7話 対峙の舞踏会
書斎は高価な線香と古いワインの匂いに満ちていた。閉め切られたカーテンの隙間から差す朝の光はわずかで、中で響く声を押し込めようとしているかのようだ。
視線が私を刺すように向けられた。私は背筋を伸ばし、部屋の中央に立って黙っていた。
ラナの父、男爵は顎に手をやり、しかめ面をしている。
「聖女リュダ。息子の言うことは本当かね? 魔王の息子が目の前にいたのに、なぜ討たなかったのか?」
深く息を吸って、私ははっきりと答えた。
「私の務めは軽率に動くことではなく、確証を得てから行動することです。相手はその時に討ちます。」
部屋に不満のざわめきが広がった。群れのようなざわめきだ。
「聖女だと? そんな者があの魔物を放したのか!」と、豊かな髭をたくわえた貴族が喚き立てる。
頷く者、低く囁く者、怒りを滲ませる者。空気は重い。
私は冷静に言う。
「私は娘さんの命を救いました」
男爵の顔が硬くなる。
「命だと? 娘は言動を失い、ありもしない学校や悪魔の話を繰り返している。私たちのこともわからない。そういう状態を“救った”と言えるのか。もしこのまま生き続けるのなら、死んだ方がましだ」
別の細面の男が付け加える。
「看過できぬ。もし本当に魔王の息子であったのなら、怠慢以外に説明はない」
そこですぐに剣を抜いて、ここでお前たちに命じると叫べば、私は自分の使命をその場で果たしたことになるだろう。だが、それはしなかった。
男爵は開いた掌で机を一度叩いた。
「では認めるのか。目の前にいたのに何もしなかったと!」
私は顔を上げ、一歩も引かずに答えた。
「遭遇したことは認めます。認識したことも認めます。生かしてしまっていることも認めます。しかし、それは失敗だということとは別です」
「言い訳だ! 我が家は代々教会に寄進してきた。結果を期待している、躊躇は望んでいない!」と男爵が声を上げる。
別の貴族が同意して言う。
「その通りだ。庇護を保証しない寺院を支持する理由はない。世俗政府が必要だ、教会に頼らない統治を」
男爵はその言葉を長年待ち望んだ甘い誘惑のように噛みしめるように目を細めた。
「話は明快だ。リュダは魔王の息子を目の前にしたが、始末しなかった。これは直ちに教会に報告されねばならぬ。正式な指示が来るまで、ここを出ることは許さん」
私は呆れを含んだ視線で答えた。
「私をまるで囚人扱いにするつもりですか? 私の使命は教会と私自身のものです。続けねばなりません」
「禁ずる!」と男爵が再び机を打った。その一撃は鞭のように空気を裂いた。
「我が屋敷の下にいる限り、我が言うことに従え。直ちに書状を出す。上層部からの返答を待て」
貴族たちのざわめきが書斎を満たす。満足げに笑う者、軽蔑の目で私を見る者。まるで私は汚れた戦利品のようだ。
私は歯を噛みしめ、目を伏せた――従順の印ではなく、怒りを押しとどめるためだ。これ以上言葉を重ねれば、彼らは私を鉄の鎖ではなく、政治と利害という見えない鎖で縛る理由を見つけるだけだと分かっていた。
瞑想はやがて私を眠りの縁へと導いた。
目を開くと、そこはあり得ぬ場所。誰もいない大広間。宙に浮かぶ燭台が淡い光を放っていた。
――ナイトメア・アウトブレイク。
そして、いつものように、彼はそこにいた。
笑わない。からかわない。ただ真剣な眼差しを向けてくる。その視線が、かえって私を落ち着かなくさせた。
「リュダ……」
声は柔らかく、ほとんど懇願するようだった。
「聞いてほしい」
私は拳を握りしめる。
「悪魔の言葉など、聞くつもりはない」
彼が一歩踏み出すと、足元の床がひび割れ、まるで夢そのものが彼に従っているかのようだった。
「俺はただの悪魔じゃない。血筋の重みに囚われる以前に……覚えているんだ。
お前が受けた仕打ちを、俺たちが受けた仕打ちを……そして、お前の死を背負った」
クロウはさらに近づいた。マントが生き物のように揺らめく。
「俺は人を見ただけで、その者の前世が見える」
唇に苦い笑みを浮かべ、続ける。
「そうして気づいた。お前が彼女だと」
信じられない気持ちと恐怖、そして否応なく胸を焦がす希望が入り混じる。
「その力は……大昔の聖女にしか与えられなかった奇跡。
“ビヨンド・ジ・エッジ”……」
「知っている」
クロウは静かにうなずいた。
「だが、残念ながら俺は聖女じゃない。
お前が滅ぼすと誓った存在だ。……それでも、俺は目を逸らせない」
その告白は、私を氷のように固まらせた。
胸が痛んだが、私は視線を維持することを自分に強いた。
「復讐して何が得られるの? 記憶のない子供を拷問して、何になるの?」
クロは眉を寄せ、初めてその笑みが崩れた。
「気に入らないか? 痛みは現実だ。嘲りも、涙も、傷も――残っている。お前が忘れても、魂の記録には刻まれている。俺の方には彫り込まれているんだ。これは世界を越え、次元を越え、命さえ越える法だ」
「そこが違うのよ。私は忘れた。皆忘れた。過去に縛られているのはあなただけ」
沈黙が広がる。クロはうつむき、その影が彼を飲み込むように伸びた。
「ならば、忘れられない僕は……せめて、加害者たちに思い出させてやる。俺は魔王の息子だ。罪ある者たちを地獄の深淵へ引きずり込むために生まれた」
その声は非情に変わったが、どこか震える痛みが混じっていた。
私は一歩踏み出し、額を高くして言った。
「もし復讐のためにこの世界を引き裂くつもりなら、クロ、私が止めると誓う」
彼は私を見つめ、その目に一瞬だけあり得ないほどの優しさが灯った。
「いつも同じことを言うな……いつも、止めるって誓う」
少し身をかがめるようにして、撫でかける仕草をしたが、指は空中で止まった。
「それでも、リュダ……お前は、俺を殺さねばならないとしても、殺すべきではないと感じないか?」
胸が締めつけられたが、私は答えなかった。
「じゃあ、言ってくれ、クロ」
声は思いのほか冷たかった。
「今まで何人殺した?」
彼は初めてためらい、顔を逸らした。その仕草は、どこか恥じらいにも似ていた。
「……誰も」
驚きで黙り込む私。クロは唇を噛み、いたずらを見咎められた子供のように、低く打ち明けた。
「俺は殺さない。ただ喰らうんだ。内側を絞り尽くす。死なせはしないが、中身が空っぽの殻にする」
二人の間の空気が重くなる。それはどんな殺害よりも冷酷な真実だった。
「それがお前の言う地獄なのか」
私は目を逸らさずに言った。
クロは肩をすくめ、謝罪にも似た苦い笑みを浮かべる。
「苦しみは死よりも良い罰だ」
「やめて」
クロは悲しみと興味を混ぜた目で私を見た。まるで私の言葉が世界で最も馬鹿げた要求であるかのように。
「俺にやめろと言うのか?」
彼は軽く笑い、その声には苦さが混じっていた。
「リュダ、それは人間に二度と水を飲むな、食事を取るなと頼むようなものだ」
私は体を固くした。彼の語りは嘲りではなく、残酷な現実の告白だった。
「人間は悪魔の糧だ。殺すこともできる、そうだが俺はそうしない」
彼は真剣な顔で続けた。
「なぜかって? 親に教わったからだ。必要なだけ取れ、均衡を尊べ。お前にとって“中身のない殻”は永遠の悪夢だろうが、小さな悪魔や弱い小物にとっては、他の大きな悪魔と食い合うよりも、勝手に享受できる泉なんだ」
「均衡? それで人を壊していいの?」
私の声は震えた。
暗がりで彼の赤い瞳が光る。
「みんなが同じ考えとは限らん。俺は殺さないが、他は躊躇わずにやる。人が消える瞬間の味は格別だ。戦の後、焼き尽くされた村の絶望を喰らった記憶がある。人間側から見れば、卵を食べる者と雌鶏を絞める者の違いだろう。だが、楽しみで鶏を殺す奴もいる」
クロは肩をすくめ、悲しげな笑みを浮かべる。それはこれまで見せた傲慢さとは違った。
「呼び方は自由だ。呪いか義務か本能か。だが、そんな俺が本質だ。人間の絶望を糧にする悪魔だ」
私は息をつき、胸に手を当てた。
「結局、誰にも生きる権利があるのね――人間も、獣も、悪魔も」
クロは眩い笑みを見せた。
「その通りだ」




