人間を辞めてもらう。
人間はこの世界に生まれ落ちる瞬間から平等ではない。血筋や住んでいる場所、持って生まれる才能。もはや自分が身を置き、育つ環境すら先天的なものだと思う。そして弱肉強食のこの世界では、不平等が是正されることもないだろう。強きが栄え、弱きは廃れる。弱者が踏み潰された後は残った者達の中で強者と弱者が生まれる。不平等のもたらす格差は常に再生している。強くなければ生きることを許されない。それがこの世界の現実だ。
※※※※※
よく晴れた空、もう夏も盛りの頃だろうか。俺は鉈で稲を刈り取りながら額の汗を拭う。特に8月を過ぎてからは、こうやって稲を刈って過ごす毎日を送っている。才覚に恵まれたものは剣や勉学に励むのだが、俺は単なる農夫の倅。我が子のように育てた米をこうやって刈り取ってやるのが俺の人生なわけだ。
特に不満はない。生意気だが天真爛漫で可愛い妹に最愛の両親。家族四人で暮らせる日々を俺は幸せに思う。俺もいつか農場の後を継いで家族にたらふく米を食わせてやりたいものだ。
「玄蕃、舞、お昼の時間ですよ」
母の声を聞き、俺たち兄妹は足早に家へと戻る。今日の昼飯はなんだろうか、胸を高鳴らせる。こういった日々の楽しみが人間の生きる原動力だと俺は思う。母俺妹で昼飯を過ごす。今日は父が町へ作物を売りにいっているので昼飯だけは3人で食べることとなった。
舞は俺の3つ下で、今年で7つになる。山の麓にある家なので、隣家まで距離があり友達と呼べるような人は多くない。だから兄妹で過ごす時間が必然的に増える。それ故、自分で言うのもなんだが、舞は俺のことが大好きだ。勿論俺も大切に思っている。
「舞、おべんとついてるわよ」
そう微笑んで母は舞の口について米粒を取ってやった。
「母さん、今日はこの後何かお使いとかあるの?俺、ご飯食べたら行ってくるよ」
母は足が悪いので、よくお使いを頼まれる。俺は足の速さには自信があるし、お使いをするのは好きだ。
「んー、そうね、隣の村まで薪を買ってきてくれないかしら。3日分お願い」
母は指を口元に当てて考えながらそう言った。薪か。そういえば少し心許ない量になっていた気がする。俺たちはそんなこんなで他愛もない会話をしながら昼飯の時間を過ごした。
※※※※※
「くれぐれも無理しないようにね。あなたは私達の宝物なんだから」
母親は優しく微笑みながらそう言い、隣村に向かう俺を見送った。すっかり夕方になってしまったが、全速力で走れば夕飯時までには戻ってこれるだろう。
薪を入れる籠を背負いながら走り始めた。平坦な田んぼ道なので足に負担はかからないが、心肺の方の心配は必要だろう。心肺だけに。自分でクスりと笑いながら歩みと言うか走りを進める。
今日の夕飯は何だろうか。今朝川で捕った魚だろうか、父が町で買ってくる肉だろうか。暇潰しにそんなことを考えながらひたすら走った。
森から聞こえる蝉の鳴き声と走る音だけが鼓膜を揺さぶる。夕暮れ時だが太陽の光は熱く、額や首からは汗が滲み出てくる。それを拭いながらひたすら走った。
「あら玄ちゃん、そんなに走ってどうしたん?」
走りを続けていると道を歩いている橋田のおばちゃんに出会い、そう話しかけられた。橋田のおばちゃんは隣村までの道沿いに住む謂わば近所のおばちゃんである。背負っている籠には沢山の山菜が入っており、山菜採りの帰りだろう。俺は少し立ち止まった。
「橋田のばあちゃん、こんばんは。山菜採れたか?俺は今隣村に向かってるところだ。母ちゃんにお使いを頼まれたもんでな」
「そうなのね、そろそろ日が暮れるから気を付けんといかんよ?もし疲れたならウチに寄って良いからね」
ばあちゃんはそう俺のことを心配してくれる。心配してくれるのは有り難いが、寄り道をしていると今日中に帰れなくなってしまう。
「俺は今日中に戻るから大丈夫。村までもう少しだし夕飯時には家に戻れるよ」
「それならいいけど、気を付けるんだよ」
ばあちゃんはそう言いながら微笑み、俺は軽く手を振って再び走り始めた。ばあちゃんこそ気を付けてほしいものだ。年齢は若くないだろうに、毎日山へ行っては山菜を採ったりしている。元気なばあさんだ。
俺はふとあることを思い出して足を止め、橋田のばあちゃんの方へ振り向き、息を吸い込んだ。
「ばあちゃん、近頃山から熊が降りてきてるらしいから、家まで気を付けて戸締まりするんだぞ」
俺は大きな声でそう言った。ばあちゃんは分かったと言わんばかりに手を振り返してきた。まだ熊による被害は出ていないようだが、熊は恐ろしい生き物だ。いつ人が喰われてもおかしくはない。
俺はばあちゃんが道を曲がるのを遠目で見守ってから走った。先程まで夕暮れの太陽で視界はまだはっきりしていたが、だんだんと暗くなってきた。俺は遠くに見える村の灯りを頼りにその方向へと走る。
しばらく走っていると前方に提灯をぶら下げながら歩いている人影が見えてきた。この時間から俺の家の方向へと向かうなんて珍しいなと思いつつ、村の人かもしれないので俺はこんばんはと声を出した。しかしながら相手からの返答はない。聞こえていないのだろうか。はたまたこの地に所縁のない旅人だろうか、俺はそう思いながら提灯の男の横を通り過ぎた。
刹那、視界が歪み、黒く染まっていった。
※※※※※
どれぐらいの時間経っただろうか。目を開いてもなにも見えない。声を出そうとしたが、口の中になにかが入っていて声を出すことができない。俺に入ってくる情報は唯一機能している耳から入ってくる外界の音だけだ。
水がポタポタと落ちるような音だけが聞こえてくる。俺は炭を買いに村に向かって走っていたんじゃ。一体ここはどこで、俺に何が起きたのだろう。胸の奥から込み上げてくる恐怖と同居しながらそんな疑問が絶えず浮かんできた。
最後の記憶は提灯の男に声をかけたという出来事だ。それから今まで、俺はおそらく気を失っていたのだろう。しかし、未だに自分に何が起きているのか把握できないでいた。このようなことは人生で経験したことがない。
口の中に詰められたものを吐き出そうと口を動かしていると、水滴の音に混ざって、地が擦れるような音が聞こえてきた。否、これは足音だ。足音はどんどん近くなっていき、俺の目の前でその足音は止まった。
「もっと喚くと思ったんだがな。冷静なガキは好きだぜ」
その足音の主はそう俺に向かって言った。野太い声だが、どこか飄々とした雰囲気を感じる。
そして、喚くも何もこちらは声が出せないんだから喚くこともできないだろう。
「あ、そういや口塞いでるから声出せねえのか。悪い悪い。ま、喋るのはダメだが、目隠しだけは解いてやるよ」
そう言って男は俺の目元を圧迫するものを取り除き、俺の視力は回復した。そこには眼帯をした、甚兵衛姿の中年の男が座り込み、片眼で俺のことをじっと見つめていた。
その威圧感に俺は一瞬気圧され、全身の産毛が逆立つ感覚に襲われた。殺気だけを孕んだ冷徹な眼差しはまるで底のない闇のような印象を与えた。
「まず、君には人間を辞めてもらう」
男は俺のことを見つめながらそう言い、俺の腕を縛っている縄を外した。
人間を辞める?一体どういうことだ?男の言っている意味が分からず俺の思考はフリーズする、だが突如右腕を襲った激痛によって俺の思考は解凍された。
あまりの激痛に俺の体はビクビクと反射運動を行った。視界を右腕に移すと、肘先から腕が外側に曲がっていた。骨を折られたのだ。俺はその光景に絶句し、さらなる激痛に襲われた。
「ぅ、あ?」
「んぅぅぅぅううう!!!」
「次は左腕」
男はそう言いながら俺の左腕を掴むと、曲がらない方向へと曲げ、そのまま骨を折った。
ミシミシという音を立てながら自分の腕の骨が折られる感覚は俺に耐え難い恐怖と痛みをもたらした。詰め物で塞がれた口の端からはよだれが漏れ、血走った目からは涙が止めどなく溢れてくる。こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい。
「左足」
阿鼻叫喚の俺を気に留めることなく男はそう呟き、俺の細い左足を握り力をこめてまた骨を折った。
「がぁぁぁあああああああああ」
痛みの発生源が腕から足へと渡り、俺はまた声にならない悲鳴を上げる。あり得ない方向に曲がった腕と足、その光景が痛みと恐怖を増幅させる。
「最後、右足」
男はそのまま残った四肢のうちの最後を手にかけた。俺は痛みと恐怖に支配され、地面をのたうち周り、それらから必死に逃れようとした。
体は痙攣し、目からは血の涙があふれでている。まさに生き地獄だ。
「なあ坊主、人は何故弱いと思う」
男は瓢箪に入った酒を飲みながら地面に転がった俺を見ながらそう呟く。
「それは恐怖するという心を持っているからだ。そしてその恐怖は痛みや生命の危機によって呼び起こされる」
男は背筋が凍るような冷たい声で続ける。
「つまり、命を脅かしかねない痛みに慣れて、感覚がおかしくなっちまえば恐怖心を抱かなくなるということだ」
男の言っている意味が分からなかった。話の筋は通っている。だが、俺は男の発言に気を向けることができなかった。四肢を襲う激痛は未だに続いている。俺の意識は痛みに向けられ、男を意識する暇などなかった。
「あぁ、嘘ついた。さっき最後って言ったが、これで最後だ。今日はな」
男は手に持った瓢箪を置き、這う這うの体の俺を起こすと、俺の頭を掴んだ。そして右足を引きーーー
「グゴッ」
「ググッガァァあああああぁぁ!!」
脳味噌が揺れる感覚と顎を襲う激痛。俺の視界はぐるぐると回り、口からは大量の血と、先刻まで口の中にあった詰め物が出ていた。俺はあまりの激痛に声を出そうとするが、声を出すことができなかった。下顎を砕かれたのだ。再び俺は地をのたうち回った。まるで陸に上がった魚のように無様に。
そうすることでしか痛みから逃れることができなかった。いや、逃れることはできていない。段々と体の心から力が抜けていき、意識が遠のいていくのが分かる。何故俺はこんなことになった。なぜこんな怖い思いを。なぜこんな痛い思いを。なぜなぜなぜなぜいたいいたいいたいこわいこわいこわいこわいなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでーーーーー
「ぁ、んぇ」
「言っただろ?人間を辞めてもらう」
遠のく意識の中で、最後に聞こえたのは胸に刃を突き立てられるような、鋭く冷たい男の声だった。




