5話 その夜のハイライト
馬車に揺られながら、窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
「メレナ王国」の広い大地は緑に覆われ、森は生き生きとして、動物たちが自由に草を食み、歩き回っている。
美しい光景――なのに、心は何度も同じ場所へ戻ってしまう。
あの黒髪の死霊術師。
柔らかな笑みを浮かべ、私の心を不安定にさせる、あの人。
夢に現れる少年のぼやけた姿は、少しずつ遠のいていく。
代わりに、目の前に現れる「彼」が心を占めていた。
窓に映る自分の顔は紅潮し、視線は宙を漂い、唇がかすかに震えていた。
名前を与えてはいけない想い。
怖い……けれど、どこか心地よい。
◇ ◇ ◇
街に着いた頃には、もう夜だった。
貴族の館の大広間は、光と音楽に満ちあふれている。
天井から吊るされたシャンデリアには無数の硝子の星が輝き、足元の大理石は淡い桃色に染まり、まるで鏡のように来賓たちを映していた。
「新しい時代の初代聖女、剣の聖女リューダ様のご到着です!」
ざわめきは拍手に変わり、嵐のように私を包んだ。
笑顔、囁き声、扇子の奥からの冷たい視線。
そこにあるのは好奇でも羨望でもない。
私を人間としてではなく、展示物のように見ているのだ。
前へ進み出たのは、この街を治めるアリエテ男爵。
妻と息子を従え、勝ち誇ったような瞳で私を見つめてくる。
「光栄ですな。二十年ぶりの聖女を、我が家に迎えられるとは」
その声は広間全体に響き渡り、客たちは頭を縦に振り、ある者は祝詞を口にし、ある者は嫉妬の色を隠さなかった。
私は礼を崩さず、頭を下げる。
――仮面舞踏会のような宴。
人の善意を騙る虚飾の場。
私の心は、怒りで燃えそうだった。
やがて、男爵の息子が一歩前に出る。
金髪を丁寧に撫でつけ、緑の瞳を曖昧に光らせる。
「ヨハネス・カブラル。男爵家の長子です」
完璧な礼。完璧な笑み。
しかし、心の奥には迷いの影しかなかった。
私は同じように返礼する。
周囲の女性たちは溜息を漏らし、男性たちは満足げにうなずいた。
まるで、すべてが決まっているかのように。
「ところで聖女様――魔王の息子の行方について、何か掴んでおられるのですかな?」
男爵は冷ややかな視線で探りを入れてきた。
喉が詰まり、短く答える。
「……まだ、何も」
「そうですか。残念ですな」
口元は笑っているが、目は冷たい。
男爵は声量を上げ、広間全体に聞かせるように続ける。
「我が家は長年、大聖堂に黄金を寄進してきた。あなたも相応の修練を積んでおられる。――数日で片が付く、と信じていましたぞ」
私は礼を崩さず、頭を下げる。
――寄進を楯に、恩を売るつもりね。
やがて、男爵の息子が一歩前に出る。
金髪を丁寧に撫でつけ、緑の瞳を曖昧に光らせる。
「ヨハネス・カブラル。男爵家の長子です」
完璧な礼。完璧な笑み。
しかし、心の奥には迷いの影しかなかった。
私は同じように返礼する。
周囲の女性たちは溜息を漏らし、男性たちは満足げにうなずいた。
まるで、すべてが決まっているかのように。
夫人が甘い声で言う。
「使命を果たしたあとは、どうなさるの? 聖女様が一人でいるのは惜しいこと。ねえ、聖女長のように弟子を育てるのも素敵だけれど」
男爵は間髪入れずに重ねた。
「うちの息子は未来ある青年です。幼くして魔王軍との戦でも功績をあげた。あなたが使命を果たした暁には、支える伴侶として申し分ないでしょう」
――装飾品。
――家の威信を飾る宝。
胸は焼けつきそうだったが、私は微笑みを作り、冷静に返す。
「私の生はまだ神に預けられたまま。今はただ、光と人々のためにあるのみです」
男爵は余裕の笑みを崩さない。
「ええ、もちろん」
視線は私を値踏みし、白い衣と聖剣を“家の力”としか見ていない。
――もし、彼がここにいたら。
その瞬間、胸の奥に「カチリ」と時の音が響いた。
音楽は途切れ、舞踏は止まり、カーテンも杯もすべて静止する。
クロノスタシス。
空気が凍りつく。
そして――彼は現れた。
黒のつば広フェドラを目深にかぶり、長い外套の裏地は紅の炎を思わせる。
胸の金具は質素に光り、脚には髑髏を彫り込んだ小さなプレート。
墓地にも舞踏会にも似合う靴音。
黒髪は波のように揺れ、蝋燭の光が彼を幽霊のように浮かび上がらせる。
彼は群衆の間を幽鬼のように歩き、ただ私にだけ微笑む。
「こんな華やかな宴でさえ、本当の宝を敬う者はいないとは」
目の前に立ち、優雅に一礼した。
フェドラの天頂のくぼみは、深い影で骸骨にも見える。赤を宿す琥珀の瞳は、私だけを映していた。
――私だけを。
私は小さく息を吐き、一歩進む。
彼の**コートの襟**は思い切り立てられ、顎のあたりまで跳ね上がっている。
私はその両端をつまみ、ぱたんと下ろして整えた。
「……え?」
「仮装でからかうつもりなら――せめて着こなしぐらいは正しく」
彼は耳まで真っ赤になり、慌てて口元を覆った。
「かっこいいと思ったのに……褒められるどころか、叱られるなんて」
――ときどき、思春期を引きずる少年の幼さがのぞく。
私は冷ややかに微笑む。
「本当に厚かましい」
彼はすぐに真顔に戻り、静かに手を合わせて拍手した。
「聖女リューダ。奉献、おめでとう」
「ここにいるべきじゃない」
「でも来たよ。“君が僕を殺す”って約束しただろう。――殺される前に、君の“聖女お披露目の宴”には顔を出しておきたくてね」
心臓が跳ねた。
――来てくれたことが、嬉しいと思ってしまった。
けれど、時間はまだ止まったまま。
私は舞い上がるように剣を振り、光の軌跡で彼の胸を貫いた。
膝をついた「彼」は、やわらかく微笑むと――黒い煙になって消える。
「……やはり、偽物」
音楽が戻り、灯火が瞬き、舞踏会のざわめきが一気に蘇る。
「――お嬢様が! 男爵家の娘がいない!」
悲鳴が響く。
私は剣を握りしめたまま、息を荒げた。
本当の彼の狙いは、ここから始まるのだ。




