表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

プロローグ


 今日も独特の揺れで目が覚める――。


 薄手の、上質ではないカーテン越しに太陽の光が差し込んでいる。

 トリシアはいつもの時間に目を覚まし、二度ほど瞬きをして上半身を起こした。

 使っているタオルケットも上質とは言えず、使い古してぼろきれのようになっている。それでもトリシアは文句など言わない。

 手早く支度をし、慌しく乗員の集まる一室に向かう。揺れは細かく続き、トリシアは慣れた動きで歩いた。

 ここは弾丸ライナー「ブルー・パール」号の中。現在、帝都「エル・ルディア」に向かっている最中だ。



 帝国政府の政策により、13歳以上の者は職業登録をすること、となっている。そのため、一度は誰もが職に就くが、長続きするかどうかは本人次第だ。

 職業斡旋の組合によって、孤児だったトリシアも教会から就職した一人だ。現在の年齢は17歳。見習いとして3年勤めて、現在は添乗員として1年経過している。それでもまだまだ至らない点があるので、反省することも多い。

 列車の旅は苦にならないので、トリシアにはこの職業が向いていた。多くの箇所を旅する、というのも彼女は好んでいる。

 世界のあちこちに、人間の血液と同じように根を張っているレール。その上を走るのが、異界からもたらされた技術の一つ「列車」だ。

 列車は魔術によって稼動しており、各駅でエネルギーを魔術師が補填する。

 中でも、長距離と速さで有名なのが弾丸ライナーだった。弾丸ライナーは最速の列車とうたわれるのも真実だからこそだ。

 弾丸ライナーは荒野の続く世界をずっと旅している。ブルー・パール号もその一つだ。

 世界の大地の半分以上は荒野に飲み込まれ、人は、その荒んだ大地を嘆いた。荒野には獣がうろつき、人は傭兵なくしては旅ができない。だからこそ、列車を使う者が多いのだ。

 荒野をうろついている獣たちはみな獰猛で、人間の血肉を好む。貧しい旅人は傭兵も雇えず、徒歩の旅では死を受け入れる覚悟をするしかない。

 だからこそ、自分は恵まれているトリシアは思っていた。きちんと寝床を与えられ、職に就き、衣食住に困ることもない。

 ブルー・パール号の職員たちが集まっている一室にやって来たトリシアは、素早く息を整え、引き戸を開けた。重い引き戸の向こうでは、早起きの者たちが揃っている。

 伝達がおこなわれ、今日も1日が始まる。

 トリシアの仕事はそれほどない。添乗員としての彼女は、補佐に専念している。なにせまだ正式な添乗員としては1年しか経っていないのだから。

(えーっと、今日のお仕事の手順は……)

 あれこれと思い返していると、ふいに横の客室扉が開いて誰かが出てきた。

 ぬっ、とした黒い影にトリシアは驚いて足を止める。長身で細身の青年は、こちらの視線に気づいて顔を向けた。

 傭兵ギルド「渡り鳥」の紋様が大きく描かれた黒い外套で全身をくるんでいるような印象を受ける。褐色の肌に、白い髪。この外見特徴は、南の島々「セイオン」特有のものだ。

 しなやかな肉体はどこか獣のような素早さを思い描かせたが、それよりも、その肉体のあちこちに黒い包帯が巻かれているほうが気になった。

(……封印の包帯?)

 薄い金色の糸で縫われた魔術文字を、トリシアは知っている。読み書きは一通りできるし、魔術文字もある程度は習っているのだ。

 青年の全身を覆う黒い包帯には魔術文字が縫われ、なにかの秘密を匂わせた。

 彼はトリシアを数秒見てから、にこっと愛想の良い笑みを浮かべる。笑うと幼くなり、トリシアとほとんど年齢が変わらないように見えた。

「……食堂車、もう開いてる?」

 尋ねられた事柄に、トリシアは瞬きをし、慌てて頷いた。

「はい、用意できております、お客様」

「…………お、客」

 呆然とする青年は、またにこにこと笑顔を浮かべた。

「そうだった。なんか、照れる」

「…………」

 変な客。

 そう思いつつ、トリシアはお客様用の笑顔を浮かべていた。三等客室にいるということは、この青年はそれほど裕福ではない。

 傭兵ギルドに所属しているということは傭兵だろうが、セイオン出身ならば腕もいいだろう。セイオンは身体能力が高い者が生まれるというから。

「ありがとう」

 そう礼を述べて自分の横を通り過ぎる青年を、トリシアは不思議そうに見てしまう。あまりじろじろ見ると失礼にあたるので、視線はすぐに逸らした。

 まるで大きなカラスのようだ。それなのに、嫌な雰囲気がない。

 三等客室が並ぶ場所から、二等客室の並ぶ場所へと行くと、そこでも妙な客とかち合った。

 弾丸ライナーを使う客はよほどの金持ちか、急用がある者がほとんどだ。だから客とはあまり接触しないようにしている。

 二等客室では、イライラしたように懐中時計の蓋を開け閉めしている男がいた。

 平均的な体格ではあるが、顔立ちは整っている。茶色の瞳と髪からして、トリッパーではないかとトリシアは思った。

 トリッパーとは、異界からこの世界へとやって来る異邦人の総称である。彼らは新たな技術を運んでくるため、「幸運の種」として政府が身柄を保証しているが、身分はあってないようなものだ。

 異界からの扉をくぐる際に、肉体に変調をきたすのが通例のため、この男もきっとそうなのだろう。一見、学者風の装いをしているが、学者ほど身なりに無頓着ではないようので、違うはずだ。

 こちらに気づいた男は眉間に刻んでいた皺をもっと深くし、ぷいっと顔をそむけてさっさと部屋へと戻ってしまう。

 展望室から外を見ていたはずなのに、景色に不愉快なものでもあったのかとトリシアは外を覗いた。……べつだん、変わったものはない。いつも通りの景色だ。どこまでも続くと思われる荒野だ。

(……帝都まではまだ数日かかるのに、せっかちなのかしら?)

 うーんと唸り、トリシアは一等客室へと向かう。今日はそちらに行って、掃除をすることになっていたのだ。

 一等客室へ行くための引き戸を開いた瞬間に、胸元にどんっ、と何かがぶつかってきた。

「うわっ」

 びっくりして思わずそう声をあげ、尻餅をつきそうになるが、腕をつかまれた。

 驚いて瞬きを繰り返して、腕を掴んだ相手を見遣る。そこに、妖精がいた、等身大の。

 ぎょっとして慌てて姿勢を正したトリシアに、妖精は微笑みかけてくる。

 美しい顔立ちに、淡い青色の長い髪。燃えるような赤い瞳に、金縁の片眼鏡をつけ、帝国軍の軍服を着ているのは、トリシアよりも幼いであろう小柄な少年だった。

 少女のような顔立ちと体格ではあるが、先輩添乗員たちから聞かされていたため、トリシアからはすぐに男と認識できた。

 彼が、帝国軍の魔法部隊の一人であることは、もうブルー・パール号の職員たちに知らぬ者などいない。

「大丈夫ですか?」

 声まで綺麗だとトリシアが唖然とする。世の中は不公平にできているとは思うが、ここまで揃っていたら、羨ましいどころか天上の天使にしか思えない。

「大丈夫です、お客様。失礼しました」

「そうですか」

 丁寧に微笑する彼は手を離し、また微笑んだ。とろけるような甘い笑みに、トリシアは圧倒される。

 帝国軍人、ルキア=ファルシオン。「紫電のルキア」という別の名で呼ばれることの多い彼は、皇帝直属部隊「ヤト」の一員だ。

 この若さで、と誰もが口にし、また噂の真偽に踊らされる者も多い。トリシアも、目にするまでは信じていなかった。これほど幼いとは。

 本物だろうかと、今でも思ってしまう。それほどまでに、彼は背も低く、華奢だった。

「今日もいい天気ですね。帝国へは定時通りに到着しそうですか?」

「はい、お客様。ブルー・パールは定時通りに帝国帝都、エル・ルディアに到着いたします。

 途中、エキド、イズル、マハイア、の大きな駅にも停車いたしますので、御用がありましたらその際にお願いいたします」

「…………」

 きょとんとする彼は、楽しそうにすぐに微笑した。

「そんなにかたくならなくても良いですよ。自分は、ただの一介の兵士ですから」

「そういうわけにはまいりません」

「……そうですか。お仕事、頑張ってください」

 柔らかく言われて、腰砕けになりそうになる。トリシアはルキアを見つめて、すぐに頭をさげた。

 嫌味、で言われたわけではないようだ。裏がありそうには見えない。

 ルキアは一等客室の食堂車に向かったようだ。付き人もいないようなので、何かの任務で遠征に出ていたのだろう。

(ルキア様ほど強い魔術師ならば、あちこちから要請がきてもおかしくないものね)

 噂が本当だとすれば、彼は帝都の魔法院を最年少で卒業し、軍に就いたことになる。かなり怪しい。

(すごい魔術師様には見えないのよねぇ……)

 綺麗なただの子供だ。噂が大きすぎて、めまいがしそうである。

 掃除道具を取りに行き、トリシアは掃除を手早く開始した。



 くすんだ金髪に、青い瞳。それがトリシアの見た目だった。どこにでもいる、人間の特徴。

 つまり、彼女は平凡だった。それほど美しくもなく、特出した技能もない。身分も平民で、しかも孤児。

 大陸のほとんどを支配している帝国でも、さほど珍しくない境遇なので、悲観することもなかった。

 教会に拾われたトリシアはファミリー・ネームがない。ただのトリシアだ。

 ファミリー・ネームがないことで、おおっぴらに孤児だと言っているようなものだが、仕方がない。本当のことなのだから。

 せっせと掃除をしながら、トリシアは展望室から外を眺める。まだ荒野は続いていた。

 ある時を境に、世界は荒野が爆発的に広がり、そこに住む獰猛な獣たちに村のほとんどは潰された。

 凶暴になる一方の獣たちに困り果て、できたのが傭兵ギルドだ。それまでは、登録制にはなっていなかった。

 列車をおもな移動手段とするこの世界ではあるが、海の広がる場所にある島だけには船で行かなければならない。

 だが列車ほど発達していない船は小ぶりになり、転覆する恐れがかなり多いと聞く。

 南の、小さな島が連なる地域はセイオンと呼ばれ、傭兵が多く出ている。身体能力に優れたセイオンの男や女たちは、大抵が傭兵ギルドに登録し、旅人の護衛をしたり、貴族の屋敷の護衛となる。

 セイオンの者たちは外見特徴があり、トリシアにも一目でわかった。彼らは少数民族の集まりで、本土と呼ばれる帝国支配化の大地でも目立つ存在だ。

 三等客室に泊まっていた、人懐こい笑みを浮かべる青年を思い出し、トリシアはフーンと呟く。

 封印の布を使っているワケありの客……。関わらないほうがいいだろうが、彼が帝都まで行くのなら、しばらくは顔を見てしまうかもしれない。

 二等客室にいた若い男のこともついでに思い出してしまって、首を傾げた。

 あの客は、間違いなくトリッパーだろう。異界の住人は、黒髪か茶髪がほとんどで、帝国人とは肌の色も違う。

 白い肌が特徴の帝国人や、セイオンの民族とはまた違い、そのうえ希少種のせいで、ほとんど見かけたことがない。

(異界かぁ……。どんなところなのかしら)

 それに、トリッパーならば、肉体か精神が破損し、変質していると聞いたことがある。

 あの男は見た目にそれほど変化はなかったので、もしかしたら……案外まともかもしれない。トリッパーなど会ったことがなかったので、興味はわいた。

 ただ、とっつき難そうな態度だったので、苦労はしそうだ。

 癖のある客が多く利用する列車だが、今回はとびきり癖がありそうな乗客ばかりだ。

 軽く溜息をつき、トリシアはガラス越しに見える自分の平凡な顔に微笑んでみせた。



 一等客室の食堂では、大人しくルキアが食後のお茶をとっているところだった。

 彼はこちらに気づき、また微笑んでくる。いつも笑っているような印象だった。

「また会いましたね」

「はい」

 堅苦しい口調で応えると、ルキアは困ったように眉を寄せた。

「なぜ皆、自分に対してそういう態度なのでしょうか……。自分は名門貴族でもないですから、遠慮は無用です」

 貴族出身なのは本当のはず。つまり、トリシアなど普段は口もきけない存在なのだ。

 卒倒しそうな表情になっていると、ルキアはまじまじと見つめてきた。

「お歳は幾つですか?」

 なぜ……そんなことを尋ねるのかわからない。困惑してしまうトリシアだったが、素直に教えることにした。

「今年で17になりました、お客様」

「そうですか。自分よりも3つ年上なのですね」

 ……14歳にしては、かなり小柄だ。そう思う。

 美しい少年は紅茶を飲み干して、ソーサーの上にカップを戻した。飲み方も優雅で、軍人の不器用さは微塵もうかがえない。

(さすが貴族ね……。裕福な家庭ではなくても、これだけ上品だと……)

「お名前は?」

 またも質問に考えが断絶される。トリシアはどうするべきか迷ったが、一等客室の客人を相手に逆らうことなど許されない。自分は平民で、この列車の職員なのだ。

「……トリシアです」

「可愛い名前ですね」

(それだけ?)

 硬直しているトリシアに、彼は微笑してみせる。

「帝都までの道中、よろしくお願いしますトリシア。歳が近いということで、あなたによく声をかけると思いますが、許してください」

「……そ、そんな滅相もない。恐れ多いです」

「自分はルキアといいます。気軽にルキアと呼んでください、トリシア」

 甘い笑みで言われてトリシアは顔に血液が集まるのを感じた。わかってやっているとしたら、相当なものだ!

 にこにこと微笑んでいるルキアに邪気は感じられず、悪意もない。

「話し相手にもなってくださると助かります。ルーデンで任務を終えてきて、ここまではほとんど疲れて室内で眠っていましたので、どうも体がなまっていて」

 疲労で彼がよく眠っているというのは乗員仲間に聞いていたのでトリシアは知っている。

 列車に乗り込んだとき、ルキアは気丈にふるまっていたらしいが、部屋に入るなりそのまま寝入ってしまい、ここにくるまでほとんど眠って過ごしていたらしいのだ。

「わ、私なんかでよければ……ルキア様」

「様はいりませんよ、トリシア。自分はただの兵士です。あなたたちの平和を守る存在なのですから」

 階級が違う人間に蔑まれることはあっても、これほど親しく声をかけられたことはない。

 軽い混乱状態に陥っているトリシアは、先輩添乗員のエミリの名前を心の中で連呼する。だがエミリは助けてくれそうになかった。

「……勿体無いお言葉です、ルキア様」

「……むずかしいですかね、自分の名前を呼び捨てにするのは」

 しょんぼりと肩を落とすルキアは、どこにも勇ましい軍人の印象がない。かっちりとした帝国軍の軍服が似合っているのに、不似合いな気もする。

「友人とまではいきませんが、どうか気軽にしてください。帝都まで長いですから」

「かしこまりました」

 頭をさげると、彼は残念そうに悲しくなるような表情を浮かべる。本気なのだろうか? それとも、からかっている? わからない。

「失礼します」

 食堂車を通り過ぎて一息つくと、トリシアは背後の様子をうかがう。

 幸いにも、食堂車にはルキアしかいなかったので、今の無礼な振る舞いは見られていないだろう。とはいえ、向こうが話しかけてきたのだから、不可抗力である。

 がたん、と列車が大きく揺れて、トリシアは目を見開いた。

 弾丸ライナーでは大きな揺れなど、起こらないはずなのだ。



 乗務員たちは集まり、荒野でも獰猛とされるファシカの群れが突っ込んできて、一時停車をするという羽目に陥ったことを相談していた。

 ファシカというのは大柄な獣で、大昔にいたというサイという動物が進化したものとされている。彼らは群れで移動し、頭から相手に体当たりしてくる習性がある。

 エミリが腕組みし、眉根を寄せた。

「お客様には事情を説明しないと。困ったわね」

「エミリ先輩、私の担当室を教えてください」

「ええ。あなたは……」

 そう言ったそばで、部屋の引き戸が開いた。長身の青年がこちらを眺めている。

 トリシアは驚いた。三等客室にいたあの、セイオンの青年だったからだ。

「ファシカに襲われた。本当か?」

 端的に喋る彼は冷たい新緑の瞳でこちらを見遣り、堂々とこちらに一歩踏み出した。

「謝礼はいらない。ファシカは再び襲ってくる。退治をするから、降車させて欲しい」

 乗務員の全員が目を丸くした。列車の用心棒たちよりもはるかに身体能力が上のセイオンの若者が、まさか出てくるとは思っていなかったのだ。

「奇遇ですね。自分も協力させてください」

 青年は背後からの声にびっくりしたようで、慌てて身をひねる。

 声に覚えがあったトリシアはさらに驚愕した。

 ちょこんと立っているルキアが、可憐な笑顔で青年を見つめているではないか!

「皆を守るのは帝国軍人の務め。微力ながら、この危機を脱する協力をしたいと思います」

「そんなこと、許可できません!」

 我に返った車掌がそう言うが、青年もルキアも引き下がる様子がなかった。

「これは我々の仕事だ。お客様を危険な目に遭わせるわけにはいかない!」

「もっともな意見だが、おまえらになんとかできるのか、本当に」

 鋭い声が割り込んでくる。ルキアの背後に、違う男が立っていた。若い、二十代の男は二等客室の者だ。

 トリッパーである男は鼻を鳴らし、苛立たしげな表情でこちらを眺めている。

「僕は急いでいる。だから、素早く事態を収束できることを望んでいるんだ。

 そこのセイオン坊主と、こっちの軍人様がなんとかしてくれるなら頼れよ」

「し、しかし……」

「うるせえなあ!」

 怒鳴る男は持っていた懐中時計の蓋を勢いよく閉めた。

「そんなに死にたきゃ勝手にしろ! 迷惑するんだ、さっさと終わらせろ!」

 くるりときびすを返して去っていく男の背中を見遣り、ルキアは顎に手を遣る。

「……と、今の客は言っていますし、すぐに終わらせますのでご迷惑はかけません」

「ですから……」

「うるさい。おまえ、黙れ」

 車掌を睨むセイオンの青年の眼光に、彼は口を閉じた。

 ルキアはきょとんとしたが、すぐに微笑する。

「自分はルキアといいます。あなたのお名前は? セイオンの剣士殿」

「……ラグ」

「よろしくラグ」

 握手をしようと差し出した手を、ラグはすぐにしっかりと握った。貴族に対しての礼儀もなにもなかった。

 彼はしっかりとルキアを見つめ、それからはにかんだような笑顔を浮かべる。

「よろしく、ルキア」

「はい」

 異常な光景に、乗務員たちが固まっていたのは、言うまでもなかった。



「それで、ここから降車すればいいのですね?」

「いえ、ですからここから降車すればどこか折るかと」

 説明するトリシアは、列車の上を歩いていた。停車しているブルー・パール号の一部が、線路から外れている。あそこは二等客室の食堂車だ。

 今頃エミリが乗客たちの説明に奔走していることだろう。

 トリシアはルキアの指名で、ここまで案内することになった。

 列車の上から周囲の様子を探るためにやって来たのだが、ラグは飛び降りてファシカ退治に行きそうな様子もあって、少々不安だ。

 ルキアはのんびりと、焦った態度もとらずにトリシアの後ろをついて来ている。

「いい眺めですね。昼寝をしたいくらいです」

 のん気にそんなことを言うルキアは、ラグのほうを見てくすりと笑った。

「どうしました、ラグ」

「早く退治したほうがいい」

 食堂車に体当たりを続けているファシカ数体の様子が見える。ラグにはそれが心配なのだろう。

「あの周囲の避難は済んでいますよ、お客様」

「そういう問題じゃない。もっと、色んな人が困る!」

 むすっとして唇を尖らせるラグは、トリシアを睨む。どうやら彼は正義感あふれる若者のようだ。

「ファシカが5体とは少ないです。仲間が寄ってくるでしょうね」

「ルキア様、落ち着いていないで……」

「? なにか急ぐことでもありますか?」

 きょとんとするルキアは、遠くを眺めた。

「自分はこれでも軍人ですから、できないことはおいそれと口にはしませんよ、トリシア」

「……?」

「自分が退治すると言ったのです。お任せください」

 無邪気な笑顔を向けてくるルキアは、ラグを見遣る。

「あそこのファシカを任せてもいいですか。トリシア、列車を線路に戻す算段を。残るファシカたちは自分が一掃しましょう」

 自信たっぷりに言うルキアに、ラグが慌てた。

「ルキア、一人じゃ無理だ。オレも手伝う!」

「大丈夫です。遠距離攻撃は得意分野ですから」

 爽やかな微笑に、ラグは不思議そうだ。彼はルキアが何者か知らないのだろう。

 ルキアは空の様子を見遣り、じっと様子をうかがう。魔術師の考えていることなどわからないので、トリシアは失礼しますと言って、戻ることにした。

 背後のラグとルキアをちらりと見て、トリシアは妙な気分で歩いた。

(こうして見ると、すごい身長差なのね……。大人と子供みたい。ルキア様って本当に小さい)

 あんな小さな人物が凄い魔術師とは思えないのが正直な感想だ。けれども、あの自信たっぷりな様子……。

 とりあえず指示されたことをしなければ。ファシカの退治はできても、ルキアのあの細腕では、列車を線路に戻す手伝いは無理だろう。

 車両に作られた簡素なハシゴをつたって降り、トリシアは車掌のもとへと急いだ。

 交代制で乗っている車掌のジャックがこのブルー・パール号の責任者となっている。彼は今頃、次の駅へと連絡して事態を報告していることだろう。

 ルーデンという街から続くこの路線に、他の列車がくる様子は今のところない。それでも急がねばならなかった。

 車両を早足で進むトリシアは、三等客室のある展望室から外を見る。ファシカの群れはまだ来ていないようだ。もしもファシカが群れで突っ込んでくるなら、地響きがしそうなものだし、砂煙が見えるだろう。

 これほど見渡せる荒野で、ファシカ5体を見逃すとはかなりの失態だった。見張りについていた者たちは、どうやら相当油断していたようで、仕事を放置していたという。これだから、雇われものの者たちは。

(契約している『水辺の花』とはこれでおしまいね。最近、態度が悪かったし)

 ざまあみろと思ってしまうトリシアだった。添乗員にちょっかいをかけることも多かった、「水辺の花」の連中など、さっさといなくなってしまえばいい。

「ジャックさん!」

 ジャックを見つけて駆け寄ると、彼はこちらを振り向いた。

「トリシア! ルキア様はなんだって?」

「二等食堂車を続けて襲っているファシカは、ラグという青年に任せるそうです。やってくる群れをルキア様が攻撃するとか……。

 我々には、脱線した車両を元に戻して欲しいとおっしゃってました」

「ファシカの群れを一人でなんとかするだって!?」

 そんな馬鹿な、と頭をおさえるジャックの心中もわからないでもない。

「いくらルキア様がすごい軍人様でも、無茶だろう! なぜお止めしなかったんだ、トリシア!」

「す、すみません……」

 あれほど自信たっぷりに言われたら、なにか口を挟める余地などないが……止めなかったのは事実だ。素直に謝ると、ジャックは嘆息した。

「とりあえずみんなに声をかけてくれ。男ども全員で、車両を線路に戻す」

「はい」

「連絡が済んだらトリシアはルキア様のもとに戻ってくれ。あんな小さな子供なんだ、何かあっては事だから気をつけておくように」

「わかりました」

 頷いたトリシアは、きびすを返した。

 ジャックの指示通りに、乗務員の男たちに連絡をしていき、再びハシゴのかかっている車両へと戻る。ハシゴを登る際に、ふと上空に雲があるのに気づいた。

(あれ……? さっきまで晴れていたのに……)

 空一面を覆う灰色の雲に、怪訝そうに眉をひそめながら登ると、周囲の様子が一望できた。

 食堂車両を襲っていたファシカたちは、綺麗に倒れている。傍にはラグが立っており、息一つ乱した様子はない。

(え? もう退治したの? うそ……)

 驚愕するトリシアは、車両の上にぽつんと立っているルキアを見つけて駆け出した。

 ぞろぞろと停車した車両から、男たちが降りてくるのも見える。全員、ブルー・パールの制服を着ているので、仕事仲間になる。

「ルキア様! ご無事ですか!」

 大きな声をかけると、ルキアは振り向いた。

(うっ! あんなに綺麗な方だと、心臓に悪い!)

「トリシア!」

 甘い笑みを浮かべるルキアに、さらに硬直しそうになるトリシアだった。

「大丈夫です。ラグは腕のいい剣士ですよ。素晴らしい腕でした」

 惚れ惚れしたように語るルキアの傍までくると、彼は笑顔で迎えてくれた。

「あなたにも見せたかったです。あっという間にファシカを退治したのですよ」

「……そうなのですか……」

 どれほどの剣技かは気になるところだが、遠目にも砂煙が見えたので、ファシカの群れがこちらにやって来ているのだろう。

「ルキア様……」

「群れがやって来ましたね」

 なんでもないことのように言うルキアは、手袋をつけた手をそっと握る。

「ちょっと離れていてください、トリシア。魔術を発動しますので」

「え?」

 素早く二、三歩離れたトリシアに、彼はまた柔らかく微笑した。

「それくらいで充分です。目が痛いかもしれないので、用心してください」

 大丈夫、手加減はしています。

 そう言うなり、彼は両手を軽く挙げた。演奏者のように。

 ふわりと彼の長い髪が浮き上がり、衣服につけている飾りも空中に誘われるような動きを見せる。

「『落ちよ、雷』」

 刹那、ビリッと全身に軽い痛みが走った。同じように天上を覆う雲に素早く稲妻が駆け抜け、砂煙をあげている箇所目掛けて雷光が落下した。

 どぉん! と鈍い音が響き渡り、地面が軽く揺れる。落雷だ。

 迫力におされてよろめくトリシアの手を握ったのはルキアだった。彼はどうしてこう、いいタイミングで助けてくれるのだろうか。

「たぶんこれで一掃できたはずですよ。安心して作業できます」

 そう言ってきたルキアはまた微笑む。なんでもないことのように。

 あれほどすごい魔術を一瞬で発動させる技を持つなど、すでに人の域ではない。トリシアは慄然とし、ルキアを凝視した。

 ルキアは手を離し、ラグに片手を振った。ラグは気づき、大きく手を振り返して頷いている。

 やって来た男性職員たちに説明しているラグを眺めているトリシアは、車両から乗り出すようにしているルキアにハッと気づいて腰にしがみついた。

「な、何をやっているのですか! ルキア様!」

「え? なにって、降りようと……」

「ここから降りたら体のどこかを折ると言ったじゃないですか!」

 ブルー・パールはそこそこ大きい。長旅になることもあって、車両は大きめに作られているのだ。

 必死にしがみついていると、ルキアは困ったように微笑した。

「大丈夫ですよ。ラグは降りられたのですから」

「ええ!」

 無茶苦茶な発言にトリシアが青ざめる。

 剣士のラグの動きが良いのはわかるが、こんなちっちゃな少年がひらりと降りられるとは思えない。

(もしかしてルキア様って、天然……!)

 思い至った考えにさらに顔が青くなってしまう。ここまでの経緯を思い返せば、彼は色んなことに無頓着のようだ。

(な、なぜ従者とか連れていないの! そういえば、貴族の出身なのにおかしいと思っていたのよ……)

 従者を連れていないのは軍の任務のためだろうが……それでもこれはない。

「だ、だめですってば、ルキア様!」

「ですが、自分も手助けしなければ。これでも軍人の端くれですし」

(マジで言ってる顔だわ!)

 これは止めなければ!

 トリシアはがっしりと腰に巻きつき、ルキアを後方に引っ張る。

「あ、あっ、トリシア、危ないですよ、そんなに退がっては」

 よろめくルキアを思い切り引っ張り、車両の中央部分まで戻す。

「車両を戻す手伝いはしなくてよろしいですから、ルキア様」

「でも……そうはいきません」

 ふわっと微笑まれてくらりと目眩がした。これほど天然だとは思わなかった。

 成長したらとんでもないことになるのでは……と、ルキアの将来を不安になってしまうトリシアだった。

「あの、トリシア?」

「だめですったら、だめです」

「トリシア……。自分は軍人なのです。民間人を守るのが仕事なのですよ?」

「ルキア様の細腕では、車両を線路に戻せません!」

「…………」

 きっぱり言ってしまうと、ルキアが可愛らしい目を軽く見開く。言い過ぎたかとトリシアは渋い表情をしてしまうが、取り越し苦労に終わった。

「そうですか。言われてみると、そうですよね」

 納得したらしいルキアは、体の力を抜いた。軽く欠伸をする彼は、瞼を擦る。

「魔術を使うとどうも眠くなってしまうので……。ふぁ……」

「お部屋まで送ります、ルキア様」

「結構ですよ、トリシア。お仕事中でしょう?」

 大丈夫ですよと微笑む彼は、ゆっくりと歩き出した。さらりと揺れる長い髪が綺麗で、本当に妖精のようだ。



 食堂車は無事に線路に戻され、各車両の点検を終えたら出発する手はずになっている。

「おい」

 声をかけられ、せっせと荒れた食堂車の中を掃除していたトリシアは動きを止めた。見遣ると、ラグが入り口に立っている。

「オレも手伝う。何か仕事は?」

「お客様はそんなことはなさらなくても構いませんから」

 丁寧にそう言うと、ラグは片眉をあげた。

「手伝う」

「…………」

「聞こえてるか?」

「聞こえていますよ」

「手伝う」

「ですから、それはご遠慮を……」

「手伝う」

 端的に言うラグは室内に入ってきて、中の惨状を確かめた。乗務員たちはみな、こちらを見て見ぬふりをしている。ひどい。

「おまえ、名前は? さっき、ルキアと一緒にいた」

「トリシアです、お客様」

「オレ、ラグ。ラグと呼べばいい」

 それはできない相談だ。

 客を呼び捨てになどできるはずがない。

「トリシア、ルキアはどうした?」

「ルキア様は眠っておられます」

「病気か?」

「え? いえ、魔術でお疲れになったのだとうかがってますが」

「まじゅつ?」

 首を傾げるラグは、ああ、と納得したような表情になった。言葉は少ないが、彼は顔によく出るタイプらしい。わかりやすい。

「そうか……。無事ならいい」

 にっこりと笑うと、ラグは本当に若い。可愛らしい笑みにトリシアが呆然としていると、彼は困ったように眉をひそめた。

「トリシア、大丈夫か?」

「えっ! あ、申し訳ありません!」

「え……。いや、そんなことは、ない」

 どもるラグは軽く頬を赤くして、照れたように呟く。その様子に添乗員の女性たちが目がギラつかせていた。

(あ、そ、そうね。ラグも、こうして見ると美形と言えなくもないというか……)

 すごい美形のルキアと、やや美形のトリッパーの男を見ていたため、少々目がやられていたらしい。

 いかにも平民の傭兵ということは、手の届く範囲の男だ。ルキアほど遠くないので、男に縁のない女性たちはどうしても目ざとくなってしまう。

「トリシア?」

「へっ? あ、はい、なんでございましょう?」

「手伝うと、言った」

「ああ、自分も手伝います」

 ラグの背後から現れたルキアに、全員がぎょっとしてしまう。寝ていたんじゃなかったのか?

 瞼を擦るルキアは、割れたガラスや、ひどい室内の有り様に悲しそうな顔をした。

「これではここはもう使えませんね。二等客室の方には、一等客室の食堂車を使うように言ってください」

「え……。ル、ルキア様」

「いいんです。今、一等客室には自分しかいませんから、気になりませんし」

 そういう問題ではない。

 一等客室の客人にこう言われては、乗務員たちは逆らうことなどできないのに。

「ラグも一緒に後でお茶をどうですか?」

「お茶?」

「眠気覚ましにいいお茶があるのです。食堂車くらいでしたら、乗務員の皆さんも彼の立ち入りを許可してくれるでしょう?」

 笑顔がまぶしい! と、全員が「うぅ」と唸る。

 本当は「ダメです」と言うところだが、ルキアの強引な笑顔に負けてしまった。

「トリシア、自分も手伝います。箒を貸してください」

「な、なりません!」

 我に返ったトリシアが、ぐっ、と手に持つ箒に力を入れた。ラグがそこを掴む。

「オレによこせ。オレが使う」

「なりません! 放してください、ラグ殿!」

 すごい力だ。トリシアは踏ん張るが、ラグはさして力も入れていないのに、箒が取り上げられそうになっている。

(ひぃぃ! セイオンの男って、こんなに力が強いの? それともラグが特別なの?)

 涙ぐむトリシアに、事態は悪くのしかかってくる。ルキアも箒の争奪戦に参加してきたのだ。

「自分がやりますよ。トリシア、手を放してください」

「だ、ダメですって、言ってるじゃありませんか……!」

(ま、負けそう!)

 なぜ自分に絡んでくるのだ、二人とも。やめて欲しい。

 背後のエミリに助けを求める視線を遣るが、彼女はせっせとガラスを片付けていて、こちらを見ない。

 ここまで順調に生きてきたはずだ。このままここで暮らし、そこそこ収入を得ている男性と結婚し、そして老衰……という人生設計が狂ってきている。

 平凡な平民の娘をからかっているのか?

「ルキア様、おやめください! ラグ殿も、手、手を放し……!」

「いいえ。そういうわけにはいきません」

「手伝うと、言った」

(なんでよー!)

 ぐいぐいと引っ張られる。諦めるという言葉を知らないのだろうか。

「こ、これは私の仕事ですからっ!」

 大声で言ったトリシアは、はっ、として棒立ちになっている二人を見遣った。

(しまった……お客様に怒鳴っちゃった……)

 青くなるトリシアの箒からラグが手を放す。続いてルキアもそれに倣った。

(あああああああああ! やっちゃったー!)

 平穏人生が転落する音が聞こえる……!

 がたがたと小刻みに震えるトリシアの頭をぐりぐりと、ラグが撫でた。

「えらい。仕事、頑張れ」

「へ?」

「お仕事の邪魔をしてすみませんでした」

「ええっ?」

 それぞれがあっさりと手を引いて去っていくので、トリシアは呆然としてしまう。

 二人がなにか楽しそうに談笑しながら歩く背中を見ていたトリシアの肩が叩かれた。見れば、エミリの手だ。

「……厄介なのに目をつけられたわね、トリシア。旅の間中、たぶんあんたに声かけてくるわよあの二人」

 ご愁傷様と言わんばかりの目つきにトリシアは泣きそうになってしまう。

「エミリ先輩~! どうにかしてくださいー!」

「無理無理。あのセイオンの剣士もルキア様も、見た目はいいけど性格がねぇ……」

「そんなぁ!」

 いやだ! すごくいやだ!

 ぶんぶんと頭を振るトリシアを、不憫そうに見るエミリの瞳が悲しい。



 おかしい。どこで私の人生は間違ってしまったのだろう。

 トリシアはやっと1日の業務を終えて、あてがわれている狭い自室へと戻った。客室に比べると、寝床しかない場所ではあるが、それでもここがトリシアの全財産だった。

 ぐったりとした状態で狭い寝床に潜り、今日あったことのあれこれを思い返す。

 列車は小刻みの揺れを取り戻し、次の駅へと向かっている。大幅に遅れたぶんは、この夜間で取り戻すことになるだろう。

(エル・ルディアまであと半月もある……。長い……)

 いつもならあっという間の旅路も、今はとても長いものに感じる。

 ごろんと寝返りを打って、トリシアは瞼を閉じた。明日も早いのだ。考えるのはやめよう。


 いつの間にか眠っていたのだろう。意識がとても遠い。

 トリシアは瞼を擦り、差し込んでくる太陽光に目を細めた。

(うぅー……体が痛い……)

 ゆっくりと起きて、溜息をつく。

 狭い室内で身支度を整えて、顔を洗うために洗面所のある場所へ向かう。職員共有のそこは幸運なことに空いており、トリシアは顔を洗って歯磨きをした。

 細かく揺れる車内で、トリシアは髪をまとめあげ、お団子状態にする。どこかのメイドのようだという印象を鏡越しに受けた。

 平凡な顔だなと改めて思い、ルキアの壮絶な美貌にうんざりとした。綺麗な顔は見ていても飽きないが、彼の空気を読まない言動は困ったものだったからだ。

(そういえばラグは、ルキア様と一緒に行っちゃったのよね、昨日)

 掃除のあと、声をかけられるかとビクビクしていたが、杞憂に終わったのだ。職場の仲間たちの話によると、一等客室の食堂車で、ルキアとラグが喋っているのを何人かが目撃したようだ。

 二人に共通点など見られないが、どうも話が合うようで仲良くなってしまったようだ。

 1日の仕事を終えるまで、トリシアは彼らに会うことはなかった。

 乗務員の集まる小部屋に行くと、タイミング良く朝会が始まる。

 今日のトリシアは三等客室の食堂車の手伝いに決定された。

 夜番の者たちと交替するために早足で向かうと、三等客室の食堂車に見覚えのある水色の髪の少年がいた。さらさらの長い髪は、見間違うことなどない。

(げっ。なんでルキア様がここに?)

 目を遣ると、向かいの席にラグが腰掛けている。彼はやはり大きな黒い鳥のような出で立ちで、こちらに気づいてはにかんだように笑った。

(げげっ。見つかった)

「おはよう、トリシア」

(げげげー! 声までかけてきたー!)

 逃げられないと覚悟を決めるしかない。近づくと、頭を下げる。

「おはようございます、ラグ殿。ルキア様」

「おはようございます、トリシア」

 にこ、と甘い笑みを浮かべるルキアの様子に、心臓が妙な音をたてた。この子供は、自分の恐ろしい魅力をわかっているのだろうか。

「ルキア、しっかり寝た。今日はここで過ごすって」

 訊いてないのにラグがそう、楽しそうに説明してくる。ルキアは「はい」と笑顔で頷いていた。

「セイオンには行ったことがないので、ラグの話はとても興味深いのです。トリシアはセイオンに行ったことはありますか?」

「いえ、ありません」

「そうですか。海に囲まれた、とても良い土地だそうですよ」

 にこにこと微笑むルキアはラグに「ねえ?」と声をかけた。ラグはしっかりと肯定するために頷く。

「セイオンの島には、たくさんの部族が住んでる。でも、本土で働くほうが、性に合ってる連中も少なくない」

「剣で身を立てるのですね?」

「ちょっと違う。セイオンの者、戦うのが得意。平和すぎるから、島はつまらない」

 ぎょっとなるような言葉だったが、ラグは笑顔だ。

「オレ、たくさんの人を助けたい。と、思った。うん? ちょっと違う。困ってる人、助けたい、思った」

 たどたどしい言葉を紡ぐラグは、それでも一生懸命にルキアに話しかける。

「セイオン、平和で、みんな強い。本土、もっと困ってる人多いって、聞いた」

「立派な心がけですね」

 ルキアに褒められ、ラグは有頂天になったらしくて頬を赤くして恥らった。

(……単純な殿方なのね、ラグって)

 自分の生活で手一杯のトリシアにとっては、他人を無償で助けてやる余裕などない。ラグの行動は理解できるが、同意はできかねるものだった。

 大きな子供のようなラグは、聞き上手なルキアに嬉々として故郷の話をしていた。トリシアはその間に、自分の仕事に取り掛かる。

 彼らはしょせん、通り過ぎるべき存在だ。客とは、来て、去るもの。心を砕く相手ではない。

 食事の支度をしていた料理長の元へ行くと、彼は珍しそうにルキアたちを眺めていた。

「あっちの兄ちゃんは、昨日ファシカを退治した『渡り鳥』の傭兵ってことだったけど、本当か?」

「あれほど大きく紋様をつけているじゃありませんか」

 呆れたように言うトリシアに、彼は「へぇー」と感心したように目を細める。

「『渡り鳥』はかなり腕利きばかりがいるって噂だったけど、本当だったんだなぁ。

 あっちのちっこいのはルキア様なんだろ?」

「……みたいね」

「随分と気に入られたみたいじゃないか、トリシア」

「からかわないで。暇つぶしよ、どうせ」

 面倒そうに答えていると、料理長であるリューダは低く笑った。

「おまえは本当に欲がないよなぁ。こういう時、年頃の娘は相手の男を値踏みするもんだぞ?」

「値踏みって……。相手にもされてないのに、そんなことをする必要はないわ」

 どうせ気まぐれで暇つぶし。トリシアはどこにでもいる平凡な娘だ。彼らのような特殊な人間に、珍しくて気に入られることはあって、それ以上にはなれない。

 ルキアは貴族のうえ軍人だし、ラグは世界を渡り歩く傭兵だ。どちらも、恋人にするには苦労する相手だろう。

 つまらない望みを抱くような夢見がちな娘ではないので、トリシアはあの二人にも客以上の扱いをするつもりはない。親しくすることもない。

「しっかしルキア様は、聞いてなきゃ、女の子に見えるな。あの長い髪とか、手入れされてるみたいだしな」

「そうね。前髪も長いから、とっても不思議な印象よね」

 彼は前髪も後ろ髪も同じように伸ばしているため、本当に妖精か人形のように見える。薄い色彩の髪だから、余計にだ。

 トリシアのような仕事だと、あれほどずるずると伸ばしていると邪魔になるであろう髪も、特別な軍人だから、そうでもないのかもしれない。なにより似合っている。

「横に立つと、おまえが女に見えないもんな」

「失礼な!」

 ムッとして唇を尖らせると、リューガが野太い声で面白そうに笑った。

「でも、すごい魔術師殿なんだろ? どうだ? おまえ、近くで見たんだろ?」

「……そうね。すごかったわ」

「いいな~。おれも近くで魔術を拝みたかったぜ。魔術師なんて職業のもん、そうそういないだろ」

 そう言われればそうだと気づいた。トリシアはますます萎縮してしまう。ルキアはやはり、気軽に声をかけられる相手ではないのだ。

(あ~、頭痛い。絶対また声をかけてくるわね、ルキア様……)

 キャビネットの上にお茶を用意しながら、トリシアは嘆息してしまった。

 長い旅路の中で、彼らから逃げるすべなどない。ここは閉ざされた列車の中なのだから。



「おい、おまえ」

 いきなりそう声をかけられて、トリシアは足を止めて振り向く。

 茶色の髪と瞳。トリッパーの男だ。

 男は面倒そうな顔をしており、仕方なくトリシアに声をかけたのだろう。

「医療用の血液は用意されているのか」

「?」

 なんでそんなことを尋ねられるのかわからず、戸惑っていると男が眉間に皺を寄せた。

「答えろ」

「……はい。用意しております。長旅になるので、貧血の方も出たときのために」

「そうか」

 ぼそりと呟いて去ろうとした男は、ぎくっとして足を止めた。

 引き戸を開いて現れたのはラグとルキアだ。この二人はここ最近、いつも一緒にいる。

 ルキアはこちらに気づいて輝かんばかりの笑顔を浮かべた。

「ああ、ハル。それにトリシア」

「出たな、ちびっこ軍人」

 舌打ち混じりに洩らす男の言葉にトリシアは驚いた。いつの間にこの人たちは知り合いになったのだろう?

「ハル、おはよう」

「うるさい! 寄ってくるな!」

 手を振ってくるラグを邪魔そうに見て怒鳴る男の名は、ハルというらしい。珍しい響きだ。

(トリッパーの名前って独特の響きなのかしら……)

 邪険に見ているハルにルキアが近づく。

「あなたの故郷の話を今日こそ聞かせてください、ハル」

「うるせぇ! 僕の故郷はエル・ルディアだって何回言わせりゃいいんだ! このアホ!」

「しかし、帝国人の特徴と合いません。トリッパーではないのですか?」

「やかましい! ひとの事情にくちばし突っ込んでんじゃない!」

「いいえ、絶対にトリッパーです」

 確信を持つのはいいが、嫌がっているハルに対してあまりにもしつこい。さすがに不憫になってくるトリシアの肩をつんつんと突いてくる者がいた。ラグだった。

「ルキア、へこたれない」

「……そう」

「トリシア、オレたちのこと嫌いか?」

「えっ」

 目を剥くトリシアに、ラグは微笑んでくる。

「オレたち、年齢の近い相手は珍しい。だから、嫌わないで」

「はっ?」

「みんな、オレたちと距離をとる」

 それはそうだろう。悪い者たちではないだろうが、どうにも困った人種だ。

「……では、あのお客様にちょっかいを出すのをやめてあげてください。お可哀想です」

「ルキアは興味を持つと、すごく知りたがる。トリシアが怒れば、やめる」

「なっ、なんで私がっ!」

 思わず睨むとラグは首を傾げた。

「ルキア、ちゃんと言えばわかる。ルキアもトリシアに嫌われたくない」

 なんで???

 疑問符が頭の上に舞い踊っているのだが、ラグには答えられないのだろう。……よくわかっていないような顔をしている……。

 仕方なく、トリシアはルキアの背中をつついた。

「ルキア様、そのあたりでおやめください。嫌がる方に失礼です」

「ですがハルは嘘を言っています」

 嘘を言っているのがそもそも引っかかっているらしい。誰しも隠したい事情があることがあるのだと、ルキアは理解していないようだ。

 それもそうだろう。彼の学歴や出生には、曇りなどひとつもない。隠し立てするようなことがないから、後ろ暗い者の考えがわからないのだ。

「なぜ嘘をつくのか、自分にはわかりません。異界から来て、誰かに迫害でもされたのですか?

 政府はあなたたちの身柄を保証しているはずです」

「おっ、おまえ……!」

 さすがにハルがこめかみに青筋を浮かべたので、トリシアは真っ青になってルキアを揺さぶった。

「ダメですよ、ルキア様! ひとには触れて欲しくないことがあるものなのです! 傷に塩を塗るようなものですよ!」

「えっ」

 驚いたように目を見開くルキアは動きを止め、振り仰いでくる。揺れる赤色の瞳はまるで宝石のようだ。

「そう、なのですか? ハルは故郷のことを知られたくないと?」

「? そ、そうじゃないですか、どう考えても」

 どうやら今までの言動から、まったくそうは思っていなかった様子。ルキアはハルに視線を戻し、丁寧に頭をさげた。

「申し訳ありません。うるさい、あちらへ行けとばかり言われていたので、話したくないとは思いもよりませんでした。謝罪いたします」

 呆気にとられるハルに、ルキアは深々と頭をさげている。

「自分はどうも、言葉を額面通りに受け取ってしまいがちで……。失礼いたしました。

 気が済まないようでしたら、殴ってくださってかまいません」

 体育会系の解決方法を提示し、ルキアは顔をあげた。どうぞ、と言わんばかりに頬をハルのほうへ向ける。

 ハルは困惑し、眉間に深く皺を刻んでいる。トリシアははらはらと見守るしかない。

「……子供を殴れるか!」

 怒鳴り、ハルはきびすを返してさっさとその場をあとにした。

 残されたトリシアは安堵の息を吐き出す。乱闘騒ぎにならなくてよかった……。

 ルキアは姿勢を正し、悲しそうに眉をひそめる。

「……失礼なことをしてしまいました……」

「ルキア、元気だせ」

「ですが……」

 ラグの励ましも効果はないようで、彼は落ち込んでいる。

「ラグ! 自分を殴ってください!」

「だめだめだめですーっっ!」

 二人の間に割って入り、トリシアは両手を左右に広げた。無茶苦茶するのもやめてほしい!

「なんなんですか、すぐ殴るとか!」

「……いえ、軍律にはありませんが、上官はよく……」

 さすが軍人、と感心してしまいそうになる。女の子のような見た目と違って、ルキアはかなり体育会系な育ちのようだ。

 だが、ラグのような傭兵が殴ればきっとルキアは吹っ飛ぶだろう。そんなこと、自分の目の前でさせるわけにはいかない!

「そういう乱暴な解決法はいけませんよ、ルキア様!」

「そ、うなのですか?」

 首をちょこんと傾げるルキアはラグに目配せする。

 ラグは少し目を見開き、うん、と頷く。どうやらトリシアに同意してくれたようだ。

 この妙な空気をなんとかするべく、トリシアは話題を振った。

「そういえば、もうすぐエキドの街に到着します。わりと大きめの街なので、停車時間も長いですから、お買い物などしてください」

「トリシアも来ませんか?」

 …………は?

 ルキアの提案にトリシアが目を点にする。

「いつも車内でお仕事ですから、気分転換しましょう。だめですか?」

「……あの、自由時間は確かに設けられていますが、お客様に同行するなど前代未聞というか……」

 焦るトリシアは逃げ道を探すように脳内の引き出しをこれでもか! というほど開いていくが、いい案が浮かばない。

 ブルー・パール号に限らず、各列車は大きな街の駅では停車時間を長くしている。さすがに1日も停車はしないが、最長で6時間は停車することもあるのだ。

(そ、それにエミリ先輩と一緒に買い物する約束……)

 俯いてしまうと、ルキアが軽く目を見開き、肩を落とした。

「すみません。また立ち入ったことをしてしまったようですね。

 では我々だけで行きましょうか、ラグ」

「ああ」

 こっくりと頷くラグは歩き出した。ルキアもそれに続く。

 横を通り過ぎる時、小さな声で「すみません、トリシア」と囁かれた。

(…………いい子、なんだけどなぁ……)

 気分転換にと誘ってくれたのも、本心からなのだろう。彼が乗客で、しかも自分との身分に差もなければもっと気軽に声をかけられるのかもしれないが……無理な話だった。



 弾丸ライナーは乗り込んでくる客は前もって車掌に知らせが入り、乗車、降車の客がいない駅は通過するようになっている。

 各駅停車をするのは一般的な列車のみで、トリシアは時々鈍速列車にも乗ってみたい気分に駆られる。

 エキドの街は荒野の中でも護衛をきちんとギルド『蒼天の槍』がおこなっていて、治安もいい。

(なぜ……)

 困惑した表情で、乗務員たちの買い物を済ませているトリシアは、少し離れた場所にいるラグをそっと見た。

 彼はいつもの出で立ちで、周囲をさりげなくうかがい、警戒していた。もっとも、外套の背の部分に大きく『渡り鳥』の紋様があるのだから、滅多なことでは誰も手出ししてこないだろう。

 治安がいいとはいえ、エキドの街は商人も盛んに出入りしており、確かに……護衛は居たほうがいいかもしれないけれど。

(ラグが……?)

 だらだらと汗を流すトリシアは買い物袋を両手で抱え、再びラグをうかがった。

 彼は不思議なことにそれほど目立ってはいない。……なぜだろう。

 そもそもラグもルキアも、自分に親切に接してくる理由がわからない。ルキアは気まぐれだろうが、ラグはそれに便乗している……とも考えられるが。

(そういえば嫌われたくないって言ってたわね)

 ……もしかして、友達とかいないのかしら。

 嫌な考えに至り、渋い表情を浮かべてしまう。友達が貧困だから、自分が構われているとしたら悲しすぎる。

 買い物を一通り終えたトリシアのすぐ後ろにいつの間にかぴったりとラグが居て、仰天してしまった。

「ら、ラグ?」

 思わず素で名を呼んでしまうと、彼は無言のままにこっと愛想のいい笑みを浮かべた。

「買い物、終わったか?」

「…………あの、いくらなんでも、簡単に引き受けすぎだと思うんですが」

「? なにがだ?」

 思わず彼の顔を凝視してしまう。

 彼がトリシアの護衛についているのは、乗務員たちから頼まれたからだ。つまりこれは金銭の発生する仕事なのだが、彼はそれを断って自主的にトリシアについて来ている。

「ルキア様と一緒に行くんじゃなかったのですか?」

「ルキアは軍の、連中、用事ある」

 つまり、ルキアはここに駐屯している軍人たちに用があるからいない、と言いたいらしい。

 確かに軍に関することなら、傭兵であるラグはそこに立ち入れない。帝国軍は大きな街には必ず駐屯地があるのだ。

 どんっ、と軽く誰かにぶつかられて慌てて体勢を保つ。背中をそっと押されて転ばずに済んだのは、ラグのおかげだ。

 彼はひょいと何かを掲げた。ぎょっとする。彼が持ち上げたのは子供だったからだ。

「はっ、放せよ!」

 手足をばたつかせる少年を軽々と頭の高さまで持ち上げるラグは、彼をじぃっと見つめた。ペリドット色の瞳は怖いくらい真剣だ。

「おまえ、盗んだものを出せ」

「えっ?」

 驚くトリシアが自分のふところを探る。ない。財布がない。

 あの一瞬でトリシアを支え、盗みを働いた子供を捕まえたらしい。腕のいい傭兵と聞いてはいたが、これほどとは……。

 彼は少年が手に持っている布袋……トリシアの財布を簡単に奪うと彼を放した。少年は尻餅をついたが、素早く立ち上がって逃げていった。

「に、逃がしていいの!?」

「ん? 逃がしちゃダメだったか?」

 不思議そうにこちらを見てくるラグにトリシアは唖然とした。こういう時は役人に突き出すものではないのだろうか。

 子供でも、盗みを働くことは良いとはしていない。トリシアとて、気が咎めるが……だからといって見逃すのも違う気がする。

 ラグはトリシアのほうへと視線を遣り、きょとんとした表情で続けた。

「スリくらい、どこにでもいる」

「そ、そりゃ……そうかもだけど……」

「オレの財布を代わりにやっておいた」

「ええっ!」

 仰天して仰け反るトリシアに、ラグは首を傾げた。

「冗談だ」

「な、なんだ……冗談なのね。ラグならやりそうって思っちゃったわ……」

「まさか。そこまでしたら、あの子供のため、ならない」

 にっこりと微笑むラグはトリシアの荷物を軽々と奪って持ち上げた。

「あっ! な、なにを……!」

「持つ」

「いいです! 荷物持ちをさせるつもりはないから!」

「いい。今、とっても気分いい」

 笑みを浮かべる彼は、ふいに真剣な表情になった。

「『水辺の花』とはここで契約破棄、するんだろう?」

「……そうなります」

「代わりにどこに頼む?」

「同じ賃金で、とりあえず帝都までの護衛をしてくれるところと交渉することになるでしょうね」

 帝都に着いて、改めてまた別の傭兵ギルドを探さねばならない。大きな商談になるから、さすがにこの街では無理だ。

「『渡り鳥』はどうなのですか?」

「さあ? みんな、勝手にやってる。協調性ないから」

 どうでもいいと言わんばかりのラグは歩き出した。そっと、空いている片手でトリシアの手を繋いだ。

 さりげない動作だったが、トリシアの胸が跳ねた。なぜ、という思いで見上げると、彼は平然としている。

(あ……そっか。人込みだから、かしら)

 前を歩いてくれるラグは、人にぶつからないように配慮してくれているのだろう。

 傭兵ギルド『渡り鳥』は確かに腕のいい者が集まるとは聞いたが、チームを組んで行動する、というのは聞いたことがない。ラグが一人でうろついているのを考えても、徒党を組みそうにはなかった。

(今頃、誰かがギルドの紹介者のところに行ってるんだろうけど……)

 ハプニングのせいで、買い物をほとんど一手に引き受けることになったわけだが、することもないのでべつにいい。

 通りかかった小さな教会を見て、トリシアは昔を思い出す。

 貧しい食事と、最低限に必要な寝床。たいしていい思い出などなかった。

 トリシアの視線に気づき、ラグはそちらを見た。

「イデムの教会か」

「聖女イデムのことは、セイオンでも有名ですか?」

 帝国のおもな宗教として広まっているイデム教ではあったが、セイオンという遠い島国の民族たちはどう思っているのだろう?

 ラグは困ったような顔をする。

「全然知られてない。セイオン、古代神を祀る」

「古代神? イデムのように、実在した人物ではなく?」

 架空の存在を崇めるということが珍しく、トリシアがラグを覗き込むようにして尋ねた。

 彼はびっくりして頬を赤らめ、すぐに顔を逸らす。

「古代の戦いの神。セイオンの民、戦いの神ドュラハの末裔とされてる」

「神の、末裔?」

 そんな突拍子もない!

 驚愕するトリシアに、ラグは苦笑してみせた。

「この話すると、帝国人、みんな驚く」

「だって……えっと」

 困惑するトリシアに彼は笑う。

「認められてないから気にしない。そう言われてるだけ、島民は、それほど深く考えてない」

「そ、そうなの?」

「そう」

 頷くラグが軽く手を引いた。いつの間にか止まっていた歩みを再開させた。


 軒を連ねている屋台の通りを過ぎると、ちょうどなにやら人々が野次馬でもするように人垣を作っていた。

「……なんでも帝都のすごい魔術師が……」

「いや、軍人の偉い方が退治に乗り出すとか」

 すごい魔術師や軍の偉い方、と聞くと、浮かぶのは一人しかいない。

「ラグ、そこから何か見える?」

 身長がそれほど高くないトリシアとは違い、長身のラグは平然と人波を見渡せる。彼は軽く背伸びをして「うーん」と唸った。

「軍人が歩いてる」

 そういえば、ぞろぞろと足音が聞こえている。トリシアはなんとか見ようと足の爪先を立ててみるが、無理だ。

 腰に手を回され、いきなり視界が高くなった。

「ほら、こうすれば見える」

「っ!」

 悲鳴をあげる間もなかった。

 ラグが軽々と、細身からは想像もつかない腕力でトリシアを横抱きにしたのだ。

(ひえええええええー! 恥ずかしいーっっ!)

 心の中で絶叫をあげるトリシアを気にせず、ラグはあごで示す。渋々とそちらを見ると、帝国軍の軍装に身をかためた者たちが何かを囲んで行進していた。

 軍服の隙間から見えるのは、揺れる水色の髪。……間違いない、中心にいるのはルキアだ。

「ルキア様……なにしてらっしゃるのかしら……」

「立ち寄ったと報告しに行くだけと言っていた」

「ああ、帝都に着くまでは何度か連絡を入れて安否を知らせないといけないわよね、ルキア様くらいになると。

 でも……なんだか物々しい雰囲気だわ」

 まるで何かの任務でも与えられたかのような……仰々しい空気だ。

「ルキアが全然見えない」

 不満そうに言うラグに、「降ろして……」と小さく懇願すると彼はすぐに降ろしてくれた。

「あとでルキアに訊いてみよう」

 な? というような口調で言われても、トリシアは黙ったままだった。そもそも、ただの添乗員の自分では彼の力になれるとは思えない。

「ラグ殿なら、お力になることも可能でしょうけど、私には無理です」

 はっきりとそう、目を見て言うと、ラグはちょっと驚いたように目を見開いた。

「…………」

「ラグ殿、私は一介の添乗員です。ですから」

「口調、それ、ダメ」

 眉間に皺を寄せて、彼はぐっと顔を近づけてくる。背が高いので、まるで上から覆いかぶさるような錯覚を得た。

(ち、近い近い近いーっっ!)

 顔が熱くなるのを感じるが、唇をぐっと引き結んで後ろに後退しないようにと踏ん張った。

「さっきの、戻す」

「さっき……?」

「砕けてたほうがオレ、喋りやすい」

 そういえば口調が普段のものになっていたような気が……。

 青くなるトリシアとは正反対に、ラグは荷物を器用に持って軽く不貞腐れたような顔つきになる。

「年齢、同じくらい。丁寧に喋られると、なんか変」

「そ、そんなこと言われましても……」

「も・ど・す!」

「わ、わかりました! いえ、わかったわ! だからあんまり近づかないで!」

 とうとう堪えきれなくなって、ラグの胸元を両手で思いっきり押した。彼はすぐに引いてくれてにこやかに微笑む。爽やかすぎて呪いたい。

 ぜぇはぁ言いながら荒い呼吸を繰り返すトリシアは、大きく溜息をついた。

「人前ではしないわよ。いい?」

「なぜだ」

「あのね! ラグと私は店員と客っていう関係なの! 友達じゃないんだから、無理に決まってるでしょ!」

「だったら友達になればいい!」

 名案! と言わんばかりに顔を輝かせるものだから、トリシアはこめかみに青筋を浮かばせて思いっきり彼の足を踏んだ。

「痛い」

「無茶言わないで!」

「無茶? そう、なのか?」

 わからないようで彼は困惑している。頭が弱いのだろうかとトリシアは渋い顔つきになった。

 歩き出したトリシアにラグが続く。

「こんなこと、減俸ものなんだから……。ハァ……」

「オレが養える」

「ばっ……!」

 あまりなセリフに真っ赤になって振り返るが、ラグは「ん?」とあどけない笑顔で返してきた。……絶対に意味を理解していないに違いない。

「へ、変なこと言うのはやめて、ラグ」

「変か? 人間一人くらい、養える。オレ、そこそこ有名人」

「はあ?」

 有名人?

 考え込んでしまうトリシアは、脳内の記憶に思い当たらないので今の言葉は受け流すことにした。

「ルキアも褒めてくれた。オレ、強い」

「はいはい。そうですかー」

 セイオン出身の剣士なのだから、そこそこ強いのは当たり前だ。真剣に取り合うのはやめよう。

 空を見上げ、トリシアはまたも盛大な溜息をついた。なんだか……受難、だ。



 車掌のジャックと駅で話し合っている姿を見かけたが、トリシアはラグを引き連れてさっさとブルー・パール号へと乗り込んだ。

 いつもの温和な様子はなく、ルキアはなにやら憂いを帯びた表情だった。やはり先程の騒ぎの中心に彼が居たのだろう。

「ありがとうラグ。荷物、ここまででいいわ」

「わかった」

 荷物を渡してラグは再び列車を降りた。ルキアの元へと駆けていくのが見えたので、様子をみにいったのだろう。

(なんというか……ラグって親切な人の代表者みたいなヤツよね……)

 損な性分に違いない。

 振り向いたルキアがちらりと見えた。いつになく真剣な表情にどきりとしてしまう。

(はっ! なにが『ドキ!』よ。ありえない……ルキア様はすごいとは言ってもまだお子様なんだから!)

 そそくさと歩き出し、トリシアはすぐに動きを止める。

 展望車に居たのはあのトリッパーの男、ハルだ。

 彼は小瓶から何か赤い丸薬のようなものを取り出し、口に含んでもぐもぐと動かしている。飴玉、だろうか? それにしてはなんだか毒々しい色をしていたようだが……。

 トリシアの視線に気づき、ハルは露骨に嫌そうな顔をした。

(へーへー。わかってますわかってます。べつに興味なんてないですから)

 さっと視線を外してトリシアはハルの背後を通って別の車両へと進んだ。


 それからすぐにルキアがジャックに何を話していたかわかった。

 ドナ山脈付近に山賊が出没しているらしく、通る列車を襲っているということだった。

 その噂はトリシアたちも知ってはいたが、走る列車を襲う、という考えがまず浮かばない。

 次の駅に向かうには、ドナ山脈を通らねばならない。ここから近いこともあり、どうやらその討伐のことをルキアは相談され、彼はあっさりと承諾してしまったようなのだ。

「一網打尽にしてご覧にいれますよ」

 そう笑顔で話しかけられ、キャビネットに紅茶を用意して運んできたトリシアは動きを止めてしまう。

 ルキアの目の前にはラグが座っており、彼はぼんやりと窓の外を眺めていた。

「えと、あの……?」

 なぜいきなりそんなことを言われるのかわからなかったので、戸惑ってしまう。

 ルキアはふんわりと甘い笑みを浮かべた。

「これからの旅のこともありますし、他の市民の不安を取り除くためにも、全力を尽くします」

「はぁ……」

「あれ? トリシアは怖くはないのですか?」

「いえ……山賊は怖いですが……。なんというか、実感がなくて」

 スリや追いはぎはよく街中でも見かけるが、盗賊などというそこそこ規模の大きな集団にはお目にかかったことがない。それは幸いなことでもある。

「そういうものですか。自分は何度か窃盗団の相手もしたので、さほど珍しいとは思わないのですが」

「えっ、る、ルキア様、それ、本当ですか?」

「はい。本当ですよ」

「そ、そういうのは傭兵の仕事では? 自警団とか……」

「彼らの手に負えない仕事は進んで引き受けていますので。なぜか一人で行くと油断してくださるので助かります」

 心底本気で言っているのだろう言葉に、薄ら寒いものを感じてしまう。これで腹黒くないのだから、対応に困る。わざと言ってくれているなら受け流すのも楽なのに。

「連中の手口は先程のエキドの街で聞きましたし。新しい護衛のギルドの方もいますから、心配はなさそうですが」

 新しく契約した傭兵ギルド『雲わた』は、あまり聞かない名前だ。帝都まで低賃金で護衛を引き受けてくれたので文句は言えないが……。

 その時だ。ラグがこちらを見遣り、鋭い視線で言う。

「オレがいるのに」

「24時間、ずっとラグが外を監視するわけにはいかないでしょう? まだ半月近くあるのですから」

「……それは、そう、だが……」

 納得がいかないのかラグは小さく唸る。

「もっといいギルドあったはず! 『雲わた』の連中、絶対サボる!」

「賃金をいただくのですから、きちんと働くと自分は思いますが」

 素直に相手を信じてしまうらしいルキアにラグはどう説明したらいいのか困り果てているようだ。

 島の出身のラグは帝国の共通語があまり上手くない。慣れないと難しい言葉だとはトリシアも理解しているので、彼の苦労もわかる。

「ラグ殿は『雲わた』の方たちのことをご存知なのですか?」

 テーブルの上にカップとソーサーを置きながらそう尋ねると、ラグは頷いた。

「あいつらのこと、うちの連中はよく話してた」

 うち、というのは『渡り鳥』の傭兵たちのことだ。

「賃金低い、いい加減な仕事、する」

「………………」

 無言で聞いていたルキアの赤い瞳が、どことなくぎらついているように見えてトリシアは怖気が走る。

(あれ……? ルキア様、なんだか怒ってない……?)

「もしそれが本当なら…………真偽を確かめねばなりませんね。低賃金とはいえ、貧しい人々からしたら大金です。ぞんざいに仕事をされては困るでしょう」

「そうだ!」

 激しく頷くラグに、ルキアが微笑む。まるで、先程の妙な空気など一切なかったかのように。

「自分はあまり世俗に疎くて……助かります、ラグ」

「ルキア様っ!」

 慌てて口を挟むと、彼はすぐにこちらを見てくる。あまりにも真っ直ぐに見てくるので、気圧された。

「あ、あの……えっと」

 戸惑って口ごもると、ルキアはふんわりと甘く笑ってくれた。

「緊張、させてしまいましたか。すみません。自分は軍人なもので、軍律や法律をどうも厳しく守らねばという考えがありまして」

「……その、あまり乱暴は……しないでください、ね?」

 小さな声で言うと、彼は目を丸くしてまじまじとこちらを見てくる。可憐な顔にそんなに見られると、どうしても頬が上気してしまう。

「どうでしょう? 困りました」

「む、難しいでしょうか?」

 この小柄な少年が凄腕の魔術師としても……それでも危険な目に遭うのは避けて欲しい。

 寝覚めが悪いではないか……もしも、死なれたりしたら。大怪我でもされたら。

 トリシアの腕力でさえ、下手をすれば壁に投げ飛ばせるかもしれないのに……。

「トリシア! ルキア、弱くないぞ」

 そう言ってこちらに身を乗り出してくるラグは、ひどく気遣っているように心配そうにトリシアを見つめていた。

「腕相撲、トリシアより強いぞ」

「え? いえ……あー」

 歯切れの悪い声を出してしまう自分は未熟者だ。こういう時はさらりと受け流すべきなのに。

 ルキアは軽く笑い、じゃあ、と細腕をテーブルの上に出してみせた。

「やってみましょうか、腕相撲。自分は負けませんよ、トリシア」

「……無茶言わないでくださいよ、ルキア様」

「ははっ。そうですね」

 腕を引っ込めるルキアは無邪気そのものだ。歳相応の子供らしい仕草だった。

「トリシアの腕を折っては困りますし」

 さらりと言われてトリシアは脂汗をかきながら無言になってしまう。……本気、なのだろうか? どうだろう。

「オレなら絶対折るぞ!」

 元気よく言わないで欲しい……。

 ラグの言葉にトリシアはさらに渋面になる。

「ルキアの腕、折れるぞ」

「ははっ。そうでしょうね」

 笑顔で交わす会話ではない……。

 トリシアはうんざりしてきた。

(変な人たち……)

 やっぱり強い人というか、なにかに秀でた者たちはどこかおかしいのかもしれない。

 優雅に紅茶を飲みながら、ルキアは微笑する。

「まあ、ラグの言っていることが本当なら、この列車の護衛を自分がすれば済むことですから……それまでゆっくりしましょうか」

「オレも手伝う」

「百人力ですね」

 にっこり。

 ルキアの笑顔にラグは素直に照れた。そこに危ない空気はないが、トリシアは複雑な気分になってしまう。

(どこかの妙な小説の題材にされそうな……感じなのよね……)

 どう見ても二人とも、同性に興味があるようには見えないからいいのだが。

「トリシア」

 ふいに呼ばれてトリシアはハッとする。

 ルキアがこちらを見上げていた。

「帝都に到着すれば、しばらくは自由時間があるのでしょう?」

「え? あ、はい」

 ブルー・パールの整備のこともあり、乗務員にはしばらく自由時間が与えられる。

 頷くと彼は満足そうに微笑んだ。

「では自分の屋敷に滞在しませんか?」

「はあっ!?」

 仰天して素で叫ぶと、ラグのほうが目を丸くした。

「あっ、え、む、無理です! 寝起きする場所は、私のほうでなんとかしますので……」

 いつも与えられている宿舎があるので、遠慮したい。

 だがルキアは諦めなかった。

「居心地はそれほど悪くないと思うのですが……。貴族といえど、自分の家は裕福ではありませんからもてなしもできませんが、精一杯のことはしますよ?」

「滅相もない!」

 とんでもないことを言わないで欲しい!

 真っ青になるトリシアは、どうすればいいのかと周囲に視線を遣る。

 一等食堂車にいるのはルキア、それにラグ、それに……二等客室に泊まっているハルくらいだ。他に客の姿はない。

 エキドの街で半壊した二等食堂車両は交換したのだが、ハルはひと気のないこちらのほうを好むらしい。

 ハルは黙々と野菜のサラダを食べていて、こちらに興味はないようだ。彼はテーブルの上にあの小瓶を置いており、時々そちらを見ていた。

(? あの小瓶の飴……そんなに大事なものなのかしら?)

「オレ、泊まってもいいか? ルキア、帝都に知り合い多いか?」

「それほど多くはありませんが、できるだけ力になりましょう」

「ほんとか!」

 喜ぶラグとは違い、トリシアは苦い顔のままだ。表情に出すべきではないとわかってはいたが、いくらなんでも辟易する。

(はっきり言ってやりたい。身分が違うって。迷惑だって)

 同列になど、なれない。それが「身分」というものなのだから。

「あの…………一つ、いいですか」

 たまりかねて、トリシアはそう口に出した。

「なぜ、私なのでしょう? 他にも添乗員はいると思うのですが」

 もっと美人のエミリ先輩とか……。そう思って、惨めな気分になる。自分の容姿がいいほうだとは思えないが、それでも人並みだとは信じたい。

 二人の男性はきょとんとし、顔を見合わせた。

 ラグはすぐに笑顔を向けてくる。

「オレ、トリシアのこと気に入ってる!」

「……あの、その理由を訊いております」

「気に入ってるのに理由がいるのか?」

 不思議そうに訊いてこられるのでトリシアは固まってしまった。子供か、こいつは。

「自分も理由がいりますか?」

 ルキアがそう尋ねてくるので、頷いてみせた。

 そうですね、と彼は顎に手を遣ってふんわりといつものように、砂糖菓子のように微笑む。

「トリシアのことが好きだからでしょうか」

 ぶーっ!

 一人で食事していたハルが、食後にと飲んでいたコーヒーを吹いていた。

 ごほごほとむせる彼がダン! と拳でテーブルを叩いた。不愉快だと言わんばかりに立ち上がって食堂車から出て行く。

 ……気持ちも、わからないでもない。

「す。好き、ですか」

 どうせ異性に対してのものではないだろう。

 トリシアが冷めた目で見ていると、ルキアは両手の指を絡めてテーブルの上に肘をついた。

「ええ」

「……こ、光栄です」

「あれ? 信じてないのですか?」

「いえ、信じますが……」

「ああ、女性として好いていると言っていますよ?」

 爆弾発言に今度こそトリシアは目を剥いた。その場で硬直し、彼を凝視する。

「そ、そ、それは、ど、どうい、う……?」

「そのままの言葉です。自分は女性に興味を抱いたのは今回が初めてなので、恋愛感情かはわかりかねますけどね」

「………………」

 なんだ……とトリシアは大きく息を吐き出した。

(珍しいからってだけなのね。私、どこにでもいる平凡な娘なんだけど)

 やれやれと思いつつ、トリシアは肩を軽くすくめた。



 テーブルの上に地図を広げて、ルキアはふぅんと小さく洩らす。向かいの席に座るラグはそれを眺めているだけだ。

 せっせと食器を片付けているトリシアには、彼らをうかがう気はないので、早く退散する様子がありありと見てとれた。

「ルキア、どうするんだ?」

「『雲わた』の面子もあるでしょうからこちらが手助けをするのは控えますが……困りましたね」

「なにがだ?」

「軍の上層部から色々と言われているので……あまり派手に動けないのです」

「ん? よくわからない。ルキア、軍のヤツらにいじめられてるのか?」

「え? どうでしょうね。ワイザー将軍からはよく殴られて叱られましたが……うーん……」

「ルキアを殴ったのか!?」

 仰天するラグはまじまじとルキアの顔を見ている。彼は苦笑した。

「傷は残っていませんよ。軍には腕のいい医者がいるので、大抵の傷は治してくれるのです。……変人ですけどね」

 うんざりしたような声音のルキアは初めてだ。つい、トリシアは彼のほうを見てしまう。

「『ヤト』に入ってからはあまり会う機会がないので殴られてはいませんが。なんというか、豪胆な方ですから」

「うーん。でも殴るの、よくない。話し合いとか、だめか?」

「男は時に、拳で語り合うものなのですよ、ラグ」

「……? う? よく、わからないぞ……?」

 困惑して眉間に物凄い皺を寄せているラグが可哀想になってきた。

 ルキアはドナ山脈のほうをすっと指差し、つつつ、と地図上で人差し指を走らせる。

「この辺りに出没するそうですが……。明らかに通る列車を狙うように出てきていますね」

「どうやって襲う? 乗り込んでくるのか?」

「その時々で違うそうですね。どちらにせよ、一時的に停止させて襲うのが定石でしょう」

「こんなに速い弾丸ライナーでも、止められるのか」

「…………人間の死体でも線路に転がしておけば、止めざるをえませんよ」

 平然とした顔で言われてラグがぎょっとする。顔をしかめた彼は、「うん」と弱々しく頷く。

「動物の死骸でも可能な手ですから、人間を使う必要はないのでしょうが……。一番効果があがるのはやはり人間ですね」

 あとで線路からどけるには、巨大な獣ではまずい。効率的な手を考えるとそうなるのだろう。

(……確かに、飢えて死ぬ貧民は多いわ。荒野に転がってる死体を拾ってくれば簡単に事は済むし、使い終わったら荒野に捨てておけばハゲタカが始末してくれる)

 納得するが、あまりいい手ともいえない。けれどルキアが言う以上、人間の死体を使ってこういう手に出てきているのだろう。

 線路に障害物がある場合、必ず止まらねばならない。油断が生まれるのも当然だ。

 列車というのは、停車時が一番隙が生まれやすい。

「後手に回るのは好きではないのですが……仕方ありませんね」

 襲われたら容赦しないと言外に言っているルキアは、トリシアに紅茶のおかわりを頼んでくる。

(そういえば一網打尽にするとか言ってたけど……ブルー・パールが襲われるって確信があるみたいな言い方してたわね)

 いや……というよりは、襲われても襲われなくても、盗賊集団を壊滅させるという意志が見え隠れしているのだ。

(……どうやって……?)

 なんだか空寒いものを感じてトリシアはぎこちない動きになってしまう。

「ルキア、オレも手伝うぞ!」

「ありがとうございます」

 素直に感謝の言葉を述べるルキアはトリシアが淹れた紅茶を口に含み、目を細める。しゃらん、と彼のつけている片眼鏡のチェーンが軽く鳴った。

 なにか考え込むような仕草をしたあと、ルキアがふ、と軽く笑った。トリシアは嫌な予感が的中することに、確信を抱くしかなかった。

 この後、ドナ山脈に入り、しばらくして……ブルー・パールは停車を余儀なくされる。だがそれは、ルキアが言ったこととは違い……内部からの犯行によるものだった。



 ブルー・パール号が急停車したのは、トリシアがハルに呼び止められて医療車両へと案内をしている最中だった。

 彼は貧血気味だと訴え、医務室がどこか探していたのだ。

 確かに元々色白い。帝国人とは違う肌の色をしているが、それでも彼の肌の色は白めだった。もしかしたらあの小瓶の中のものは、乗り物酔いのための酔い止め薬だったのかもしれない。

 思い当たり、トリシアは素直に先導して歩いていた。その時、激しいブレーキ音と共に車体が揺れた。

「きゃあ!」

 衝撃に耐え切れずにバランスを崩すと、ハルが舌打ちしたのが聞こえた。

「おい女。ど……」

 どうなってる? と問おうとしたのだろうが、彼はすぐ近くの降車口から外を見遣り、「ん?」と眉をひそめた。

「なんだ……?」

 ばたばたと足音がし、どこかのドアがこじ開けられる音がしていた。

 トリシアもハルの背後から外をうかがう。大勢の男たちがブルー・パール号を囲んでいた。

(あ、あれは……!)

 見るからに同じマークをつけたスカーフをつけている。仲間、同志だと意志表示している彼らはおそらく……山賊、つまりは盗賊集団だ。

(本当に出た……)

 愕然とするトリシアはおかしいことに気づく。こういう時に率先して出てくるラグやルキアの姿がない。彼らは山賊たちが侵入してきている先頭車両に近い場所に居たはずだ。妙だ。

「チッ。後ろにもいやがる」

 面倒そうに言うハルは目眩でも感じたのか、低く呻いて三歩ほど後ずさった。

「だ、大丈夫ですか、お客様!」

「……うるさい。声がでかい」

「申し訳ありません……」

「……あのちびっこ軍人とセイオンの坊主はどうした。こういう時こそヤツらの出番じゃないのか」

 憎らしげに洩らしたハルは体勢を直し、もう一度外を覗いた。

 すでに外は茜色に染まっている。もうすぐ夜になるのだ。

「ミスター、どこかに……近くの部屋で構いませんから、避難していてください。様子を確かめて参ります」

「バカか、てめぇは。どこに隠れたって、見つかるに決まってるだろ」

 心底馬鹿にした口調で言い放ち、ハルは耳を澄ました。

「……なるほど……。誰かが手引きしたか。乗務員と客を盾にとられてちびっこもセイオンの坊主も手出しができないみたいだな」

「? 聞こえるんですか?」

 会話が。

(ありえない……なにこの人。トリッパーって、特殊能力を持ってるって聞いたことはあるけど)

 戸惑うトリシアを見遣り、ハッとしてハルは顔を真っ赤にした。

「なっ、なんだその顔は! 僕が嘘を言ってるとでも!?」

「え? い、いえ、そんなことは思っておりません」

「な、ならいいんだ……」

 フンと鼻を鳴らすハルは佇み、目を細める。

「……無抵抗のセイオンの坊主は殴りつけられてるな。ちびっこのほうは……手出しができないから拘束されたみたいだ。まぁあいつは貴族だから、痛めつけるとあとで痛い目に遭うとわかってるんだろ」

「見えるんですか?」

「いや、見えない。音でわかる」

 不可思議なことを言い、ハルはトリシアを抱えたまま軽く跳躍した。

 視界が黒いものに包まれ、何が起こったのかわからなかった。だが一瞬で顔に風が当たり、空気や匂いが変わる。

「え?」

 目を見開く。そこはトリシアたちが立っていた車両の真上……車両の上だったのだ。

 取り囲んでいた男たちはもう見張りが3人ほどで、ほとんどは車両に乗り込んでしまったようだ。

 オレンジ色の景色に仰天としているトリシアを見て、ハルはしまったと言わんばかりに顔をしかめる。

「誤解するなよ! つい、だ。つい。

 ヤツらの足音が聞こえたから咄嗟に逃げただけなんだからな!」

「……あの、今のどうやって……」

「関係ない」

 ぴしゃりと言い放たれ、トリシアはそれ以上問うことができなくなってしまった。

 触れられたくないことなのだろう……。トリッパーということも伏せているようだし。

 見張りの者たちは自分たちの視界より上は気づかないようで、トリシアとハルの存在に気づく様子はなかった。

「…………」

 無言になるハルをうかがい、トリシアは不安になって挙動不審になる。

 乗務員の仲間が心配だ。先輩のエミリは大丈夫だろうか? 同じ添乗員のシスカだって……。

 今までこんな集団に囲まれたことがないので、トリシアは動揺していた。物盗りだろうことはわかってはいたが、この山賊たちが何を仕出かすかわかったものではない。

(ラグ……ルキア様も……)

 どうしても、頼れる人物を思い浮かべてしまう。

 それより、護衛のギルド『雲わた』は何をしているのだ?

 時間だけが過ぎていく中、列車内では騒ぎにはなっていてもガラスや物が壊れる音はしない。

(みんな……無事かしら?)

 すっかり辺りは暗い。

 座り込んでいるハルは何かに気づいたようで身を硬くした。途端、列車が動き出す。

「ブルー・パール号が……」

 発進した?

 そんなばかな。

 身を乗り出すトリシアは、進路方向を見遣る。線路に沿って動く列車は真っ直ぐに進んではいるが……。

「機関室が乗っ取られたか……。確かにこの列車はいい金になるが……軍が動けば終わりだろうに」

 面倒そうに言うハルだったが、ふいに気づいて呟く。

「……そうか。ドナ山脈を出るまでに荷物を奪う気なんだな。それまでは、通常通りに動いているように見せかけるってことか」

「なんでそんな面倒なことを……」

「フン。ヤツらもバカじゃないってことだろうな。エキドの街であのちびっこは正式に盗賊退治を任命されたわけじゃないはずだ。つまり、ヤツらはまだ『噂』の段階ってことだ」

「うわさ……?」

 背後のハルを肩越しに見る。彼は難しい表情で、むすっとしていた。

「あのへんに山賊が出る。あのあたりで列車が襲われる『らしい』ってことで、確証は得られていない段階。

 ヤツらは口止めをする時間稼ぎをしているんだろうな」

「口止めって……」

 真っ青になるトリシアから視線を外し、ハルは嘆息した。

「ま、おまえの考えてるようなことじゃないだろうよ。暴力を振るうような連中なら、もうとうに捕まってるさ」

「じゃ、じゃあ……」

 薬、だろうか……。それとも、禁忌とされている操心の魔術だろうか?

「ル、ルキア様を助ければなんとかなるんじゃないでしょうか!」

 声を張り上げると、ハルは面倒そうに目を細めたが頷く。

「盗賊団の魔術陣を吹っ飛ばせるのはあのチビだけだろうよ。大人しくしてるとは思えねぇが……」

「な、なんで彼らが魔術を使っているとわかるんですか?」

「あ? 匂いでわかる」

 におい?

(この人、耳だけじゃなくて鼻もいいの? 無茶苦茶よ……)

 呆然とするトリシアを眺め、ハルは立ち上がった。見事なバランス感覚にトリシアは驚く。この揺れる車両の上で立っていられるなんて。

「あのちびっこと違って正規の魔術師じゃないんだろう。薬品を補助に使ってやがるからな」

「…………」

 そこまでわかるのか……。

 目を丸くしているトリシアを見下ろし、それからハルは視線を動かした。先頭車両の機関室のある方向だ。

「機関室を占拠されたままってのはまずい。もちろん、乗客を人質にとられてるのもな。

 同時にそれを打破できれば、状況も引っ繰り返せるだろうが」

「ど、どうやって」

「どうもこうも、ここには僕とおまえしかいねぇだろ!」

 苛立った声で言われてトリシアは仰天して目を見開いた。

 自分はただの添乗員で、護衛術もろくに知らない。それなのに……そんなことができるだろうか?

「機関室のほうは僕がなんとかしてやる。おまえはあのちびっこか、セイオンの坊主のどちらかを助けろ」

「む、無茶よ!」

「無茶でもやるしかねぇだろ。

 まあ、放っておいてもいいことだが……変な薬品嗅がされておかしくなってもいいならな」

「それは……」

 困る。同僚たちの身に危険が及ぶなんて……。乗客の者たちにだって……。

 みんなを助けたいという気持ちはあるが、トリシアは自分にできることがなんなのか理解していた。できないことはできないと、脳がはっきり訴えている。

(ルキア様を助ければ間違いなく優勢になる……! でも私にできるの?)

 どんな薬品を使用されるのかわからないのが不安要素だった。人体に害が出るかもしれない可能性も、充分にありえる。

「…………」

 唇を軽く噛み、トリシアはハルを見つめた。

「……やれるだけ、やってみます。勝算があると思ってよろしいですか?」

「さあな。まぁ……機関室は取り戻してやる」

 自信満々に言ってのけるハルはトリシアの凝視に気づき、頬を軽く染めた。

「な、なんだ!」

「いえ……ミスターは、剣士でも魔術師でもないのに……勇気がおありなのだと思いまして」

「ばっ……! な、なに言ってるんだ!」

 真っ赤になるハルが慌てふためき、顔を逸らす。それをトリシアは視線で追った。

(……見た目と違って性格は素直なのかしら……)

「ミスターはその、やはりトリッパーでいらっしゃるのでしょうか?」

「……それが今、関係あるのかよ?」

 トリシアの質問に彼は不機嫌そうな声で応じる。

(……やっぱり隠したいことなのかしら。べつに迫害したりなんてしないけど……やっぱり嫌なことでもあったと思うべきよね)

 でも……。

(これは絶対にトリッパーに違いないわ。露骨に不機嫌な顔になったらすぐわかっちゃうもの)




 闇夜の中、トリシアはごくりと喉を鳴らした。車両から飛び降りるだなんて……!

(無茶苦茶よ!)

 作戦を提案したハルのほうを見遣るが、彼は不機嫌そうな顔のまま、風を受けているだけだ。

(……ラグかルキア様を助け出せればなんとかなる……!)

 暗示のように自身に言い聞かせ、呼吸を整える。

 横のハルを見上げる。

「いいわ……! 行きましょう!」

「…………」

 ハルは目を細めると、ばさりと外套を振るった。薄く開いた唇から牙がうかがえる。

 肉体に変化が起こるというトリッパーの特徴だ。

「行くぞ!」

 合図と共にトリシアは彼の体にしがみついた。刹那、ふわりと空中に浮かぶ。

 ぐん! と、突然上空に引っ張り上げられた。がくん、と今度は肉体に負荷がかかる。

 風が顔に当たって痛い。

 瞼を開くと、そこはすでに空の中だった。はるか下に列車が見える。

「重い……」

 低い声で文句を言うハルは、ばさりと外套を鳴らした。

(う、浮いてる……! 本当に!)

 信じられないことだ。魔術だって人体浮遊はできないというのに!

 これがトリッパーの……異能種の能力!

 驚愕するトリシアを抱えたハルが前方を見遣る。

「機関室はあそこか。確かに外からしか行けねぇな……。

 あのセイオンの坊主と、ちびっこ軍人は……なるほど、あそこか」

 ハルが、とんっ、と軽く宙を蹴った。すると急降下!

(ひゃあああああああああああー!)

 内心で悲鳴をあげてしがみつくトリシアのことなど気にせず、機関室目掛けて一気に降下する。

 衝撃がくる! と身構えていたのに、それはなかった。直前でハルが方向を変えてトリシアを大事に抱え込むと右手で車両の天井を貫いたのだ。

 機関室へと無遠慮に侵入したハルは、驚く盗賊たちを見据え、爛々と輝く金色の瞳を向けた。

「いけ!」

 命じた声に応じて、空中から黒い霧が発生し、周囲を包む。あっという間の出来事に全員が唖然とする。

 霧は一度室内に広まると、急速に収束して幾羽ものコウモリへと変じていた。

 ハルが軽く手を振ると、コウモリたちは盗賊たちに一斉に襲い掛かる。

「わああ!」

「ちょっ、なんだこれ!」

「切っても切っても……!」

 霧でできたコウモリに剣は効かない。

 混乱して剣を振り回す男たちの間をハルがづかづかと進んでいく。そして男たちに足を引っ掛けて転ばせていく。

 転倒した男たち目掛けてコウモリが大群で寄ってくるのでたまったものではないだろう。

「ふん。大人しくなったな」

 完全に気絶してしまった盗賊たちを見遣り、ハルは鼻を鳴らす。

 呆然としているトリシアを一瞥し、ハルが忌々しそうに口を開いた。

「なにしてる。さっさとそいつらを縛り上げろ!」

「あ、はい!」

「チッ」

 舌打ちするハルは嘆息し、額を手でおさえた。そういえば……顔色が悪い?

「あの、ミスター、顔色が……」

 心配してそっと手を近づけると彼はハッとして顔を赤らめるとすぐさま後退した。

「寄るな! それより早くこいつらを縛り上げろ!」

「あ、は、はい!」

 トリシアはてきぱきと持って来たロープで男たちを縛り上げていく。なるべくきつく、ほどけないようにと祈りながら。専門的な縛り方はわからないので、できるだけ力を入れてきつくした。

 機関室はこれで取り戻した。

 ハルはあれこれと室内を眺めていたが、引き戸を開けてから敵を待ち構えるような体勢をとった。

「ミスター、何を……」

「入り口が狭いほうが大人数を相手にするほうは利にかなってるんだ。

 それより、魔術機関はどうだ?」

 機関室にある、動力源である魔術機関をトリシアは見遣った。魔術の知識は少ししかない。けれども、この列車の乗務員として最低限の情報は憶えている。

 魔術機関の魔術式はぼんやりと淡く光り輝き、陣の構成をありありとトリシアに見せていた。それはいつも見るものとは違う構成術式!

「進路は変更されています」

「おまえは、直せそうか?」

「無茶をおっしゃらないでください! 私はただの添乗員ですよ!」

「チッ。まあそうだろうな」

 わかりきっていたのだろうが、確認のために訊いたようだ。ムッとするトリシアに構わず、ハルは車両の連結部分を眺める。

「……機関室だけ連結がもろに見えるんだな」

「そりゃ、乗客の皆さんはここには立ち入り禁止ですし」

「レトロだな。僕の世界の列車も大差ない」

 小さく呟いたハルは一瞬渋い表情をするが、すぐに改める。

「仲間がすぐに来る。おまえは霧にまぎれてちび軍人を助けに行け。セイオンの坊主でもいい」

「一人でですかっ!?」

 無理だ無理!

 仰天するトリシアの言葉をハルは無視した。

「あいつらさえなんとかすれば、乗客は助けられるだろ。ったく……なんでことしなきゃいけねーんだよ」

 ありえねぇ……。

「おい! あそこにいたぞ!」

 声が聞こえてきて、トリシアは反論する間もなく黒い霧に包まれた。心構えも何もありはしない。

 連結場所がある引き戸を目指し、なるべく壁にそって歩く。

 黒い霧の中では叫び声や混乱した動きが伝わってくる。この騒ぎに乗じてなんとか機関室を脱出したトリシアははっ、としてこちらにまだ向かって来る男たちの姿に身を屈めた。

 こんな狭い場所では逃げるところもない。仕方なく、車両の横に張り付いて進むことにした。

(まさかこんなことまでする羽目になるなんて……!)

 大昔、えんとつ掃除を手伝っていたことが役立つなんて!

 教会で暮らしていた時、こづかいを稼ぐためにえんとつ掃除の手伝いをよくしていたトリシアは、車両のくぼみに足をかけて、窓から見られないように進む。

 風圧がすごい。これでも速度は緩やかになっているので、振り落とされないで済む。

 手で掴む場所が少ないため、爪を立てるようにして、ゆっくりと足を横に動かした。少しでも失敗すれば、落下して打撲……で済めばいいが……。

 連結部分まで到着し、やっと一息ついた。

(ここからどうすれば……ルキア様もラグも、捕まってるのは二等食堂車なのに……)

 いくらなんでも遠すぎる。

 考えていると、ぐらり、と列車が揺れた。何かを破壊する音だ。

(えっ、なに? なんなの?)

 驚愕してその場でうかがっていると、どごん、と鈍い音がして一つの車両がバラバラに砕けた。

「っ!」

 あまりのことに声を失っていると、それは闇夜でそう見えただけで、本当は車両の天井部分が斬り裂かれたのだとわかった。

 だが天井部分だけではない。車両の上半分が被害に遭っている。

(な、なにあれ……)

 顔を覗かせ、風に逆らって目を凝らす。

 すると、突っ立っている人物が見えた。

 長身で、黒い外套が激しい風に揺れている。その下の、肌にぴったりとしたシャツ。少しぶかぶかしたズボンと、軍靴に近い編み上げのブーツ姿の男は……。

(! ラグ!?)

 彼の肌を覆っていた黒い封印包帯がはずれ、風にさらわれるようにばたばたと暴れていた。

 虚ろな瞳のラグはうっすらと笑う。

 高笑いをするラグは右手に大剣を持っている。あんな大きな剣を外套の下に隠していたとは驚きだ。

 片刃の剣は斬首のために秀でたような形をしている。ゾッとするトリシアは急いで駆け出した。

 車両と車両に体を滑り込ませて、引き戸を開ける。向かう先にはきっと乗り込んできた敵もいることだろう。だがあの様子では……。

(下手したら、死人が出てるんじゃ……)

 無我夢中で向かうトリシアは、引き戸を開けた。

 天井のない車両。そこに立っている長身の青年。隅に固まっている同僚や他の乗客たちは、畏怖の目で彼を見ている。

 床に転がっているものは、盗賊たちのようだった。彼らは皆、うめき声をあげている。その中には『雲わた』のメンバーもいる。

 暗い瞳で立っているラグが見据えているのは、同じくただ一人だけ立っているルキアだった。

 長い髪をはためかせ、ルキアは右手の人差し指と中指だけを立てて攻撃態勢に入っている。

「ルキア様!」

 声を大きくして叫ぶと、彼は肩越しにこちらを見遣った。同様にラグもこちらにちらりと視線を遣ってくる。

「……トリシア、無事だったのですか。安心しました」

 軽く微笑むルキアは、視線をラグに戻した。ラグもまた、ルキアに注意を戻す。

「盗賊たちがラグを痛めつけた際に、彼の封印具を破損させてしまったようなのです。そこから動かないように、トリシア」

 剣を構えるラグに素早くルキアが指先を向けた。

「『走れ、疾風』」

 短い詠唱と共に、細長い風の刃がラグを襲う。乱暴に剣を振り回すラグだったが、鋭い一撃に剣を弾かれてしまった。

(す、すごいルキア様!)

 戦い慣れをしているルキアはラグとの距離を縮めようとはしない。近距離戦闘に持ち込まれると不利だとわかっているのだろう。

 逆にラグは距離を詰めようと間合いをはかっている。揺れる包帯は、まるで彼に縛りついている鎖を連想させた。

 ドアにもたれながらトリシアはごくりと喉を鳴らした。その時だ。大きく車体が傾いだ。

(あっ、わ、ああ!)

 よろめきつつトリシアはドアにしがみついた。きっと機関室で何かがあったのだ。

(……ミスター!?)

 振り返り、戻るべきかを考える。

 だが自分が向かっても足手まといにしかならないだろう。

 しかし、と思って視線を戻す。ざっくりとなくなっている天井を見上げると星が見えた。

(これ……ラグがやったのかしら……)

 状況からしてそうだろうが……人間業ではない。一体どうやってこれほどの破壊力を出せたのだろう?

 あの黒い包帯がきっと理由なのだろうが……封印するほどの何かをラグが抱えているということだ。

 弾き飛ばされた剣の位置を目だけ動かして確認したラグは、静かに距離を開いていく。ルキアは動かない。

 どちらも仕掛けるタイミングを待っているようだ。

「『くだれ、天上の業火』」

 先に仕掛けたのはルキアだった。彼は素早く呪文を唱え、腕をぐるりと自分の周囲めがけてまわす。炎の輪が彼を包んだ。

「『踊れ、炎陣』」

 ごうっ、とルキアを囲んでいた炎が火柱のようになり、一気に燃える勢いを増す。そしてラグの足元からも同じ火柱があがった。

 驚いて身を固くするラグが周囲を見遣る。戸惑いを隠せない彼は低く唸った。

「もう大丈夫ですよ、トリシア」

 声をかけられて見入っていたトリシアが驚愕する。見れば、ルキアの周りの火柱は消えうせていた。

 彼はその場で肩越しにこちらを見遣り、微笑んだ。

「あのまま燃え続ければラグは酸欠になって意識がとびますから、このまま放置しておきましょう。

 盗賊たちを縛り上げるのを手伝ってくれますか?」

「え? あ、は、はい」

 呆然としたままそう答えると、ルキアがくるりとこちらに体全部を振り返らせた。この場に不似合いな、可愛らしい動きだった。

「大丈夫。自分がついていますよ、トリシア」

 その言葉に、苦笑いがつい、口元に浮かんでしまう。


 無事に盗賊たちは捕まえられ、次の駅で軍に引き渡すことになった。手引きをしたのは『雲わた』のメンバーだったことが判明。

 列車はトラブルも起きたが、なんとか奪還できた。

 次の駅では二等食堂車を切り離し、修理に出すことになった。二等食堂車は帝都に着くまではないことになり、二等客室に泊まっている客たちは一等食堂車で食事をすることとなった。

 ラグは意識を失い、その後ルキアがなにやらしていたおかげか、傷だらけではあったが元気になった。

 ハルのほうは車掌のジャックに散々感謝されていたが、あまり他人と関わりたくないのか、不機嫌そうに鼻を鳴らして自室へと戻ってしまう。

 一連の出来事を思い起こし、トリシアは溜息をつくしかなかった。

(今回の旅は、一筋縄ではいかなさそう……)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ