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第一幕

 盗賊を軍に引き渡すために、ルキアは車内の皆に指示を出した。

 盗賊たちは空いている部屋に全員を閉じ込めておくことになり、次の駅までの短い期間をラグの見張りつきで過ごすこととなった。

「あ、トリシア」

 展望室を掃除していたところで声をかけられて、トリシアは振り向く。

 魔術で疲労したのだから眠っていてもおかしくないのに、ルキアはにっこりと微笑んで立っていた。

 だがその顔には疲労の色が見える。

(そりゃあ……あんなに簡単に魔術を使っていても、本当はすごく大変な作業と集中力がいるんだもの。疲れて当然よね)

 トリシアは労おうと微笑む。

「ルキア様、紅茶でも淹れましょうか?」

「眠気覚ましの薬湯をください。ここで眠ってしまうのは、さすがに不謹慎ですからね」

「……む、無理をして起きておられなくてもよろしいと思いますよ? ラグ殿が見張りについておりますし」

「ラグの封印具も完璧には修繕できていません。自分は、きちんと責務を果たすまでは眠りませんよ」

 軽く言っているが、それはさすがに働き過ぎではないだろうか?

 心配そうに眉をひそめるトリシアを見つめ、ルキアは苦笑した。

「あの時、トリシアが現れなかったらと思うと少々背筋が寒くなります」

「え? あの時?」

「ラグの封印具が壊れてしまった時です」

 その時の状況を思い出したのか、ルキアが少しだけ目を細めた。

「自分はどうにも軍に所属しているせいか、乱暴に片付けようとする癖がついていまして」

「ルキア様がですか?」

「ええ」

 困ったように笑みを浮かべるルキアはトリシアの傍まで来ると見上げてきた。可愛らしい丸い瞳が真っ直ぐ見てくるのでトリシアは思わず硬直してしまう。

「ラグは大切な友人ですけど、民間人に被害が及ぶのであれば……殺してしまうのもやぶさかではないと判断してしまっていました」

「こ、殺すって……ほ、本気ですか?」

「はい。自分は軍人で、民間人を守る義務がありますから」

 あっさりと言うルキアは、どこか寂しそうだ。

「トリシアが声をかけてくれたので、我に返ったのです。あなたには感謝しています」

「そ、そんな……! 私、何もできませんでしたし……」

 恐縮して俯くと、ルキアがくすりと笑った。

「いいえ。なにもできない人間はいません。あなたはあの場に来てくれただけで、自分を助けてくれましたよ?」

「も、勿体無いお言葉です……!」

 恥ずかしくて、どこかに逃げてしまいたい。

 トリシアはそっとルキアを見遣る。彼は視線が合うと、満面の笑みを浮かべた。よく笑う人だと、思う。

 それに……。

(役立たずだったのに、私を気遣ってくれてる……のかしら。そうは見えないけど)

 思ったことを口にするルキアのことだ。きっと本心からそう思っているのだろうが、トリシアはやはり納得できない。

 自分はあの場で、ただ見ていることだけしかできなかったのに。

(ルキア様は優しいわね)

「薬湯をすぐに淹れます。食堂車でお待ちになっていてください、ルキア様」

「………………」

 彼はちょっと笑みを消して、じっと見上げてくる。

「? あ、あのルキア様……」

「……その丁寧な口調、いつまで経っても直りませんね?」

「あ、当たり前です!」

「そうですか。残念です」

 肩をすくめるルキアはにっこり笑い、「食堂車に居ます」と身を翻した。

 残されたトリシアはハァ、と息を吐き出す。彼が自分にもっと砕けた態度で接して欲しがっているのはわかるのだが……なぜそうも自分にこだわるのかわからない。

(うぅー……だって、貴族のお嬢様たちと違ってちっとも綺麗じゃないし……)

 展望室の窓ガラスを見遣り、そこに薄く映っている自分の姿に落胆してしまう。

 制服だって、綺麗にしてはいるが使い古した感じが少しある。帝都に着くと、貴族たちの暮らす屋敷が多いので、どうしても自分を見比べてしまうのだ。

(綺麗な衣服に憧れがないわけじゃないけど……私じゃ、不似合いだもの)

 分不相応という言葉の通りだ。過剰なものは、自分には余計だと思う。



 食堂車にはルキアしかいなかった。

 彼は窓の外を見て、うとうとしていた。やはり疲れていて、眠いのだろう。

「ルキア様、薬湯をお持ちしました。目が覚めると思います」

 どうぞ、と目の前にカップを置くと、ルキアが微笑んだ。

「ありがとうございます、トリシア」

「い、いいえ。助けていただいたのですし、これくらいはなんでもありませんから」

「……そんなこと、思う必要はありません」

 柔らかく言ってくるルキアは、薬湯の入ったカップを持ち上げる。そっと口に含んで、その苦い味に眉をひそめた。

「軍人が民間人を守るのは当たり前のことです」

「…………」

 軍属していることに誇りを持っているのだろうか? やたらと強調されるので、少々引いてしまいそうになる。

 何かあれば「軍属だから」と言ってくるルキアだが、彼は軍の中でも特殊な部隊に所属していたはずだ。

(そういえば……どうして一人であちこち行かれるのかしら……?)

 疑問には思うが、気軽に声をかけられる間柄ではないので、トリシアは「では」と頭を下げて食堂車から去った。

 あとでカップをさげに来なければならないが……ルキアの傍に居るのが少し苦痛だった。

 考えてみれば、ルキアは最初から気軽に声をかけてきてくれて……面食らったものだ。貴族の、しかも凄い軍人が自分みたいな人間に声をかけてくることはないと思っていた。

 がたんっ、と背後で音がしたので慌てて振り向き、食堂車に戻る。

 ルキアがテーブルに突っ伏し、そのまま寝息をたてていたのだ。もう限界だったようだ。

(あーあ。……どう見てもやっぱりただの綺麗な男の子なのよね……)

 魔術を使っているところを何度か目にはしていたが……それでもあの姿だとどうしても「そう」は思えないのだ。

 次に停車するのはイズルという街。そのことを思い出し、トリシアは窓の外を眺めた。

 乗客もいないので、小さな駅に停車する必要がないためブルー・パール号は速度をあげている。通り過ぎる景色を眺めて、イズルには定時通りには到着すると確信したのだった。



「これは失礼」

 紳士帽を軽く挙げてそう言ってきた初老の男はトリシアに軽くぶつかり、謝罪してきた。

 トリシアは「とんでもございません!」と返し、頭を深く下げる。男はトリシアの横を通り過ぎる、一等車両に向かった。

(……二等客室のお客様……。えっと、確かシモンズ様だったかしら……)

 背後を軽く振り返るが、ちょうど引き戸が閉められたので、食堂車の様子はうかがえなくなった。トリシアは仕方なく、自分の仕事へと戻ったのだった。


 ブルー・パール号は豪華列車と言ってもいい。一等、二等、三等にそれぞれ展望室や食堂車があるくらいなのだ。

 だがこれには理由がきちんと存在する。

 一等車両に乗れるのは裕福な者か、もしくは貴族と決まっているのだ。自然とそれ以下の収入の者は二等か三等になってしまう。

 一等車両に乗る者のほとんどは階級の差別意識が高く、下等とみなしている……特に三等車両に泊まる客を一緒に過ごしたくないのだという。

 そのため、食堂車も展望車もそれぞれに備え付けられている。二等客も、三等客と接点を持ちたくないという意見も多かったので、これに倣った。

 まったくもって、無駄なことをすると思ってしまうが貴族たちの考えがわからないでもない。

 綺麗なドレスを着ている貴族の令嬢が、走り回る孤児の子供にべったりと泥のついた手で触られたら卒倒してしまうだろうからだ。

 この世界はやはり「階級」がひどく、そして深く根付いている世界なのだ。

 ルキアはそれほど階級の高い貴族ではないとは聞いたことがある。そのため、上流貴族から養子にという話がかなりあったようだが、全て断っていたようだ。

 上にのし上がっていくためには階級は有効な手段となる。それなのに。

(ルキア様は自力でのぼってきているのよね……)

 『ヤト』という特殊な、皇帝直属の部隊。ほとんどが謎に包まれているというのに。

 だが彼はあまり権力に興味はなさそうだ。庶民のトリシアにも優しい。

(……変わってる人なのかしら……)



 一通り仕事を終えて食堂車に戻ってくると、一度は目覚めたのか、頬杖をついて窓ガラスに額を当てて眠っているルキアの姿があった。

 無防備な姿にどきりとしてしまうが、トリシアは手早くテーブルの上のカップとソーサーを片付ける。

 あの苦い薬湯を全部飲んでいても……これほど眠いとは。

 眠らせておいてあげたいが、そうもいくまい。起こさなければきっと彼は怒るはずだ。

「ルキア様」

 そっと囁くように耳元で、小さな声で呼んでみる。

 ……反応がない。

(……むぅ)

 眉をひそめるトリシアは肩を揺すろうかと考えるがそれもできない。さすがにそれほど気軽に接することのできる相手ではない。

「ルキア様」

 そっと声をささやかにかけると、彼はうっすらと瞼を開ける。真っ赤な、ルビーのように美しい瞳がこちらをひたと見据えた。

「ああ、トリシア。

 すみません、眠っていましたか」

「お辛いようでしたら、やはり部屋で眠っていたほうが……」

「じゃあここで話し相手をしてください。そうすれば、眠気なんか吹き飛びます」

 突拍子もないことを言われてトリシアは露骨に顔をしかめた。

 仕事中にそんなことをできるわけがない。だが……。

「……とりあえず聞いて来ます。業務に差し支えないようなら、お手伝いはできると思いますから」

「そうですか」

 嬉しそうに微笑むルキアに背を向け、トリシアは慌ててその場を去った。

 このままではルキアは眠りについてしまうだろう。それはこの列車を守る力を失うことになる。大きな痛手だ。

 いくらバカな自分でもわかる。彼を眠らせてはいけない。せめて……安全な場所に行くまでは。

(ごめんなさい、ルキア様!)

 ルキアよりも、乗客の安全を第一に考えてしまう。ルキアだって、乗客の一人だというのに!

 眠らせてあげたいけど……!

 トリシアはジャックと相談し、ルキアの話し相手になることとなった。慌てて一等食堂車に戻る。

 あれからブルー・パール号は順調に進んでいる。大きな揺れもなく、景色も流れるように過ぎていくばかりだ。

 しばらくトリシアはルキア専属の相手役として過ごすこととなった。もちろん、簡単な仕事なら添乗員として働きはするが、大きな仕事の割合がルキアに対してのものになっただけだ。

 ルキアの生活は規則正しい。これは軍で過ごした経験からなのだろう。

 ぴったりと同じ時間に目覚め、それから身支度をする。

 朝食をとると、今度は車内を見回る。……散歩でもしているのかと思っていたら、そうではなかったらしい。

 色々と彼の私生活を知っていくと、こんな状態でよく過ごしていられるものだと思ってしまう。なにせ……休憩がお茶の時間くらいしかないのだ。

 普段からのんびりしていると勘違いしていただけに、申し訳ない気分になった。

 15時も過ぎた頃、眠気覚ましにと薬湯をと頼んでくるルキアに、お茶を淹れていると料理長にからかわれた。

「専属のメイドみたいだな、トリシア」

「冗談言わないでよ!」

 頬を膨らませるトリシアだったが、ルキアがあまりにも頑張りすぎるのでそこが気になっていた。

(……もしかして、帝都でもあんな調子なのかしら)

 なんだか心配で目が離せなくなってきた。

 お茶をキャビネットに運んで持ってくると、ルキアはぼんやりと外を眺めていた。

「……なにか気になるものでも?」

「いえ。ハドンが群れで眺めているなと思いまして」

「はっ、ハドン!?」

 ハイエナが進化されたといわれる動物で、眼球が全面に押し出されている獰猛な動物だ。ただし、かなり小さく(小型犬くらいの大きさ)、集団で行動する。

 ハドンは無闇に襲ってきたりはしないが、死骸にむらがるので皆からは恐れられている。見た目もあまりよろしくない。

「こうして荒野を旅していると、予期せぬ出来事に遭遇するので自分はけっこう気に入っているんですよね」

「?」

「向かい側に座ってください。独り言だと悲しいですから」

 にっこり微笑まれて、渋々とトリシアは腰をおろした。

 ルキアは頬杖をついて、にこっと愛くるしく微笑む。トリシアは思わず頬を赤く染めた。

(……本当はルキア様って、わかってやっていらっしゃるんじゃないのかしら……)

 そう思ったほうが随分と楽だ。

「トリシアは、自分が暇であなたに声をかけたと思っている。違いますか?」

 直撃だった。

 ソフトな話題かと思ったらそうではなかった。

 全身に力が入り、トリシアは硬直してしまう。図星だったからだ。

 ルキアは微笑んだままだ。

「そこまで軍人は暇ではありませんよ」

「あ、あの……っ、そ、う、ではなく……」

「暇ではなく、この車内であなたが一番よく働いていると思ったから声をかけたのです」

 えっ、と思ってトリシアは伏せかけていた顔をあげた。ルビーのような瞳がとても綺麗だった。

「あれこれと文句も言わずに、小間使いのように働いていたからです」

「いえ、そんなことは……」

「仕事を仕事と割り切る人間だと思ったから、気になったのです」

 あっさりとそう言うルキアは薬湯を口にして苦さに苦笑した。

「あは。本当に苦いですね」

「そ、そりゃ、目覚まし用の薬湯です。強力なものなんですよ?」

「雪山で遭難した時のためのものですよね?」

 言い当てられてトリシアは「そうか」と納得した。ルキアは軍属の人間なのだ。これくらいのこと、知っていて当然なのだ。

「一応薄めてはいますよ……?」

「でしょうね。本来なら、悶絶ものですから」

 さも体験したかのように言うルキアは、また一口飲んだ。今度は表情を崩さない。

 車窓の外の流れていく景色に目を遣るルキアは、憂いを帯びた視線をする。

「帝都でもまた何か言われるのでしょうけど……。さて、どうしましょう」

「? 何か、とは? 盗賊を捕まえた功績を讃えられるのでは?」

「まさか。軍属なのですから、賞賛されはしませんよ。当然のことです。

 軍人が褒められる時は、他国や自国の侵略者を殺した時だけですよ」

 殺伐としたことを言うルキアは頬杖をつく。

「……あの、どうしてルキア様は帝国軍にいらっしゃるのですか?」

 それが一番不思議だった。

 いくら魔法院を卒業したとしても、そのまま軍に就く必要性はないはずだ。

 心配そうなトリシアの瞳を受け、彼はふいに驚いたように目を丸くした。

「トリシアは……不思議なことを尋ねますね」

「そ、そうでしょうか……」

 彼ほど軍が似合わない少年はいないと思うのだが……。何か自分の感覚がおかしいのだろうかもしかして。

「自分には魔術の才があり、それを活かすには軍が一番だと誰もが言っていましたよ?」

「そ、そういうものでしょうか……。軍でなくとも……」

 そこまで言ってから、トリシアはとんでもないことに気づいた。

 兵器のような爆発的な威力を持つルキアの才能を、戦に使うことにしたのだろう。大きすぎる力の使い道というのは決まっているようなものだ。

 でなければ、ルキアの身は隠匿されたか……処分されたかもしれない。

 真っ青になったトリシアが唇を軽く噛む。

「ルキア様は道具になられることを選ばれたのですか」

「いいえ。みなのために持てる力を使おうと思っただけですよ」

 にっこりと微笑むルキアはそれでも、苦笑、した。

「ただ……一人で少し辛いですね」

「なにがでしょうか? 訊いてもよろしければ……」

「帝都に戻るとまずお説教が待っています。報告書も、始末書も。それに、嘆願書も。

 あれもこれもやるとなると、一人では足りません」

「そっ、そんなにお仕事をされているのですか……!」

「勝手に慈善事業をしているので、始末書がたんまりあるんです。困りますよね」

 やれやれというように嘆息するルキアは軽い欠伸をして、また薬湯を口にした。

 自分よりも年下の彼がこれほど仕事をしているなんて……トリシアは信じられなかった。

 貴族の出身なのだから、それほど無理をしなくてもいいはずなのに……。いや、それこそトリシアのわからぬ世界のことだ。予想するのはやめよう。

 そういえば……彼は中流か下流貴族なのだし、結婚話があってもおかしくない。この容姿に優れた能力だ。きっと相手は山のようにいることだろう。

 それを想像するとなると、やはり貧相な自分を比較して落ち込んでしまう。

(私じゃ……ルキア様の話し相手くらいにしかなれない……。ううん、それだって、すごく名誉なことなのよね)

 そっとうかがい見ると、彼にじっと凝視されていたことに気づいてトリシアはぎょっと目をみはる。

「あ、あの?」

「…………言葉遣いを直して欲しいんですけど」

「は?」

「どうしてもダメですか?」

 首を可愛らしく傾げられても、職務に忠実なトリシアは「うん」とは言えない。

 階級が近いラグやハルになら「いい」と言えることでも、階級社会であるこの世界では気安く頷くことはできないのだ。

 悩んでいるとルキアは小さく微笑む。

「また困らせてしまいました。困らせるのが好きなわけではないのですよ?」

「わかっております……」

「迷惑だと思っていますか?」

「とんでもない!」

「なら、良いのです」

 甘く、綿菓子のように微笑むルキアは本当に言葉をそのまま受け止めてしまうようだ。

 今のは……明らかにウソだったのに。

(ルキア様って、ちょっと危なっかしいかも。ラグとはべつの意味で)

 直情的ではないが、他者の言うことを真に受けるのは長所であり短所だ。



 ルキアと話す回数が格段にあがったトリシアだが、通常の仕事もこなしていた。

 懸命に働く姿は、やはり他者に見られていると思うと緊張してしまう。

(よりによって……)

 ルキアに観察をされていたとは……。

 確かに列車の中にはあまり娯楽がない。添乗員を誘ってくる軽薄な客も確かにいることは事実だ。

 だが平凡なトリシアはエミリほど目立たないせいもあって、そういう者たちに絡まれたことがなかった。

 帝都で宿舎にいた時も、教会に居た時も、異性にモテるような要素はないとはっきり感じていた。

 くせのついた自分の金髪に比べて、ルキアは前も後ろも無造作に伸ばしているが綺麗な髪をしている。憎らしいほどに。

(そういえば……あんなに長いのになんで結んでないのかしら?)

 箒で室内を簡単に掃除していたトリシアの疑問に、ルキアはきっとすぐに答えてくれるはずだ。

 人当たりも良く、可愛く、真面目に軍務をこなす。見た目も麗しく、収入も安定している。だが彼は常に死と隣り合わせだ。

 軍人というのは軍務に従い、帝国に命を捧げているようなものだろう。特に「ヤト」に所属しているなら、任務での死亡率はぐんと上がるはずだ。

(……怖くないのかしら、ルキア様は)

 平然としているが、彼はまだ14歳の若者だ。恐怖がないわけではないだろう。

 トリシアだって、まだ記憶に新しい盗賊との遣り取りは、思い出すだけで寒気が走る。

 ルキアにとってはなんということのないことなのだろう? 彼はルーデンに何をしに行っていたのだろう?

(軍務、よね……)

 軍職に就いているのだから、仕事をしているのだろうが……それにしては……。

(皇帝直属なのに、ルーデンなんて辺境の土地に行っていていいのかしら?)

「ああ、トリシア」

「きゃあ!」

 背後から声をかけられて、考え事をしていたトリシアは思わず悲鳴をあげる。

 振り返るとそこには唖然としたような表情のルキアがいた。

「す……すみません……。そこまで驚かれるとは思っていませんでした……」

 ぼんやりと、多少はショックを受けたのかそう言うルキアは伸ばしかけていた手をおろす。

 彼は微笑んだ。

「次の駅では降車するので、何か欲しいものがあればと思ったので」

「そ、そんなものは自分で買います!」

 まったく、この人はなぜ階級を意識しないのだろうか! トリシアを使いに出すことはあっても、ルキアを使いに出すわけにはいかないだろうに!

 箒をぎゅっと握り、トリシアはルキアを軽く睨んだ。

「ルキア様、なるべく動かないで休息をとるという約束だったはずですが……。ここは三等食堂車ですよ?」

「……もしや、怒っていますか、トリシア」

「怒っています。ルキア様は……その、少々無理が過ぎるのでと思ったもので……。差し出がましいですけど」

「無理などしていませんよ。それに、トリシアと話しているといい気分転換になるのです」

 微笑む糖度があがった気がする。思わず気圧されるトリシアは、彼の甘い笑顔に頬が熱くなってくるのを感じた。

(なんか腹が立つ……。なんでルキア様ってこうなのかしら!)

「ラグも見張りについていますし、ハルはすぐに部屋にこもってしまいます……。自分とお喋りをするのはどうも気に障るようですね」

「………………」

 なんにでも興味を示すルキアにとって、トリッパーであるハルは格好の獲物のようなものだ。不憫になるトリシアだったが、自分の身のほうが可愛い。

「ハル、というと……ミスター・ミズサですよね」

 変わったファミリー・ネームだとは思う。やはりトリッパーは名前に独特の響きがあるようだ。

「よく名前を憶えていますね、トリシア。ああ……乗客が少ないからですか」

 勝手に納得するルキアは、軍靴をかつんかつんと鳴らしてトリシアに近づく。

「……なんだか、ずるいですね」

「は? 何がですか」

「いえ……なんでもありません」

 不思議そうにするルキアに、トリシアは渋面を浮かべる。ルキアの脳内は簡潔であるように見えるが、かなり複雑な思考をしている。

 とにかく一箇所に留まることがあまりない。動き回るなと言っても、頷いてくれてもすぐに行動してしまう。

(反省してないわけじゃないだろうし……悪気があるわけじゃないのよね……)

 積極的に動くルキアだが、貴族にありがちな傲慢さはまったくないし、乗務員たちも「紫電のルキア」かどうか今でも迷うそうだ。

 トリシアはキッとルキアを鋭く睨みつけた。このままここに彼に居てもらっては、仕事の邪魔だ。

「とにかく! 約束はきちんと守ってください、ルキア様」

「…………そこまで怒らせましたか?」

「怒っていると、先程申し上げております」

「…………」

 無言になるルキアはしょぼんと肩を落とす。

「落ち着かないのです。休息する、ということが」

「ブルー・パール号は現在落ち着いています。盗賊が車内に拘留されてはいますが、ラグ殿がいれば、それほど心配することもありません。

 それに、有事の際はルキア様が一番頼りになるのですから、今は休んでください」

「しかし……」

 頑固者。

 内心で毒づくトリシアは、ルキアの顔を凝視する。

 彼は仕方なさそうに溜息をつき、それから微笑した。

「わかりました。確かに自分では、もっと乱暴に事を済ませようとするかもしれません。大人しくしています」

「そうしてください」

「で、ですが……その、トリシアと話すと気分転換になるというのは本当なのですよ?」

「それはようございます」

 つんとして言い放つが、ルキアはこくこくと頷いた。

「では一等食堂車に戻ります」

「いえ、お部屋に戻ってください」

「…………部屋にいても、することがないので暇なのですが……」

「眠ってください。魔術は眠りを必要とするのでしょう?」

「………………」

 ルキアは「それだけは困る」と言いたげにこちらを見上げてきた。小柄な彼は、トリシアをどうしても見上げる形になってしまう。

「何が起こるかわかりません。眠れません」

「……時々食堂車でうとうとしているのは誰ですか」

 ずばり言ってやるとルキアは一気に顔を真っ赤に染め、瞳を伏せた。

「も、申し訳ない、です……。油断しているつもりは……ないのですが」

 常に集中し、緊張感を保っていられる人間などいないのに、ルキアは恥ずかしそうにしている。

(ム、ムカつく~……! なんでルキア様って、どんな顔しても可愛いのかしら……)

 女の自分より可愛いというのはなんなのだ!

 ふいにルキアが目を細め、こちらを見上げてくる。

「では、少々部屋で休みます」

「はい。そうしてください」

 渋々というように背を向けるルキアだが、そわそわと落ち着きがない。休むことがそもそも嫌いなのだろう、彼は。

「お部屋まで一緒に行きますから」

 譲歩してそう言うと、ルキアは観念したのか「はい」と小声で言って歩き出した。



 ルキアは一等客室に陣取っている貴族なだけあり、広い客車を使用している。

 部屋のドアを開けようとすると、ルキアが「わあ!」と声をあげた。

「なりません!」

「え? なにがです?」

 添乗員たちが室内の掃除は定期的におこなっているはずだ。なにをそんなにうろたえるのかわからない。

(……あれ? そういえばルキア様の部屋の担当って…………いない?)

 先輩のエミリは担当していないはずだ。そういえば、聞いたことがなかった。

 偉い軍人、しかも貴族とくれば、命じられて部屋の担当から外れることだってある。

「…………ルキア様」

「室内は雑然としているので、ここまででいいですから」

 丁寧にそう微笑して言うルキアに、トリシアは嫌な予感が当たったと感じた。

 無造作に伸ばされている髪といい……いつも同じ軍服といい……まさかと思っていたが。

(ルキア様って……かなりの面倒くさがりなんじゃ……)

「……お掃除、されてないんですか?」

「軍務だと機密も多いので、室内にあなたたちを入れるわけにはいかないのです」

 はっきりと言うルキアだった。理由は、確かに間違ってはいないだろうが……きっとひどい有り様なのだろう。

(そういえば、帝都に戻ると仕事が山積みみたいなこと、おっしゃっていたわね)

「ルキア様は、いつもどんな仕事をされているのですか?」

 質問をすると、ルキアはちょっとだけきょとんとし、それからふんわりと笑った。

「軍務です」

 ……その内容を訊いているはずなのだが。

 目を細めるトリシアに、彼は首を軽く傾げた。

「機密が多い内容なのですか?」

「え? あ、ああ……軍務の中身が知りたかったのですか。すみません。

 えっと……そうですね。機密が多いので、あまり教えるわけにはいかないですけど……慈善事業、ですかね」

「慈善事業? 前もそうおっしゃっていましたね」

「はい。軍務が常にあるとは限らないので、予定が空けば、ルーデンのように嘆願書を送ってきた地方へ赴くこともあります」

「ルーデンの嘆願書?」

「帝都の軍には多くの嘆願書が送られてきます。もちろん、政府へ対してのものは軍にはきませんが……。

 傭兵ギルドではなく、軍を頼る民間人からの嘆願書は、かなりあるのです」

 それはそうだろう。ギルドは確かに手っ取り早い方法ではあるが、賃金がかかる。それに比べれば、多少時間がかかっても帝国軍に嘆願書を送って、救出を待つという手もある。

「あまり皆、やりたがらないので率先して自分が嘆願書を読んでいるのです」

「ええっ!」

 驚きだった。

 ルキアは特殊な部隊所属のはずだ。それなのに末端の仕事をこなしているというのか!?

 彼は叱られた子供のように肩をすくめ、それから苦笑いを浮かべる。

「やはり……そういう反応をしますよね。皆、同じ反応をします」

「だ、だってルキア様は、皇帝直属の部隊に所属しておられますよね?」

「そうですが……。軍に所属する一人の人間でもあります。嘆願書があれば、対応しますよ?」

「ルキア様が、下の者に命じれば済む話だと思うのですが……」

「いえ。効率が悪いので、自分が出向いたほうが早いのです」

 はっきりと言うルキアを、トリシアは信じられないとでもいう表情で見つめた。

 効率が悪いから、本人が行くとは……。いくらなんでも、自分の身分や立場を考えていないのではないだろうか?

(本当に頓着していないというか……。あ、だから、帝都に戻るとお説教があるとか言っていたのね)

 説教で済むわけがない……。だがそれでもルキアは軍職を剥奪されない。それはひとえに、彼の能力を軍が重宝しているからだろう。

 戦争の際に、ルキアほどの魔術師がいるのといないのでは、話が違ってくる。

(好き勝手にさせているのは、それだけルキア様の能力を買われている証拠なんだわ……)

 それに、実際のところ、ルキア本人が出向けば事が簡単に運ぶのも事実なのだろう。

「…………そういえば、ルキア様の階級は……」

「自分ですか? 少尉ですが」

 笑顔で言われて、トリシアがびしりと音を立てて固まった。

 少尉? この年齢で?

(よ、よくわからないけど、かな~り偉い地位だったような覚えがあるんだけどなぁ……)

 目線が逸れるトリシアを、彼は不思議そうに眺めている。

(そっか。ルキ……じゃなくて、ファルシオン少尉、なんだわ)

 ……それにしては、軍服だけという姿もおかしなものだ。外套を羽織ったり、ある程度の勲章をつけていたりするのではないのだろうか?

 身なりもきちんとしなくては、色々と文句を言われてもおかしくない。

「あの……ルキア様、外套は支給されていますよね?」

「はい。あぁ、でも面倒なので着ないことにしています」

 にこっと笑顔で言われてトリシアは「やっぱりかー!」と思ってしまった。

(おかしいと思っていたのよ! だって階級が上のはずなのに、外套を羽織ってないとかなんか違和感あるって思ってた正体はこれかー!)

 頭を抱えたくなってきた。

 ルキアはそもそも自分の階級にも頓着しないようなのだ。軍務をこなせれば他はどうでもいい、というわけではないだろうが、それに近いものがある。

「ルキア様、自覚がなさすぎです!」

 泣きそうなトリシアの声音に彼はきょとんとし、それから眉をひそめた。

「あの……なんの自覚でしょうか……?」

「軍人としてではなく、階級者としての自覚です!」

 はっきりと言ってやるが、ルキアは可愛らしい目を丸くするだけだ。

「……よくそう言って怒られるのですが、意味がわからないのです」

 困りました……。

 と、本気で困ったように呟いているものだからたまらない。

(盗賊と遣り合っても、相手が油断するわけだわ。軍服を着てる子供なんだもの、ただの。外套も勲章もつけてないなら、ただの駐屯してる軍人と思うか、酔狂な子供としか思わないわ)

 それが大きく成果に繋がっているのだろうが、いくらなんでも無謀すぎる。というか、無頓着すぎる!

(実務に不用ですから、と笑顔で言って将軍閣下とかに教育的指導でも受けてそうだわ)

 青ざめるトリシアの予想はほとんど当たっていた。ルキアは軍人の中でも、ズバ抜けて口答えをする生意気な者という噂が実は広がっている。

 本人がいくら素直で、現場のことを思っても、上層部のメンツを気にする輩には気に入られないに違いない。

 しかも……特別部隊にまで入っているとなると、陰口を言われる格好の的だ。

 やきもきするトリシアはその場でばたばたと足踏みした。その様子を見てルキアはますます不思議がる。

(ああもう、ルキア様って、他人の機微にすごく疎いんだわ!)

 天才となにかは紙一重というが、まさにその通りのようだ。

「トリシア、さっきから何をしているのです?」

 ばたばたと足踏みをしているトリシアはさぞ奇妙に見えたことだろう。だがそうでもしないと、この心のもやもやは爆発しそうだったのだ。

「とにかく、部屋を片付けろとは言いません! 眠れるスペースくらいはあるのでしょう?」

「…………」

 無言で笑顔になるルキアの様子に……察するしかない。

 ベッドの上も書類で占領されているのだろう。

(片付けたいけど、機密文書に触るわけにはいかないし~……! あーもう!)

「平気です。眠るだけなら床でも構いませんし」

「なんてことをおっしゃるのですか!」

 もう嫌だ! 泣きそう!

 実際に彼は床に転がって寝ていそうで……想像ができるので余計に嫌だった。

「せめてベッドで眠ってください! お願いですから!」

 トリシアの懇願に、彼はちょっときょとんとしてから「わかりました」と頷いてみせた。



 …………その結果がどうしてこうなるのだ……。

 こめかみに青筋を浮かべた状態で眺めるトリシアの先には、自分の小さくて狭い簡素な寝室に転がって眠るルキアがいる。

 自分の使うぼろ切れのようなタオルケットで、軍服を脱いだルキアがシャツだけの状態で完全に寝入っているのだ。

「…………」

 口元を引きつらせるトリシアだったが、ここしか彼に提供できる場所がなかったのだから仕方ない。

 医療室のベッドはなぜかハルが占領していたし、ルキアの部屋は機密文書が多すぎて立ち入れない。結局行き着く先はここだった。

 彼はトリシアが羞恥に真っ赤になっているのも気にせずに軍服を手早く脱ぎ、シャツと簡素な短パン姿になって「おやすみなさい」と寝てしまった。

「ん? なにしてんのトリシアこんなところで。サボってないで、展望室の掃除……ってギャー!」

 エミリが悲鳴をあげてトリシアにしがみついた。

 それもそうだろう。自分の隣室に可憐な妖精が無防備に眠っていたら誰だって驚愕する。

「な、なんでルキア様があんたのベッドで寝てるのよ! ほとんど床よ、ここ!」

「……ルキア様がそうしたいって言うから……」

「…………あんた、泣きそう?」

「だってエミリ先輩!」

 エミリの肩を掴んで前後に強く揺する。

「ルキア様が使ってるの、私のものなんですよ全部! あ、あんなぼろ切れみたいなタオルケットだって! わ、わ、私の……っっ!」

「あー……なんかあんたの気持ち、すごいわかるわ。そりゃ恥ずかしいわよね……」

 エミリが眠っているルキアを一瞥し、嘆息した。

「まあルキア様が変態じゃなくて良かったじゃない。あんたの匂い嗅いで興奮してたらヤバイもん」

「そんな恐ろしいこと言わないでくださいっ!」

「……しっかし寝てても本当に綺麗ね……。恐るべき美貌……」

 二人でちろりと眺めるが、眠っているとますます妖精のようで神秘的だ。

 トリシアはドアを閉めて、恨めしげな顔をする。

 だがそこで、ことは終わらなかった。


 仕事をひと段落させ、早番で終わったのでと部屋に戻ってきて開けたそこに、まだルキアが眠っていた。

 仕方ないのでトリシアは屈んで近づき、起こす。

 部屋そのものが狭いので、かなり接近しないといけないのが問題なのだが……。

「んしょ……っと」

 彼を脚で挟むような体勢にぎくしゃくしつつ、ルキアの肩を揺すった。

「ルキア様、もう夜ですよ。起きて部屋にお戻りください」

「…………」

 うっすらとルキアが瞼を開けると、にこ、と微笑んだ。

 起きてくれたと安堵したのもつかの間。ぐいっと手を引っ張られて「えええー!」と思う暇もなく引っ張り倒されていた。

 狭い個室で。狭い寝室で。

 息遣いがすぐ近くに聞こえて。

 トリシアは全身の血液が頭に集まるのを感じていた。

 綺麗な顔が目の前に……こんなすぐ近くに!

(き、気が遠くなりそう……!)

 くらくらしてきたと思ったら、腰に手を回された。

「面倒なので、一緒に寝ましょう」

「はあっ!?」

 大声を出すが、ルキアは寝ぼけた声のままで続けた。

「嫌ですか、自分と眠るのは」

「み、未婚の女性が男性と寝屋をともにするのはよくありませんっ!」

 必死に離れようとするが、ルキアは意外に腕力が強い。うそっ、とトリシアは青ざめた。

 考えてみれば彼は軍人なのだ。魔術師だとしても、軍属として訓練は受けているはずだ。見た目に騙された!

(ひゃあああああ~!)

 必死に抵抗しても、無駄なのはわかっている。わかっているが、やらなければならない。

(な、なんかすごい近い! 近い近い~っ!)

 脚と脚が絡み合い、まるで縛り付けられているようなポーズになるトリシアは、自分の仕事着のことを心配してしまう。

「ルキア様! 起きて! 起きてくださいっ、お願いですからっ!」

 懇願に近いトリシアの必死の呼び声に意識が浮上してきたのか、ルキアの瞼が開いた。

 ぱち、と開いて視線が絡む。

 彼は一瞬理解できなかったようで怪訝そうに眉を寄せ、それから自分が何をしているのか瞬時に悟ったようだ。

 みるみる真っ赤に顔を染めて、俯かせる。

「も、申し訳ありません、トリシア……」

 照れの混じる声でそっと手を放す。解放されたトリシアは起き上がった。すぐにルキアも起き上がる。

 寝起きの彼は乱れた衣服ではあったが、髪に寝癖などはついていない。

「……なにか寝言とか言いましたか?」

 そっと、うかがうように訊いてくるルキアにぶんぶんっと首を横に振ってみせる。すると彼は安堵したように胸を撫で下ろした。

「寝ぼけて抱きついてしまったようですね。申し訳ありませんでした、トリシア。あの、殴ってくださって構いませんよ?」

「……ルキア様、殴れば済む問題ではないと思いますが」

 冷静にそう指摘すると、彼は驚いたように目を丸くする。

「じょ、女性の寝所に潜り込むのも、問題です……。こ、今回は仕方ないですけど」

「ど、どうすればよいのでしょう?」

 心底困っているらしいルキアは、「殴る」以外の方法での解決法が思いつかないのだろう。

(くぅぅぅ~! 憎めないのがまた腹が立つ~!)

 勢いよく立ち上がったルキアは、トリシアに迫った。

「すみません! 軍律は詳しいのですが、他のことに疎くて……! トリシアの気の済むようにしてください!」

「ちょっ、ルキア様!」

 押される形で迫られたので、後ずさった拍子にトリシアは転んでしまう。狭い廊下で腰を打ちつけ、顔をしかめる。

「ああ! すみませんトリシア!」

 慌ててがばりと横抱きにされて持ち上げられる。あまりの軽々とした動作にトリシアは仰天した。

(ラグなみに腕力が……いや、そこまではないけど、ある程度はあるのね……!)

 そっと自分の寝台に寝かされて、そこをルキアが覗き込む。

(ぎゃー! 近い! さっきとは違う意味で近いですよルキア様ぁ~!)

「大丈夫ですか? 痛むなら医者を呼びに行きますが」

「だっ、大丈夫です……! ですから、あのっ、ちょっと離れ……」

「…………」

 じっ、と真剣な顔で凝視されてトリシアは何も言えなくなってしまう。

 こんな真面目な顔をされて……すごく心配しているに違いない。申し訳なくなった。

「…………」

 彼はじっとこちらを見ていたので、恥ずかしさのあまりタオルケットで身体を隠すような仕草をしてしまう。今はただの仕事着だというのに。

 立ち上がった彼はすたすたとその場を立ち去ってしまう。唖然とするトリシアはわけがわからなくて部屋の外を覗くが、彼が引き戸を開けて従業員車両を出て行った姿しか見えなかった。

 それから数分後、ルキアは自室として使っている客室の上等な毛布を運び込んできた。

「これなら腰に優しいと思いますし、自分としても安心です」

 どうぞ、と床のように固いそこに敷かれてトリシアは硬直するしかなかった。

 いかにも貴族の使う、上質な毛布。こんなものを使えるわけがない。

「る、ルキア様……無理です。お気持ちだけで嬉しいですから」

「いけません。無理をして明日の業務に差支えが出ては困るでしょう?」

 爽やかな笑顔にトリシアは空いた口が塞がらなくなってしまう。

「どうぞ使ってください。なんでしたら、自分が買い取りますから気兼ねなどいりません」

「ええ!」

「……その、寝ぼけたお詫びも兼ねているというか」

 うっすらと頬を染めてルキアは視線を外した。

「困らせたお詫びです。これくらいしか、思いつかなくて……」

 照れながら薄く微笑むルキアに、トリシアはぼーっとしてしまう。

 こんなに綺麗な少年が、これほどまでに自分を心配してくれるなんて……夢じゃないだろうか?

「い、いえ、でもこんな高価なもの……」

「では、貸す、という形でも結構です。存分に使ってください」

「使ってくださいって、ルキア様はどうされるのですか?」

「ゆっくり眠ったので、車内の安全を確認しようと思います。ラグと交替もしないといけませんし」

 そう言いながら彼は立ち上がって、「それでは」と会釈をして去ってしまった。

 部屋に不似合いな毛布は柔らかくてあたたかい。ルキアに感謝して、トリシアはその晩はゆっくり休むことにした。



 あまりに寝心地が良くて寝坊しそうになってしまった。トリシアは朝起きて、いつものように身支度を整える。

 毛布をルキアに返そうとするが、彼は受け取るだろうか……。無理そうな気がする。

 トリシアはとりあえずルキアの姿を探した。もちろん、仕事の休憩を使ってだ。

 彼は見知らぬ男と一等客車の食堂車で話していた。

(あれは……シモンズ様)

 二等客車の客がなぜここに?

 驚愕するが、顔には出さずにいると、ルキアがこちらに気づいてにっこり微笑んだ。

 シモンズが振り返ってこちらを見る。

「トリシア、よく眠れましたか?」

 柔らかくて優しい声。これほどまでに誰かに親切にされたことがないので、逆に困ってしまう。

「はい。あの、毛布をお返ししたいのですが」

「帝都に着くまでは使ってください。自分は別件で忙しくなりますから」

 するとシモンズがルキアに目配せする。ルキアは平然とした顔でトリシアを見つめていたけれど。

(別件?)

 様子からするに、シモンズがルキアに何かを持ちかけたと見たほうが妥当だ。

 このままここに居るのはまずい。トリシアは軽く頭を下げてそこから去った。


 定時通りにイズルの駅に到着し、盗賊たちの身柄は帝国軍に引き渡された。ルキアはまたここでも定時連絡をするためか姿を消した。

 買い物を済ませていたトリシアは、エミリと共に発車時刻を待つ。

「そういえば、二等客車のシモンズ様だけど」

 エミリの言葉にトリシアは反応してしまう。

「う、うん? なにか知ってるんですか、先輩」

「軍関係の方みたいよ」

「えっ……」

「ルキア様に何か頼みごとをしていたって聞いたわよ」

(…………また?)

 ルキアを頼るのが悪いわけではないが、みんな彼を頼り過ぎだ。

 顔をしかめるトリシアに、エミリは笑ってみせる。

「でもルキア様、断ったみたい。どういう内容か気になるわよね」

「……教えてくれませんよ。そういうところ、ルキア様は厳しいから」

「そうなのよねー」

 つまらなそうにエミリは洩らし、こちらをにやにやと見てきた。

「あんたになら話すかしら?」

「それはないと思いますよ」

 その言葉が当たっていた。

 戻って来たルキアは一切何事もなかったように過ごしていたし、シモンズもまた、彼に近づく様子はなかったのだから……。



 イズル駅を発車し、マハイア駅を経由して帝都『エル・ルディア』へと向かう。道のりはまだある。

 あともう少しで帝都だと思うと、前はあれほど気が楽になっていたのに、今は気が重い。なぜかはわからない。

 盗賊の監視から解放されたラグはルキアとよく食事を共にし、時にはトリシアにセイオンのことを語って聞かせた。

 マハイア駅に停車してから、ルキアの様子がまた変わったのに気づいたのはトリシアだけだった。

 彼はまた定時連絡をするために降車し、軍の駐屯地へと向かう。その際に、買い物に行くトリシアの護衛を買って出たのだ。

 とんでもないと拒否したのだが、彼はなんだか様子が変だった。なので、渋々、承諾した。

 交易が盛んなマハイアでは市場が並び、そこを見るだけでも楽しい。けれどルキアは買い物をするトリシアを眺めているだけで、何も買おうとはしなかった。

「ルキア様」

 声をかけると、彼は「はい?」と返事をするが心ここにあらずという感じだ。

「あの、なにか悩み事があるのですか? 私でよければ、私に話せることであれば聞きますが」

 思い切ってそう言ってみると、彼はちょっときょとんとしてから小さく笑った。

「いえ、シモンズという客を知っていますね?」

「はい」

「彼が、縁談を持ちかけてきたので断ったのですが」

 縁談?

 そんな話だったのかとトリシアは仰天してしまう。

「いえ、縁談は付随されたものであって、本題は違うのですよ?」

「はぁ……」

「…………」

 ルキアは少しだけ顔をしかめた。

「軍を辞めろと言われたので、ちょっと思案してしまいました」

「えっ」

「いい縁談があるから、軍を辞めろというのが……まぁ簡単な内容だったのですが」

「…………」

「なんでしょうね?」

 彼は小首を傾げて笑ってみせた。

「軍を辞めるつもりはないので断ったのです。ですが、色々と言われて多少混乱したというか……」

「色々、ですか」

「政治に疎いので、話の半分以上は理解できませんでした」

 さらっと言ってのけるルキアは、トリシアの持つ荷物に気づいて受け取ってくれた。持たせるなんてとんでもないと慌てたが、彼は取り合わない。

「自分は、なるべくして軍人になったと思うのですが……。彼はそうは思っていなかったようで」

「…………」

「『紫電のルキア』をもっとアピールするべきだとか……なんだか色々と……色々……」

 ルキアは笑顔のまま、言葉を少なくしていく。

「ただの軍人なんですけどね、自分は」

「…………」

 周囲が勝手に彼の人物像を肥大していく。本人はそれを理解できない。よくあることだ。

「トリシアから見てどうですか?」

「は?」

「自分です」

「…………」

「軍人でしょう? ただの」

「……はい。お優しい方だと思いますよ」

「優しくはないと思いますけど」

 ルキアは苦笑した。

「英雄になれると力説されましたよ」

「英雄、ですか」

「はい」

 もちろん、ルキアにはそんなものになる気は全くないのだろう。

 だがトリシアにはなんとなくわかる。ルキアほどの力があれば、彼を味方につければ絶大な力を得ることと同じだ。

 こうして考えれば、彼ほどの才能の持ち主が、悪意をまったく持っていないのは救いでもあった。

 悪用されれば一つの都市が簡単に滅んでしまうかもしれない。

「お疲れなんですよ、ルキア様」

 そう言って励ますしかない。彼はたくさんのことを聞かされて、考え、疲弊しているのだ。それに気づかなかった自分は迂闊だ。

 トリシアは買ったばかりの揚げパンを差し出す。

「私、マハイアに寄ると必ずここのパンを食べるんです。美味しいですよ」

「……いただきます」

 片手でひょいと受け取ると、ルキアはかじりつく。彼はパッと顔を輝かせ、にっこりと微笑んだ。

「美味しいです!」

「よかった……。あ、しょ、庶民の食べ物なんですけど……」

「気にしてませんよ。トリシアはそういうことをとても気にしますね」

 もぐもぐとパンを食べるルキアに、トリシアは言葉もない。だって自分は孤児で、彼は貴族だ。生まれた境遇が違うから、どうしても気にしてしまう。

 一人で生きていかなければとずっと思ってきて、その思いは今も変わらない。

「美味しければなんでもいいじゃないですか。甘い物は好物です」

「そうですか」

 少しでも元気になってくれたのなら良かった。

 トリシアは自分の分のパンにかじりつく。少し行儀は悪かったが、どうしてもルキアと一緒に食べたかったのだ。


**


 ルキアの言う「別件」というのは部屋の中の掃除だったらしい。

 彼は部屋にひきこもり、部屋に散らばった書類の整理をしていた。

 機密の文書もあるのでトリシアには手伝うことはできないし、彼女に手伝わせる気もなかった。

(…………)

 ルキアは室内でトランクに書類を押し込めながら、不思議になる。

 シモンズに力説されたことがあれほど響くとは思わなかった。

(英雄)

 『紫電のルキア』である貴方こそが、英雄に相応しいと何度も言われた。

 自分は一介の軍人で、軍職に就いてはいるが子供なのだ。なぜあれほど興奮するのか、ルキアには理解できなかった。

 民のために戦うことが愚かしいとまで言われた。軍律を重んじるルキアにとっては厳しい言葉だった。

(トリシアに弱音を吐いてしまいました……)

 情けない。未熟者。

 ルキアに駆け引きは通用しない。彼は額面通りに言葉を受け取り、そしてそのまま認識する。だからこそ、わけのわからないことを言われるのは彼の精神を疲弊させるのだ。

 シモンズに提示されたのは、自分の縁者にいい娘がいるので紹介する。その際に、ルキアにとって利益となる部分を説明された。

 軍人なので、功績をあげなければ階級はあがらない。殉職でもすればあがるだろうが、まだ死んでいないのでそれもない。

 わけがわからなかったルキアはシモンズに説明を求めた。すると、その縁者の娘の父親は軍に顔がある程度効き、不都合なこともだいたいはもみ消せるという。

 ……単刀直入に言うと、そういうことらしい。もっと遠回しのことを言われたが、ルキアはそう理解した。

 そういう裏の取引がないとは言えない。公明正大であることは大事だが、そうはいかない者もいるだろう。

 ルキアは自分と同じようにあることを他者に求めたことは一度もなかった。だからこそ、嘆願書も自ら進んで引き受けているし、階級が下のものに任せることもしない。

 自分と他人はチガウモノだとわかっているからこそ、同じものを求めはしない。

 自らに後ろめたいことなどないのだから、ルキアにとってはまったく魅力的に見えない提示はすぐさま却下された。

「必要ありません」

 と跳ね除けると、今度は『紫電のルキア』をアピールして、力を誇示することを求められた。つまり、シモンズの策に乗って、英雄を作り出す算段を取ろうという話だ。

 今でこそ、皇帝直属『ヤト』にいるルキアだが、その前は普通の軍人として過ごしていた。色々権限が与えられる『ヤト』にはありがたいとは思ったが、これ以上のものを欲しがる必要性がない。

 『ヤト』に配属される前にいた部隊では、確かにルキアは小さな内紛によく行くことがあった。そこで活躍をしたため、勝手に『紫電のルキア』と名づけられて、いつの間にかそれが広まってしまったにすぎない。

 戦争で疲れ切った民を鼓舞し、士気を高める役目としてなら「英雄」というものは必要だろう。だがそこそこ安定している今の情勢で何を言っているのかとルキアは不思議になった。

 シモンズは、結局は権力を握りたかったのだ。ルキアという存在を媒介にして。

 通常なら、シモンズはルキアを策略にはめて軍職から外れさせることもできるだろう。だが『ヤト』にいるルキアにそれは通じない。

 誰も知らないことだが、『ヤト』に所属する者はみな、契約を受けさせられる。皇帝を決して裏切らないことだ。そしてその命令を遂行すること。

 契約は帝都に戻ってから『確認』をされる。『ヤト』はみな、首輪をつけられているようなものなのだ。

 契約を破るような行為をしていればすぐにことは露見する仕組みになっており、それは場合によっては死に直結する。

 機密なのでシモンズに話しはしなかったが、真面目にシモンズの話を聞いていてもルキアは彼の説明することが……やはりよく理解できなかった。

「あなたの言っていることが、自分にはほとんど理解できません。英雄を民が必要にしているとは思えませんし、自分が有名になる意味もわかりません」

 結局、そんな答えしかできなかった。

 シモンズはルキアを恨みがましく見てきた。他者からのそういう目や、気持ちは多く感じることなので気にはしないが……。

(……なんでしょう)

 ざわり、と心が動いた。

 いつもなら、なんということもないのに。

 直前に食堂車にトリシアがいたのもタイミングが悪かった。誰にでも公平に接してきたルキアだが、彼女だけは気に入ってしまったのだ。

 そして予感は当たった。シモンズはトリシアに対して嫌がらせをしようとしていたのだ。だから……マハイア駅では彼女の護衛を買って出た。

 車内でことを起こせば犯人が誰かわかるし、乗務員の結束はかたい。市中でなら、彼女を拉致するのも簡単だろうし……犯罪をおかすことも容易い。

 見張りについていたルキアは、トリシアが買い物をしている間、ぼんやりとシモンズに言われたことを反芻し、彼の動向を探っていた。

 トリシアは気づきはしなかったが、シモンズに金で雇われたであろうならず者たちはルキアが気絶させて軍へと引き渡した。

 それは彼女が買い物に夢中になっているほんの数秒のうちに、やってのけたことだ。

 そっとトリシアから離れて、彼女をつけ狙っている者たちを気絶させて近くの兵士に引き渡すのは簡単なことだった。ならず者たちは、いきなり現れた子供に驚いて油断していたし、まさかものの数秒で気絶させられるとは思ってもいなかっただろう。

 彼女が気づかないうちに元の位置に戻り、どうするかと悩んだ。

 ルキアは画策に向かない。だから列車に戻ったあと、ハルの助けを求めることにした。

 地学者であるハルは最初は嫌な顔をしていたが、必死に頭をさげて頼むと了承してくれて、シモンズに対抗するすべをくれた。

 陥れるのが一番簡単だとハルは言っていたが、ルキアとすれば難しい課題になる。 

 結局のところ……身近にいてトリシアを守るのが最適だという結論に至って、ルキアはトランクの上に腰掛けて頬杖をついた。

 帝都にいる間もシモンズは狙ってくるかもしれない。それとも、一度限りの気まぐれとトリシアを放置してくれるならいい。

(……帰ったら少佐にも相談してみましょうか……)

 とりあえず、トリシアを説得して帝都にいる間は自分の屋敷で過ごしてもらうことにしよう。それが彼女の安全のためだ。

 自分の考えなしの行動がこんなことになるとは思ってもみなかった。ルキアは反省すると同時に、迷惑をかけた彼女の安否を思った。


 そして帝都『エル・ルディア』に到着する――――。



《帝都、エル・ルディア~、エル・ルディア~》

 帝都に相応しい豪奢な駅内でのアナウンスに、『ブルー・パール号』に乗っていた者たちは次々と降車していく。

 一仕事を終えたトリシアは、降りていく客を見送る列に並んでいた。

 ハルはさっさと降りて、すぐに駅内の人込みに紛れてしまった。せっかく貴重なトリッパーに会ったというのに、話す機会がそれほどなくて残念だった。

 ラグはルキアと共に降りてきて、何かの地図を片手にルキアと言い合っていた。途中で納得して、力強く頷くと、少ない荷物を肩にかけて颯爽と歩いていった。

 これで旅はひとまず終わる。乗務員用の宿舎へ行くのには、車内に置いてある荷物をとってこなければならない。

 みんなを見送ってから、トリシアは自分にあてがわれている部屋に入って、トランクを取り出した。小さくて古いが、お気に入りのトランクだ。

「エミリ先輩、は……もう行っちゃったのか」

 隣の部屋を見てもがらんとしていたので、トリシアはちょっびり寂しくなった。だがまた数日もすれば、この列車の準備が整えばその寂しさも消える。

 なによりエミリとは宿舎も同じなので、また後で会えることがはっきりしていた。

 降車しようとしたトリシアは、背後からジャックに呼ばれて振り向く。

「トリシア!」

「は、はい?」

 どうしたんだろう? 車掌自らが自分に何か用事だろうか?

 もしかして……次の旅には乗せないとかいう……。

 最悪のことが思い浮かび、思わず口元を引き締めて青くなってしまう。

 けれど、予想とは違うことをジャックが言った。

「馬車の乗車位置は知ってるな?」

「え? はい。もちろんですが」

 乗合馬車に乗って、宿舎に向かうのだから当然だろう。なにをおかしなことを言うのだろうか?

「ルキア様がそこでお待ちだ。おまえに用があるそうだから」

「は?」

 大きく目を見開き、トリシアはわけがわからないという表情をしてみせる。だがジャックは有無を言わせずにトリシアの背中を押して、列車から降ろした。

「今回、ルキア様にはたくさん助けていただいたからな。よろしく伝えておいてくれ」

「は? ええ? 車掌! どういうことですか! なんでルキア様が私を……」

「それは知らん。とにかく早く行け。待たせるな」

 怒鳴るように言われてトリシアは混雑する人込みの中、早足で歩き出す。

 ざわめく人波に押されながら前へと進んで、馬車が待つ外へと向かった。


 乗合馬車とは違って、賃金を払って目的の場所まで運んでくれる馬車がある。つまり、ある程度の貴族か金持ちしか使えないものだ。

 そちらのほうで小柄なルキアが待っているのが見えた。周囲から目立ちまくっている彼は好奇の目で見られており、トリシアは慌ててしまった。

 駆け出して、ルキアの元へと急ぐ。

「る、ルキア様……! 私をお呼びだったそうですが……、な、なにかっ?」

 用事なら早く済ませて欲しい。そう願いながら息切れする中で問うと、彼はくすりと笑った。

「恩返しをしようと思いまして」

「はあ?」

「毛布も返されてしまいましたし、他の恩返しが思いつかなくて」

「な、なにを言って……?」

「とにかく乗ってください」

 すっと手を取られたと思ったら、あっという間に馬車に乗せられていた。彼もすぐに乗り込んできて、バタンとドアを閉めてしまう。

 いきなりのことに困惑し、トリシアはトランクをぎゅっと胸に抱いて彼を凝視した。

「なにをするんですか、ルキア様!」

 これでは拉致だ!

 いくら平民とはいえ、貴族にそんな風に扱われる筋合いはない。ここは強く出なければ。もちろん、逆らってもこちらにいいことはないのは承知のうえだ。

 ルキアはきょとんとし、小首を傾げた。

「ジャックには説明したのですが……。あなたの同僚にも許可をとりましたし、組合のほうにも手はずは整えておきましたが……」

「? なんのことです?」

「あなたの、今回の帝都での滞在場所に関してです」

「……いつもの宿舎ではないのですか?」

 もしややはり解雇?

 ゾッとしているとルキアは小窓の外を眺めつつ、笑みを浮かべた。

「小さくて狭いですけど、快適な暮らしともてなしを提供しますよ、トリシア」



(あ~、なんでこうなっちゃったんだろう……)

 ルキアに押し切られる形だったので承諾してしまったが、やはり場違いだった。断ればよかった。

 そう何度も馬車の中で思ってしまったが、目の前の席に座るルキアが楽しそうに笑顔を浮かべているので、切り出そうにも……できなかったのだ。

 乗合馬車ではなく、専門の馬車に乗るなんてこと、人生にあるかどうかわからない。緊張して胃が痛くなってくる。

 それに……これから行く先はファルシオン邸なわけで、彼の両親が居るのは間違いなかった。帝都『エル・ルディア』で暮らす貴族の数は多い。

 それほど便利にできている帝都ではあるが……。

 がたん、と軽く揺れて馬車が停車し、トリシアの考えは中断された。

(とうとう着いた……)

 荷物のトランクをぎゅっと両腕で抱きしめていると、馬車のドアが開かれて御者がルキアに目配せしてきた。

「ありがとうございました」

 彼は賃金を渡してさっさと降りてしまう。慌てて腰を浮かせるトリシアだったが、ルキアは去らずに出口で待っていてくれた。

「さ、お手をどうぞ」

 さらりと言われて、トリシアは動きを止めてしまう。貴婦人のように扱われたことなど、一度もない!

 顔が赤くなり、トリシアはそっとルキアの手をとった。小さな彼にエスコートされて、馬車を降りる。普段着の自分が似つかわしくない屋敷の前で。

 思っていたよりも屋敷は大きくなかった。少人数で手が足りる程度の庭園しかないし、よく見れば菜園もある。

(え? え?)

 もっと豪華なものを想像していたトリシアは困惑してしまうが、ルキアが「どうぞ」と言うので歩き出した。

 彼の半歩後ろをついて歩き、周囲を観察してしまう。

 下級貴族とはいえ、貴族なのだから使用人はそこそこ多いのだろうし、そうであれば屋敷は必然的に大きくなる。

 だというのに……。

 連れて来られた場所は帝都の貴族が住むには辺鄙な場所で、屋敷も……ペンションとまではいかないが小さなものだ。

「小さくてびっくりしましたか?」

 ルキアの問いかけにトリシアは飛び上がらんばかりに驚き、「はぁ」と曖昧な返事をした。

「大きすぎると、母の手に余るそうなのでこのサイズなのです」

「……?」

 手に余る? どういう意味だ?

(ルキア様って貧乏……な、わけはないわよね。軍職なのだから、給金はいいはずだし……)

 不釣合いな屋敷の様子におどおどしてしまうと、庭園の隅の菜園のほうから「ルキア~」と声がかかった。

 農夫? とトリシアが怪訝そうにしていると、まだ若い男性がバケツを片手に水撒きをしていた。顔立ちも良く、明らかに育ちも良さそうだが……なぜ泥に汚れている?

「あ、父です」

 ルキアの紹介にぎょっとして目を剥くと、ルキアの父という男は麦藁帽子の下から「あれぇ」と声を出していた。

「どこの娘さんだい? 珍しい。今日は雹でも降るかな」

「トリシアです。『ブルー・パール号』の添乗員をしているのです。列車で、大変お世話になったので恩返しをしたくて連れてきました」

「へえ~」

 ……それだけ?

 トリシアは大きく頭を下げた。

「あのっ、トリシアと申します! 『ブルー・パール号』ではルキア様に大変ご迷惑をおかけして……」

「ああ、挨拶は晩餐の時でいいから。ルキアが女の子を連れて来るのが珍しくてねぇ」

 のん気にそう言いながら、ルキアの父親はこちらに歩いてくる。

 近づけば近づくほど、トリシアは冷汗の量が増した。

「うちはあんまり貴族っぽくないから失望しちゃうかもしれないけど、気兼ねはしなくていいからね」

「そ、そういうわけには……」

「ルキアが世話になったのだから、我々ももてなすのは当然のことだ」

 にっこりと笑うルキアの父は、そのまま空になったバケツを持って、屋敷に入っていってしまった。

 呆然としているトリシアに、ルキアは笑ってみせた。

「大らかなのが父の特徴というか……。菜園も父の趣味なのです」

「…………」

「さ、では屋敷のほうへ」

 ぎくしゃくしながらついて歩くトリシアは、考えがまとまらなかった。

 なぜ貴族の、ファルシオンの家の主が農夫のようなことをしているのだ? 何が起こっている?

 屋敷の扉は開かれたままだったので、ルキアが先に中に入る。

 ごくりと喉を鳴らして中に入ると、目を瞠るような高価な品物など一切なく、趣味が良いと思われる調度品ばかりが置かれているのが見えた。

 絵画も壷も、邪魔にならない程度だし、品もいい。

「おかえりなさいルキア。それに、いらっしゃいトリシアさん」

 出てきたのは…………家政婦?

 エプロンをしている若くて美しい女性はルキアにとてもよく似ている。髪の色は彼女からの遺伝では、と思った時、雷に撃たれたようにトリシアはその場で固まってしまった。

 家政婦ではない! 彼女はきっとルキアの母親だ!

(う、うそ……なにこの家……)

「ちょうどお菓子を作っていたの。お口に合うといいんだけど」

 そう言って柔らかく微笑む女性をルキアが「母です」と、思った通りに紹介してきた。

 トリシアは目眩がしてきて、けれどもなんとか踏ん張る。

「トリシアです。初めまして、奥様」

「やだわぁ、奥様だなんて」

 照れるルキアの母は、ルキアに何か言ってからそそくさと立ち去ってしまった。

「ではトリシア、滞在する部屋へ案内しましょう。二階になるのですが、客間として使っている場所があります。そこになるのですが……」

「ルキア様」

「はい?」

「あの、使用人の方たちはどこへ……。地下、でしょうか?」

 使用人たちはだいたい地下に住むことが多い。客がきた時に目に入らないように過ごすためだ。

(お願いだから、私の予想を裏切ってくれますように!)

 そんなことを願いながらルキアの言葉を待つ。

 彼は笑顔で振り向き、

「いませんよ、そんなもの」

 と言ってのけた。トリシアは絶句して、予想が当たったことに目眩を起こしてその場で倒れた。



 ファルシオン邸はそれなりの貯蓄もあるのに、余計なことに一切お金を使わないのだそうだ。野菜も自分たちで育てて食べているし、自由に過ごすことのほうが重要視されている家風らしい。

 晩餐に呼ばれたのはいいが、ドレスも用意されてはいるが……トリシアはどうすればいいのかわからず、用意された部屋の中を行ったり来たりしていた。

 まず、ドレスは着ることができる。着たことはないが、添乗員としてできるようになっておかなければ、貴婦人から要望があった際に手伝えないからだ。

 だが着たことのないものを着るのは抵抗がある。そもそも自分は晩餐をどうやって乗り切ればいいのかわからない。

 控え目なノックがして、「はい!」と返事をするとドアが開いてルキアが顔を覗かせた。

「あれ? 着替えてませんね。ではその格好で行きますか?」

(ギャー!)

 心の中で悲鳴をあげてわなわなと両手を動かすトリシアに、彼は無邪気に近寄ってくる。

「む、無茶言わないでくださいっ! ば、晩餐ですよ? きちんと正装しないと……!」

 呼吸困難になりそうだ。息が苦しい。

 トリシアがそう言うと、ルキアは首を傾げた。

「我が邸ではそんなことは気にすることはありません。そのまま行きましょう」

「でっ、でも!」

 こんな、平民の……一番自分の持っている服では上質だが……ドレスには敵わない。

 ルキアはトリシアの手を握る。

「大丈夫。ほら、自分だって軍服のままでしょう?」

 言われてみればそうだ。

「ルキア様、なぜ着替えないんですか?」

「え? だって食事をするだけですよ?」

「………………」

 ここには貴族の常識は通用しないのかもしれない。

 トリシアはルキアに案内されて、広間へと案内された。そこにはテーブルが用意されていたが……やたらとカントリー風だった。

 ルキアの父と母は身なりは整えていたが、トリシアの格好を見ても何も言わない。むしろ「ようこそ!」と笑顔を向けてきた。

(え? あれ? 普通はもっとこう、テーブルが広くて長くて……距離があるものじゃ……)

 予想していた晩餐と違うので戸惑うが、ルキアに椅子を引かれてそこにすとんと腰をかけてしまう。

「あ、食事は母の作ったものなんですが、大丈夫ですかトリシア」

「おっ、奥様が!?」

 仰天してしまうトリシアだったが、使用人がいないのでそれはそうだろう。

 だからこんなにカントリー風なのだ。手作りのパンの乗せられたカゴ。スープやその他の料理は全部ファルシオン婦人が作ったものなのだろう。

「あたたかいうちに召し上がれ」

 婦人の言葉に恐縮しながら、トリシアは気遣いに感謝した。ナイフもフォークも1つずつだ。ずらりと並んだそれぞれのナイフやフォークを扱うような、肩の凝る場ではない。

 夫妻はルキアが若い娘を連れてきたことにことさら興味津々で、トリシアに色々と訊いてきた。トリシアは言葉に詰まることも多かったが、それでも余計な緊張をしなくて済んで安心して過ごすことができた。


 『ブルー・パール号』の次の発車準備が整うまでの間、トリシアはファルシオン邸に滞在することが完全に決定されてしまった。

 婦人の手伝いをして、屋敷の掃除をしたり、料理をするのは楽しかったし、本当にここは居心地がいい。貴族の屋敷とは思えなかった。

 ルキアは部屋で書類と格闘し、ほとんど姿を見かけなかった。婦人の話では、始末書や報告書が山のようにあるので屋敷にいる間はこもりっきりなのだそうだ。

 そして3日も過ぎた頃、客人が現れた。男は封書を……ルキアに召集命令を持って来訪した。



 封書を受け取ったルキアは開襟の襟付きシャツ姿で、軍服の下に着ていたような衣服だった。まさかと思うが……面倒なのでいつもこういう格好なのだろうか?

 書類とにらめっこをしていたルキアは、封ろうのついた手紙を見てから軽く笑った。

「『ヤト』の召集ですか」

 ヤト?

 それは彼の所属しているところだったはずだ。

 手紙を持って来たトリシアに「ありがとう」と礼を言うと、彼は机の上の書類を一瞥したあと、卓上の時計を見た。

「今晩には少佐が迎えに来ますね」

 そう独り言を呟き、彼は立ち上がった。

「出かけます。父と母にはそう伝えてください。あ、少佐が来る、と言えばわかりますので」

「はい」

「すみません。滞在しているトリシアをもてなしていないですね、自分は」

「いえ。お仕事ですから仕方ないですし、とても良くしてもらっていますので」

「ははっ。そう言ってもらえると気分が違いますね」

 爽やかに笑ってみせるルキアは、壁にかけてある軍服に手を伸ばした。

 まさか……。

「……ルキア様、まさか……そのまま軍服を着て、出掛けられるのですか?」

「出る前に湯にはつかりますよ」

「そ、そうではなく……! 髪を、結ったりとか……その、外套とかは……」

「? そういうことはしたことがありませんけど」

「っ!」

 帝都の会議でもそうなのか!

 トリシアはぐっ、と唇を噛んで一歩前に出た。

「ここでお世話になったお礼をしたいと思います! 今晩のお出かけの準備、私に任せていただけませんか?」

「……いいですけど。あの、気にしなくていいんですよ? トリシアは客人なのですから」

「そうもいきません!」


 ルキアを風呂にいかせて、出てくるまでの間に外套を探す。クローゼットの中にあった外套は汚れもついておらず、新品同様だった。……ほとんど着ていないせいだろう。

 ルキアの部屋にある勲章を、あまり印象を悪くしないようにと外套につけて、整える。

「よし!」

 トリシアは浴室から出てきたルキアにアイロンがけをしたシャツを用意して待つ。彼は用意された衣服を着て出てきたが、そのまますぐさまトリシアに引っ張られて部屋へと連行された。

「わわわっ」

 部屋に引っ張り込んで、今度は椅子に座らせると、櫛を持って長い髪を梳いた。

 水を含んでいることに気づいて、トリシアはすぐさまタオルで水気をとる。彼はされるがままだったが、文句も言わない。

 丁寧に櫛で髪を梳いていると、羨ましくなる。トリシアはくせのある髪をしており、ルキアほど真っ直ぐではない。うらやましい……本当に。

 目立たないようにと華美なものを選ばずに髪留めで結ぶ。手際は鮮やかだった。

「ふふっ」

 ふいにルキアが笑ったようで、トリシアは不思議そうに彼を背後から見た。

「いえ、すみません。どうにも、くすぐったいというか……楽しいというか……」

 くすくすと笑うルキアを立たせ、背後から外套を羽織らせる。紐できゅっと縛ると、左右非対称の外套が不思議なことに綺麗に留まる。

「終わりですか?」

「はい。終わりました」

 トリシアが頷くと同時に彼は振り向いた。

 長い髪が綺麗に結われ、まるで別人のように見える。ルビーのような赤い瞳に、金縁の片眼鏡がよく映え、アイロンがけされたシャツの上には白い軍服もきちんと着込まれている。

 出来栄えに驚いたのはトリシアのほうだった。

 唖然、としてしまう。ルキアはこんなに美人だったのかと再確認してしまった。

(か、かっこいい……)

 可愛らしい印象ががらりと変わり、ぴしりとした緊張感のある小さな軍人に彼は成っていた。

「外套を着るのはどれくらいぶりでしょうか。よく場所がわかりましたね」

「婦人から教えていただきましたから」

「…………」

 ルキアは着慣れない格好に少々戸惑っているようで、嘆息した。

「……少し、息苦しいです」

「我慢してください。召集ということは、軍会議ではないのですか?」

「その通りです」

「ではその格好でご出席ください」

「なぜですか? いつも、こんな格好はしませんよ?」

 それはあなたが無頓着だからです、と口に出そうになるがぐっと堪えた。

 トリシアは頬を少し赤く染めた。

「とても今の姿が似合っておられますので、ぜひ。私の見立てではご不満ですか?」

「不満なんてありませんよ」

 とんでもないというようにルキアは片手をぶんぶんと振った。そして照れ臭そうに微笑する。

「本当に……トリシアは良いご婦人ですね。客人としてもてなす側の自分にこんな風に……」

「いえ、私が個人的にしたことですので」

「あ、見送りは結構です。食事の時間に迎えが来ますので」

「え、で、でも」

「あなたは客人。使用人ではありません」

 ルキアがふっと微笑むと、トリシアは恐縮しながらも顔を赤らめた。

 素敵な軍人に彼はきっと成長することだろう。そしてきっと、その傍らには、自分ではなく、相応しい貴族の若い娘が居るはずだ。

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