6話 命を越えて残る怨念
大聖堂の庭は春の花でいっぱいだった。
私は髪に曲がったリボンを結び、生け垣の間を走り抜けてラナを追いかけていた。笑い声が響く。
「もっと早く、リュダ!」
彼女が手を引き、赤い巻き毛が跳ねるたびに磨かれた銅のように光っていた。
芝生に倒れ込み、ふたりで大笑いした。先に起き上がったラナは誇らしげに言った。
「ねえ、兄さんが勲章をもらったのよ」
その目は憧れで輝いている。
「本当の英雄なんだから!」
「それは……すごいね」
私は唇を無理やり笑みにしてつぶやいた。
「リュダだって、いつか勲章をもらえるよ」
ラナが肩を軽く叩いて励ます。
「三つの王国でただひとりの聖女候補なんだから!」
私は視線を落とし、スカートをぎゅっと握った。大勢の前に立ち、拍手や称号を受ける自分を想像しただけで、手のひらに汗がにじむ。
「わ、私には無理かも……」
ラナは驚いたように目を見開き、それから優しく笑った。恐怖を吹き飛ばすような軽やかな笑みだった。
「大丈夫。正式に聖女になったら、みんながあなたを憧れるわ。私も……私が一番に拍手するから」
その言葉は、温かい約束として胸に刻まれた。
ラナは手を下ろし、ため息をつくように声を落とした。
「兄さんに会ってみたいな。私が生まれる前に戦争に行っちゃって。残ってるのは肖像画とお父さんの話だけなの」
彼女は首を振り、いたずらっぽい笑みを向けてきた。
「だから、お父さんが神殿に寄付を届けるとき、こっそり馬車に乗り込むの。そうすればあなたと遊べるから」
私は驚いてまばたきした。
「私と……?
「もちろんよ! 家の侍女は退屈だし、他の子たちもお高くとまってる。あなたは――」
そう言って、私の乱れた三つ編みをつまんで、ぎこちなく直し始めた。
「面白いの」
誰も、神殿の姉妹以外で私の白い異国の髪に触れたことはなかった。聖女に定められた印のような髪だ。
「ずっと友達でいようね?」
ラナの眼差しは真剣だ。
「会えるときはいつでも遊びに来るって約束する」
私は手を握りしめ、恥ずかしそうに頷いた。
「う、うん……ずっとね」
――月日は流れ、庭での遊びは過去のものとなった。
ラナは大人びて背も伸び、気品があふれていた。ある午後、私が回廊で刺繍をしていると、彼女は顔を近づけて囁いた。
「リュダ、秘密教えてあげる」
興味が湧いて返事する。
「うん」
「好きな子がいるの」
唇を覆い、ぷっと笑う。
「青い瞳で、私を見るといつも微笑むの。今日もお父さんと一緒に来てたわよ」
「その子、さっき見たわ」
針を止めて眉をひそめる。
「え、好きって?」
ラナはヴァルスのリズムに頭を傾げるように楽しげだ。
「そう、恋よ」
私は言葉が見つからず、顔が赤くなる。
「本を読んだの。魔王を討った英雄の話――剣の英雄は本当に勇ましかった。憧れるの」
ラナは一瞬私を見て、吹き出すように笑った。
「ほんとに? リュダ。亡き英雄に恋するなんて滑稽よ」
慌てて訂正する。
「違うの。恋じゃなくて、ただ……強さを尊敬してるだけ」
ラナは鼻で笑う。
「変わってるわね、リュダ」
その後、ラナは頻繁には来なくなった。代わりに手紙が来るようになった。
最初は絵や家の出来事が綴られた温かい便り。だんだん短くなり、やがてあっさりした挨拶と数行の署名だけになった。最後に届いた一通は、震える手で開くとこう書かれていた。
「リュダへ。王都の学校に受かったの。これからは勉学で手一杯。聖女さまの道を応援してるわ。ラナ」
文字は丁寧で、でもそこに昔の彼女はいなかった。
石のベンチに座り、私は紙を見つめ続けた。やがて文字が滲んでくる。
「私、何か悪いことしたのかな……」と小さく呟くと、背中に優しい手が触れた。
リリスが微笑んで立っている。
「リュダ」彼女の声は穏やかだ。
「貴族の生活は違うのよ。ラナには元から決まった道があった。王都で学び、舞踏会に出て、家の期待に応える――いつか距離ができるもの」
「でも手紙が冷たくなっていったの」と私は言うと、リリスは私を抱きしめた。
「それはあなたのせいじゃない。距離は人を変えることがある。でも、君たちの共有した時間は消えないわ」
私は破れた便箋を握りしめ、ぽっかり空いた心の穴を感じていた。
◇ ◇ ◇
捜索隊は松明を掲げて広がっていた。私は白い馬に割り当てられたが、品が良すぎて身がすくむ気がした。月光に照らされた鞍は、私が象徴しなければならないものの虚飾のように見えた。だが本能が私を引いていった。見えない痛みが、いつもと同じ場所を指していた。
空気は一歩ごとに重くなる。洞窟の入口に着くと、酒のカビと湿気が鼻をつく。そこに、彼がいた。樽の上に座り、観客じみた落ち着きで私を眺めている。足元にはラナがうずくまり、夢に引き裂かれるように身をよじっていた。
「――放せ」
私は声をはっきり出す。
クロは首をかしげ、甘い笑みを浮かべる。
「嫌だ」
「やめて」私は刀を抜いた。黄金の光が刃を走る。
「彼女を離せ」
彼は肘を膝に乗せ、頬に手を当てて退屈そうに見せる。
「言っただろう、嫌だって」
一歩踏み出し、最初の斬りを浴びせる。刃は彼の首に向かって弧を描いた。だが彼は受け止めようともせず、わざと避けもしない。ラナの叫びが裂け、彼女は身体を折るように痛みに耐える。
私は刃を止める。首を切り落とす直前で止めたのだ。
「やめなさい!」と叫ぶ。
クロは愛おしげに微笑み、秘密を共有する恋人のような口調で言う。
「君が叫ぶなきゃ、楽しめないもの」
「何がしたいの? もうだまされない」私は言い放つ。
クロは小さく笑い、低く囁いた。
「だます? リュダ、君をだます必要なんてないよ。理由なくそんなことはしない」
彼の視線はラナへ落ちる。彼女はうめき、悪夢の中で身をよじる。
「変わってないね。あの子は偽善で、自己中心的で、誰かに輝かれることを恐れる」
私は眉を寄せる。
「何を言ってるの」
クロは指をパチンと鳴らす。ラナが痙攣し、まるで魂を引き裂かれるように叫ぶ。
「ねえ、どうして手紙を書かなくなったか知りたい?」と彼は甘く問うた。炭のように燃える瞳で私を見る。
「忙しかったからでも、貴族の生活に引き込まれたからでもない。嫉妬で腐っていったんだよ」
胸が締めつけられる。
「その子が好きだった男の子が、実は――誰を見ていたか分かる?」と彼が続けると、口元がひんやりと笑う。
「君を見てたんだ。寺院で見かけたあの日から、彼は君に惹かれていた」
ラナが夢の中で叫ぶ。クロは嘲るように続ける。
「だから彼女は逃げた。君を置いて」
「やめて!」
私は剣を振り上げ、彼とラナの間に立つ。クロの笑みが刃先へと変わる。
「彼女を傷つけさせない」
その瞬間、クロの表情が、ふっとひび割れたように見えた。失望。少しの悲しみ。だがすぐに声を潜め、囁く。
「もっと面白い話をしてあげようか?」彼の声は低く、暗い。
私は刃を握り締め返す。クロはしゃがんでラナの側に寄り、陰を落として見下ろした。そこで彼はぽつりと言った。
「前にも同じことがあった」
背筋に凍るものが走る。
「彼女も……私と同じように、僕に恋したんだ」
その言葉に、ラナのうめきは一段と激しくなる。
「でも僕はセツナしか見ていなかった」
セツナ、その名が胸に突き刺さる。怒りがかき消し、言葉を失う。
「嘘よ!」と叫ぶ。
「嘘か?」クロは微笑む。声は柔らかだが、目には残酷さがある。
「彼女は耐えきれず、中傷を始めた。日々、日常的に。女たちがそれに追随して、結果は知ってるはずだ」
ラナがのたうち、爪で土を掻く。クロは薄笑いを浮かべ、ラナの巻き毛を二本つまんで、軽蔑を滲ませるように囁いた。
「イガラシ・カオリちゃん、違うかい?」
「ちゃん」づけの響きは刃となって夢の中に突き刺さり、ラナはさらに苦しみの声を上げる。
私は剣でラナとクロの間を遮る。
「やめて! 殺す気?」
私は真実を全部信じているわけではなかった。だがラナを助けなければならない。
「言っただろう、“何でも頼んで”って」数日前、彼が言った言葉を利用する。罠を張るように問いかける。
「彼女を殺さず、放して」
クロは満足げに笑い、ゆっくりと立ち上がった。
「そう言うなら……」と言って手を差し伸べる。
ラナは湿った吐息を漏らして目を覚ました。四つん這いで震え、目を見開くと守られていると分かり、か細く嗚咽するように私にすがった。
「リュダ!」彼女の声は震えていた。
「彼が……魔王の息子よ! 夢で見たの! 言ってたのよ!」
驚きはしなかった。胸は既にそれを知っていた。
クロは悲しげに笑った。低く囁く。
「だいぶ間抜けな知らせの受け方だね」
彼の赤みを帯びた琥珀の瞳が私を見据える。
「リュダ、ここで今すぐ僕を殺すかい? それが君の使命だ。皆がそう期待してる」
剣先が微かに震える。恐れではない、言葉の重みのせいだ。
深く息を吸い、私は静かに答えた。
「その時が来れば」
クロは目を閉じ、答えを喜ぶように微笑んだ。
「じゃあ、その日を待とう」
彼は淡々と歩き去り、洞窟の出口へ向かう。まるでラナのことなど重要ではないかのように。
「待って!」私は叫び、ラナに向かって言った。顔は土で汚れ、涙の跡が残っている。
「ここに残ってなさい。私が戻るまで出ないで」
そして彼の後を追った。だが曲がり角を回った先で、入口の明かりが差す場所に若い兵士が立っていた。ヨハネス・カブラル、ラナの兄だ。
「聖女リュダ! 妹は……?」彼が慌てて尋ねる。
返事をする前に、ラナがふらふらと暗闇から出てきた。足もとがおぼつかず、声が嗄れていた。
「彼が行かせた! 目の前で逃したの! あの人は魔王の息子よ!」
兄の顔が一瞬硬くなる。疑念が走る。
「本当か?」と低く問うた。私は口を開けるが言葉が出ない。
石造りの天井に低く漏れる笑い声。クロが影から現れ、暗い光に包まれて立つ。
「お喋りだね、ラナ」彼の声は毒のようだ。
ラナは震え、彼は手をひらりと振る動作で花を撒く仕草をしながら、冷たく笑った。
「学びは無駄じゃなかったかもね。でも、結局この人生でも学んでない。さあ、もっと話しなよ」
ラナは取り乱し、言葉を繋げられずに錯乱したように叫び出した。
「ごめんなさい! 学校じゃ私のせいじゃなかった! 幽霊がセツナって! 魔王の息子が出た、見たの! セツナ、あなたを殺して、仲良くなるって、ふはは……駅で会うって言ったの、セツナちゃん……」
その言葉は破片のように砕け、場に響いた。クロの姿は消えていた。
私は動けなかった。魔法でも呪いでもない。私を止めているのは、自分の心が鉛のように重くなっていたからだ。
剣を握りしめたまま、自然に涙が溢れた。無意識にしゃがみ込み、ラナを抱き締める。彼女は嗚咽し続け、兄は呆然と立ち尽くした。




