8話 悪魔への誘惑
「そんなに……そんなに食べる必要があるなら――」
私は深く息を吸い。
「……私でいいわ」
クロが瞬きをした。まるでとんでもない冒涜を聞いたかのように。
「な、なにっ!? 冗談じゃない!」
慌てて三歩も後ずさりし、両腕で顔を隠す。頬に昇る熱をどうにか隠そうとする仕草が、逆に子供っぽく見えた。
「君、自分で何を言ってるかわかってるのか!? 聖女だぞ、君は!」
「だからこそよ」
心臓が暴れるのを必死に抑えながら、私は真っ直ぐに見据えた。
「私は強い。耐えられる。もしあなたが他の人を傷つけずに済むなら、代わりに私でいい。聖女の魂は折れない。信仰は揺るがない。負の感情が欲しいなら……私から取ればいい」
「そ、そんな……」
クロは視線を逸らし、もぞもぞと身をよじった。声は妙に幼い響きを帯びている。
「そんなふうに……堂々と差し出されても困るだろ」
私は片眉を上げた。
「つまり、私は――悪魔を誘惑してるってこと?」
「そりゃ誘惑されてるに決まってるだろ!!」
クロは真っ赤になって背を向け、耳まで赤く染めた。
「聖女がそんなこと言うなんて、どう考えても卑猥だろ! こっちを変態みたいにするな!」
思わず、胸を押さえて小さく笑ってしまう。
「じゃあ選びなさい、悪魔。罪のない人を壊し続けるのか……それとも、壊れない相手で試してみるのか」
クロは黙り込んだ。肩がこわばり、呼吸も乱れている。やがて顔を上げた時、その琥珀の瞳には抑えきれない渇きと、同じくらいの恥じらいが浮かんでいた。
「……くそっ、ルーダ」
震える声が空気を震わせる。
「悪魔にこんな誘惑をするなんて……残酷すぎる」
クロは部屋を行ったり来たりし、迷いを噛み殺していた。手は震え、視線は床に落ちたまま。受け入れるか拒むか、その選択が胸を焼いているのが伝わってくる。
私は無意識に一歩踏み出していた。
余計な演出もなく、ただ自然に、彼の手を取った。
彼は凍りついたように動けなくなった。次の瞬間、目を見開き、かすかながら強がろうとする囁き声を漏らした。
「そんなことを――すべきじゃない……悪魔に」
私はその瞳をじっと見返した。
「命じる。やれ。そしてこれを終わらせて」
声は短く、震えはなかった。
恥ずかしさが顔を駆け抜ける。赤らんだ頬は一気に首筋まで上り、身体を前に傾けてしまう。なんとも滑稽で愛らしい仕草だった。やがて、かすかな残響のような声で、彼は告げた。
「わかった。わかったよ……受け入れる」
その手を胸に当て、鼓動を抑えるようにして、慎重に、しかし淡々と説明を始めた。声は重く落ち着いている。
「ただ悪夢を与えるだけじゃない。悪魔を満たすには――人の深くに刺さっているものを引き出す必要がある。恐怖だけじゃだめだ。罪悪感、羞恥、長年抱えた痛み。深く掘り起こさなきゃならない。美しいものではない。残酷だ」
私は動かずにそれを聞いた。胸の奥が締めつけられるようだったが、表情には迷いを見せない。
「私の霊盾は耐える。もし他者を救うためなら、耐えられる」
クロは唇を引き結び、警告と疲労が混じった目で私を見た。
「俺はただの悪魔ではない。王の血筋の子だ。血統が与えたものは他と違う――力も、限界もだ。もし俺が制御を失えば、お前の霊盾を永遠に砕いてしまうかもしれない。お前を守るものを破壊してしまう可能性がある。それは脅しじゃない。現実だ」
その言葉は重く、部屋の空気を濃くした。虚勢や大げさな見せ球ではない、古くからの重みを帯びた警告だった。
聞くと胸が痛んだ。恐怖ではない。私の差し出した代償が、もし彼の制御を超えることでどれほど高くつくかを理解したからだ。
私は深く息を吸い、彼の手をさらに強く握って契りを交わすようにした。
「それで他人を傷つけるのをやめるなら、受けるわ。だが、もしいつか線を越えて私の守りを壊したなら――その責任は私が取る。私が果たす」
彼は目を閉じ、鞭の痛みと慈しみが同時に当たったかのような表情を浮かべた。再び瞳を開くと、そこには恥だけでなく、苦い決意とほのかな優しさが宿っていた。
「契約は成立した」
私は短く頷きた。
「やって」
私は振り返った。
そこにいたのは学生姿のクロ。
制服のジャケットは開きっぱなし、ネクタイもだらしなく緩め、手はポケットに突っ込んだまま。
その目は琥珀に赤を宿し、まるで不良の笑み。
彼はロッカーをドンと叩きつけ、私の横の金属が震えた。
「おい、どうしたよ? 今日もお前のヒーロー様は来ねぇのか?」
「誰にも助けてもらう必要なんてない。」
「ケッ、強がってんじゃねぇよ。テメェ一人じゃ何もできねぇくせに。」
肩を乱暴に押され、よろめいた私の腕をつかんで引き戻す。
力なんて入っていないようなのに、まるでボロ人形みたいに体が動かせなかった。
「ルダぁ…お前マジでヘナチョコだな。下向いて我慢すんのしか能がねぇ。」
「泣かない。」
唇をかみしめて答えた。
クロは鼻で笑い、乱暴に私の顎をつかんで顔を上げさせる。
「泣かねぇのが強さか? バカ言ってんじゃねぇよ。そうやって必死に耐えてんのが、一番面白ぇんだよ。」
顎をパシッと離すと、退屈そうに私の周りを回りだす。
獲物をもてあそぶ狼のように。
「どうだ? 誰も守ってくれねぇ時の気分はよ。俺が一番よく教えてやれるぜ。」
教室に影が満ち、人影が浮かんだ。顔のない級友たちが囁く。
「ほら、また哀れな負け犬だ。」
「詩人ぶってんじゃねぇよ、気持ちわりぃ。」
「誰にも好かれねぇんだよ。」
痛みが胸を突き刺す。
でも私は息を整え、睨み返した。
「誰にも見られなくても…笑われても…絶対に折れたりしない。」
クロは一瞬だけ黙り、次に口の端を歪めた。
その笑みは残酷で…どこか嬉しそうでもあった。
「ククッ…やっぱ頑固だな、テメェは。血ィ流して中でボロボロになりながら、外じゃ平気な顔してやがる。…最高だぜ、聖女サマ。」
次の瞬間、彼は私の腕を乱暴につかんで黒板に叩きつけた。
チョークの粉が舞い、背中に衝撃が走る。
痛みに歯を食いしばったけど、涙が勝手に溢れ落ちた。
クロが顔を近づけ、囁く。
「ハハッ…いい顔だな。ようやく折れたかと思えば…まだ必死に立ってんのか。テメェ、マジでやべぇ餌だよ。」
私は膝から崩れ落ち、呼吸を乱しながら床に手をついた。
クロの声は甘い毒のように落ちてきた。
「安心しろよ。殺しはしねぇ。まだ楽しませてもらわねぇとな。」
その笑い声が空っぽの教室に響いた。
「たとえ闇に閉ざされてもな。」
クロが振り返る。
私はゆっくりと立ち上がる。
涙を拭うでもなく、ただ親指で乱暴に頬をぬぐった。
顔を上げる。
「夜は必ず明ける。」




