第二幕
皇帝直属部隊『ヤト』に召集がかかることは、珍しいことだ。しかも、全員に。
全員を集めることが、そもそも滅多にない。
『ヤト』というのは、皇帝の持つ腕利きの軍人ばかりで構成されている。その役割は、皇帝に関わるものばかりだ。
ただ一人、ふらふらと通常軍務までこなすヤツ…………ルキア=ファルシオンを除いて。
彼は軍属に似つかわしくないほど可憐な外見をしているが、かなり生真面目なくせに自分自身には無頓着だ。
長い髪はだらしなく伸ばしているし、軍服を着ているのも他の衣服を選ぶのが面倒だからだろう。
オスカー=デライエは今年で30歳になる。これでもかなり腕のある魔術師なのだが、ルキアほどではない。
(ったく、なんで俺があいつを迎えに行かないといけないんだ)
だが迎えに行かないとルキアは召集には来るが、身なりに気を払わないはずだ。
ルキアの屋敷に到着すると、エントランスに彼がいた。迎えに行くと手紙を出していたので、待ち構えていて当然だ。
だが驚いたのはその格好だった。
軍服はいつもの格好だが、その上に外套を羽織っている。上質な外套にはきちんと勲章がつけられ、彼が有能であると示していた。
右目にだけつけられた片眼鏡もいつものものだが、髪を梳いてきちんと結んであった。
「あれ? デライエ少佐」
「……まともな格好をしているじゃないか、ファルシオン少尉」
「まとも?」
意味がわかっていないのか、ルキアはきょとんとする。
この屋敷に居るのはルキアと、その両親だけだ。貴族のくせに、小間使いも雇っていないという変わり者のファルシオン夫妻のせいか、ルキアの身なりに構わないところはひどいものだ。
それなのに……。
「使用人でも雇ったのか?」
「は?」
「髪を結んでいるじゃないか」
そう指摘すると、ルキアがほんのりと頬を染めた。
「いえ、これは……旅の途中で知り合ったご婦人がやってくれたものです」
「はあ?」
ということは、この屋敷に居るのだろう。ルキアは照れたように微笑んだ。
「会議に行くと言ったら、なぜか止められて……。おかしいですか、この格好」
「いや、おかしくない……まともだ」
「いつもきちんと軍服で会議に出ておりますが……」
わけがわからないというルキアからオスカーは視線を逸らす。
(それがそもそもおかしいってのに、なんで気づかないんだ、このアホ)
かっちりと軍服を着込んでいるのはいいが、規定にないからと言って外套を羽織らないし、邪魔だからと勲章もつけないうつけ者。
それがルキア=ファルシオン少尉の評価であった。能力があっても阿呆だと誰もが言っているのだ。
「なんでもない。では行くぞ」
「いつもいつも出迎え、ありがたく思います」
素直ににっこりと微笑するので、オスカーは「うぐっ」と顔を引きつらせた。
妙な趣味を持つ男ならば、このルキアの笑顔にころりと騙されてしまうだろう。それくらいの威力はある。
馬車に乗り込み、御者が馬を走らせるとオスカーは頬杖をついてだらしない姿勢になる。
逆に、向かい側に腰掛けているルキアはまったく姿勢を崩さない。自然体でまっすぐきちんと背筋を伸ばして座っているものだから、ますます小憎らしい。
「『ヤト』の召集ということは、大掛かりな任務でも待っているのだろうか」
そうぼやくと、ルキアは小さく瞬き、視線を伏せる。
「遺跡でも発掘されたのでしょうか。学者たちが手に負えない獣が相手では、我々に要請がきてもおかしくはないです」
「まったくだな」
相変わらず考えは鋭い、とオスカーは見て取る。
ルキアは柔らかい砂糖菓子のような見た目と違い、頭が存外に切れる。
魔法院は確かに魔術を習得させる場ではあるが、それだけではない。政治や経済も一緒に教える学校なのだ。
その中でもルキアは軍に就職させることがほぼ決定されていたので軍律や、軍で習うことも一通りこなしている。
他にも、軍に必要と思われる薬学も、法学も、だ。その中でも抜き出ていた授業が、魔術学、だった。
「皇帝は文明の発達をのぞんでいる。この世界が荒野に呑まれた理由も不明だ」
学者がどれほど解明しようと躍起になっていても、いまだにその謎は解き明かされていない。
過去の遺産である遺跡に何かヒントがあっても、獰猛に進化した獣たちがいればひ弱な学者たちは近寄れないのだ。
ルキアは軽く目を細めた。
「大陸の荒野化は進行中ですか、少佐」
「現在進行は止まっているが、以前のように一気に起こる可能性だってある。
皇帝はそれを危惧しておられるのさ」
「………………『バースト・ダウン』」
通常、その名は、大陸がいきなり荒野へと変じたことを示している。大陸が隆起したと思ったら、唐突に植物が枯れ果て、空気は乾燥し、栄えていた文明が荒廃した。
突然すぎて、そこに住んでいた者たちは最初、対処ができなかったのだ。
大勢の人間が難民と化し、荒野となった大地を彷徨った。また、土地を捨てることができなかった者たちはそこで暮らせる方法を模索し、小さな村や集落を作って暮らし始めたのだ。
沈没した大陸の一部もある。そこに古い遺跡が眠っていることも多く、発掘されると調査隊が向かうのがしきたりなのだ。ただ問題も、ある。
『バースト・ダウン』からもう数十年と年月は経っているが、そのせいで進化した獰猛な獣がそのあたりを狩りの場として暮らしていることも多いのだ。
ぼんやりと溜息をつくオスカーは、ルキアを眺めた。
(こいつの才能は、ここで使うものじゃない……)
研究者としても大成するであろうルキアだったが、研究者にするには魔術師としての才能が秀で過ぎているのだ。
「おまえ、また一人でふらふらするつもりじゃないだろうな。嘆願書先に向かうのだって、あんまりいい顔をされてないんだぞ」
親切に言ってやると、ルキアは不思議そうな表情をする。
「困った民を助けるのが我等の仕事ではありませんか、少佐」
「そりゃ時と場合によるだろうが。我等は皇帝陛下直属の部下なんだぞ? 皇帝の命令が第一だ」
「……軍律はすべて頭に入っておりますよ」
冷たいルキアの声に、オスカーは「おや?」と思う。
いつもならここで笑顔で「それはそうですけど」と微笑むはずなのに。
(……なんだ? なんか変化があったか?)
身なりをきちんとしていることもあり、なんらかの変化がルキアにあったのではとオスカーは勘繰る。
(この子供に心情の変化だと?)
そんな天変地異の前触れのようなことが、起こるだろうか?
*
帝都エル・ルディアは華やかな貴族の街である。
だが下町は下級市民たちの住処なので、やはり貧民の落差が激しい。
城下町、と称されるのは貴族が住む場所のことだ。整備された道を馬車ががらがらと車輪の音をたてて進む。
オスカーはその様子にいささか不満だ。
(トリッパーのもたらす技術はありがたいが、どうも偏りが激しいな)
理論では、馬車もすでになくなっていてもおかしくないはずなのだ。
各地への旅に活躍していたのは昔は「馬」だった。だが今はそれは「列車」となっている。
発展した魔科学という分野のたまものではあるが、トリッパーたちの言う「車」なるものの開発は依然として進行はしていないようだ。
車は開発はできるようなのだが、道を走らせるには魔力がたんまりと必要となる。つまり、列車に比べて効率が悪くなるのだ。
列車は大きな駅で魔力を補填することで次の駅まで走らせる、という方法をとっているが、車を延々と走らせる魔力を調達する場所の目処がたっていない。
トリッパーの世界には『ガソリン』なるものが存在し、そのエネルギーで車とやらを動かすらしいが……生憎とこの世界には存在しないものだ。
魔科学もだが、この世界は魔術を基盤として成り立っている世界なのだ。魔術のない、必要としない機械はまず作る許可が降りない。
(できればクルマってのも乗ってみたいものだが……)
しかし荒野で猛獣たちに襲われてはひとたまりもない、という意見も聞いた。
列車が大きいのでなんとか凌いでいるが、車はかなり小型らしいのだ。
揺れる馬車の中で、ルキアが黙って視線を伏せていることが気になった。
(珍しい。こいつ、放っておいたらすぐ寝てやがるくせに)
今日は起きているではないか。やはり天変地異の前触れか?
「悩み事か、少尉?」
尋ねると、ルキアはそっと視線をあげてきた。とんでもない色気のある視線だったので、オスカーはうんざりする。
(社交界に顔をほとんど出さねえってのは正解だよな。ごろごろと面倒なのが寄ってきそうだ)
「少佐、遺跡の調査だと……思います。今回の任務」
「? なんで断定できるんだ?」
「……帝都に戻ってくるまでの間、トリッパーの知り合いができまして」
トリッパーなんて希少種と知り合うとは!
驚愕してずるっと席から落ちそうになるオスカーだが、なんとかとどまった。
ルキアはそれには構わずに続けた。
「彼は旅行者でした。地理を勉強している者だったのです」
「地学者ってことか。トリッパーには多いな」
「……新しい遺跡が出たので、遺跡調査への許可をもらいに行くと話していたのを聞きました」
「……それが本当なら、間違いないな」
『ヤト』に出されたのは、その遺跡の調査団や、遺跡へ行くトリッパーたちのための「駆除者」になることだ。
どうやらよほど面倒な獣が陣取っているようだ。
「そうか……。では『最速』と言われる弾丸ライナーで向かうことになるかもな」
「十中八九そうでしょう」
冷徹なルキアはどこかうろんな瞳でオスカーを見た。
「犠牲者が出ていないことを祈るばかりです」
「……なんかおまえ、おかしくないか?」
「おかしい? どこがですか?」
凄みがあるというか……。
心中で洩らすオスカーはルキアを観察する。
いつもだらしない髪の毛をきちんと結っているせいもある。左右非対称になるように作られたデザイン重視の外套の印象も、ルキアにさらに冷酷なイメージを与えていた。
「いつもみたいに『大丈夫ですよ』とは言わないんだな」
「少佐、できもしないことは口にしてはなりませんよ」
柔らかく言うルキアは微笑した。
「現状を把握してからでしょう、その言葉は。
『ヤト』全員でかかるとなると……手強いと自分は考えます」
「時間の節約、とは、考えられないものな」
腕に自信のある者だけが集められる精鋭部隊である『ヤト』は少数人数だ。全員集まれば、一兵団に匹敵するとさえ言われている。
膝の上に置いた手に視線を落とし、ルキアはまた小さく笑う。
「何故でしょう。…………任務に赴くのが少々億劫です」
ルキアの、あまりにも不似合いなセリフにオスカーは今度こそ席からずり落ちた。
「なにをしているのですか、少佐」
「い、いや……ちょっと驚いて」
もそもそと動いて元の位置に戻ったオスカーに、ルキアはハッとしたように目を瞠った。
「そうだ。少佐に相談があったのです」
「え? 俺に相談?」
嫌な予感……。
顔をしかめているオスカーなど気にせず、ルキアはさっさと話し始めた。
「ウィリー=シモンズをご存知ですか?」
「ん? ……諜報部のヤツじゃないか? ほら、お偉いさんのところのお嬢さんを口説いて結婚したって一時期有名になったヤツ」
「彼に、『ブルー・パール号』で遭いました。その際に、色々と商談に似たものを持ちかけられたのですが」
「あーあ、バカじゃないのか。『ヤト』の事情を知らないヤツはこれだから」
「そこで、自分が少し親しくなったご婦人に彼が迷惑をかけそうなのです。どうしたらよいでしょう? いつまでも傍で見張っているわけにはいきませんし」
「…………」
「少佐?」
「あー、そうだな。わかった。じゃあこっちから手を回して、シモンズの自由をある程度封じてやろう」
オスカーの言葉にルキアは安堵しきって胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます、少佐。彼女を危険に晒すことは本意ではなかったので……本当に助かります」
「貸し、一つな」
「貸し、ですか。わかりました」
平然と頷くルキアを、オスカーは恐ろしいものでも見るような目で眺める。
シモンズはバカなことをした。ルキアに近づいたのは懐柔しやすいと見たためだろう。そして彼の周囲の人間を脅すなりなんなりすれば、ルキアが言うことをきくとでも思ったのかもしれない。
(相手が悪い……)
ルキアが本気になればシモンズの命など一瞬で消し飛んでしまう。痕跡も残さずにそれをやり遂げられる実力を持っているのに、ルキアはそれを行使しない。
だが逆に……ルキアはこうしてオスカーに相談してきた。オスカーに手段を訊かないことから、どういう方法でもいいと思っていることだろう。
(こいつは薄情だからな……ある意味)
優先順位は民。その次は皇帝。その次は自分たち軍の人間だ。だからシモンズは、彼の守る優先順位で「最下位」となる。
軍人は民間人ではないので、彼の「守る」度合いは低い。
「おまえが殺せば簡単じゃないのか?」
「? なんの罪もない軍の人間を殺すのは罪に問われますよ?」
……言うと思った。
融通がきかないから、余計に悪い。
(なるほどね……『民間人』に害を与える軍人を罰しろ、ってことか……)
「でもそのご婦人を狙ってる証拠をつかんで、どうにかしろってことなんだろ」
「…………」
きょとんとするルキアは、すぐに微笑した。
「彼女に害が及ばなければ、方法は少佐の好きにしてください」
ほらな。やっぱり薄情なやつだ。
オスカーの手に委ねられたということは、もはやウィリー=シモンズに『自由』はないだろう。
*
オスカーやルキアの予想は当たり、『ヤト』全員で新たに発掘された遺跡に巣食う獣たちの討伐に向かうことになった。
屋敷に戻ったルキアはエントランスを通り、控え目に出迎えたトリシアを見つめてから……笑う気力がないことに気づいた。
犠牲者の数が凄まじかったせいもある。
最初、調査団は何事もなく調査をおこなっていたのだという。だが、途中から地下に進んだ先でいきなり襲われることになった。
光のない闇の中に引きずり込まれることも多かったらしい。
それだけならまだいい。今度は空に奇妙な怪鳥が旋回し、調査団を餌のように付けねらい始めたというのだ。
あっという間に最初に送られた調査団は壊滅状態に追い込まれ、なんとか逃げ延びた者でも片足や片腕を失っていたのだ。
「ルキア様、顔色が悪いです。大丈夫ですか?」
彼女の声を聞いても、顔が強張ったままだ。
近づいてくるトリシアを見上げる。
自分のわがままについてきてくれた彼女に、なんと報告すればいいのだろうか?
今まで自信をもってきたし、ルキアの生きてきた時代では小さないさかいはあっても、これほどの犠牲が出ることはなかったのだ。
抑止力、の役目も『ヤト』にはあり、帝国の領土は広く、あちこちに帝国軍が駐屯している。これで内紛が起きるのは難しい。クーデターでも起こらない限りは。
「……トリシア」
掠れた声しか出なかった。
あまりの情けなさにルキアは泣きそうになる。
今からすぐに『ヤト』のメンバーとして荷物をまとめて任務に赴かねばならない。下手をすれば死ぬことだってあるだろう。
死は怖くない。だが、トリシアに告げて悲しい顔をされるのは……心が痛んだ。
「どうしたんですか? あ、その格好で何か言われたんですか?」
そわそわと落ち着きなくルキアの格好を気にするので、ルキアは肩から力が抜けた。
ふんわりと微笑して、トリシアを安心させた。
「いいえ。むしろ褒められましたよ。『少尉に見える』と言われました」
「ほら! だから言ったじゃないですか、ルキア様」
「会議の場では、いつもこの格好で来いと言われましたが……トリシアがここに居るのは少しの間だけなので、もう、無理ですね」
「使用人を雇えばいいんですよ」
「うーん。それはどうでしょう。効率的とは言えません。自分はほとんど屋敷にいませんし」
「効率とかそういう問題じゃないんですって!」
ぷりぷりと怒るトリシアに、ルキアは安堵した。
ふいに抱きつきたくなって、そっと手を伸ばして彼女の銅に手を回した。
「るっ、ルキア様!?」
うろたえた声をあげるトリシアに、ルキアは苦笑する。
「次の任務のお話でしたよ。詳細は言えませんが、『ブルー・パール』を使うことになるでしょう」
「え」
現在、すぐに使えるように調整されている候補として挙げられていたのは、『ブルー・パール』号だ。
「使うのは『ヤト』です。任務中なので、必要外は話しかけないように」
ささやくような声で言って、そっと離れて顔を見上げると、トリシアが不安そう表情をしていた。
「ルキア様にも、ですか?」
「ええ」
ふんわりと微笑むと、彼女は明らかに傷ついた顔をした。そのことにルキアは驚愕して目を見開く。
「あ、あの……なぜ、悲しそうな顔をするのですか?」
「…………なんでも、ありません」
ぐっと唇を噛み締めて言うトリシアの様子にルキアはますます困ってしまう。
自分はいつもそうだ。知らぬうちに色々な人を傷つけている。申し訳ない気分で肩を落としてしまうルキアは、唇をわななかせた。
「理由を言ってくださらないと……自分にはわかりません、トリシア」
「ルキア様……」
「自分はトリッパーと同じなのです。それ以上に酷いのかもしれない。『欠けた者』なのですから」
白状したルキアの言葉に、トリシアが目をみはっている。
「欠落者? ルキア様が?」
「自分は…………生まれて14年、一度も泣いたことがありません」
はっきりとそう言ったルキアに、トリシアが畏怖の目を向けてくる。
「悲しい、嘆かわしい、哀れみをかけた際にでも……涙は出ませんでした」
「そんな……」
「泣く、という行為がわからないのです。色々な感情を、はっきりとは掌握できていないのです、自分は」
「お医者様はなんと?」
「生活に支障はありませんし、精神に問題があるだけで身体に異常はみられないそうですよ」
安堵するトリシアだったが、それでも信じられないようでルキアを見下ろしていた。
「ですから……魔法院の時代でも、自分はよく『怖い』と言われて敬遠されていました」
「………………」
「理由を教えて欲しいと言っても、理由がないのです。だから、自分には余計にわからなくて……学友には申し訳ないことをしました」
奇妙なものでも見るような目で見られていたが、それでもルキアは彼の心情が理解できないわけではなかった。
正体のわからぬものに対する恐怖、というものは頭では「理解」できるものだからだ。
「だから」
だから。
「お願いです、トリシア。なぜ、いま、傷ついた表情をしたのか理由を教えてください。
明確にしてくれないとわからないなんて、わずらわしいことと思いますが……お願いします」
深く頭をさげるルキアにトリシアは仰天し、慌てた。
「頭をあげてください、ルキア様! 平民にそんなことをしてはなりませんよ!」
「階級は関係ありません。必要があると思ったら、自分は頭を下げますよ」
そのままの姿勢を保ったまま言うと、トリシアは観念したのかおずおずと口を開いた。
「帝都に着くまでの間、ルキア様、よく私に話しかけてくださったじゃないですか」
「はい」
「わずらわしいと正直思ったことも何度かあります。でも……今は、ちょっと違うんです」
「なにがですか?」
思わず顔をあげると、トリシアが一瞬で真っ赤に顔を染め上げる。その様子の珍しさにルキアは目を丸くした。
「ルキア様とのお喋りが、予想以上に楽しいって……そう思ってる自分がいるんです。だから、必要以上に声をかけられないと言われて、動転したんです」
「自分とのお喋りが、楽しい、ですか」
「ええ。だってルキア様、いつも楽しそうにお話されますから」
笑顔で言われてルキアはショックを受けて硬直してしまう。
楽しい? 確かに楽しいとは思っていた。だが相手が楽しそうかどうかなんて、気にしたことはない。気にすることが……まずルキアにはできないのだ。
じんわりと頬が熱くなり、ルキアは瞳を俯かせる。
「そ、そうですか……。それは、なによりです」
小さな声で、それだけしか言えなかった。
**
トリシアは宿舎に戻っていた。エミリから緊急の連絡が入ったのだ。
予想は当たっていた。『ブルー・パール号』は臨時便として、帝国軍に使用されることになった。
一等車両から三等車両までそれぞれそのままで、食事をとる食堂車は一等食堂車のみとになった。
「で、ルキア様とはどうだった?」
荷物を手早くまとめていたエミリが、そうやって茶化してくる。
「どうって、べつに。あの人がまともな軍人じゃないっていうのは嫌ってほどわかりましたけどね」
「まともなわけないじゃない。ルキア様は神童なのよ?」
ばかねえ、とエミリはトランクに荷物を詰め込み、軽々と持ち上げた。
トリシアも急いでぼろぼろのトランクに荷物を入れていく。
「そういう意味じゃなくて! ルキア様って、本当に格好とか階級を気にしないんですってば!」
「あー、まああの長い髪見ればわかるわね」
うんうんと頷くエミリに、トリシアは眉根を寄せる。
「面白がってませんか?」
「え? そう見える? 実は面白がってる」
にんまりと笑うエミリは腕組みしてトリシアを見下ろした。派手な美人なだけに迫力が違う。
「だって階級を気にしないわけでしょ? てことはよ? あんたにも結婚のチャンスがあるってことじゃない」
「はあ?」
ルキアを夫に?
想像しようと一応努力はしてみるが、無理だった。
そもそも彼の成長した姿が想像できない。
脂汗を浮かべてうんうん唸っていると、エミリが大笑いをしてきた。
「あははははは! ひどい顔!
でもさぁ、ルキア様は物件としては悪くないと思うのよね。ただまあ、社交界とか、面倒な付き合いがオマケとしてくっついてくるけど」
「私が社交界!? 冗談じゃないですよ!」
「まあ行かなくてもルキア様は気にしないから大丈夫でしょ。ファルシオン家は下級貴族で、変わり者だって噂だし」
「変わり者……」
確かに使用人がまったくいない屋敷は珍しかった。……変わり者、というのも間違ってはいないだろう。
のんびりというか、おっとりとした母親に、菜園育成に勤しむ父親。その二人がルキアの両親とはとても信じられない。
トリシアは溜息をひとつつき、トランクからはみ出た荷物を力任せに押し込んだ。
*
駅にはすでにブルー・パール号が待機している。乗務員であるトリシアも勿論、エミリと並んで出迎えの列を作っていた。
駅に現れたのは、ルキアを迎えに現れたオスカーを先頭に、全員で9人だった。ルキアもその中にいる。相変わらず流しっぱなしの長髪と、片眼鏡の軍服姿だ。
他の者はまちまちの格好だったが、基本は軍服だった。オスカーはきちんと軍服の上に少佐として外套も羽織っている。
(……一番ちっちゃいのがルキア様、か)
美貌も目立つため、すぐに見つけられたが彼はトリシアのほうを向いてこない。すごくそれが寂しかった。
身長の大きさもばらばら……これが、精鋭部隊『ヤト』。
中には白衣を軍服の上から羽織っている若者もいた。ルキア以上に髪がぼさぼさで、丸眼鏡をかけている。意地悪そうな細い目が印象的だった。年齢は20代前半、というところだろう。
直剣を腰に佩いている者もいる。騎士だと名乗られても違和感のない精悍な顔つきと体格をしている。オスカーよりは若いだろう。
ルキアの次に小柄な男はオスカーよりも年齢が上のようだが、やけに痩せ細っており、腰を常に曲げている。前傾になって構えている、と表現したらいいだろうか。不気味な印象しかトリシアは受けなかった。
(個性的な面々なのね)
あまり見ないようにしていたため、メンバーのことはそれくらいしか確認できなかった。
残る4人のことはちらりとしか見えず、トリシアはそれでもルキアのほうを見たい衝動を抑えた。自分は今、仕事中。ルキアもまた、任務中なのだ。
任務を終えて帝都に戻る最中の、あの頃とは違う。状況が。
つい最近のことなのに、懐かしさにトリシアは胸が締め付けられそうになる。
(な、なんなの。私、おかしいわ)
感傷的になる必要などないのだ。
「世話になる」
それだけ言うと、リーダーである初老の男が車内に乗り込む。顔に傷もあり、かなりいかつい男性だ。
前もって乗務員たちには今回の仕事に関しては、任務が終了するまでは口外してはならないことになっている。
言い含められていることはほかにもあったが、前もって言われているので今さら『ヤト』から何か言われる必要性はない。
初老の男に、並んでいた順番に『ヤト』のメンバーは乗り込んでいく。
目の前を通っていくルキアは、ちらりとも目を合わせようとしなかった。何か言いかけるトリシアは、ぐっと我慢した。
9人全員が乗り込み、それぞれに割り当てられた客車へと歩いていく。トリシアはルキアのいる二等車両が担当となっていた。エミリの余計な口添えのせいだった。
(三等車両でも良かったのに。あ、でもあの不気味な人だったら嫌だわ、ちょっと)
これからの世話を考えると気分が重くなる。溜息でもつきたい。
「全員、乗車!」
車掌のジャックの掛け声で乗務員が全員確認の頷きをし、持ち場へ向かうべく乗り込む。
車内は静けさに包まれていた。
(……なんなの、これ)
よくわからない雰囲気に気分を害していると、エミリが腰に両手を当てて嘆息した。
「お偉いさんがたの相手をするのも面倒なものよね。ま、軽口がたたけるうちは、まだ元気でいられるから安心しなさい」
「エミリ先輩……」
エミリでさえ億劫なようだった。彼女は一等車両担当だ。
「あの、わたし、行きますね」
マイペースなウリエが眠そうな表情で横を通り過ぎる。
「ウリエ! あんたもっとシャキッとしなさいよね!」
「わかってる」
今回ブルー・パール号は特別な任務ということで、添乗員も選抜された。
列車に乗っているのはごく僅かなメンバーだけだ。ウリエもその一人である。
短い髪のウリエはエミリとは対照的で、エミリとは同期らしい。細身の身体をしており、彼女は淡白な印象を他者に与えた。
ウリエは三等客室の担当員だ。彼女はさっさと三等客室のほうへと歩いて行ってしまった。
残されたトリシアは顔にありありと不安が出ていたのだろう。エミリに力強く肩を叩かれた。
「いい? あたしたちのやるべきことは、目的地まであの方たちを運ぶことよ。わかった?」
「もちろんです、先輩」
乗客リストはないので、口頭で教えられた名前を暗記するしか方法がない。
二等客室にいるのは、ルキア=ファルシオン。ライラ=リンドヴェル。マーテット=アスラーダ。
全員が軍人なのは当たり前だが、『ヤト』唯一の女性軍人が二等客室に居ることにトリシアは驚いた。
(ライラ=リンドヴェル様、か……)
顔を確かめていないので、粗相のないようにしなければ。
二等客室専用の食堂車は洗浄済みだ。不手際はない。
これからの旅、ブルー・パール号は最速で目的地まで向かう。
停車する駅はない。なにせ……。
ごくり、とトリシアは喉を鳴らした。
(『レールのない』線路の先へと進む……)
血管のように、この少ない陸地を這うレールがない箇所の先に、目的地がある。
力を温存するために、『ヤト』のメンバーはなるべく遺跡場所に近いところで降車する必要があったのだ。
レールを作り出すのはルキア、そしてオスカーの役目らしい。これは車掌のジャックから説明を受けていた。
大丈夫だろうか……? ただでさえ、魔術を使えばルキアは肉体に負荷がかかって眠気に襲われるというのに。
ベルの音が聞こえてトリシアは我に返り、慌てて食堂車へと向かった。今回の旅では、それぞれ音色の違うベルが用意されており、その音色を聞いて駆けつける手法がとられていた。もちろんそのベルは、魔道具と呼ばれる特別製だ。
食堂車から聞こえた音にトリシアは早足で向かい、引き戸を開ける。そこで、二等客室に居るべき三人が集まっていた。
ルキアがちらりとこちらを見た気がしたが……?
(気のせい、よね)
話しかけるなと言われているので、トリシアはそれを守るつもりだった。
ベルを持っているのは白衣の男だ。乗車前に見た、あのぼさぼさ頭の男だった。
にやにやしている彼は愛想良く笑う。
「こりゃまた可愛い添乗員さんだなァ。ルッキーは知り合いなんだろ?」
ルッキー?
顔を若干しかめるトリシアだったが、男の言葉に応えたのは驚くべきことにルキアだった。
「帝都までの帰還に知り合いました。ブルー・パール号の添乗員のトリシアです」
「平民の娘さんかね」
男は頬杖をついてにやにやと笑う。なんだか小馬鹿にされているようで、落ち着かない。
男の向かい側に座っていた女性にしては長身の女がこちらを向いた。顔の半分が火傷で無残なありさまになっている。きっと彼女がライラだ。
(ということは、こちらが……マーテット様?)
「紅茶を」
「かしこまりました」
「では自分も同じものを」
「はい」
「おれっちは、コーヒーがご希望だ」
「はい。茶葉と豆はどういたしましょう?」
「なんでも構わん」
ライラは端的にそう告げて、テーブルの上に広げられた地図に視線を戻した。
トリシアは早速ときびすを返すが、マーテットに呼び止められた。
「トリシャ」
最初、自分の呼び名だとは思わなくてトリシアは硬直してしまう。困惑して振り返ると、マーテットが笑みを浮かべていた。
「……トリシャではありません。トリシアです」
静かにルキアが訂正したことで、トリシアは意味を理解する。勝手に名前を変えないで欲しい。
ルキアがマーテットを見遣る。その視線はいつもの笑顔の彼ではない。
(? ルキア様……)
そういえばいつも笑顔の彼が、この列車に乗る前から笑顔ではないことに今さら気づいた。
それほど余裕のない任務なのだろうか?
「そっかそっか。よろしく、トリシャ。短いと思うけど、おれっちたちのお世話、よろしく」
「マーテット、トリシャではありません。トリシアです」
根気強くそう言うルキアの瞳が苦笑に揺れた。ふふっと彼が、初めてそこで笑った。
「相変わらず変わりませんね、あなたは」
「ルッキーもチビのままだー。ララ姐さんに会うのも久しぶりだけど、変わってねーなー」
「誰がララだ」
ぎろりと射殺さんばかりの視線を向けるライラに、へらへらとマーテットは笑っていた。
トリシアはいつの間にか止めていた呼吸に気づき、彼らに気づかれないように息を吐き出して飲み物の準備をするためにそこを出て行った。
*
キャビネットに香りのいい茶葉を使った紅茶と、質が良いとされる豆を使ったコーヒーを用意して運ぶ。
がらがらと押して食堂車に入ると、彼らは今度は押し黙っていた。
緊迫した空気にトリシアは気圧されるが、勇気を出して前に進む。
「お待たせしました」
それぞれの前にソーサーとカップを置く。
地図は広げられたままだ。
見てはいけないものだと思って、トリシアは極力視線をテーブルの上へと向けないようにする。
「いい添乗員だなー。よーく教育されてる」
ふいに洩らされたマーテットの言葉に、トリシアは顔をあげた。彼はこちらを、頬杖をついて見つめていた。
丸眼鏡の奥の細い目がなんとなく……不気味だ。見る人によってはマーテットはそれほど悪い人物ではないだろう。顔立ちも悪いほうではない。だが……トリシアは言い知れない不安を抱えていた。
(怖い……)
彼がじっとこちらを見ているので、自然と助けを求めるように視線を彷徨わせてしまった。するとルキアと視線が合う。
彼はにっこりと微笑んでくれた。……それだけで、安心しきってしまう自分に驚く。
「マーテット、彼女が怯えています。やめてあげてください」
「はあ? おれっち、何もしてないっしょー?」
「おまえの視線はそれだけで害悪だ」
ライラもきっぱり言い切り、カップを持ち上げて紅茶の香りを楽しんだ。彼女は表情が変わらない。顔の半分の筋肉がうまく動かないせいだろう。
「失敬だな、ララ姐さんはー。まー、おれっち気にしないけど。
おお、いい豆使ったな。へへっへ」
奇妙な笑い声を発してマーテットはがたんと立ち上がった。そしてキャビネットを押して去ろうとしたトリシアの腕を掴んだ。
「気に入ったぞ、トリシャ。おれっちの実験体になる気はねーか?」
「実験体?」
不気味な単語に訊き返してしまうトリシアとマーテットの間にルキアが割り込む。彼はさらりとイスを降りて、トリシアを庇うようにマーテットの手を払った。
「そんなことは、自分が許しません」
笑顔で言うルキアが、くいっと片眼鏡を押し上げた。その動作だけで、マーテットに緊張が走る。
「お、お、お? やろうってのか? おれっちじゃ、ルッキーに勝てないのわかってるくせによー」
「だったら、余計な喧嘩は売らないことだな」
ライラが忠告して、地図にペンを走らせている。どうやら魔術でレールを引く話し合いをしていたようだ。
ルキアは心外だという顔をしてライラを見遣る。
「マーテットは喧嘩など売っていませんよ、ライラ」
「おまえは相変わらず阿呆なのだな、ルキア」
淡々と言うライラはがりがりと地図に書き込む作業の中、ちらりとトリシアを見遣った。美しい面立ちの左顔だけで。
「マーテットには今度、不味い豆を使ってやれ。命令だ、添乗員」
「はっ、はい」
「ひでぇなララ姐」
「ムチでいたぶってやろうか、マーテット」
薄く笑うライラの言葉にマーテットが「あちゃー」と引いた。
(むち?)
関係性がわからない。
困惑するトリシアだったが、『ヤト』のメンバーがかなり個性的であることだけはわかった。
*
トリシアがキャビネットを運んで食堂車を去ったあと、マーテットとルキアは席に戻った。
マーテットがいやらしく笑う。
「随分とあの娘に執着してるようだな、ルッキー」
「執着?」
わけがわからないという表情をするルキアだったが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「困っている女性を助けるのは軍人でなくても、当たり前のことですが」
「ルキアの言うとおりだ。気になる女を見つけるとすぐに実験体にしようとするおまえの気色の悪い趣味はどうにかならないのか」
ライラは眉をひそめてからマーテットを睨んだ。そしてすぐに視線を地図に戻す。
「レールはここで途切れている。おもにレールを作るのはおまえの役目だ、ルキア」
「承知しておりますよ、ライラ」
「……本当にわかっているのか。途中で寝るなよ」
渋い表情になるライラにルキアはきょとんとして応じる。
「寝ないと思いますが、それほど重労働になりそうですか?」
「ここから」
と、ペンと地図に走らせる。
「ここまでレールを大きく作る」
「うっわ、長! ルッキーはともかく、オッスの旦那はもつのかね」
「少佐と呼ばんと怒るぞあの男は。しかもオッスはないだろう、オッスは」
呆れるライラだったが、そこまで深く訂正してやる気はないのだろう。
「少佐とルキアは列車の上で、走行中に魔術を展開。そのままレールを作りながら目的地まで行くことになる」
「走行中は無茶じゃねーの?」
「走行中でなければ無理です」
ルキアが即答する。地図に描かれた歪曲の線図を彼はじっと見つめ、それからマーテットのほうを見遣る。
「行き先が視認できていなければ、レールを作るのは難しいでしょう」
「遺跡はかなり大きい。近づけば見えるから、そこまで一直線だな」
「一度、魔術でこの列車を浮かせます。落下して、魔術のレールに乗せますので、一度衝撃がくるのでそのことは通達しなければなりません」
冷静に分析するルキアを、面倒そうな顔でマーテットが眺めていた。
「なーなー、さっきのトリシャ、気に入ってないのかー? ほんとかー?」
「ん? 今は会議中ですよ、マーテット」
「いやー、なんかルッキーがいつもと違う気がしたし……。あ、そっか」
ぽん、とマーテットが掌を打った。そして無遠慮にルキアを指差す。
「この間の軍会議に、変な格好で来た時から変なんだ!」
「正装を変な格好と言うな。おまえこそ、白衣で参加するなと何度言わせる……!」
こめかみに青筋を浮かべるライラだったが、マーテットは気にしない性格のようで身を乗り出した。
「なあなあ! 何があったんだよ? なあなあ!」
「…………」
じっ、とマーテットを凝視するルキアは片眼鏡を押し上げる。びくっと反応するマーテットに構わず、彼は首を傾げた。
「べつに何もないのですが……」
「……ルキア、モノクルの調子が悪いのか?」
「え? あぁ……ちょっと最近なんだか」
「ええ! よせよー」
やだやだと手を振るマーテットにルキアは微笑む。
「つけていないと右目が見えない程度ですから大丈夫ですよ、マーテット」
「そういう意味じゃねー!」
喚くマーテットの眼前に、ペンをライラが突きつけた。
「会議に戻る。いいな、マーテット」
「あいあい」
「では作戦通り、ルキアがレールの地盤を作る。少佐はその補助だな。
話では、遺跡には妙なものが巣食っているらしい。妨害に遭った場合、ルキア、おまえが退けることになる」
「承知しました」
ここまでは打ち合わせ通りだ。全員で決めたことをもう一度なぞっているだけ。
ライラはペンの尻でこつこつと地図を叩く。
「討伐が今回の任務なわけだが、ルキアはどう思う?」
「新たな遺跡ですからね……。何か大掛かりな仕掛けか、幾つもの罠があると考えていいでしょう」
「マーテットはどうだ?」
「死んでる連中の腐敗具合とか、傷とかを調べてみれば何か新たな進展はあるかもなー」
医者らしいマーテットの言葉にライラは「ふむ」と頷く。
『ヤト』全員が行かねばならないほどの惨事。遺体の数は膨大のはずだ。それを考えると戦争を思い出すライラだった。
いや、戦争よりはマシだろう……。
「先行して我々が中を調べる。ルキアは、我々が遺跡の中に入るまで、妨害に遭った場合に備えろ」
「わかっています」
はっきりと頷くルキアは笑顔だった。いつでも笑顔を崩さない少年だったが……。
(やはりマーテットの言うことも少々気になる……)
女を助けるのはわかるが……自分よりも先にルキアが動くとは思わなかったのだ。
軍会議に出てきたルキアはいつものだらりと伸ばした髪型ではなかったし、外套もきちんと羽織っていた。
誰もがびっくり仰天したのだが、彼はなんでもないことのように平然としていたのだ。なにか心境の変化でもあったのかと思ったが、今の様子ではそんな感じも見受けられない。
ルキアは誰にでも等しく、誰にでも優しい。そして残酷な男だ。
軍律を重んじ、無辜の民を守ることに責務を感じている。『理想的』すぎるほどに。
(だが、コイツは危険因子だ)
だから『ヤト』に入れられているのだ。ヤトという名の『檻』の中に。
*
目的地まではあっという間とはいかないが、短い旅路になった。
最高速度で移動する「ブルー・パール号」は目的の遺跡まで一直線で向かっている。
二等客室の者たちの相手をするのも気苦労が耐えない。ライラは割とよくしてくれていると思うが……。
マーテットが邪魔をするのだ。ルキアとの関係を聞かれるのも困る。
嘆息しつつ、箒を片手に誰もいないはずの展望室に来ると、ルキアがいた。
唇に紐を含み、長い髪をうなじのところで括ろうとしているのが見える。
今から全員召集の会議だろうか? そう思ってしり込みをしてしまうトリシアだったが、手伝うくらいならと足を踏み出した。
「お手伝いいたしましょうか、ファルシオン少尉」
彼はぎょっとしたようにこちらを見て、それから複雑な表情を浮かべた。笑みを浮かべるべきか、苦笑をするべきか迷ったようだ。
「トリシア……」
「お手伝いくらいなら、私にもできますよ、少尉」
笑顔でそう言うが、今のルキアの態度に傷ついたのも本当だ。悲しかった。
ずるりと片眼鏡が落ちかけ、慌ててルキアはそれを戻した。
「? モノクル、壊れたのですか?」
「いえ、少し調子が悪くて。少し緩んでいるのです」
「ゆるむ?」
表現がおかしい。
不思議そうな表情を浮かべるトリシアに、彼は笑顔を向けてきた。
「これがないと、右目がほとんど見えないので」
「……ルキア様、右目が見えないんですか?」
「かろうじて少しは見えますよ」
彼はたいしたことでもないように言ってのけ、口に咥えていた紐を取った。
「すみません……。ライラがどうしても全員召集の場では結べと言うので何度も挑戦しているのですが……」
「構いません」
トリシアは持っている櫛を取り出して、ルキアに後ろを向くように指示をした。
彼はすんなり従う。
……あの屋敷でのことを思い出した。あの時、彼はきちんと椅子に座っていたのに、今は立ったままだ。
あの時と変わらない長い髪。淡い青色の髪は美しく、女のトリシアでさえやはり嫉妬してしまう。
櫛を何度か通して、手早くまとめて紐で括った。前髪も邪魔にならないようにと手で直す。
「終わりましたよ」
「……早いですね」
呆気にとられたようなルキアが振り向いてきた。どきりとするような甘い笑みに、トリシアは頬を赤らめ、俯かせる。箒にすがってしまった。
(ル、ルキア様ってやっぱりずるい……!)
「外套はさすがに邪魔なので置いていきましょう。髪さえなんとかすればライラも文句は言わないでしょうし」
「……ルキア様は、『ヤト』の皆さんと仲がいいのですね」
小さくそう呟いた声を、行こうとしていたルキアが足を止めて振り返ってきた。しまったと思うが遅い。
余計なことを洩らしてしまった。彼には極力近づかないようにするつもりだったのに。
ルキアはふんわりと微笑んだ。
「いえ、仲良くはないでしょう」
「え?」
笑顔と言葉の内容が噛み合っていない。思わず訊き返すトリシアに、彼は笑みを浮かべたまま続ける。
「自分を嫌っている者もいると思いますよ」
「……仲間じゃないのですか?」
「仲間というよりは、同じ仕事をする者、というか……」
説明が難しいのか、ルキアは頬に手を当てて首を傾げる。
「マーテットは自分の研究ができるから軍に身を置いているだけですし、ライラは元々軍人ですし……」
「そうなのですか……」
「軍職に就いている中で選抜された者ばかりですが、そもそも属していた部署も違いますからね」
色々な理由があるのだろう、そこには。
想像することしかできないトリシアは、何も言うことができなかった。
「……ルキア様はどこに所属されていたのですか?」
小さな声で問うと、彼はにこっと微笑んだ。
「前線部隊なので、よく第一部隊と呼ばれていました」
「ぜっ、前線!?」
「はい。先頭にたって、民を守る名誉ある部隊ですよ」
笑顔で……。
トリシアは彼が血の気の多い兵士たちに囲まれて平然と過ごしていた様子が……まったく想像できなかった。
ルキアはきょとんとして、トリシアを見上げてくる。
「あれ? 何かおかしかったですか? この話をすると、皆、信じてくれないのですが……なぜでしょう?」
「……私は信じますけど、想像できないというか……」
よく無事だったなあとか考えてしまう。こんなに愛らしい姿をしているのだ。妙な考えを持つ者だっていそうなのに。
(あ、そっか。ルキア様は魔術は天下一品だから……)
でも多勢に無勢という言葉もあるくらいだ。大勢に囲まれたりしたら……。
想像して青くなるトリシアの裾を彼はくいっと引っ張る。
「なにを考えているのですか? 顔色がよくありませんよ、トリシア。きちんと話してください」
「あ、いえ……ルキア様は、その」
なんて言ったらいいんだろう。
男色のある方に襲われませんでしたか? というのは……さすがに聞きにくい。
トリシアが赤くなったり青くなったりしていると、引き戸が開いて誰かが入ってきた。
長身で身体つきもしっかりしている30代の男性だった。
「少佐」
ルキアがそう言ったのでトリシアは身を潜める場所を探そうと慌てふためいた。
少佐と呼ばれた男は腰に片手を遣り、ルキアをじろりと眺めた。
「何を油売ってんだ、おまえは!」
「少佐、いつもお迎えご苦労さまです」
ぺこりと頭をさげるルキアを見て、少佐と呼ばれた男はこめかみに青筋を浮かばせる。いくらなんでもルキアの今の態度は……裏がなくとも腹が立つものだ。
「迎えに来させないようにはできないのか、おまえは!」
ここは列車の中だぞ! と男が一喝した。だが結ばれたルキアの髪を見て不思議そうな表情をする。
「なんだ? 身だしなみを整えていたのか?」
「はい。ライラが結べと言うので」
「……ライラ?」
なぜ? というような顔になる少佐は控えているトリシアを見遣り、「ん?」と呟く。
「ああ、少佐。ブルー・パール号の添乗員のトリシアです。自分が帝都に戻るまでの間も、とてもお世話になったんですよ」
平民が貴族にそうそう挨拶はできない。黙って俯いていると少佐が近づいてくる足が見えた。
「オスカー=デライエだ。階級は少佐。ルキアを手伝ってくれたのはおまえさんか」
「は、はい、少佐」
萎縮するトリシアの前に、ふわんと何かが舞った。それがルキアの髪だとは、最初気づかなかった。彼が少佐と自分の間に割って入ったのだ。
「少佐、そんな風に女性を見下ろすのはよくないです。トリシアが怖がります」
(え?)
顔をあげると、両腕を組んでオスカーはこちらを見下ろしていた。威圧的な雰囲気を感じてトリシアは青ざめる。
「ほら、怖がらせた。少佐、いけませんね」
うっすらと笑うルキアは振り向き、トリシアの手を取った。優しく暖かい手にトリシアは戸惑うばかりだ。
「怖い思いをさせてすみません。大丈夫。少佐は顔はちょっと怖いですが、親切で優しい人ですから」
「こら。誰が顔は怖いだ……」
「大丈夫。自分がいますよ、トリシア」
にっこりと微笑むと、顔に血がのぼってトリシアは視線を逸らした。「ありがとうございます」という謝礼の声も小さくなるばかりだ。
「ルキア、さっさと一等客車に来い」
「はい」
きびすを返して引き戸を開き、ルキアは颯爽と歩いていく。その後にオスカーもついて行くのかと思ったら、彼はこちらを見ていた。
「…………なあ、お嬢ちゃん」
「はい。なんでしょうか、少佐」
毅然として姿勢を正して見返すと、オスカーは「あー」と言い難そうに眉をひそめる。
「ルキアのアホが何を言ったが知らないが、あまり鵜呑みにしないようにな」
「存じております。あの方は誰にでも優しいですから」
そう、誰にでも優しい。庶民の、孤児のトリシアにだって。
トリシアの言葉に安堵したのか、オスカーは軽く息を吐いた。
「あいつはああ見えて好戦的だから、見た目に騙されるなよ」
「……そう、でしょうか?」
「ん?」
「あまり……その、ルキア様は戦闘に向いていないように見受けられます」
「そうか? あいつほど戦いに向いてるやつもいないと思うがな」
そう言って、オスカーはルキアと同じ方向へと歩いて去っていった。
開けっ放しの引き戸を閉め、トリシアは掃除を始める。櫛をおさめて、さっと床を掃いた。
会議はおそらく一等客室の食堂車でおこなわれる。立入禁止になっているだろう、今頃。
(そう……ルキア様は誰にでも優しいもの)
勘違いをしてはいけないのだ。
それでも……自分に向けてくれた笑顔を大事に想ってはいけないのだろうか……?
*
「可愛いお嬢ちゃんだなぁ」
背後からついて来るオスカーの言葉にルキアは足を止めた。笑顔で「ええ」と振り向く。
「可愛いですよね。愛らしい女性だと思います」
「…………おまえの屋敷に滞在してたの、あの子だろ」
「あれ? なんでわかったんですか?」
「髪型が前と一緒だ」
ずばしっ! と指差すと、ルキアは「ああ」と納得して微笑んだ。
「すごいんですよ、トリシアは。あっという間に髪を整えてくれるのです。魔法の手です」
「…………」
「なんですか?」
「いや……おまえの笑顔であの子が騙されてるんじゃないかと心配でな……」
「騙す? 自分はトリシアを騙したことなど一度もありませんが」
心外ですねとルキアが苦笑したが、ふいにオスカーを真っ直ぐに見た。
「少佐、線路ですが、図面は頭に叩き込んでありますか?」
「ああ。レールの幅もな」
車輪がきちんと走るようなものを魔術で作り上げるのだ。失敗は許されない。しかも、走行中にしなければならないのだ。
「おまえはあんまり気にせずにやればいい。補正は俺がする」
「感謝します。どうも細かい魔術は苦手なので」
苦手というよりは、あまり使い勝手がよくないからだろうとオスカーは内心思う。
ルキアは兵器のような男だ。一対一の戦いに向いてはいないが、一対多の戦闘では存分に効力を発揮する。
「魔術を固定しても……長くはもたないでしょうね」
「そうだな……。半日もてばいいほうだ」
「…………」
二人は無言になる。
視線をさっと交わして小さく笑った。
「ま、失敗するなんて思ってないけどな、俺は」
「自分もですよ、少佐」
『ヤト』全員が、任務には忠実であり続ける。そうあることが、契約に入っているのだ。
「こんなところでなにやってるんだ……?」
怪訝そうにしながら、横を通り抜けようとした猫背の痩身の男に、オスカーは渋い顔をする。暗殺を生業としているオルソンは、仲間を裏切ることも多い。だからこそ、オスカーはいい顔をしないのだ。
『ヤト』の仲間がどうなろうとも、オルソンは自分の利益と任務のためなら遂行する。そういう男だ。
背後から、さらに別の者がやってきた。
「おやおや。珍しい」
まったくそうは思っていない口調の男、学者のヒューボルトだ。体術の達人のため、オルソンもあまりいい顔をしない。
そう……『ヤト』はそういう名で括られただけの、異物の集団なのだ。
(そういやぁ、この中でまともそうなのって……)
オスカーは、騎士風の金髪の男・ロイを思い浮かべた。剣の達人のレイドに腕では敵わないだろうが、良識的な意味ではマトモすぎる人材だ。
……全員、生きて帰れるだろうか?
死を感じさせない者たちではあるし、それぞれがジャンルごとに長けた人物の集団だ。だが未知なる敵を相手にした時、果たして全員無事で済むだろうか……?
*
――とうとう目的の地へと近づいた。
ルキアとオスカーは合図で車両の上にあがり、二人ともそれぞれ落ちないようにとの考慮から、足元に固定の魔術を施す。
トリシアは頭上で何がおこなわれているのか知ることはできない。
そわそわと落ち着きのない様子で天井を見上げては、ルキアの無事を祈ることしかできなかった。
彼らが失敗すれば、ブルー・パール号は脱線し、そのまま事故となる。車両は間違いなく無事では済まず、中に居る人々の安否も怪しいものだ。
トリシアに括ってもらった髪型のまま、ルキアはそこに立った。
「お願いしてもいいですか?」と櫛と紐を渡したら、彼女は顔を引きつらせた。その意味を、ルキアは理解できない。
たぶん……だが、心配してくれているのだろう。けれど、彼女の仕事の関係でおおっぴらにそれを顔にできないから、ああいう表情になったのではないだろうか。
推測することしかできないが、ルキアはそう思うしかない。都合のいいように、考えたかっただけかもしれない。
背後でオスカーが合図をした。ルキアは頷く。
線路が途切れている箇所を視認してからでは遅い。
詠唱を始める。物質をもたせるために、大地に関与することにした。土を盛り上げて、オスカーが線路へと形成させるのだ。
(問題は、同じ幅で目的地まで土を維持できるか……)
一箇所目掛けて派手にやるのは得意だが、細長い蛇のようにしなくてはならないのだ。集中しなければならない。
ルキアは両手をゆっくりと挙げて、詠唱を続ける。いつもの短い詠唱では、長時間もたせられないのだ。
(見えた!)
刹那には、もう断裂した線路の先に土がぼこぼこと盛り上がっている。オスカーが素早くそれをレールの形へと変換させていく。
ルキアには大仕事がもう一つある。この列車を浮かせて、作り上げたレールへと移動させなければならないのだ。
(まずはあそこを破壊!)
ピンポイントで断裂した線路の先を握りつぶすかのように破壊してみせる。
(固定!)
作り上げた線路と、断裂した線路の間にもう一度土を持ち上げた。だが間に合わない。だからこそ!
「『飛翔せよ!』」
列車全体の重みが直にルキアにかかってきて、彼はくらりと目眩を起こしかけた。重い。
だが歯を食いしばり、作ったレールへと無理やり乗せる。
衝撃!
ぐらり、と揺れたが速度はそのまま。列車は走っている。
オスカーは背後を見遣り、断裂した箇所と新たな箇所を繋ぐ魔術を施していた。器用な男だと思う。
「……はぁ……っ」
予想以上に列車の重量が堪えたため、ルキアの両腕がだらんと垂れ下がっていた。睡眠を身体が欲している。眠い。
(……いけません……とても眠いです……)
相当に魔力を使ったせいだろう。だがこの後もまだやることがあるのだ。
「よくやったぞ、ルキア!」
「ありがとうございます、少佐」
礼を言って微笑んだら、オスカーが妙な顔をした。
「おまえ……眠いのか」
「ええ。相当魔力をつか……って……」
前のめりに倒れこみそうになるのをなんとか踏み止まる。軍人が情けない姿をさらすわけにはいかない。
「っは! 危なかったです」
「こっちのほうが怖かったわ!」
オスカーが怒鳴り、ルキアは曖昧に笑ってみせた。
とりあえず成功した。あとは…………この後が段取り通りにいくかどうかだろう。
遺跡が見えるところまではその目で確認して、魔術を発動させる。それをオスカーが補佐する。そういう段取りだった。
ルキアは削られていく魔力と集中力に足元がふらふらしてきた。だが靴底を車両の天井にぴったりとくっつけているために、倒れることもできない。
絶えず風を受けているために体力も、体温も消耗されていく……。
眠気に襲われながらルキアはズレそうになる片眼鏡を押し上げる。汗で滑って落ちてくるようになってきた。
(あれが遺跡……?)
大きい……。円形の上部だけをとったような不思議な形をしている。
(あそこまで……!)
振り絞って魔術を発動させた後、ルキアは体力の限界でその場に座り込んでしまった……。
ブルー・パール号が停車したのは魔術の線路が全て出来上がってからだった。遺跡にはまだ近づいていない。見える範囲の場所で停車したのだ。
それは天井のさらに上にいるルキアとオスカーの休息と救出のためだった。
様子をみようとうかがっていたトリシアだったが、『ヤト』の者達に支えられて車内に戻って来たルキアは完全に意識がなかった。寝息をたてている彼は使っている客車に連れられていった。
(………………)
青ざめていたのだろう。隣に立つエミリが肘でつついてきた。しまった、仕事中だった。
トリシアは表情を引き締める。二等客室のルキアの世話をするのも自分の仕事なのだ。
慌ててルキアたちのあとに続いていく。オスカーのほうは余裕があるようで、『ヤト』の仲間たちに何か相談している。
列車が浮遊した直後、どん! と落下した衝撃はあったが、それでも列車は線路を外れることはなかった。ルキアのおかげだろう。
トリシアは部屋に運ばれるルキアを見て胸が痛んだ。
唇は紫色になっているし、顔色も悪い。外で長時間魔術を使い続けていたのだからしょうがないのだが……それでも、痛々しい姿だった。
ベッドに放り投げられるルキアの姿に驚いてしまうが、ベッドが上質なものなので怪我はしていないだろう。
「ルキアはどのくらいで回復する?」
年長者らしいがっしりとした体格の老人の問いかけに、マーテットが眼鏡を押し上げながら答えた。
「まあ3時間もあればある程度は回復するだろーな。部屋をあったかくして、休息させることが大事だからなぁ」
「わかった。おいそこの」
呼ばれて、ドアのところで待機していたトリシアが部屋に入った。
姿勢を正して老人を見つめる。
「マーテットの指示通りに。きっかり3時間後にルキアを起こし、一等客車の食堂車へ来るように手配するのだ」
「かりこまりました」
大きく頭をさげて避けると、彼らは部屋から出て行く。今から一等食堂車でまた会議なのだろう。
ドアを閉めて、トリシアはまずは部屋の温度をあげることから始めた。毛布を用意してきて、ルキアをきちんと寝かせる。
さすがに軍服ではまずいと思って脱がせるが、未婚の女性が男性の着脱をするなど……という恥じらいもあった。
白い軍服を脱がせて、下着同然の姿にさせるが「仕事」と割り切ればなんとかならないこともなかった。
ルキアに起きる様子はなかったので遠慮もしない。暖房器具も取ってきて、適度な温度になるように調節した。
(でも……たった3時間しかないなんて……)
3時間で回復しろと言われて、できるものだろうか?
(あ、そうだ。モノクル、外したほうがいいかしら)
寝ている時もつけていると窮屈かもしれないと手を伸ばすが…………外れない。
(あれ? おかしいわね。チェーンも動かないし……。なんでこれ、とれないのかしら?)
緩んでいるとルキアは言っているのに、耳につけているチェーンがとれない。まるで固定されているように動いてくれないのだ。
奇妙だ。
(……? なんだかこれ、おかしい……)
触らないほうがいいだろうと判断して、ルキアの頭の下に柔らかい枕を入れる。首の高さも調節して、過ごしやすいようにと考慮した。
余裕ができてきたのは1時間もしてからだ。彼が目覚めたらまず、香りのいいお茶を淹れて、気分を穏やかにしてもらおうと決めていた。
部屋を見回すゆとりができ、トリシアは隅のほうに彼の小さなトランクが放り投げてあることに気づいた。
持ち上げて運ぼうとするが、あまりの軽さに驚愕してしまう。
(えっ?)
ぎくりとした気持ちになって思わず手を放す。……重みは、トランクのものだけのような……。
眠っているルキアのほうを振り向き、嫌な予感にトリシアは身震いした。
帝都までの旅の時、彼の部屋は散らかっていた。なのに……やたらと部屋が整然としている。これは……どういう意味が……?
(ルキア様?)
『ヤト』全員でかからなければならない危ない任務。それはつまり……。
悲鳴が喉から出そうになって、トリシアは両手で口を塞いだ。
彼は、生きて帰る気がないのだ。
そもそも乗り込んだ『ヤト』の者達は、きっとそうなのだ。
機密だからきっとどんな任務かは話してもらえない。トリシアはベッドに近づいて、そっと彼を覗き込んだ。
顔色が少しは良くなってきている。寝息の呼吸も変わらない。
(ルキア様……)
彼には度々助けられている。彼の屋敷に滞在させてもらった恩も、少しも返せていない。
いつも笑顔で、それでいて困った時に助け舟を出してくれるルキア。
自分にできることをするしかない。それしかないのだ。
トリシアはそっと囁いた。
「ルキア様、お疲れ様です」
誰も彼に労いの言葉をかけなかった。任務だから彼が魔術を行使するのは当然のことだが、それでもやっぱり……。
「みんな無事です。ルキア様のおかげです」
心を込めて。感謝を込めて。
トリシアは祈るようにルキアに深く頭をさげた。
*
3時間後に目を覚ました、というか、トリシアに起こされたルキアはぼんやりとしていた。
「あの、お呼びなのですが、一番の年長者の……」
「ギュスターヴ=シャーウッド大佐です」
「たっ、大佐!?」
「はい……」
ぼんやりとしたまま、にへらと力なく笑うルキアは起き上がり、そのままベッドから降りた。
「ああっ! ルキア様、まず顔を洗ってください! そこに水盆を用意しましたからっ」
タオルを水に含ませて、絞る。そのまま、軍服を着始めるルキアに駆け寄って顔を優しく拭った。
彼はそこで動きを止めてしまったので、トリシアは疑問符を浮かべながらタオルをおろした。まずかっただろうか?
「あの……」
謝ろうとしたら、彼は顔を真っ赤にして俯いていた。どうやらやっとここで目が覚めたらしい。
「ご婦人の前で……自分は……それに、世話を……」
ぶつぶつ言うルキアは相当に恥ずかしかったようで、慌てて上着を羽織り、ズボンを穿いた。
「すみません、トリシア。見苦しいものを見せてしまいましたね」
「いえ……前も見たことありますから」
「ええっ!」
驚愕するルキアはハッとして納得した。帝都までの旅路の際に、トリシアの寝所で寝たことを思い出したのだろう。
「あれは……一応下着ではありませんでしたからまだ……」
「…………」
女のトリシアからすれば、あまり大差のない格好だと思ったのだが、どうやらルキアの中では区別がついているらしい。
彼は顔を伏せてから小さく唸っている。
「あの、私は平気ですから」
「自分は平気ではありませんっ」
そう言い切り、ルキアは戸惑ったように顔をあげて複雑そうな表情をとった。どういう意味かはトリシアにはわからない。
「あ、いえ……怒鳴ってすみません。ギュスターヴから命じられて自分の世話をしたのでしょうから……あなたに非はないというのに」
苦いものでも含んだように言うルキアは、素早く身支度を整えた。軍靴の紐もあっという間に結び、格好だけなら立派な軍人の出来上がりだ。
「一等食堂車へと言われております。ルキア様……体調はどうですか?」
「万全とは言いがたいです」
はっきりと彼は言い放ち、髪を括る紐をトリシアに手渡した。会議に行くのだから結んで欲しいということだろう。
櫛を使ってトリシアは彼の長い髪をまとめながら、尋ねる。
「万全ではないのに、任務に……?」
「…………これから、敵の襲撃を受けるでしょう」
予言めいたルキアの言葉にトリシアの手が止まる。
「古代の遺跡にはそもそも、重要度の高いものには巣食っている『なにか』があるのです」
「なにか……ですか」
「明確に何なのかは解明されていませんからね。遺跡に近づけば、それらの妨害に遭うと考えるのが妥当でしょう」
「…………ルキア様の、これからされることを聞いても大丈夫でしょうか」
震える声で、必死にそれだけ言う。顔を見られたら、どれほど自分が青くなっているかバレてしまうだろう。
だから、振り向かずにおいてほしい。そしてその願いは叶った。
「自分は、『ヤト』の他のメンバーが遺跡に到着するまで、襲撃してくる敵を迎撃する任務を与えられています」
……櫛を、落としそうになる。
その『敵』とはどんなものか想像がつかない。だからこそ、恐ろしい。
見えない敵を相手にするようなものだ。ついさっきまで魔術を使っていたルキアに、また魔力を消費させるというのか?
(………………)
魔術師ではないゆえに、魔力が枯渇するのかどうかわからない。わからないから、トリシアには何も言えない。
なんとか手を動かして、紐で髪を括る。
「勝てますよね、ルキア様」
「それは運でしょうね」
ルキアは無情にも、真実しか口にしてくれなかった。
*
ルキアの言ったことは、当たる。前の時もそうだった。杞憂に終わればいいのにと思っていても、よく当たるのだ。
ブルー・パール号が遺跡に近づき、完全に停車し、『ヤト』のメンバーが降車を始めると、黒い影が過ぎった。頭上を。
大きな音をさせて風を鳴らし、天高く旋回するその鳥は、見たこともない種類のものだった。
くちばしは細長く、そして大きく。不気味なほどに眼球が押し出されており、尾が何本もあった。
怪鳥、と表現するに相応しい。
怪鳥はブルー・。パール号を敵と判断したのか、攻撃を仕掛けてきた。
「キシャアアアアアアァァァァァァァァァァー!」
耳鳴りがしそうなほどの奇声をあげて襲い掛かってくる怪鳥目掛けて、最初に降車したルキアが動いた。
「『防げ、風塵』」
振り上げた片手から収束し、一気に空中に広がった巨大な魔法陣に怪鳥が激突したのだ。
ゆうに数十メートルはありそうな魔法陣はずしんと揺れ、支えていたルキアが吐血した。
「げほっ、ごほっ」
咳き込みながらも、ルキアは振り上げた腕を動かさない。
何度も離れては突っ込んでくる怪鳥は躍起になっているようで、魔法陣に何度も弾かれては頭から激突していく。それでもダメージがあるようには見えない。
「今のうちだ!」
オスカーの合図に、『ヤト』の面々がブルー・パール号を下車して遺跡へと駆け出していく。
「ルキア様……っ!」
悲鳴をあげるトリシアを、エミリが抑え込んでいた。
たった一人で怪鳥を引き受けたルキアは、なるべくこの怪鳥を引き付けておかなければならない。
退治して、遺跡と関連のある獣なら、遺跡の通路が塞がれる恐れがあるからだ。
仲間たちが無事に遺跡に入るのをルキアは支援するのが今回の任務だ。
負担が大きいのか、ルキアは拳で口元を拭う。
(血……)
魔術に干渉されているということは、やはりただの怪鳥ではないのだろう。
なるべく退治せずに済まさなければ。
そんな風に考えているルキアの考えなど、トリシアにはお見通しだ。
「エミリ先輩、どいてください!」
「馬鹿言わないでよ! あんたに何ができるっていうのよ!」
腕を掴んで離さないエミリの言葉は正論で、トリシアは声を詰まらせる。
平民で、ただの添乗員のトリシアにはルキアの手助けなどできない。
(でも)
でも。
髪を結ってあげていた時の楽しそうで、嬉しそうなルキアの姿を思い出す。
あんなに優しい人なのに。他者と、自身の感情を理解できないという。
振り向いて、「ありがとう」と言ってくれたルキアの表情が忘れられない。
べきべきべき、と妙な音がしている。頭上で。
展開されていた魔法陣が、食い千切られているのだ。
ルキアはもう片方の手も振り上げて詠唱を始めた。
「『空は嘆く。音に近づく者よ屠れ。蹂躙者はその場に留まり汝は断罪の天秤にかけられる』」
長い詠唱と共に、再び別の魔法陣が重ねて出現する。
「『おお、星空の歌姫たちは激流に呑まれて……』げほっ」
詠唱が一時的に中断され、ルキアがまた吐血した。
だが彼は歯を食いしばって続ける。
「『激流に呑まれて嘆願の声すら届かない』……!」
美しい魔法陣だった。ルキアの作り出す魔法陣は、繊細で、どんな模様よりも美しい。
紫に光り輝く魔法陣は先程より強大で、怪鳥を押し戻した。
「キエェェェーッッ!」
怪鳥が悲鳴をあげる。ばさりばさりと大きく羽ばたきを繰り返し、再び向かって来る。
完全にルキアに対して敵対心をむき出しにしていた。
「『女神の懇願に祈りすら効かず、人々は天を仰いで両手を振り上げて喝采する』!」
詠唱は続いていく。なめらかに続けられる呪文は、トリシアでさえ学んだことのないものだ。
いつもは短縮しているであろうルキアが本気で出している証拠だった。
怪鳥の羽が光り輝いた。夜目にもはっきりと周囲が明るくなり、突如として魔法陣が爆発した。
驚愕に目を見開くルキアは、瞬きをし、自身の陣が壊れていないことを確かめる。今のは怪鳥の攻撃だ。
「エミリ先輩……いま、あの鳥の翼、光りませんでした?」
「光ったわね……」
嫌な予感がする。
ルキアがブルー・パール号に向けて叫んだ。
「すぐに出発して逃げるように! いいですね!」
とんでもないことを言われてトリシアは目を見開く。
「なにを言うんですか、ルキア様!」
彼はこちらを見もせずに、じりじりとブルー・パール号との距離を開いていく。その間も、怪鳥の妙な光の攻撃が連続して起こり、魔法陣に破損ができていく。
「『大地はうめき、癒しの声は届かない。ああ、汝の罪はどれほどの重みを持って裁かれるのか』」
遺跡へと歩き出すルキアの小さな背中にトリシアが声をかけそうになる。
彼は……彼は。
(私たちを巻き込まないように……!)
「中に入るのよ、トリシア!」
エミリは出発の意図を伝えるために中に引っ込むが、トリシアにはできなかった。
仲間たちのために、たった一人で戦う彼の姿から目が離せないのだ。
(だって、ルキア様は本当は……)
たたかうのに、むいていないのに。
誰よりも向いているとオスカーは言ったが、そんなの違う。絶対違う!
そうこうしていると、ブルー・パール号がゆっくりと前進を始める。緩やかな速度で走り始めた弾丸ライナー。
トリシアはそれでも、まだ車内に入る勇気がなかった。
離れていくルキアは詠唱を止めずにむしろ好戦的に右手と左手を交差させ、別の詠唱を混じらせ始めたのだ。
防御ではなく、それは攻撃のための『ことば』。
小さな爆発が怪鳥を襲う。ブルー・パール号からなるべく怪鳥の注意を逸らすためだ。その目論見は成功した。
(いやよ!)
トリシアは走り出したブルー・パール号から咄嗟に飛び降りた。
自分は何もできない。だが、たった一つだけ、できることがある。
(ルキア様の盾にくらいなら、なれるわ!)