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9話 甘いものの試食


空気の重さはそのままに、目を開けた。夢の苦い余韻がまだ肌に貼りついている。

ゆっくり身を起こす。息は浅く乱れ、部屋の隅の蝋燭がぱちぱちと鳴って、石壁に落ちる影を揺らした。

ベッドの前の椅子には、人影が一つ。身を乗り出すようにして座っていた。


「……大丈夫か」

クロが低く、どこか後ろめたそうに言う。


私は用心深く見つめた。

「クロ……? ちょっと待って。――ここ、私の部屋だよね。どうやって入ったの?」


彼は図々しいほど落ち着いて帽子の位置を直す。

「クロノスタシス」


まばたきをする。

「……そっか。あなたのその力、たまに忘れる」


彼の口元に居心地悪そうな笑みが浮かんだ。

「本気で言ってる。自分でも変態みたいだ……楽しみすぎた」


私は眉をひそめ、腕を組む。

「最悪」


クロは指先で口元と鼻先を隠すようにして、ぼそりと続けた。

「でも、おかげで力は戻った。……少しは“浄化”された気分だ」


私はじろりと睨む。

「それ、全然おもしろくない」


彼は気まずそうにくつくつ笑った。

「わかってる。でも君の気が少しでも紛れるなら……それでいい。ここから出すのは嫌だろ? だからせめて、様子見に来た」


椅子にもたれ、指先で机をとんとん叩きながら、言い淀むように口を開く。

「リュダ……二つだけ、質問してもいいか」


「内容による」


子供が冤罪を誓うみたいに、彼は片手を上げた。

「変なことは聞かない。約束する」


ため息をつく。

「わかった。二つだけ許す」


「まず一つ目……前世のこと、本当に何も覚えてないのか?」


胸がきゅっと縮む。私は蝋燭の揺らぎに視線を逸らした。

「うん。あの学校の夢を見ている間は全部わかるのに、目が覚めると――砂みたいに指の間からこぼれていく。そこで生きていた気がするのに、同時に、私のものじゃないって感じるだけ」


クロはゆっくりうなずいた。予想していた――それでも痛む、という顔で。


「思い出したい」私は唇を噛む。「あなた一人に背負わせるのは不公平。……きっと、孤独だよね」


彼の表情が和らぐ。

「やってみる。――」

上げた指先に、淡い闇の光が宿る。

「“ビヨンド・ジ・エッジ”で、置いてきたものを見せられるかもしれない」


「お願い」


額にそっと触れた指先――光は、ため息のように消えた。


「……だめか」

彼は眉間に皺を寄せて、諦め半分に笑う。

「これにも耐性があるんだな」


私は拳を握った。

「じゃあ……あなたは、やっぱり一人のまま」


「バカ言うな」

声音は凛として、でも頬は少し赤い。

「俺には、お前がいる」


頬が熱くなり、思わず横を向く。

「……そ、そう」


彼はおどけるように片眉を上げた。

「じゃ、俺の力にどこまで耐えられるか――試すか」


「え?」


「“ダンス・オブ・イリュージョン”」


目の前にクロが二人。どちらも、やけに堂々と微笑んでいる。


「君の瞳はどんな宝石より綺麗だ」

「いや、君の笑顔こそ永遠を照らす」


私はうんざりと息を吐き、剣を抜いて迷いなく片方を貫いた。影は煙のように崩れる。

「わかりやすすぎ」


本物のクロは肩をすくめ、次を出した。

「“マスカレード”」


見えないランウェイを歩くモデルの真似――大げさなポーズ、芝居がかった仕草。


「……ただの茶番」


決めポーズの途中で固まった彼が、きょとんとする。

「え? 変化、見えないのか」


「うん。いつも“本当のあなた”が見えてる」


彼は一瞬だけ萎れて、すぐに指を向けた。

「じゃ、これ。“リボルト・フロム・ジ・アビス”」


「私を悪魔扱いするつもり?」


彼は両手を上げて後ずさる。

「試しただけだよ」


私が呆れた息を吐くより早く、彼は指を鳴らした。

「“クロノスタシス”」


「ちょっと!」


壁にもたれて、わざとらしく優雅に笑う。

「からかっただけ」


私は目を回す。けれど彼の表情がふっと変わり、声が低く沈んだ。

「“ナイトメア・アウトブレイク”」


世界がひとまたぎに歪む。気づけば私は羽のように軽く――クロの腕に抱え上げられていた。


「な、なにしてるの! 下ろして!」


彼はくるりと回ってみせる。

「残念、これは絶対」


「馬鹿みたい!」


胸を小突くと、次の瞬間にはもう、私は自分の足で立っていて、彼が真面目な目でこちらを見ていた。


「じゃあ……二つ目の質問」彼は息を整える。「もう一度、やってもいいか」


頬が一気に熱を帯びる。

「な、なにを――」


私は聖剣の柄で彼の頭をこつんと叩いた。

「ばか!」


「いって……! そっちじゃないって! また俺に“食わせて”くれるのかって――いや、その意味じゃなくて!」


私は額を手で覆う。

「言葉の選び方、最悪」


「じゃ、妄想した君の責任だな。堕ちた聖女さま」


「あなたほど楽しんでない」


彼は息を詰まらせ、帽子のつばで顔を隠した。私は腕を組み、久々に言葉を詰まらせた彼を見て小さく勝ち誇る。


やがて、彼の眼差しが少しだけ寂しげになる。

「全部が終わったら……“イチゴサンド”を奢る」


「……なにそれ?」


「イチゴとクリームのサンドイッチ。前の世界で――君のお気に入りだった」


私は小さくうなずくしかなかった。

「誘ってくれるなら、喜んで」


空気がやわらぎ、温度を帯びる。私はふと思い出して胸を張った。

「でも、都の名物菓子も気になる。“デビルズ・フード・ケーキ”」


口にしただけで、唇に笑みがのぼる。

「牛の血と、東の島の果実の粒でできているって噂。食べたら止まらなくなって、何個でも食べ続けちゃうとか。強い意思がないと、一つでやめられないんだって」


クロは片眉を上げ、目に悪戯っぽい光を宿す。

「そんな危ないもので、度胸試し、ね」


私はいつの間にか壁に背を預けていた。彼が一歩近づく。声は低く、わずかに艶を帯びる。


「“デビルズ・フード・ケーキ”を本気で試したいんなら――

……俺を味見してみろ」


顔から火が出そうになる。

「な、なに言って――」


彼はくつっと笑い、軽く身を引いた。

「冗談だよ。そんなに真顔になるな」


「もう!」


私はもう一度、こん、と剣の柄で肩を小突く。彼はどこか満足げに微笑んだ。


「いつか、本当に味わえるといいな」


「うん。解放されたら、都で真っ先に食べる」


「――菓子の話じゃない」


彼は煙のように消え、私だけが残された。胸の鼓動が、まだ煩い。


しばらくして、私は冷たい石床に膝をつき、目を閉じて両手を組む。

「女神よ……道を照らして。埋もれた過去を求めることは、正しいのですか」


静寂が満ち、呼吸が整い、闇がそっと寄り添う。

そして――見えた。


――壁に優雅な鏡が掛けられた広間。

映り込むのは見知らぬ顔、触れられない記憶。私は鏡面に手を伸ばす。だが、震えるように拒まれた。


はっとして目を開く。息が上がっている。

「……まだ、足りない」


歯を食いしばって、もう一度瞼を閉じる。

今度は、かすかな閃き。

ぼやけた鏡の中に、ひとりの少年――金髪の、反抗的な目をした制服姿。


胸が跳ねる。さらに強く目を閉じ、焦点を合わせようとしたとき、水底から浮かぶみたいに声が届いた。


『イチゴサンドもうまいけどさ、俺は激辛のカップ麺の方が好き』


像は波紋になって砕け、私は息を呑んだまま、笑いとも困惑ともつかない震えに包まれる。


「はは……これが、私が最初に掘り起こせた記憶、なの?」


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