3話 謎の死霊術師
暁の鐘が鳴るころ、私の勘はすでに森の奥へと私を導いていた。
――彼がいる。
聖なる短剣を握りしめて進む。空気が重くなる。何かに狙われている気配。木々の間から、いきなり一群の亡霊が現れた。
柄を強く握り込む。
亡霊の攻撃が霊的な盾にぶつかり、引っかき傷の連打と衝撃だけが続く。
――朝のこの時間に亡霊? おかしい……。
踏み込んで斬り払う。刃が光った――が、その瞬間、影は煙のように消えた。
誰かが手を出した。
振り向く。そこに、あの死霊術師の冒険者が立っていた。
「おはよう。……また困ってるの?」
彼の笑みは穏やかだった。
「あなたの助けはいらない」
「そう?」
彼は首を傾げる。
私は唇を結ぶ。言葉が出ない。
――守らなくていい。
彼は小さくため息をついた。
「“守らないでほしい”って、ことでしょ」
私はにらむ。
「何の話?」
彼は柔らかく笑ったが、その声にはどこか懐かしさが混じっていた。
「信用してない相手に守られたくはないだろうな、って」
くるりと背を向ける。朝の光がその輪郭を縁取る。言葉の余韻が胸に残った。
「……あなたは何者?」
「名前のこと?」
少し考えてから、彼は言った。
「じゃあ“クロ”でいい」
「クロ? 妙な名ね。魔族語の語源にも合わないし、聞いたことがない」
彼は楽しそうに微笑み、杖で地面にだるそうに文字を描く。
「ほんとは“クロウ”なんだけど、“クロ”の方がいい。こう書く――『玄狼』。深い闇の狼、不思議って意味」
思わず視線を落とし、つぶやいていた。
「……たしかに。薄闇に潜む狼って印象」
一瞬、彼は黙り、目に柔らかな懐旧が灯る。
「うん。前にも言われた」
「じゃあ、あなたは“異邦”の人ね」
失礼にならない程度に、きっぱり言う。
「いつ来たの? 目的は? “死霊術師の冒険者”って話、信じない」
「ただの旅の死霊術師だよ」
「信じない」
彼は静かに近づき、甘く落ち着いた仕草で顔を寄せる。
「気づいてるだろ。この森は“暗い流入”に侵されてる。死者の霊じゃない」
唇が震える。正しいと分かっていても、うなずくのは癪だった。
「その沈黙、雄弁だね。――ところで自己紹介は? この街じゃ有名だよ。東の神殿の“美しい神官”、魔王討伐後はじめての“新たな聖女候補”」
背を向ける。頬が熱い。
「悪魔の口から賛辞はいらない」
「ごめん、ごめん」
帽子の陰で、気まずそうに笑っているのが見えた。
「私が誰かは分かってるなら、もういい。――これ以上、この森をうろつくのは許さない」
彼は小さく頭を下げ、叱られたのを受け入れるような仕草をする。そして、秘密を打ち明けるみたいに声を落とした。
「言葉は厳しいけど、目はそうでもない」
歩き出す彼。木々の影に紛れる前に、振り向いて、痛いほど優しい声で言った。
「“クロ”。僕の名前、忘れないで」
「あなたの存在はこの森を汚す。次に会ったら――」
私は短剣を持ち上げる。彼は刃を一瞥し、またまっすぐ私を見る。甘く、そして真剣に。
「はいはい」
***
神殿に戻ってから、図書庫にこもり、“相手の正体”を探る手がかりを探した。
「リュダ、心配だわ。ずっと図書庫にこもりっぱなし。食事も抜いて、祈りにも顔を出してないじゃない」
「――あの死霊術師は魔族。何者か突き止める。討って、記録に残す」
「ふふ……なるほどね。それで、何か分かったの?」
「何も。名も気配も異常。しかも悪事の形跡なし。昨日は迷子の子も見つけてくれた。一般の苦情も、森の“濃さ”以外はなし」
「ふふ、そういうこと」
「絶対何か企んでるんだよ。私の勘も感知もごまかせるはずないし。
でも罪も攻撃もなかったら手は出せないでしょ。しかも悪事の形跡もゼロ。
昨日なんて子どもまで見つけてくれたんだよ?『森が濃くなってる』って苦情以外はほんとになにもないの!」
「落ち着きなさい。彼が何もしてないなら、少し“話術”を試してみればいいのよ。先にあなたが翻弄してごらん?」
ぱたん、と本を閉じて大きくため息。頭の中がちょっとスッキリする。
「はぁ…ほんと戦うことしか考えてなかったな。聖女になったら交渉も大事って分かってるけど……まさか“魔族相手”に使うなんて思わないでしょ」
私は頭を抱えて深いため息。
「最悪なのは私の態度だよ。彼はちゃんと名乗ったのに、私…まともに名乗りもしなかったじゃん」
思わずリリスの手をぎ「落ち着きなさい。彼が何もしてないなら、少し“話術”を試してみればいいのよ。先にあなたが翻弄してごらん?」ゅっと握る。
「ありがと、リリス。私、絶対あの人から情報を引き出すから。討つ前に。大司祭様にちゃんと報告するためにも」
リリスは小さく笑って、肩をすくめた。
「はいはい、分かってるわよ」
***
夕日が沈むころ、私は再び森へ。
開けた場所で彼を見つける。亡霊に囲まれている――が、杖で地面を軽く叩くと、影は一瞬で消えた。
息を呑む。
――あれは、ただの死霊術師の力量じゃない。
「お、来たんだ」
「私の義務を、興味と混同しないで」
彼は小さくうなずき、苦笑する。
「じゃあ、君の“光る短剣”で僕を浄化するつもりかな。」
落ち葉が足元で舞う。私は深呼吸し、裾を少し摘んで礼をした。
「私はリュダ。東のルミナス神殿の神官……そして聖女候補。これまでの無礼を詫びます。証もないまま“魔族”と決めつけるのは正しくない」
背筋を伸ばす。クロは驚いた顔をして、それから口元に笑みを隠した。
「へえ、意外だ」
視線をそらす彼。わずかに頬が赤い。
私は先の態度を思い出して、慌てて言い添える。
「べ、別にあなたを信じたわけじゃない。ただ……公平でいたいだけ。分かり合えるなら、それに越したことはない」
彼は子どものように柔らかく笑った。
「面白いね。さっきまで“処刑人”みたいだったのに、今は立派なレディ」
私の所作を真似て、大げさに礼をする。
「ではこちらもご挨拶を。僕はクロ。ささやかな死霊術師の旅人です。よろしく、リュダ」
彼は胸に手を当て、片目をつむる。胸が跳ねた。――時間を止め、影を操る者には見えない、一瞬の“普通の青年”。
「“クロ”にこだわるのね。姓は?」
クロは獲物を測る獣のように、ゆっくり私の周りを回る。
「“クロ”で十分。お嬢さんも姓はないだろ?」
「教会に仕える者は皆、姓を捨てるの。光に人生を捧げる誓い。――でもあなたは?」
私は目を細めて追う。
「“クロだけ”は都合がよすぎる。過去も、家も、血もない男?」
彼は静かに笑い、空気が一段冷たくなる。
「じゃあ、“自由な男”かもね」
低い囁きが背を冷やす。
「あるいは、“呪われた男”。口にできない名を背負ってる」
狼のような視線が、あからさまに私をなぞる。
「ねえ、神官のリュダ。……本当に、僕の名が聞きたい?」
私は視線を逸らさない。
「言葉で脅しても無駄よ、クロ」
彼はつば広の影に瞳を隠し、いたずらっぽく笑う。
「手厳しいな。ちょっと格好つけたかっただけ。――神官は皆そう? それとも“聖女候補”の君が特別、頑固?」
「話を逸らさないで」
彼の唇が、禁じられた名の最初の音を形作る。息が詰まる。
クロは人差し指を唇に当て、甘く、秘密めいて笑った。
「もう一つの名を言ったら、“クロ”って呼ぶ楽しみが減る。君の声で呼ばれる“クロ”の方が、ずっと綺麗だ」
掌で口元を隠す。頬に、うっすら赤み。
「暗い名を、神官に呼ばせるのは――いいね」
心臓が一拍止まる。
抗議しようとしたときには、彼はもうひらりと背を向けていた。
「またすぐ会おう、リュダ。今度は、少しだけ話を増やすよ」
***
その夜も、私を守ってくれる“あの少年”の夢を見た。
舞い散る桜。
彼の言葉が胸を刺す。
「――もう、死にてぇ…」
「何言ってんのよ」
「俺、ほんとクズだわ。最後のケンカで……やり過ぎた」
私は頬にそっと触れる。傷はいつもより多い。
「闇を怖がらないで。闇があるから、光が分かるんだよ」
「君が俺に光見てるなら、もう“怪物”の言い訳できねぇな」
「わ、私……その……」
目を閉じ、開けると、森の広場にいた。
「こんばんは」
クロが木にもたれて、琥珀に赤を宿す瞳でこちらを見る。
私の姿は学生ではなく、神官の私自身だった。
――ナイトメア・アウトブレイク。魔族の力。間違いない。
「あなたは何の魔族?」
クロは教師のように指を立てる。
「安心して。ここは安全。君と僕だけ」
指を鳴らすと、月光の庭園が広がった。テーブル、燭台、湯気の立つティーポット。
クロは黒のガバルディンの服に身を包み、楽しげな目で紅茶を注ぐ。初めて見る素手――しなやかで丈夫そうな手。爪は黒かった。
「何が目的?」
彼の笑みは柔らかくなる。
「ただの夢だよ。悪夢の代わりに、お茶会に招待したかった」
私は仕方なく向かいに座る。甘く落ち着く香り。
クロは顎に手を添え、私を見つめる。
「ねえ、入る前――何の夢を見てた?」
私は目を見開く。
「……誰でもない」
「“誰でもない”。ってことは、“誰か”だね」
口が先に動いた。
「……多分、男の子」
彼の顔が一瞬陰る。すぐに笑みが戻る。
「神官がそういう夢、ね」
「ち、違う! 優しい人で、いつも守ってくれて……私のせいで喧嘩して、傷だらけになって……私は……」
クロは驚いたように目を見開き、それから優しく笑う。
「変わったね。……でも、罪悪感で眉を寄せると、前と同じだ」
「前って、誰と?」
「……彼女。君は――」
言葉が途切れ、手が震え、ポットが傾きかける。
初めて見る彼の不器用さに、思わず笑ってしまった。
「ちょ、ちょっと。僕だって失敗くらいする。格好つけたいだけなんだよ。君は――」
クロは視線を横にそらす。垣根の花が急に大事なものになったみたいに。だが時々、また私を見る。
庭が震え、夢が軋む。
クロは手を伸ばす。水中のように髪が揺れる。
「リュダ。できるなら、このお茶会にずっといたい」
まばたきの間に、目を覚ました。熱の残る頬。耳に残る彼の最後の言葉。
***
真夜中の森に戻るのは、奇妙だった。
空気は澄み、暗い気配はない。
彼は木の根元に座り、目を閉じていた。深く静かな呼吸。眠っているのかと思った。
短剣を構えて近づくと、彼は片目を開けて、眠たげに笑った。
「時間ぴったり」
頬が熱くなる。柄を握り直す。
「ここに来たのは……義務だから」
クロは小さく笑う。
「周りを見て」
力なく手を上げる。森は穏やかで、虫が鳴き、風が通る。
「何もしてない。ただ――休んでるだけ」
一瞬、本当にただ木陰で眠る青年に見えた。
短剣を構えた神官の私の方が、傲慢に思えて――胸が痛む。
少し離れて腰を下ろす。短剣は離さない。
「僕を信じないのは分かってる。でも、少し一緒にいるのは……悪くない」
私は俯く。
静けさが満ちる。気まずくない。心地いい。
初めて、森が“清らか”に感じられた。クロの暗さでさえ、妙に馴染む。
立ち上がる前、彼がかすかに囁いた。
「来てくれて、ありがとう。……お茶会、楽しめたならいい」
体が固まる。心臓が強く打つ。
見上げると、彼はもう目を閉じていた。何も言っていないかのように。
「あなたは……何の魔族?」
「どうして、そこにこだわるの」
「私の夢に、勝手に入った」
「許可はいらない。――それに、証拠もないのに“魔族”って呼ぶのはやめるって、さっき言ってなかった?」
「それとこれとは別。私の夢に入る許可は、出してない」
「なるほど。つまり、“魔族だから”じゃなくて、“恥ずかしい夢を無断で見られるのが嫌”ってことだ」
彼は帽子を目深にして、笑いを隠す。
頬が熱くなる。
「……私の夢に入るの、禁止!」
思ったより高い声が出た。
「じゃあ、あの“少年”は入ってもいいの?」
胸の奥がぐらりと揺れる。私は膝をつき、短剣を両手で構え――そして止まる。
「彼は……関係ない。彼は彼」
「そっか」
クロは相変わらず、落ち着いている。
「二度とやらないで」
「分かった、分かった。――君が頼まない限りは」
「誰が頼むのよ!」
私の即答に、彼は声を上げて笑った。澄んだ笑い声が森に響く。
胸の前で柄を握りしめる。
唇を噛み、涙がにじむ。
すると――暗くて温かい重みが、そっと頭に置かれた。
「何でも頼んでいい」
彼の手が、そっと髪を乱す。
リリスの手が“母”なら、クロの手は“魔”。それでも、不思議な温かさがあった。
次の瞬間――彼は自分でその手を引っ込めた。
「……ごめん。つい、勝手に触れてしまった」
私は涙を浮かべたまま短剣を握りしめ、一歩踏み込む。
「騙されない」
クロは一拍、沈黙する。
「言葉以外で、分からせるしかないか」
立ち上がった彼は、木々の奥へ。影に消える。私は追う。
やがて開けた場所に出る。彼は大木の根元に杖を立てた。
近づいて覗く――微かな闇の残滓。
「ここに“門”があった。もう処理した」
「やっぱり。あの地獄犬は、ここから」
「開きすぎた。今は封じた。特定の日だけ、かすかに開く。森が崩れるほどじゃない」
拳を握る。森は確かに“きれい”だ。だが、彼は――違う。
相手の“正体”は掴めないまま。知っている闇とも、違う。
「――これで信じる?」
「目で見せたって、許可なく夢に入るのは別問題。……あなた、インキュバスなの?」
彼は口元に手を当て、照れたように目を丸くする。
「そう見える?」
私は眉を寄せる。
「夢に入った」
「うん。君の注意を引きたくて。――でも、“インキュバスの気配が分かる聖女候補”か。経験豊富?」
顔が一気に熱くなる。
「冗談だよ。君が“きちんとした神官”なのは分かってる。……ところで、式には招待してくれる? もうすぐだって聞いた」
「しない」
「冷たいな。でも、行くよ」
「その日、私は来て――あなたを討つ」
彼は厳かな仕草で頭を垂れる。
「じゃあ、約束。ここで待ってる」
暁の鐘が鳴る。クロは背を向け、歩き出す。
朝の光が黒髪を照らし、彼は森に溶けた。息が上がる。胸だけが、熱かった。




