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1話 冬の夢

記憶を呼び覚ます声が聞こえる。


「いじめられて殴られても構わない。おまえの悪口は絶対に言わせない。おまえが自分らしさを失うのは嫌だ。卒業するまでは、せめてそれだけは守る。できる限り、守るよ」


冷たい花びらが灰のように降り積もり、包帯で顔を覆った金髪の少年の乱れた髪に舞い落ちる。制服はしわだらけで、唇は割れているが、その目は温かく、守るように私を見つめていた。


「戦ってるところを見たよ。まるで獣みたいだった……狼みたいだった。どうして私のために傷を負ってるの?」


少年はまるで楽しんでいるかのように笑った。


「じゃあ俺は狼なのか?その言い方、可愛いな」


恥ずかしさに視線を伏せた。


「私は怯えた子羊みたいだ。あなたが卒業したら、彼らはすぐに私を食い物にするだろう。春が来る前に、あなたが私の手を取って一緒に逃げてくれたら――その考えが胸を刺す。ひとり残されて愚か者たちの餌食になるのは嫌だ」


彼は私の黒い髪に積もった雪をそっと払いのけた。


「もう大丈夫だ、心配しないで。俺がなんとかするよ」


「怖い……ごめん。傷だらけの狼なのに、それでも私を慰めてくれるんだね」


彼は私の名前を呼んだが、聞き取れなかった。


目を開けると、机に座っていて、周りの女の子たちの話し声が耳に入った。


「また喧嘩したって。でも今度は何人もに殴られて、重体で病院に運ばれたらしいよ」

「えっ、怖い!」


私は立ち上がり、靴を履き替えもせずに泣きながら走り出した。病院に行って謝りたかった。


――もう守らなくていい。お願い、死なないで。ごめん、全部私のせい。


そう繰り返しながら下を見て走っていると、突然、鈍い衝撃で体が宙に浮いた。


冷たいアスファルトの感触、雪が顔に落ちてきた。


「もう……守らないで。二度と」

そう呟いて目を閉じた。


夢のような幻が崩れ、目の前には白い石の大聖堂の天井。いつもの朝が戻ってきた。


ゆっくり体を起こすと、清らかな空気とお香の香りが心を落ち着かせてくれる。


「もう起きたのね、リュダ」


窓辺で花を生けているリリスの声だった。年長の神官のひとりで、濃い茶色の髪をきちんとまとめていて、真っ直ぐなのにいつも乱れている私の灰白色の髪とは対照的だった。


「ん……うん。また夢を見た」

私は目をこすりながらつぶやいた。


「またあの変な夢?」


「そう……全部思い出せるわけじゃないけど、その少年だけはいつも出てくるの」


リリスは穏やかな笑みを浮かべて、こちらを振り返った。


「聖女に選ばれたリュダが、夢に出てくる男の子に恋してるんじゃない?」


私は肩をすくめ、毛布を胸に抱きしめた。答えられなかったのは、彼女の言うことが正しい気がしたからだ。


窓ガラスに映る自分の顔をじっと見つめる。碧を帯びた緑の瞳は鋭さを持ちながらも脆く、唇は震え、笑おうとすると夢の中の彼を思い出してしまう。どうしても忘れられなかった。


遠くで鳴る鐘の音が夜明けを告げ、私は我に返った。


「私は使命を持って生まれた。愛なんて、私には許されない。たった一つの汚れさえ、許すわけにはいかない」


「若いのに、そんなに堅くならなくてもいいのよ」


「二週間後には儀式がある。正式に聖女として任命されて、果たすべき使命を知ることになる」


リリスは微笑んで部屋を出る前に、私を指差してから自分の頬をこすった。


「えっ……」


気づけば顔が赤くなっていた。慌てて頬を叩いて気持ちを落ち着ける。聖女は揺らいではいけない。それなのに、彼の夢を見た朝はいつも、乾いた涙の跡が頬に残っていた。


「……あの“狼の少年”。いつも私を守ってくれるその姿が、いずれ私を狂わせてしまう」


夕方の祈りの前に、私は神殿の裏庭で薬草を摘むと申し出た。気を紛らわせて心を落ち着かせたかった。今夜こそ、あの夢を見ないで済むように。


けれど、肌をなぞるような妙な感覚が走った。

裏庭を抜け、足は自然と森の中へ。気配の正体を確かめずにはいられなかった。


森はいつもより濃く、重く感じられる。

遠くから、誰かに見られているような視線。

――この一歩が、運命を変える出会いにつながることを、その時の私はまだ知らなかった。


木々は動きを止め、舞い落ちるはずの葉は宙で凍り、小川の水は流れを絶たれていた。


思わず目を見開く。神殿での修練で知っていた。

それは――魔族に由来する禁忌の力。


クロノスタシス。


慌てて振り向くと、時間が死んだような森の中に、ただ一人、少年が立っていた。


彼は驚いたように私を見つめていた。


黒いつば広のフェドラ帽をかぶり、墨色のローブにマント、黒革の手袋、そして質素な木の杖。

肩まで伸びた黒髪はゆるやかに波打ち、夕日に照らされて絹のように輝いていた。

その瞳は琥珀に赤を宿し、沈黙の世界の中であまりにも鮮やかだった。


一見すればただの放浪の魔術師。

けれど、その重い気配は――人ならざるものを告げていた。


「……動けるのか?」


彼が独り言のように呟いた。


私は拳を握り、きっぱりと言う。

「その手の術は、私には通じない」


彼は一瞬まばたきして、気まずそうに笑った。口元からのぞいた犬歯が、無邪気な笑みを崩す。

「なるほど……相手を間違えたみたいだ」


「魔族の術でも、私の時間は奪えない。光は影の罠では止まらない」


重い沈黙。

そして、彼は笑った。


嘲りではなく、冷たさもない。

軽くて温かい、驚きの混じる笑いだった。

「はは……」


額に手を当てると、その笑みは和らぎ、瞳に懐かしさが灯る。

「ちょっと芝居がかってるけど……可愛いね。可愛い子が言うと、それだけで愛嬌がある」


指先から力が抜けた。

強いはずの言葉が、私の弱さになっていく。

その視線の重さに、初めて自分の脆さを自覚する。


「景色を少し楽しもうと思っただけだよ」


「この森で魔族の術を使わせはしない」


私は手をかざし、光の術を起こそうとした。


彼は杖を持ち上げ、少し腰を折る。優雅な貴族の挨拶のように――だが私には、道化の真似にしか見えなかった。

「悪かったな。ただの通りすがりの冒険者……いや、死霊術師だ」


彼の視線が私をなぞり、口元に笑みを浮かべる。

「なるほど、神官か。……認めざるを得ないな。眩しいよ」


顔が一気に熱くなる。魔術じゃない。彼の言葉のせいだ。

「う、うるさい!」


思ったよりも不器用な声が出た。


彼は杖を下ろし、もう片方の手を上げる。降参の仕草だ。

「落ち着いて。害を与える気はないよ。ただ……思わぬ出会いをしただけ」


止まっていた時間が流れ出す。葉が落ち、水が動き、森に音が戻った。

私は立ち尽くし、早鐘のような鼓動を抑えられない。


彼は踵を返し、気まぐれな邂逅に幕を引くように歩き出す。

そして、最後に振り返って――声は軽く、瞳は真剣だった。


「また会おう」



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