5.戦場の番犬は洗浄のメイドの強さを知る①
私がこの砦にやって来てかれこれ二ヶ月が経過した。
今、私は手のひらから高圧の水流を噴射し、砦の外壁を掃除をしている。
というのも、それは今日の早朝の事だった。
日の出と共にスライム型の敵が群れを成して現れたのである。
普段は戦いの前線がここまで後退する事はないのだが、いわゆる多勢に無勢という奴であり、倒しきれなかった敵が砦の目前にまで迫ってきていた。
何とかその場で殲滅する事は出来たものの、スライム達の粘液がそこかしこに飛び散り、砦の壁の至るところに毒々しい紫色の粘液がべっとりと付着してしまったのである。
黙々と掃除をしている私の元に、ラドルファス様が申し訳なさそうな面持ちでやってきた。
ちなみに彼の髪は今日、細めのリボンを使ってうなじ辺りで一本に結ってある。二枚目はどんな髪型でも様になるので羨ましい限りである。
「あー……わりぃな。あんたの仕事増やしちまって……」
いつもは素直じゃない彼だけれど、謝る時は素直に謝る。こういうところが彼の憎めないところなのである。
「お気になさらないでください。ラドルファス様は番犬のお仕事をなさっていただけなのですから。それよりも、ラドルファス様に大きなお怪我がなくて何よりですよ」
本当に気にしていないのだと伝わるよう、ふわりと微笑む。
スライムは知能が低い分動きが単調である。
彼は飛び掛かってくるスライム達を片っ端から薙ぎ払ったり蹴り飛ばしたりしながら戦っていた為、幸いにもかすり傷程度で済んだ。
使用人としてはご主人様のご無事こそが何よりも大事なのである。
──いや、『使用人として』、だけではないか……。
この二ヶ月の間に、私はだんだんと彼に惹かれるようになっていった。敬愛するご主人様としてだけではなく──異性としても。
だがこの想いを伝えるつもりは毛頭ない。
彼と私はこの砦内では主従関係であるが、あくまで平民同士。身分差なんてあって無いようなものである。職場恋愛自体は別に問題なかろう。
──けれども。
彼が求めているのは強い女性だ。
彼が望むのは戦場で背中を預けられる存在。
共に前線に出て戦ってくれるパートナー。
戦う力のない私には、彼の隣に立つ事は出来ない。
ならばせめて、ご主人様にとって自慢の使用人となろう。
まだ淡い恋心のうちに、まだ苦しくないうちに、この恋をすっぱりと諦めてしまおう──……。
「……あー、そ、そうか? それならいいんだけどよ……。にしてもこの水、すげぇ威力だな」
ラドルファス様の声にハッとして思考の海から浮上すると、少しだけ表情が明るくなった彼が高圧の水流を見上げていた。
「あ、はい、かなりの圧力なのでお気をつけくださいね。まあラドルファス様なら大丈夫でしょうけど、普通の人はうっかり当たると皮膚が抉られたりするので」
「ほー、そりゃやべーな」
「はい、やばいんですよ」
そんな語彙力の低い会話を繰り広げながら外壁をどんどん綺麗にしていく。
この【高圧水流】は魔力で作り出した高圧力の水だけで汚れを剥がし取るものである。洗浄水とは違い、この水そのものに汚れを浮かす力は無い。しかしこういった付着物の掃除にはこちらのほうが向いているのだ。
粘液だけでなく、砂埃や鳥の糞が付着していた部分も一気に綺麗になっていくのは見ていてとても気持ちが良い。
「それだけ強力なら戦闘にも使えんじゃねーか?」
「まあ使えなくはないのですが……魔力の消耗が激しい上に、私の力量では動いている相手に当てるのは難しいんですよねー……」
今は砦の外壁という、大きくて動かない的に大雑把に当てれば良いだけだが、戦闘となるとそうはいかない。
魔法に集中する時間も十分に取れぬ中動き回る敵に当てなければならず、特に小型の敵や空を飛ぶ敵に当てるのは至難の業である。
──私がもっと有能だったなら、少しは前線の役に立つ事も出来たのかな……。
「ふーん、そういうもんなのか。──んじゃ、俺ぁそろそろ見回りに行くとすっかな」
そう言ってラドルファス様がこの場を去ろうとしたその時。
突如、砦の中からビービーという警報音が聞こえてきた。──敵が近付いてきた証だ。
二人ですぐさま周囲を確認する。
先に敵を発見したのは勿論ラドルファス様だ。流石、索敵はお手の物である。
魔境の森が広がるその上空に、何かが飛んでいた。
大きな蝙蝠のような翼を生やしているようだが、遠すぎてよく見えない。
しかしまだこれだけ距離があるにもかかわらず警報音が鳴っているという事は、それだけ強力な敵である事を意味しているはず……。
「マンティコア……」
ラドルファス様がぼそりと呟いた。
私よりもずっと視力が高いのか、それとも──あの巨大な蝙蝠の翼に見覚えがあるのか。
人食いはその名の通り、人食いの魔物の代名詞のような存在である。
一般的には獅子等の肉食動物の身体にサソリの尻尾を持つとされているが、見た目の個体差が激しい種族であり、その姿はまちまちである。
あの個体は蝙蝠の翼を持つタイプのようだ。
「……あいつはな、仲間の……前にここにいた番犬の、仇なんだ」
「え……」
思わずラドルファス様を見つめる。
その瞳には憎悪の炎が宿っていた。
まるでずっとくすぶり続けていた火種がようやく燃え上がる機会を得たと言わんばかりに。
「あの時はトドメを刺し損ねちまったが、今度こそ息の根を止めてやる。あんたは早く砦ん中隠れな」
「は、はい……!」
「……あー、だが、もしまた警報音が鳴ったり、日没までに俺が戻らなかったりしたら、その時は──」
まるで幼い子供に言い聞かせるように、私の頭をくしゃりと撫でながら、言う。
「逃げろ。いいな?」
「……! それって……!」
「おら、さっさと行きやがれ。……ま、安心しな。あの野郎だけはぜってー殺してやっからよ」
──例え刺し違えてでもな。
そんな言葉が私の耳に届くや否や、彼は大剣を携え、魔境方面へと走り去ってしまった。
戦えない私は、彼をただ見送る事しか出来なかった──……。
ラドルファス様が戦いに赴かれたのが午前の事。
今は太陽が丁度真上に来る時間。
彼はまだ帰ってこない。
あの時鳴っていた警報音は一定時間が経過した事により、今は止まっている。敵がさらに近付いてきたり、別の敵が砦に近付き始めれば再び鳴り出すはずだが、今のところその気配はない。
ラドルファス様、お腹空かせてないかな。
まだマンティコアと戦っているのかな。
それとも、マンティコアはもうとっくに倒していて、今は他の魔物と戦っているのかな。
……怪我したりしていないかな……。
日が少しだけ傾いてきた。
まだ帰ってこない。
空に雲も増えてきた。
雨、降らないといいけれど……。
日が大分傾いてきた。
ぽつりぽつりと雨も降ってきた。
彼はまだ帰らない。
そしてついに、とっぷりと日が暮れてしまった。
約束の日没が訪れてしまったのである。
彼は私に逃げろと言った。
この地の魔物はそのほとんどが昼間に活動している為、夜は比較的安全である。
だからこそ、夜のうちに街まで避難しろと彼は言ったのだろう。──砦の守り手たる自分が不在の中で迎える朝は、とても危険だから。
逃げろというのがご主人様の命令だ。
ならば使用人として、それに従うべきだろう。
そのままギルドや自警団の元に行って危険を知らせたり、応援を要請したりしたっていい。
だが、この砦から街まではかなりの距離がある。最寄りの乗り合い馬車の停留所に到着するだけでもそれなりに時間が掛かるし、馬車だってすぐに来るとは限らない。
それまで彼が無事でいられる保証はない。
ならば私は──……!
厨房にあった果物ナイフを布で包み、応急手当ての道具と共に愛用の肩掛け鞄へと押し込む。
そして砦を飛び出し、雨の中を走り出す。
向かう先は街──とは逆方向の──魔境方面。
……ごめんなさいラドルファス様。
やはり私は使用人として失格です。
使用人としての責務よりも、貴方を今すぐ助けに行きたいという『私』個人の意志を優先させてしまいました。
もう既に手遅れかもしれないのに。
それでもまだ貴方が生きている可能性があるなら、諦めたくないんです……!
それに──これはほぼ言い訳でしかないけれども──この砦と同じように、市街地全体にも結界が張られているのだ。私が危険を知らせに行かずとも、敵が街に接近すればすぐさまそれを察知し、迎撃出来るだろう。
万が一マンティコアが街に侵入したとしても、ラドルファス様との死闘の後ならば相手は手負いの身である。市街地程の規模になれば守り手だってそれなりの数がいるのだ、討ち取るのは容易かろう。──たった一人しか守り手のいない、この場所とは違って。
この国は魔境と隣り合わせであるにもかかわらず、人々の暮らしは豊かであり、治安も良い。
だが、それは番犬達が国境で懸命に魔物の侵攻を食い止めてくれているからに他ならない。
魔物の急襲を恐れる事なく、毎日を穏やかに過ごし、安心して眠りにつける。
彼ら番犬無くしては得られぬ幸福な日常。
しかしその裏で、番犬達は人知れず傷付き、時には命を落とす事だってある。
彼らのそんな犠牲も献身も、国民達は気に留める事などない。
私とてこの仕事に就くまでは、番犬の存在自体は知っていても所詮は他人事であり、さして意識を向ける事などなかった。
いつ、どこの砦で誰が命を落としたかなど知らなかったし、知ろうともしなかった。
だが今は違う。
私だけがラドルファス様の危機を知っている。
私だけが彼の傍にいる。
今、彼を助けに行けるのは私だけなんだ──……!