっ、といきなり急速に広がって広がって!

 黒い物体を包み込んで『蒸発』した。

 じゅわっ、と気化したその魔術に異臭はしなかったが……呆気ない退治法にトリシアが呆然とする。

「やはり液体の塊でしたか……」

 呟くルキアはトリシアのほうを振り向く。

「大丈夫ですか?」

「は、はい。今のは……なんだったんでしょうか?」

「……想像ですけど」

「はい」

「たぶん、アレが遺体を食べていたのだと思います」

「は?」

 言われた意味がわからずにトリシアは訊き返してしまう。

「ですから、アレが飲み込んでいたのでしょう。液体だとは思いますが意志のようなものはあったのでしょう。ほら」

 指差した先は、アレが通ったあとだ。……ゴミ一つない。

 ……ちりも、何もない。

 通った痕跡すら……ない。まるで波が、すべてをさらっていってしまったかのような静けさ。

 ゾッとして青ざめるトリシアのほうを見ずにルキアは目を細める。

「液体生物と仮に称します。このへんは自分の管轄外なのでわかりませんが」

「あ、あの、デライエ少佐たちは無事でしょうか?」

「無事でしょう」

「本当ですか?」

「それより、自分たちは元の場所に戻りましょう。これ以上進んで合流できなくなるのはよくありません」

 急いで引き返すルキアはふいに顔をあげた。そして顔をしかめる。

「見つかったようですね」

「え?」

 振り返ったそこには、トリシアが立っていた。



 両腕を組んでいるトリシアは、なんだか化粧が派手だった。あんな化粧の仕方はしない。

 マスカラだって……あんなにつけたことはない。ナチュラルメイクが、添乗員のメイクなのだ。

 困惑するトリシアの前にルキアが立つ。

「これも番人の罠ですか。やりますね」

<これも番人の罠。やるわね>

 キキキ、と意地悪な笑みを浮かべる彼女にトリシアが泣きそうになる。

 なんだか……いやだ。いくらなんでも自分に似ている存在が敵?

 ルキアを見ると、彼はじっとトリシアである何者かを見つめていた。

「投影……。ですかね」

「トウエイ?」

「自分の怖いものを映したんでしょう」

 ……ルキアの、怖いもの?

 トリシアが。

<戦うの、ルキア様。私と戦うの?>

「…………あなたはトリシアではありませんので、容赦はしませんよ」

 冷たく言った直後、トリシアだったものは光の線にバラバラにされてぐずりとその場に崩れ落ちた。

 ぼろぼろの炭になって……何事もなかったかのように。

 あまりの速さと冷徹さにトリシアが呆然とする。彼はこちらを見上げてきた。

「……ああ」

 そう小さく呟いて困ったように苦笑いを浮かべる。

「すみません。怖かったですよね」

「……はい」

 素直に頷くと彼はためらいがちに手を握ってきた。

「上に戻りましょう。トリシアにはここは危険ですから」



 もしも、自分という足枷がなければ……ルキアは奥へと進んだのだろう。

 トリシアは己の不甲斐なさに情けなくなってくる。

 やはり自分は何もできない平凡な平民の娘なのだ。

 ホールへと戻ってくると、そこには8人が戻ってきていた。

 いつの間にと驚くトリシアは無視され、オスカーがルキアを見てくる。

「どうだった?」

「あちこちに罠が仕掛けられていますね。我々全員でそれを全て潰しにかからねば、この遺跡は調査できないでしょう」

「おまえもそう考えるか」

 ギュスターヴもそう結論を出したようで「ううむ」と低く唸った。

「ルキア、わかっているな」

「承知しております」

 彼はそう頷き、トリシアを見上げてきた。その視線の意味に、トリシアは怖くなって……彼の手を放そうとする。でも、それができなかった。

 ルキアは無言でトリシアを連れて遺跡の外に歩いて出てきた。雨はもうやんでいた。

「トリシア、『ブルー・パール号』まで送ります」

「……列車は行ってしまいましたよ……?」

 声が震える。

 置いて、いかれる。

 いいや、彼は一人で戦いに赴くのだ。

 もう手助けできない。自分の役目は終わったのだ。

 そもそも手助けできることなど限られているのはわかっていたのに……。

(私は……何を勘違いしていたのかしら……)

 頬が火照る。馬鹿な、愚かな勘違い。

 歩く彼は少し歩調を緩めた。

 魔術で作られたレールまで戻るためには、もう少し歩かねばならない。

「あなたを置いて、列車は去りませんよ」

「そう、でしょうか」

 無茶をした馬鹿な添乗員を見捨てる可能性だって、ある。トリシアの苦笑に、彼は笑った。

「大丈夫ですよ、ほら」

 そう言って指差した先では、レールの上に停車している馴染みの列車があった。

 驚くトリシアに「ね?」とルキアが微笑む。

「え、で、でもルキア様たちはどうなさるんです? ブルー・パール号は待機命令を受けていません」

 ここまで連れて来るのが、役目だったのだ。

 トリシアの焦る言葉に彼は手を強く握ってくる。

「終わったら、迎えの列車が来るでしょう。そのあたりは自分の管轄ではないのでわかりませんけど」

「そう……ですか」

 その役目はブルー・パール号ではないのだろう。

 落胆するトリシアと歩きながら、ルキアは長い髪を揺らして顔を軽くあげた。空でも、見ているのだろうか?

「ブルー・パール号は一旦、帝都に戻ります」

「…………」

「よければなのですが」

「?」

「自分の屋敷で待っていてくれると……嬉しいのですが、それは無理な願いでしょうか?」

「えっ?」

 眉をひそめていると、彼が足を止めた。そして振り向いてくる。真剣な表情だった。

「無理なお願いだとはわかってはいるのですが……望んでしまいます」

「私には……仕事があります」

「そうですね」

 彼は頷き、それから笑った。いつもの、砂糖菓子みたいなふんわりとした甘い笑顔だ。

「自分の今回の任務も、いつ終わるかわかりませんから」

 待っていてくださいとは、言えませんね。

 そう彼は呟き、儚く笑った。


 ブルー・パール号に近づくと、エミリが飛び出してきて駆け寄ってきた。

「バカ!」

 そう言って抱きしめてくれる先輩添乗員に、トリシアは涙が出そうだった。

 傍で見守っていたルキアが微笑している。そして彼はエミリのほうを向いた。

「トリシアの行動のおかげで自分は命を救われました。車掌のほうには後で軍からも通達しますので、叱らないであげてください」

「も、勿体無いお言葉ですわ、ルキア様!」

「彼女がいなければ、自分は死んでいました。これは本当です。ですから、おとがめが無しにしてあげてくださいね」

 可愛く微笑む彼は、それから、と付け加えた。

「無事に『ヤト』は遺跡へと入れました。ブルー・パール号はただちに帝都へと帰還するように」

 そう言われて、エミリは表情を引き締めて頷く。

「承知いたしました、少尉」

「では、みなによろしく」

 颯爽と身を翻してルキアは歩き出した。一度も、彼は振り返らなかった。

 あの時と同じだ。

 ブルー・パール号に乗り込む時と同じで、彼はこちらを見ようともしない。

 トリシアは泣き出しそうになる。つい数分前まで、彼のことがたまらなく愛しかったのに、なんだか……とても憎い。

(私、こんなに弱くない)

 気丈に顔をあげて、トリシアは去っていくルキアの小さな背中を見つめた。

(泣くものですか……)

 ぐっと歯を食いしばっていたが、それでも涙が流れてしまった。

 どうか……どうか無事に帰ってきて……! それだけが、その想いだけが、胸を占めていた。



 遺跡に戻って来たルキアを、『ヤト』のメンバーは出迎えた。

「さーてと、じゃあ行くかね」

「さっさと済ませて帝都に戻りましょう」

 それぞれが口々に言い、地下へと向かう。

 ルキアは一度だけ振り向いた。長い髪が揺れる。

「ルキア」

 オスカーの言葉に彼は「なんでもないです」と言い、前を向いて笑った。

「……あのお嬢ちゃんのことか?」

「ええ、まあ。そうですね」

 端的に応えると、オスカーは不審そうに眉宇をひそめた。

「夢中にさせると言ったのに……難しそうだなと思っただけです」

「はあ?」

「だから、彼女を自分に夢中にさせると言ったのです」

 なんてことはないように言って歩き出したルキアを、オスカーは追いかける。

 階段をくだりながらオスカーは「おいおい」と呟いた。

「おまえに夢中にならない女はいないだろ? 外見だけならな」

「? 言っている意味がわかりかねますが、少佐」

「おまえ、外見はすこぶるいいんだよ!」

 苛立つオスカーにルキアは無言になってしまう。だが彼はすぐに真剣な表情で言った。

「彼女はそういった理由で自分を好きにはなってくれないと思いますよ、少佐」

「……じゃあどういう理由だよ?」

 庶民の娘だろうが、とオスカーは険しい表情だ。

「トリシアはああ見えてとても現実的なのです。確約のない言葉を鵜呑みにはしないでしょうね」

「…………」

 階段を降りていくと、先のほうで立ち止まって『ヤト』のメンバーが何か話し合っていた。トラップのことについてだろう。

「あー、めんどくせー。

 つまりはだ、おまえはあのお嬢ちゃんに惚れさせたいわけか?」

「まあ、簡単に言えばそうですね」

 ぎょっとしたようにオスカーは目を見開く。ここでするべき話ではないが、ルキアは至って真面目な表情のままだ。

「……おまえ、変わったなぁ」

「そうですか? 自分ではその変化はあまり感じてはいないのですが……。そういえば、マーテットにもやたら言われましたね」

「今もなんだが、笑わなくなった」

 指摘され、ルキアはオスカーのほうを肩越しに見遣る。

「……よくわかりません」

「いっつもにこにこしてやがってたくせに、時々笑わなくなったろ」

「そういえば今は笑っていません」

 今さら気づいたようにルキアは前を向く。

「もしかして……おまえ、怒ってんのか?」

「怒る、ですか。近い感情かもしれませんね」

「怒るぅ!? おまえが?」

「あの怪鳥はトリシアを傷つけました。自分に恐れを抱かせた。彼女を攻撃したことは……許せません」

「……もしかして、ずっと怒ってたのか?」

「いけませんか?」

 再び肩越しにこちらを見るルキアを、オスカーは恐ろしいものでも見たようにぶるりと体を震わせた。

「……怒ったこと、ないのかと思った」

「ありますよ、怒ったことは。ただ、笑顔を浮かべていないほど激怒、というのは初めてかもしれませんね」

「淡々と言うなよ……」

 怖いぜ、とオスカーが小さく洩らす。それほどまでにルキアの変化は恐ろしい。

「……泣いたのも、そういえば初めてでしたね」

 ぽつりと呟くルキアの声はオスカーの耳には入らなかった。

 あの怪鳥に彼女が襲われ、困惑し、そして……魔封具が壊れた。怒りは勿論あったし、嘆きも悲しみもあったのだ。

 自分が涙を流すとは……思っていなかった。そもそも「泣く」こと自体、まだよくわからないのだ。

 とにかくルキアは、トリシアに何かあれば「泣く」ほど感情が揺さぶられることだけははっきりした。それだけで充分だ。

「少佐、お喋りはここまでです」

「わかってる!」

 どのような罠が待ち受けているかはわからない。それに、何日かかるかも。

 用意した食糧と水だけで足りるかもわからない。だが、それに挑むしかないのも『ヤト』なのだ。

 予定では1週間。それで片付けられれば言うことはない。もっと早ければそれでもいいくらいだ。

 ……だが、犠牲が出ることも覚悟のうえ。

 皇帝直属の精鋭部隊である『ヤト』は地下へとさらに降りていく。待ち受ける罠に、まさに自ら飛び込むように……。

 深い深い闇へと……彼らはただ勅命のために赴く。


 ブルー・パール号は帝都へと帰還した。

 帰還して二週間経っても、『ヤト』の者達は戻ってこなかった。



《ブルー・パール号、発車しますー、発車しますー》

 アナウンスのかかる中、トリシアは車両に片足をかけた状態で背後を振り向く。

 ……もう、しばらくは帝都に来ることもないだろう。今度向かうのははるか西の方角だ。

「…………」

 小さく深呼吸して、トリシアは前を向いて車両に完全に乗った。トランクを置き、それから後ろ手でドアを閉める。

 さようなら……帝都。…………さようなら、ルキア様。

 そっと瞳を閉じて、瞼を開ける。

 彼とは最初から道が交わらなかった。それだけの話なのだ。


***


 一ヶ月も経てばそこそこ忙しさに忘れてしまう。思い出してしまう時間を作らなければいい。

 だからトリシアは仕事に没頭した。

(ええっと、今日は一等客車に一人か)

 エミリから割り当てられた仕事だが、気位の高い相手だと緊張はする。困った。

(ううん、何事も勉強よ。がんばれ自分)

 自分自身を励まして食堂車に向かって掃除を開始する。急がなければこの駅で乗り込んでくる客の目に触れてしまう。

(えっと次の駅までは……)

 何分だと思っていたらガタン、と列車が揺れた。

「えっ? 急停止? なんで……?」

 怪訝そうにしつつ箒を動かす。早く掃除を済ませないといけない。

 急停止の理由は後からエミリ先輩に聞こうと思っていると。

 がらりと背後の横開きのドアが開かれた。車掌のジャックだろうか? それともエミリだろうか?

 まあいい。構ってはいられない。とにかく自分の仕事をするだけなのだから。

「精が出ますね」

 声に。

 トリシアの手が止まる。

「すみません。急いで乗り込もうとして、無理に停車をさせてしまいました」

「…………」

 聞き覚えのある声、だ。

 トリシアは全身が震えた。

 姿勢を正し、それでも振り向くことはできない。

「久しぶりに会ったのか、それとも正装で乗り込んだのがいけなかったのか、みなには驚かれました」

 ゆっくりと振り向いたそこには、ゆるく髪を結び、片眼鏡をつけた淡い青い髪の少年が立っている。

 左右非対称の正式な外套に、勲章まできちんとつけ、白い軍服はきっちりと上までボタンがとめられていた。

 麗しい、絶世の美少年だ。一ヶ月半前と大差ないはずなのに…………なんだか色気が増したような気さえする。

「……ルキア…………ファルシオン少尉」

「この格好はなんだか不評のようですね」

 彼はそう言って、トリシアが硬直したままなのをそう勝手に解釈してしまう。

 なぜ驚いているのか理解できないようで、そういうところは相変わらずのようだ。

「いつものほうがいいでしょうか。ですが、家人がきちんとした格好で行けと言うもので、この格好で来たのですが」

「……あの、また遠征のお仕事ですか?」

「軍務ではありません」

 あっさりとルキアは否定した。そして一歩ずつ近づいてくる。

 美貌の少年は笑顔のままだ。そして、手に何かを持っている。小箱?

「申し訳ありません。あなたがこの仕事に生きがいを感じているのはわかっているのですが」

「…………」

「求婚にきました」

 色気も何もない発言にトリシアは目を軽く見開く。

 冗談を言うようなことはルキアはしない。遠回しな言い方も彼はしない。だからこれは本当に本当の……。

 小箱を差し出し、彼は小さく笑った。

「自分はこれからも遠征に出て、あなたに辛い思いをさせるでしょう。ですが、自分と添い遂げていただけませんか、トリシア」

「ルキア……様」

「あなたが好きです。愛しているのです、トリシア」

 目の前に跪かれて、掌をとられる。

 こんな……こんな夢みたいなシチュエーション……あっていいわけがない。

 呆然とするトリシアの前で、小箱がそっと開けられて中が見えた。

 指輪だ。シンプルだが、凝った細工ものだった。

「自分の愛を受け入れていただけませんか?」

「……う、そでしょう? ルキア様」

 嘘じゃない。わかっている。わかっているのに、信じたくない。

 こんな……自分に自信のない女の子を彼が選ぶなんて……。

 涙ぐみながら訴えると、彼は跪いたままとびきりの笑顔を向けてきた。

 甘い砂糖菓子のような、変わらない笑顔。

「自分はあなたに嘘をついたことがありましたか?」

「あ、ありま、せ……っ」

 声にならなかった。

 嬉しくて。

 いつも、居場所を探していた。

 この『ブルー・パール号』が自分の一生の居場所になるのだと思っていた。

 好きになった男性の隣に立てる日がくるなんて……しかも、ルキアの隣に立てる日がくるなんて!

 何度も流れ出てくる涙を手の甲で擦りながら、鼻をすするトリシアにルキアは宣言する。

「いかなる時も貴女を愛し、尽くすと誓います――――可愛い、自分だけのトリシア」

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