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2話 森を彷徨う魔

「……魔族?」

リリスの顔が青ざめた。


「間違いない。あれは魔族よ。自分を冒険者の死霊術師だって名乗ったけど」


彼女はため息をつき、首を振る。

「じゃあ、多分その気配を勘違いしたんでしょう。死霊術師は職業柄、暗い気をまとうもの。魔王が倒されてから、この世界に魔族なんて現れていないわ」


「違う。クロノスタシスを使ったの。あれは死霊術師の術じゃない。魔族の力だ」


「まあ! 本当だとしたら、あなたは相当な魔力量を持ってるのね。クロノスタシスの中で動ける者なんて、限られた高位の神官ぐらいよ。あるいは……」


「……あるいは?」


「ただの恋の矢に当たっただけかも。時間が止まったように感じるのは、恋に落ちた時の心理よ」


リリスは両手で頬を押さえ、夢見るようにうっとりした。


「……え?」


「夢に出てくる少年に恋して、今度は死霊術師の冒険者にも心を奪われた聖女リュダ。なんてロマンチック!」


「だから違うってば!」


胸がドクンと高鳴る。


「でもね、乙女の心は誰にでもあるもの。十八年間も神殿にこもって勉強と修練だけしてきたんだから、恋のひとつやふたつ当然よ」


「私は運命を否定しないわ。確かに赤子の頃から大司祭様に預けられてここで育った。でも果たすべき使命がある。誰もが生まれた時から背負っているもの」


「私は神官で幸せ。でも乙女の恋物語はやっぱり大好きなの!」

リリスの瞳がきらきら輝く。


「私が聖女として任命され、聖なる武器を授かった時――その日のうちにまず、この神殿の仲間たちと子供たちを守る。そして森全体を浄化し、あの森を彷徨う魔を打ち滅ぼす」


「……それが本当に魔族じゃなく、ただの死霊術師の冒険者だったら?」


「う……」

言葉に詰まり、思わずうつむく。

「……その時は謝る」


「ふふふ。じゃあ使命を果たした後は、ぜひ恋の時間を持ちなさいね」


ため息をつき、私はリリスの膝に頭を預ける。彼女は優しく頭を撫でてくれた。


「子供の頃は、銀髪に生まれたのは本当に聖女の証なのか疑ったこともあった。女神に印をつけられたことさえ恨んだ時期も。でも過去の聖女たちを学び、とりわけ魔王を討った聖女の存在を知って……誇りと勇気をもらえた」


夢の少年と、あの死霊術師を思い出す。二人は私を脆くする。だがその脆さが嫌ではなかった。

「私は使命のために生まれた。でも時々、使命の方が私を生んだのだと感じる」


「いい子ね。ほんと、いい子」


翌朝、大司祭様――この神殿を束ねる女性――は、聖なる武器を受け取りに王都へと出発された。私は神殿を任されることになった。姉妹たちの多くは私より年上だったが、修練を積んでいるのは私だけだった。彼女たちは祈りと奉仕に身を捧げていたのだ。


その日の夕方、村人が涙を流しながら大聖堂に駆け込んできた。幼い娘が森に仕掛けた罠を見に行ったきり戻らないという。村の占い婆は「迷ったのではなく、何かに捕らわれている」と告げたそうだ。


「大司祭様は留守です」

私は息を整えて答える。

「でも私に任せてください。必ず娘さんを連れ戻します」


男は涙を流し、深く頭を下げた。

「さすがは聖女様!」


「まだ正式ではありません」

私は微笑んで返す。

「でも聖なる武器がなくても、約束は果たします」


リリスが腕をつかむ。心配そうな顔だった。

「リュダ、本気? 夜明けまで待つか、せめて私や他の神官を連れて行けば……」


私は首を振る。

「大丈夫。時間が惜しい。夜明けまで待てば手遅れになるかもしれない。聖水と短剣を用意して」


私は夕暮れまでに少女を見つけ、戻るつもりだった。

空気は濃く、影は伸びていく。

霊的な圧力が盾にぶつかってくる。私にとっては些細なものでも、普通の人間ならとうに方向を失い、恐怖に飲み込まれていたはずだ。


――彼がいる。

この濃さは普通じゃない。あの死霊術師が関わっている。


証拠はいらなかった。

葉さえ息を止めるような静寂。

そして――現れた。


木々の間から、黒い波打つ髪の青年が姿を見せる。

琥珀の瞳に赤を宿し、鋭くも温かい光を放っていた。


彼は立ち止まり、私を見ていた。まるで待っていたかのように。


「……また会ったな」

声は柔らかかった。


「少女を返しなさい」


「物騒だな。ただ散歩していただけだよ」


私は短剣を抜き、彼を睨む。

「返せ」


一瞬、静寂。

だが彼は優しく笑った。


「そんな目で見ないでくれ。短剣を使わなくても、殺されそうだ」


くるりと背を向け、杖を掲げる。

「行こう。手伝ってやる」


森の奥を指差した。

「こっちだ。生きてるよ。そんなに心配する必要はない」


深呼吸すると、確かに小さな気配を感じた。

彼の言う通りだった。


走り出すと、木の根元に少女が眠っていた。その隣には、黒い毛玉のような影が寄り添っている。


私は聖水を取り出した。


「わあ、可愛い!」

死霊術師が先に駆け寄った。


影は跳ね回り、尻尾を振る。


「どこから来たんだ? お腹いっぱいか? よしよし、いい子だな!」

彼は膝をつき、楽しそうに撫でている。


私は慎重に近づき、その正体を見抜いた。

それは犬のように見えたが、実際には“地獄犬”。少女の恐怖を餌にしていたのだ。


「どいて。そいつは地獄犬。少女を食らっていた」


彼は犬を抱き寄せ、庇った。

「こいつは害をなさない。君だって傷つけるつもりはないだろう」


声は穏やかで揺るぎない。

「少女を殺すなんてできない。ただ彼女の恐怖を吸っていただけさ。迷ってたのは、この犬も同じだろう」


私は言葉を失った。

恐れるべき存在が、ただの子犬のように彼の腕で甘えている。

そして、そんな彼の笑顔は、怪しいどころか優しかった。


気づけば、頬が熱を帯びていた。

彼は視線を上げ、私に微笑む。


「さあ、少女を送り届けよう」


私は睨み返し、犬を放した彼を見た。犬は森の奥へと消えていった。


「信用できない。あなたが何者かは知らないけど、少女は私が連れて帰る」


「誰にもそんな真剣な目で見られたことはない。……立派だな」


胸が少し痛んだ。でも何も返さず、少女を抱き上げて歩き出した。


――あの死霊術師は、やはり魔族だ。だが正体がわからない。もっと知れれば……。

振り返る。追ってくると思ったのに、彼の姿はなかった。


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