9.赤狼は番犬となる③
セリアがこの砦にやってきて二ヶ月程が経った頃。
何の前触れもなく、その日はやってきた。
それはセリアが砦の壁に貼り付いたスライムの粘液を掃除していた時の事だった。
自分のせいでセリアの仕事を増やしてしまったと詫びるラドルファスに、彼女は柔らかに微笑みながら気にするなと言ってくれた。
彼女の言葉にほっとすると同時に、その笑みに何故かドキリと心臓が跳ねた。
最近こういう事がよくある。
彼女の事が妙に気になるのである。
気が付くと彼女の事を思い浮かべている。
特に戦闘から帰還した際に「おかえりなさい」と笑顔で迎えてくれるのがたまらなく嬉しい。
これは妹に対する過保護っぷりが増してきているという事なのだろうか。
つまり親バカならぬ兄バカというやつなのだろうか……?
ラドルファスは頭を使うのが苦手である。
だからそれ以上深く考える事なく、そう結論付ける事にした。
彼女との会話の後、ラドルファスが見回りに行こうとした、丁度その時。
いつものビービーという警報音が砦の中から鳴り響いた。
即座に『上空』を見回す。
それは警報音が鳴る度にいつも真っ先におこなっていた事だった。
鳴る度に『奴』が現れたのではないか、と常に空を警戒していた。
そして今日、それが現実となった。
見紛うはずがない。
あの巨大な蝙蝠の翼を。
アルベルトの仇の姿を──!
ラドルファスは再び警報音が鳴るか、日没までに自分が戻らなければこの砦から逃げるようセリアに約束させると、森へと向かった。
配下のマンティコアの姿はない。
生き残っているのは親玉──あの蝙蝠の翼を生やした黒獅子だけだ。
たった一頭にもかかわらず攻め込んでくるとは、ついに空腹を我慢出来なくなったのか、それとも──同胞達を殺された事への復讐か。
マンティコアと対峙したのは、魔境の森に続く雑木林。かつてと同じ場所。
言葉など無くともわかる。
上空からこちらを見下ろす黒獅子の瞳には、強い憎しみと殺意が宿っていた。
それとは対照的に。
黒獅子を見上げるラドルファスの顔には、まるで旧友と再会したかのような、同じ境遇の者に同情するかのような、そんな寂しげな笑みが浮かんでいた。
「よう、久しぶりだな。仇を討ちたい者同士、仲良く殺し合うとしようぜ。……てめえが失った仲間のほうが、俺より遥かに多いだろうけどな……」
魔物とて心がある。感情がある。
仲間が死ねば悲しいし、それが人間に殺されたとあれば怒り狂う。
奪われた命が多い分、その憎しみは計り知れない。
それでもこの剣を下ろす訳にはいかない。
亡き戦友へのせめてもの手向けと、そして──守るべきものの為に。
何度も。何時間も。
金属同士がぶつかり合う音が鳴り響く。──正確に言えば、一方は金属ではなく爪と牙であったが。
ラドルファスが大剣を薙げば黒獅子はそれをひらりと躱す。
反撃とばかりに黒獅子が鋭い牙を立てて迫り来れば、ラドルファスは返す刃で受け止める。
大剣を噛み砕かんとする牙は重く、このまま口内から頭部を圧し切る事は出来そうにない。
何とか大剣を引き抜くと、再び一進一退の攻防が続く。
日が大分傾いてきた頃、雨が降り始めた。
視界が阻まれ思うように動けぬが、それは向こうとて同じ。また黒獅子の尾の形状はサソリ型であり、針を射出するタイプの個体ではなかった為、遠距離から一方的に攻撃される事もなかった。
黒獅子の爪がラドルファスの頭部を掠めた時、今朝、セリアが結んでくれたリボンがひらりと地面に落ちた。
偶然爪が当たって千切れてしまったようだが、拾っている余裕はなさそうだ。
ラドルファス自身はヘアスタイルというものに微塵もこだわりなど無いし、興味も無い。けれど。
──折角セリアが結んでくれたものなのだから、せめて持って帰ってやりたかった……。
なおも戦闘は続く。
悪天候の中で戦っているうちに、気付けば森の奥深くへと移動してしまっていた。
これほど長時間戦っているにもかかわらず、不思議と疲れは感じなかった。
また、雨が激しさを増していくにつれ、黒獅子の動きがだんだんと鈍くなっていった。
どうやら翼が濡れると上手く飛べなくなるらしい。
それでも奴の闘志は消えなかった。
泥水を撥ね上げながら、ラドルファスに向かって突進する。
──恐らく、互いにこれが最後の一撃となるだろう。
そう本能的に察したラドルファスは、渾身の力で大剣を振るい、迎え撃つ──……!
ラドルファスの左の脇腹から鮮血が迸る。
まるで無数の鎌で斬りつけたかのように、マンティコアの爪は容赦なくラドルファスの肉を抉った。
彼が膝をつくのとほぼ同時に、水溜まりにバシャリと何かが落ちた。
それはマンティコアの首であった。
ラドルファスは見事マンティコアとの戦闘に勝利したのだ。──決して浅くはない傷と引き換えに。
雨と共に血がどくどくと流れ出ていく。
片手で傷口を押さえ、もう一方の手で剣を引きずりながら、よろよろとした足取りで来た道を戻る。
辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。
夜間は魔物の活動が減る。しかしここは魔境の入り口、血の匂いに誘われてやって来てもおかしくはない。
早く砦へ戻らなければ。
しかし体が重くてちっとも先に進まない。
無理矢理足を動かし続けてきたけれど、ついに限界がやってきた。
濡れた地面にベシャリと倒れ伏す。大剣が無造作に転がる。
意識が朦朧とする。
眠い。
体がもう動いてはいけないと告げている。
少しでも気が緩めば瞬時に意識を手放してしまいそうだ。
そんな中、ぼんやりと考える。
セリアは今、どうしているだろうか。
約束の日没は過ぎてしまった。きっともう砦を去っているだろう。
夜のうちに逃げるよう彼女に指示したものの、夜間ともなれば野盗や夜行性の獣にでも襲われかねない。それに暗くて足元もよく見えないだろう。転んで怪我をしたりしていないだろうか。
──なんて、こんな状況にもかかわらず彼女の事ばかり考えている心配性の自分に、何だか笑いが込み上げてくる。
そのまま徐々に視界が暗く狭まってゆく──……。
『まだ眠っちゃ駄目だよ、ラドルファス』
「…………っ!?」
声が聴こえた。いや、脳内に直接響き渡った、という表現が正しいかもしれない。
この声をラドルファスは知っている。
それ程昔でもないはずなのに、酷く懐かしい……中性的で穏やかな声──……。
「アルベルト……?」
半信半疑でかつての仲間の名を口にする。
『うん、そうだよ。久しぶりだね、ラドルファス』
──これは夢だろうか。それとも、あの世からお迎えがやって来たのだろうか。
そんなラドルファスの考えを察してか、脳内に響く声はくすりと笑った──ような気がした。
『あ、言っておくけど、これは夢じゃないし、わたしは幽霊でもないよ──……あ、いや、幽霊は半分当たりみたいなものかな?』
アルベルトは苦笑混じりに話す。
『精霊の生まれ変わりであるわたし達精霊人は、肉体が滅ぶとその魂は再び精霊へと戻る。けれど精霊が人に干渉出来る時間は限られ……いる。もうじきこの声も聴こえ…………なる……ろう。だか……その前…………連れ…………』
「アルベルト……?」
今にも掻き消えてしまいそうなアルベルトの声に、ラドルファスは眉をひそめた。
『ごめんね、ラドルファ……もう時間…………必ず君……助け……か…………』
「アル──……!」
かすれゆく声が途絶えるのとほぼ同時に、ラドルファスの意識は闇へと沈んでいった──……。
「ギィッ……!」
耳障りな鳴き声らしきものにハッと目を覚ます。
既に雨は止んでいたが、辺りはまだ夜の帳に包まれたままだった。しかし凄腕冒険者たるラドルファスは夜目が利く。
自分の傍らに大剣がある事に気が付くと、すぐさまそれを手に取り、立ち上がる。その時。
宵闇にバサバサとした羽音が響いた。
反射的にそちらに目を向けると、そこには。
ここにいるはずのない女性──セリアが、今まさに蝙蝠の魔物に飛び掛かられる寸前であった。
考えるより先に体が動く。
セリアの身に牙が突き立てられるその寸前。
いつの間にやら差し込んできた月の光を刃に受け、一閃。
真っ二つにされた蝙蝠は断末魔の悲鳴を上げると、すぐに絶命した。
すると近くの草むらからも何やらバタバタとした羽音が聞こえてきた。
どうやらもう一体いたらしい。飛べないという事は恐らくかなり衰弱しているのだろう。
音のするほうへ行き、すぐさまトドメを刺す。
……それにしても、この衰弱した蝙蝠、もしやセリアがやったのだろうか?
あの高圧の水流を噴射する魔法ならばそれも可能であろう。
しかし魔力消費がかなり激しいと聞く。
そこに思い至り、ラドルファスはハッとした。
魔力を消耗し過ぎてしまった場合、セリアは気を失ってしまうのではないか。彼女が砦に来た初日と同じように。
慌てて振り返れば、セリアは今まさにふらりと仰向けに倒れ込む寸前であった。
「セリア!」
間一髪、彼女の体をふわりと抱き止める。セリアは既に気を失っていた。
ラドルファスよりもずっとずっと小柄で華奢な彼女は、驚くほどに軽かった。
それに筋肉質でゴツゴツとした自分とは違い、その柔肌は実に脆そうで、現に小さな傷が顔や手などの露出部のあちらこちらに付いている。
しかし最も酷いのは右の手のひらの傷であった。
蝙蝠の歯形らしき無数の穴からはポタリポタリと血が滴り落ちている。
自分の服を破って包帯代わりにしようかとも考えたが、泥と血にまみれていて使えそうにない。
何か止血に使えそうなものはないか、と身の回りを探っていると、ふと脇腹の傷に包帯が巻かれているのが目に入った。どうやらセリアが手当てしてくれたもののようだ。
もしかしたら彼女の肩掛け鞄の中にはまだ手当ての道具が残っているかもしれない。
鞄を調べてみると、案の定、応急手当て用の道具一式が入っていた。
セリアの右手の傷に処置を施すと、大剣を背に負った鞘に納め、彼女を横抱きにして歩き出す。
どうやらここは森の入り口付近らしく、あっという間に雑木林を抜けた。
彼女の細腕でよく自分と大剣をここまで運べたものだと感心する。もしかしたら物を浮かせるような魔法も併用していたのかもしれない。それならば彼女が倒れるのも無理からぬ事であろう。
雨上がりの道をしばらく進んだ頃、セリアが目を覚ました。
彼女に何故ここに来たのかと問えば、ラドルファスの事を助けにやって来たのだと答えた。
──戦闘なんてほとんど出来ない彼女が。
闇の中を一人で進み、魔物に襲われ。
それでもラドルファスを見捨てる事なく、魔物に戦いを挑んだ。
力を持たぬ者にとって、一体どれ程の恐怖だったのだろうか。
彼女の行動は命令違反であるし、実に無茶で無謀。
……しかしその勇敢さに助けられたのもまた事実である。
彼女には勇気がある。胆力がある。
セリアは紛う事なき──“強い女”だ。
そう思い至った瞬間、最近彼女に抱いていた、あのこそばゆい感情がより強まった気がした。
しかしこれまで彼女の事を妹のようにしか見ていなかったラドルファスには、この気持ちの正体がなんなのか、どうしても掴めなかった。
あともうひと押し、何かきっかけがあればそれが何かわかるだろう。
そしてそれは案外すぐにやって来た。




